第九話 放課後のプールにて 2
第九話 放課後のプールにて 2
炎に、全身が包まれていく。
身に着けていた着衣の、制服のブレザーが光の粒子となって消え、かわりに炎が衣装をかたちづくっていく。
紅のケープ。黒のニーハイ。黄金の縁取り──それは久遠の思い描いたとおりに、久遠の肢体を包み込み、覆っていく。
腰のバンドにふた振りの双子剣が鞘とともに現れ、臨戦態勢はそれで整う。
体内に漲る魔力を込めて、久遠は大地を踏み切った。
もともと、運動神経の塊といっていい身体能力の彼女である。跳躍力も、疾走速度も、その例に漏れない。
だが魔力によって強化されたその肉体が生み出すバネと力は、その比ではない。
彼女が急ぐその先へ、家々すらその眼下のものとするほどの跳躍を与え、文字通りにひと足跳びに距離をなきものとし。圧倒的なスピードは衰えることなく、次の一歩に繋がっていく。
向かうべきは、悲鳴の先。母校である、小学校。
久遠は、急ぐ。
目的の場所はもう、目と鼻の先にあった。
* * *
あっという間に、久遠の後ろ姿は豆粒のように小さくなって、見えなくなっていった。
「──急がなきゃ」
それに追いつけるなどとは思っていない。なにしろあっちは魔力たっぷり、こちらは未だその力を取り戻すには至っていない、ただの女子高生なのだから。
おまけに、運動音痴。
「ほんとに……デリカシーないんだから……っ」
息を切らせてアスファルトの道を駆けながら、ぼやく。
運動音痴運動音痴って。ええ、そうですよ。前世みたいになんでもできる身体には生まれてませんよ、こちとら!
だからって、じっとしているなんてできない。
ぴたりと目線の高さに、すぐ隣を追いかけてくる小さな炎を見遣りながら、いつきは走る。
久遠の炎。万一に備えて残してくれた危機への対応策。それが傍にあるだけで、なんだか力を与えてくれるような気がした。
「に、しても──ほんと、わたし、体力、ないな……っ、もうっ」
たったこれっぽっちの距離を走るだけで息が上がる。
両脚が張ってきたのがわかるし、声も発せられなくなってくる。
情けないったらない。
前の人生なら、騎士だった頃なら。この何十倍の距離だって身体能力と魔力に任せて、楽に走破できていたはずなのに。
今このときの自身の肉体が持つ儚さに、いら立ちを憶えずにはおれなかった。
「!」
その刹那、感じ取った殺気に咄嗟、足を止める。
進行方向に、「いる」。
「また、お前──いや、お前たち、か……!」
それはかの、襲撃者。
実体を感じさせぬ、黒ローブの殺害者。
大鎌携えしそれが、今回は一体だけではない。
前方に、二体。いつきの進路を塞ぐように、そこに佇む。
「くっ」
残念ながら読みは当たってしまったわけだ。いつきのものも、久遠の推測も。
こいつらは雑兵だ。裏にそれを操る者がいる大量生産品──そして今、敢えてこいつらがいつきを狙ってきたということは、街の異変へと一枚噛んでいるのもほぼ間違いない。
「さあ──どう、切り抜けようかな……!」
肉体的な不利に加えて、おまけに二対一。これは少々、まずい。
久遠が残してくれた虎の子の目くらまし。使いどころを考えなくては、逃げきれず、振り切りきれず追いつかれておしまいだ。
久遠が傷跡ひとつ残さず治療をしてくれた背中を、冷たい汗が伝う。
足手まといが首を突っ込むべきではなかっただろうか?
「いや、それでも」
それでも、この先にいるのであろう敵と、こいつらとに久遠が袋叩きにされるよりはいい。どうにか時間を稼いで、引きつけて。久遠が戻ってくるまで逃げ延びれば、敵を分断できる。
どうするか。じりじりと、靴底がアスファルトを舐めるように身じろぎをして敵を見据える。
──だが。
「え。いつきちゃん?」
「……え?」
慎重に組み立てるはずだった戦術は、不意の闖入者、聞き覚えのある声によって突然に遮られ、崩壊をする。
「──律花?」
できたばかりの友人が、自転車に跨ってそこにいた。
酒屋の娘で。配達手伝ってるって、久遠、言っていたっけ。
それにしたって、よりによってこんなタイミングで……!
「!」
「律花! 逃げて!」
振り下ろされた刃を、かろうじて避ける。
状況の呑み込めていない律花を庇い、護りながら。戦う力のないこの身で、いったいどこまでやれるだろうか──?
* * *
「え……」
痛みの噴流が、感覚を駆け抜けていった。
斬られ、た? ──いつ?
