十二話 佳境
脳は覚醒しているのに、体が動かない。
誰もがそのような体験をしたことがあるだろう。
それは、悪質な生活習慣の帰結として起こる一種の体の異常。
カフェインを筆頭とした薬物によって脳は否応なく覚醒させられる。
だが体は溜まった疲労が故にダウンするというのだ。
傾いた太陽の下、テント前にて。
カレンの場合は少し勝手が違っていた。
彼女の意識の状態はというと、例えば机の上で寝落ちする寸前を思い出して欲しい。
勉強中、ノルマをこなしている最中、突然にして世界が歪み始める瞬間。
文字はミミズのようになり、QWERTYを叩く指は次第に鈍化してゆく。
正にそのような状態。
そしてもう一つ。
彼女の眼前に現れたのは第五次王権奪取戦争での情景。
─────"ルミナ戦争症候群"。
ルミナというのはヴァクティヌ語で月を表す物だ。
第一王朝が発足するよりも前の時代、つまり"空前紀"の古文書に記された、嘗てこの地で巻き起こった大戦争。
その実態や勃発の背景は未だ知れず。
ただ叙事詩の形式で「巨星、北微西に墜つ。民草、忽ち失せり。」とのみ記されていた。
何せ空前の時代は文献がほぼ残っていない為に未知な部分が余りにも多い。
実際にタイムスリップでもしてみない限りは知ることは不可能なのだ。
しかしこの戦争の存在だけは保証されているという。
それは、文献以外に唯一、歴史を知る鍵となる要素、民俗間継承である。
壬とヴァクティニアの国境線であるドラグ運河沿岸地域ではこの戦争の悲惨さだけが幾世代に亘り言い伝えられていたらしい。
────死体の山と。
そしてこの戦争がカレンに発症した精神疾患の名称となったのは、当時の人間達もこのルミナ戦争の凄惨たる光景に心を病んだという記載からということだ。
カレンは硬直していながらその耳は周りの状況を聞き取っていた。
ヴィレが自分を守ってくれていること、そしてブライの思い。
確かに情報は脳へ送られたが、彼女にそれらを吟味する余裕は無かった。
カレンは王権奪取戦争当時、革命軍の一尖兵として草原に駆り出された。
そしてそこで"彼"と出会ってしまった。
✝️
冷たい風が強張りきった頬を撫でる。
血の臭いのする赤黒い風が。
一言も、口から漏れでることはなかった。
刃を近づけられた首元に生暖かい感触が広がる。
既に少し血が流れているらしい。
目の前の男が、命を奪うことに何の躊躇もない人間であると直感した。
カレンはゆっくりと目を閉じた。
頭に浮かぶのは今生で見てきた思い出の数々。
父とはロズマ共々上手くいっていなかった。
別段乱暴な人ではなかったが、価値観が違ったのだろう。
暮らしの中で、通天流の師範で武術家でもあった父の振る舞いに違和感を感じてはいたが、14の時に無理矢理武道を習わせられそうになった時は流石に吹っ切れた。
それ以来会話は母とロズマのみで父とは一言も会話することなく18で仕事に就き家を出た。
そんな父でもやはり家族だった。
死ぬ直前に後悔することなど所詮そんなものだ。
時が経った。
何秒くらい経ったろう。いや、何分か?
極限まで引き伸ばされた時の中で腹時計など信用できようがない。
だが首を叩き斬る動作にしては余りにも長いと感じた。
ゆっくりと目を開く。
やはり男は目の前にいる。
だが、刀は首元から離れていた。
「え...」
消え入るようなか細い声が口から漏れだした。
「悪いな、主役の到着らしい。」
男がこの細い首を斬らなかったこと、それよりも驚いたのは男の雰囲気が一変していたことだ。
少なくとも先程までの、丸腰の女一人を相手するような余裕のある表情ではない。
まるで初めて戦地へ駆り出される尖兵達のような緊張がその顔から読み取れた。
(五角天の猛者がここまで真剣になる相手...)
カレンは革命軍の幹部が援護にやって来たのかと考えた。
だが、男の後方、赤く色付いた草原の中、広く分布する死体の山の中で立っていたのは
─────たった一人の尖兵。
✝️
そして今。
カレンは生存している。
つまり何らかの形で窮地から免れたということだ。
(あの時...誰かに助けられた...?)
徐々に視界が鮮明になってくる。
赤い夕焼けの下、見えたのは満身創痍のヴィレ。
徐々に記憶が脳に浸透していく。
────そして徐々に、意識が戻ってくる。
(助けないと...!)
カレンは右足を踏み出そうとしたが足はピクリとも動くことはなかった。
それどころか体全体が硬直していた為に反動でバランスを崩すことさえ起きない。
徐々に、勝手違いだった体の萎縮から普通の人間でも起こりうる金縛りへと移行していく。
(動いて!お願い!)
突如、ズゥン...と重苦しい音が鳴り、その後ガラガラと何かが崩れ落ちる音が続いた。
ヴィレが壁に叩きつけられたようだった。
そして胸元に猿の刺青を拵えた男は倒れたヴィレが動かなくなったのを確認すると、こちらへ歩き始めた。
(来る...)
カレンは先程脳裏に浮かんだ情景の意味を理解した。
それは、脳が行った死への覚悟のシミュレーションであると。
(私は死ぬのか...ここで。
......申し訳ないことをしてしまったな...)
手足の感覚が戻るにつれて、右手の拳がじんわりと痛み始める。
ブライの顔を殴った手だ。
(ブライに謝りたい...私はなんてことをしてしまったんだと。
でも、それももう叶わない...)
