第十話 焔は水に挑みゆく 1
第十話 焔は水に挑みゆく 1
斬撃が、久遠を追う。
それは目では追えぬほどに疾く、夥しいまでの数を放たれ、プールサイドの構造材を穿ち、切り裂き、ぱっくりと割っていく。
──止まるな。動き続けろ。じっとしていたら、狙い撃ちされる。
超高速にて放たれる水の刃。それが久遠の頬を、着衣を掠めて。そこに切り傷を刻む。
けっしてクリーンヒットではない。しかし、避けきれてもいない。刃は久遠を傷つける。たしかにそこには久遠の皮膚より滲み出る、ひりひりとした出血がある。
「速いにも、ほどがあるっての……!」
大地を蹴り、跳ね回り。身を翻し。どうにか突破口を見出さんと試みる久遠。
どうにか近づきたい。しかし敵は、容易くそうすることを彼女に許すほどには、御しやすい相手ではなく。
近づけない。分の悪さは否定できない。
軟体状の液体生物は、人間という定型に沿うことでしか動作できぬ久遠に対し、自在にその姿かたちを変え、速度を、動きを変化させて追いすがる。
いや、追い詰められているのは自分だ──こいつは私を、狩ろうとしている。
放たれるウォーターカッターは、こちらの反応速度を超えている。命中されれば、終わる。防御だってたぶん間に合わない。
発射を読んで、射軸を判断して。避け続けているだけ。完全に読みと、騎士としての勘に頼んでの立ち回りでしかない。
無理もない。いくら魔力で肉体を強化したところで、こちらは人間。おのずと動作に限界はある。対する相手は水そのもの。自在な物理法則の上にある、地球上で最も万能な物質──勉強の苦手な久遠だけれど、そのくらいは知っている。
「こ、のおおぉっ!」
そう。これは、ヒトと液体との戦い。その認識が久遠にはあった。
この差を埋めるには、リスク覚悟でどこか、勝負に出なくてはならない。そういう判断もあった。
だからひと際大きな跳躍の、その着地とともに振り返り、両腕の二刀に宿した炎を強く、激しく燃え上がらせる。
着地。そして旋回。それらは敵から見れば恰好の、つけ入る隙のはず。
案の定、追いすがるゲル状生物が、その表面を波打たせるのが見えた。
よし、かかった! 脳裏の快哉とともに、両腕の剣を、それに纏わせた紅蓮の炎を振り下ろす。
「いくら、鋭くたってっ!」
こちとら、女子高生なんだよ。勉強してるんだ。物理法則くらい頭にある。
凄まじい切れ味をした水圧の刃。たしかにそれは強力で、危険で。被弾を許されない凶刃にほかならない。
だけれど、一発一発に込められた水の量なんて所詮、たかが知れている。
だったらこちらに届く前に全部、蒸発させてやる。私の炎で。
ひとつひとつが少量の水なら、造作もないはず──……。
それはたしかに、物理だなんだと理屈を呈した点においては、久遠がこの現実世界に生まれ、育ってきた一般的なティーン・エイジャーとしての知識や認識があったからこそだったろう。
しかしそういった理由付けはなくとも、かつての騎士としての彼女であったとしても直感的に、その戦法にたどり着いたであろうことは十分あり得た話である。
炎は、水によって消える。
だが水が少量ならば、炎が勝つ。炎が強ければ強いほど。ざっくりとそれだけの認識でも、彼女は同じことをしていただろう。
その局面においては適切な判断だと、いえる行動を。
燃え盛る炎の向こうに粘液生物の姿が消える。炎のむこうに奴がいる。
今度こそ、先手をとる。自らの発した炎の只中に、久遠は飛び込んでいく。
こちらから、奇襲をかける。久遠の身体は炎を貫く矢と化して、そしてその先に躍り出る。
「──なっ!?」
そのまま、炎で焼き尽くしてやる。蒸発させきってやるつもりだった。
不定形で、たよりのない。スライムもどきの襲撃者を──。
だが。そこには彼女の想定したままの姿は、ない。
躍り出た彼女の眼前にあるのは、人型。
その表面はなにも変わらない。風にすら波打ち、それを揺らめかせる軟体生物そのままの、ゼリー状の構成物質による肉体が、ある。
だがその形状は──ヒト。四肢を模し、頭部へと擬した半透明が、五つの形状を成して、屹立し久遠を待ち受けている。
その人型が、動く。右腕がぴくりと動いたのを見て、咄嗟、二刀を構える久遠。
炎を宿した刃を十字に重ねて、予測される水圧の切っ先を防ぎきらんと試みる。
「ぐ……っ!?」
しかし。そのガードは、意味を為さなかった。
放たれたのは、刃ではない。
それは、拳。あの軟体のどこにこれほどの剛性があったというのか。あんな弱々しく揺れる存在がこれほどの膂力をどこに宿していたのか。それすら疑問に思えるほどに、強く硬く握り固められた、鳩尾へと伸びる打撃。
「な、……ん、で」
魔力によって編まれた着衣が、鎧が。その防護性能によって、衝撃をいくぶん、緩和してくれてはいる。
もし生身で受ければ、久遠の身体は骨や内臓にいたるまで粉砕され、砕かれていただろう。そうならなかったのは、久遠の魔力がよく練り込まれたその装備が優秀と言える領域にあり、主を守ったからだ。
それでもそれは、完全に虚を突かれた一撃。受け止める久遠自身の身構える態勢が、不十分だった。ゆえにそのボディブローはたった一撃によって久遠の呼吸を詰まらせ、機敏であったその動きを止めて。