鮮血が噴き出す肩口を押さえて、久遠はとっさ身を翻す。
そこはひっそりと静まり返った、学校。幼い頃に通い、日常的に慣れ親しんだその場所の、プールサイド。
久遠が到着したとき、おそらくは最後の片づけをしていたのだろう、水着姿の女性教師がひとり、倒れているだけだった。
水浸しのタイルの上、意識を失っている。
外傷はない。水を飲んで、気を失っているだけ。そのことを確認して、プールサイドのベンチに横たえて。
立ち上がった直後、──深紅のケープごと、なにかが久遠の左の肩を、斬り裂いていった。
警戒を強め、フェンスを背にするように後退する。
どこから来た。感覚を研ぎ澄ませながら、鋭く周囲を睨む。
「……いない……?」
だが夕暮れの闇が広がりつつあるそこには、敵と思しき姿はどこにもない。
気配は──ある。あるけれど、それが明確にここだと告げるほど、突出して濃密な箇所があるでもなく。
二刀の束に手をかけ、最警戒態勢のままじりじりと、少しずつ前に出る。
どこだ。どのタイミングでしかけてくる──……。
「なっ?」
一分たりとて、警戒を緩めたつもりはなかった。
なのに次の瞬間、斬られていた。
ニーハイの、左脚。──その傷は深い。思わず膝を折って、蹲る。足許の水たまりが、ぱしゃりと音を立てる。
それらしい動きも、影もなかった。何者も襲ってきた様子はない。なのに、一体なぜ。
「一体、どこから……っ」
どうする。動くか、留まるか。久遠は逡巡する。
敵の戦術が分からない。初撃も、二撃目もまるで見えなかった。
動けば狙い撃ちにされるかもしれない。しかし──、
「このままジリ貧よりはっ!」
魔力と筋力に任せて、跳び上がる。
上空からなら、この広いプールのどこから、どのように潜んだ敵が攻撃してくるか見えるはず。
自分自身を餌に、誘い出す。高く高く跳躍し、それでも構えを崩すことなく久遠はプールの水面を、生物の姿のないそのプールサイドをくまなく視界に捉える。
そう。そして──捉えられて、いた。
「──……!?」
全身を、刃がずたずたに切り刻んでいく。
噴き出す血飛沫に、視界までもが紅く染まる──頬を、腕を、指先を。腹部を、胸を、大腿を──そして着衣を、鎧を。刃は切り裂き、通過していく。
「か……、っ、は、……」
そうして、撃墜される。受け身をとれず落下をし、硬いプールサイドの構造材の上を転がる。
いくら魔力によって最低限、保護されているとはいえ。無防備な落下に思わず息がつまる。
切った額から流れ出る出血に片目を塞がれながら、久遠は立ち上がる。
ぽたり、ぽたり、と。プールサイドに少女の血が滴る。
大丈夫。致命傷じゃない。全部、皮膚と肉を斬っただけ。骨は、断たれてない。
「おかげで……見えたっ!」
抜きはなった二刀の刃に炎を纏わせ、魔力によってそれを増大させていく。
「全部湯気になって消えちゃうのが嫌なら……出てきなさいっ! そこからっ!」
そうして生まれた巨大な火球を、広大なプールの水面に叩きつけていく。
水と触れ合った灼熱の炎はそれを蒸発させ、辺り一面に立ち込める水蒸気に変えて、視界を覆いゆく。
──はじめのうちは、だ。
不意に、火球に潰され、蒸発していくばかりであった水面が不自然に波紋を描き、波を打って。それ自身がまるで生き物であるかの如く蠢きだす。
そしてそれは火球の熱から逃げるように、空中に跳ね上がり、躍り出た。
星の煌き始めた空を駆け、プールサイドのタイルを滑り。それはやがて、ひと山のゲル状物体をかたちづくる。
やっぱり、だ。
見えなかった敵。どこから来るのかわからなかった刃。使用者の去ったプールで、不自然なほどにずぶ濡れだった地面。
あの斬撃の正体は。そして敵の正体は。
「水……!」
高圧力で、凄まじいまでのスピードで。夕闇に紛れ放たれた、そう、いわゆるウォーターカッター。
工業製品のドキュメンタリーだか、マンガだかでさんざ、市井に知られることに使い古された皮肉なハイテク技術だ。この世界で生まれ育った久遠だから、致命傷を受ける前にその具体的な正体へとたどり着けた。
水の魔物──とでも、呼んでおこう。それは不定形のゲル状であるその身体を波打たせ、久遠に相対する。
「あいにくと、スライムってほど雑魚じゃないんでしょうね、きっと」
RPGの一番弱い敵みたいには、きっといかないだろう。
力技でいぶり出すことには成功したけれど、炎使いの私とでは根本的な相性はけっして、よくはない。
「全力で……倒させてもらうわよ」
軟体のゲルを蠢かせ、こちらを窺うその魔物を、ここで討つ。
不破さんが来るまでに、終わらせるんだ──……。
(つづく)