彼らの足跡
ここから第二章です。
春乃の事情に焦点を当てていきます。
暑い季節がきた。
太陽はいつもより長い時間照っているし、今年も暑さは尋常じゃないようだ。
夏季休暇只中、職場に届け物をしてから親戚の家へ向かおうと、人の少ない建物内を歩いていた。
予定通りことを済ませ、玄関に向かうと、少しばかり騒がしいことに気が付く。
普段ならば、気にならない程度の話声。しかし、この休暇中にそこまで騒ぐような人数がいるとは思えない。
最後の曲がり角を経て、ロビーに着いたとき、ロータリーに停まる一台の黒い高級車に目が行った。
「では、お気を付けて」
見送りに数人、顔くらいは見たことがある。
そして、見送られ後部座席に乗り込んだ人物の顔を見て、私は息が詰まるのを感じる。喉の奥がヒュッと音を立てた。
いつもと違い、季節にそぐわないコートは身に付けていないが、それでも間違いない。
「…せん、ぱ…」
そんな馬鹿な。
そう思いながらも体は走り出す。
だが車は既に出発し、路上に出ようとしている。
こんなところで、こんな大勢の人間と、一体何をしているのか。
ロビーに集まった人たちに、それ以上追い掛ける行為を阻まれる。
「おや、君は乙葉くんじゃないか」
「あ…どうも」
「また休暇明けから頼むよ。たしか異動は九月からだったね」
「よろしくお願いいたします」
私はそう頭を下げ、ちらりと道の先を見やるが、そこにはもう何もなかった。
◇
「おかえり。元気そうで良かった」
「こんにちは。久しぶりになってしまってごめんなさい」
親戚の家、とは言ったものの、そこは叔父の住む家だった。
両親がいなくなってからは、ずっと叔父に頼りきりで大人になった。大人になれたのは、叔父のお蔭である。
「体調崩したって聞いたから心配だったよ」
「夏風邪だったのかな。季節の変わり目だから」
先輩と少し言い争った夜から少し体調が悪くて、数日熱を出した。その間も、彼は何事もなかったかいがいしく世話を焼いた。
看病がものすごく手慣れていて、改めて何でもできる人なんだと思った。
「仕事の方はどうだい?」
「この前人事異動があったの。ついに、角崎先輩の直轄の部署に」
差し出された珈琲を受け取って、促されたソファに腰かける。ありがとう、と礼を言いながら先ほどの先輩の後姿を思い出した。
顔だってはっきり見えた。あれは、先輩だったと、思う。
「角崎くんか…頑張ってるね」
それから私たちはたわいのない話を繰り返す。毎年同じだ。一日だけ話して、その日のうちに帰る。
叔父も同じ業界の人間なので、大体の仕事の事情も通じるし、話しやすい。
「そろそろ二十回忌になるのか…こんなこと言うのも何だけど、君が元気でいることが一番だから」
少し恥ずかしくなって、またカップに口をつける。
約二十年弱、私はこの家で育った。古き良き日本という感じのする家屋で、ゆっくりと、それでいて駆け足で過ぎ去る貴重な青春時代を過ごした。寂しいと思うことはただの一度も無く、叔父は何不自由なくたくさんの物を私に与えてくれた。
本当に恵まれていたのだ。
「ここまでしてくれるのは、叔父さんだけだよ。本当に運が良かったと思ってる」
「当然のことをしたまでさ。自身の幸せを、運という言葉で片付けるのはいけないよ。君は与えられるべき子どもだった、それだけで」
両親共にいないというだけで、きっと私は充分に不幸な子どもなのかもしれない。そのことについては深く考えたことはなく、さして重要なことでは無いように思える。でもそれも全て、叔父がそのように思えるよう育ててくれたからなのだろう。考える隙も無いほどに与え、護ってくれたからに過ぎない。
「正義とか、建前とか、そういうことは二の次だ。まずは自分が幸せになる方法を考えればいい。君は特にね」
本当にそれが正しいかは分からないし、やりたくてもできない人はいるだろう。しかし、それをこうも堂々と許してくれる人が珍しいことくらい分かる。不思議と、大人になってから、自身を肯定してくれる人が増えた。
好きなことを正面から貫けば、その想いに人はついてくる。誰かが必ず、その後に続く。
「お父さん、お母さんも、そうだったのかな」
「…そうだよ。彼らは“好き”を追求し続けた。だんだんそれだけじゃどうにもならなくなるから、ああいった形になってしまったのかもしれないけれど……それでも、後に続く人がこんなにたくさんいる」
彼は、両手を広げて、おどけたようにそう言った。
例えそれが間違っていたとしても、肯定してくれる人がいる限り、それは無くならない。彼らが身を以て教えてくれたことは、今の私に根付いている。例え、共に過ごした時間がたった数年間であっても。
「今の君なら大丈夫だと思う。何も心配はしてない。これからたくさん悩んでも、必ず答えを見つけてくれる」
そう、例え間違っていてもいい。それをずっと信じているのならば。
「…そろそろ君に渡すものがある」
言い出しにくそうにそう切り出した叔父が、重い腰を上げた。押入れを開けて、また古い木製の箪笥の引き出しを引いた。
それほど丁寧にしまい込んである物に心当たりがあった私は、自然と背筋が伸びる。いよいよ来たか、とそれが出てくるのを待った。
「聞こうと思っていたんじゃないか?死者戻り現象のこと」
差し出されたのは、古くなったファイル。分厚く、受け取ると重みがあった。タイトルらしき「Human」という文字が読めた。
「ヒト…」
「君の両親の歩んできた、積み上げてきた物の一つだ」
私は小さく頷いた。私の両親は、人工知能研究の第一人者だった。
幼い頃に見た両親の顔を思い出す。今となっては、本物よりも写真での印象が強く、思い出そうとすると写真の絵が重なってしまう。それに気が付いてから、写真を見ることすらやめていた。
「だがこれはそれとは違う」
再び私は頷いた。これが何なのか、私は知っている。
塞いでいた記憶の蓋をこじ開けるように。表紙に手をかける。古くなった紙は、今にも崩れてしまいそうなほど乾燥していて、また、古本と同じような匂いがした。
「彼らが生きていた証でもある。君が確かに、彼らの娘であることの、証明にもね」
人工知能の研究は、当時さかんに行われていた。誰もが利便性を求めてソレに手を出したがった。
人知を超えてしまうことを恐れずに前進し続けていた時代。これはそこに取り残された遺物だ。
「見るかどうかは、君次第だよ」
君がこれと向き合う必要は一つも無い。
戸惑っていることが伝わったのだろう、優しい叔父はそう付け足す。
「…これは私の、責任だから」
あの日、目の前で両親の命が散った。
その瞬間を、よく覚えている。
怖かった。けれど、安心した。これでもう、彼らは恐れることも傷付くことも無いのだと思ったら、初めからこうしておけば良かったと思った。
彼らのしていたことは危険で、残虐で、背徳的だった。誰にも知られる訳にはいかないと思った。
そう、あの日。あの時、私の人間としての何かが壊れてしまったことを、よく覚えている。