見ると近づいてくる男はヴィレとの戦闘を経ている筈なのに体には傷一つついていなかった。
力の差。残酷な現実が無情にも突きつけられていた。
(ロズマは無事かしら...)
また死ぬ間際に家族の事を考える。
彼女の献身的な性質の現れだろうか。
そしてカレンはゆっくりと目を閉じた。
時間にして数秒。
突然、上空から気配がした。
それは、自分の目の前に立つ。
ふわりと吹き上げる柔らかな風が頬を撫でた。
(誰...?)
ゆっくりと目を開ける。
自分と男の間に敢然と姿を現した人間に、無意識に情景の中の尖兵が重なる。
心の中に閉ざした温かい光が漏れ始めた。
しかし、意外にも驚きはなかった。
死への覚悟を決めながらも心の奥底では"彼"の到着を信じていたのかもしれない。
水に歪んだ景色の中、彼は刀身を腰に据えたまま柄に右手を添え、前屈みになっていた。
それは見覚えのある抜刀の構えだった。
✝️
道化は常におふざけを忘れない。
それは余裕の証。
しかし、塔の屋上で繰り広げられる剣戟の中では少し違った。
道化は男の振り回す長さ1mと少しはあろうかという得物の攻撃範囲に入らない場所を探っていた。
男、フォウルの位置から確実に距離は開いている筈なのに何故か攻撃が自分へと届く。
攻撃の為には安置を探し出し、そこを基軸とする必要がある。
しかし最早そんなことをしている余裕はなくなった。
この過程でフォウルの攻撃を受け続けた鹵獲品の鞘はボロボロになっていた。
道化は仮面の目を出す部分を拳で殴打し、すこし破壊することで視界を拡張した。
見えた。
フォウルの手から伸びる刀の正体。
そしてクモの巣のように広げられた夥しい数の残像の中にある隙間が。
道化は一気に距離を詰めた。
正確無比な座標移動。
夕喰は一度たりとも道化を掠めることはなかった。
そしてそのままフォウルとの接近戦へ持ち込む。
「無闇矢鱈に振り回すものではありませんよ。」
道化の余裕は再び姿を現した。
フォウルは尚も冷静にその道化を見据え、刀を勢いのまま下から斬り上げた。
無論この攻撃は当たることなく、そのまま刀はフォウルの手を離れ天高く放り投げられた。
「クククク...滑々稽々...」
道化はフォウルの横に回り込み、武器を失ったその脇腹に中段蹴りを放った。
空気が唸る。
だが、フォウルの刀を投げた行為はミスでも何でもなく、単なる戦型の移行に過ぎなかったのだ。
中段蹴りは肘でガッチリと受け止められていた。
「長い剣を振り回す奴は肉弾戦が苦手だ...なんて思っていたか?」
フォウルはニヤリと笑い殴りかかってくる道化の手を掌底で攻撃の出発点からガードした。
腕は伸ばしきる瞬間に最大の威力とインパクトが発生する。
だからパンチをガードする場合はその手が動いた瞬間に止めるのが最も効率が良い。
十分に加速できていない拳に掌底を被せる形でブロックするのだ。
そしてフォウルは直ぐ様道化の顔面目掛けて蹴りをかました。
道化が咄嗟に上腕を顔に上げて防ごうとした所、フォウルは急に足の軌道を変え、がら空きとなった脇腹に脛で一撃を与えた。
道化はよろめき、距離を取った。
そして天から降ってきた夕喰を再び手に持ち、近接戦は終了した。
「王朝の兵士を舐めんなよ、道化が。」
「うぅ...」
道化はフラフラになりながら体勢を整えた。
「フフフ、フハハハハハ!ウヒャヒャヒャヒャヒャ!」
「何がおかしい?」
「そりゃあ舐められるわなァ?ホラ、じきに来ますよ、"衝撃"が。」
フォウルは初めて気づく。
体中から溢れる血液に。
いつ食らった攻撃なのかも分からない。
それ程、フォウルの脳はCBDを分泌していたのだ。
「グッ...ハァ、ハァ、ハハハ...。
菖もねぇ小芝居はいらねェんだよ...」
フォウルは尚も剣を握る手を放さなかった。
「なぁ道化、お前は命を賭けたことはあるか?」
「...そんな低俗な行為、それこそ死んでもしませんね。」
道化は首を傾げた。
「へっ、Bonoboってのは寂しい組織なんだな...可哀想だ。」
「ん...今何と...?」
道化は声のトーンを変えた。
「命を燃やす喜びを知れないから不憫だっつったんだよ。」
フォウルは口角を上げ、道化を睨み付ける。
「何故、命ってもんが生物に与えられていると思う?」
場の"気"がフォウルの下へ集約され一つとなっていく。
その気配は次第に肥大化する。
夕喰は地平線に沈んでいく太陽の最後の光を反射し、橙に煌めいていた。
「"命は、燃やしてこそ命たらしむる。"だろ?」
生命体に与えられた命という存在。
その生命活動に限界を設けるという仕組み。
その意義は子孫繁栄の過程で環境の変化に柔軟に適応する為。
というものが定説ではあるが、フォウルの場合は変わった答えを導き出していた。
命はただのエネルギー源に過ぎないのだと。
それを賭けることで己は奮い立つ。
そして途轍もないエネルギーの奔流が身体を包む。
そしてフォウルはその感覚を知っていた。
王朝に命を賭してでも守り抜く価値を見出だしていた。
喩えガバガバのセキュリティでテロ攻撃に晒されるような王朝でも、それは紛れもなく、皆で命を掛けて勝ち取り、守り抜いてきた物だ。
そんな王朝を、民を、彼は愛していたというだけの話だ。