一歩、二歩。千鳥足に、久遠をその場に小さく後ずさらせる。
まずい。この位置取りは。
動け。動かなくては。水圧の刃が、くる。
胸の内にこみ上げてくる嘔吐感と、詰まった呼吸とに喘ぎながら、久遠はふらつく両脚に精一杯、回避を命じる。
腕を上げろ。完全に避けきれなくてもいい。肉を切らせるだけならば。
少しでも射軸をずらせば──……、
「が……、っ、あ……っ?」
瞬間、身体を奇妙な浮揚感が包んだ。一瞬。意識が飛びかけたのを久遠は遅れ、理解する。
なにかに吹っ飛ばされている。めきめきと、頬の骨が骨折寸前に悲鳴を上げているのがわかる。──脳が、揺れている。
これは、打撃。一度ならず二度目の。
ゲル状生物の、その構成した四肢が放った回し蹴りをあまりにきれいに自分は浴びたのだ。久遠はようやく、そのことを悟る。
「ずる、……い……っ」
久遠の身体は、プールサイドを跳ね、転がり。水飛沫を跳ね上げて、その総量を十分の一ほどの水位にまで失ったプールへと落下していく。
それは落下の衝撃を和らげるには甚だ不十分であり。
水を巻き上げ、びしょびしょに濡れそぼりながら、久遠の身体はプール内に落ちてなお、転がりゆく。
水底が久遠の頬に擦過傷を刻み。その背中に、スタート台の壁面が迫る。
「が……っ」
そうして起こった激突ののち、ようやく久遠の身体は一方的に与えられたその運動エネルギーによる強制移動を、停止した。
取り落としたふた振りの刃は彼女の位置から離れ、遠く。
遠くそれぞれ、転がり散らばっていた。
* * *
「とりあえず、やばい事態ってのはわかった」
チャリ、ぶっ壊されたし。
むっすりとした口調でそう言って髪をかき上げた律花の言葉に、いつきは既に声を発して返すことができない。
荒く、ただ荒く肩で息を吐いて。両膝を曲げて、耐える。フル稼働中のボイラーのようになった心臓の鼓動に喘ぐのに、手いっぱいであったから。
「あいつらがなんなのか、いつきちゃんがなんで襲われてるのかはわかんないけど」
律花はそんないつきの手を取る。
ふたりは身を隠していた。
追手の黒ローブたちから逃れて、……いや、逃れるために。
やつらはまだふたりを探している。果たしてそれは連中自身の判断によるものなのか、それともそのように命じられているのか──……。
正直、律花と遭遇したときは困惑した。巻き込むべきではないのは絶対に間違いのないことだし、知られたくないと思った。彼女を護らなくては、と気負った部分もある。
だが。結果は、あべこべで。
なにも知らない、それこそ真に、ふつうの高校生そのものである彼女にいつきは、既に何度も助けられている。
繰り出された斬撃から彼女を庇おうとして、……逆に腕を引かれ、間一髪致命傷から遠ざけられ。
土地勘と運動神経とに遥かに勝るその点を生かして、彼女はいつきを先導し、追跡者たちを振り切れないまでも、こうして身を隠し息を顰める程度の距離を、敵との間に生み出すことに成功している。
彼女のおかげで、命を拾っている。
「行こ、いつきちゃん。動ける?」
そんな彼女だからこそ、自分が護らないと。しっかり、しないと。
護られてばかりは、間違っている。──その決意を、いつきは秘めて。
とりあえず、あいつら撒かないと。言って引かれた掌の感触に、しかしいつきは抗う。
「いつきちゃん?」
格好が悪いったら、ない。なんて情けない騎士なんだ、わたしは。前世の地位や力が、聞いて呆れる。
このままじゃ、終われない。
「どうしたの。あいつらのこととか、どうしてとか。理由はあとでいいから。ひとまず、逃げないと」
「律花は先に行って」
どうにか。律花のおかげで幸いにして、久遠から託された目くらましはまだ使われることなく、いつきの手元に残っている。
これを駆使すれば、彼女ひとりを逃がすくらいならできる。
敵を倒せないまでも、撃退する突破口にだって。
「わたしが囮になるから。久遠の親友になにかあったら、ひとりで戦ってるあの子に申し訳が立たない」
「──え」
たとえ体力的に劣っていても。運動音痴だとしても。
ここから先は、騎士であるわたしの仕事だ。
「今、なんて。──久遠が、戦ってる? どういうこと?」
だからいつきは、律花の手を離した。直後、道の向こう側。ふたりが身を隠す生け垣の反対側で、ブロック塀が粉々に寸断され、吹き飛ばされる。
「いつきちゃん。久遠とあんたは一体、なにを」
「ごめん」
そして土煙の中から現れる、二体の追跡者。
やつらは、わたしがどうにかしなくちゃいけないんだ。
そうだろう、不破 いつき……!
「わたしはこいつらをやっつけて、久遠のところに行く。……行かなきゃ、いけないの」
意思を固め、いつきは律花に語る。
生きて戻ったら、きっと説明する。
だから、逃げて。律花はこんなこと、巻き込まれる必要は本来、ないんだ。
「これでも、わたしだって。騎士だから」
前世、たしかに騎士だった。その矜持のもと、いつきはこちらに向かい蠢きはじめたふたつの影に、立ちはだかった。
(つづく)
久遠たちにとってのピンチ回がもう少し続きます。
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