奇妙な共同生活
昨日のことは夢だったのかと思うほど、静かな朝だった。
「ああ、おはようございます」
「おはよう。今日は仕事かい?」
未だ冴えない頭で部屋から出ると、何年ぶりか分からない、見事な朝食が用意されていた。
「まあはい、家で出来る物ですけど」
最近在宅に切り替えたのは昨日言った通りだが、正解だったかも知れない。この居候を一人にしておくのはどこか不安だと思った。当然の防衛本能だ。
急に押しかけて来た男は居候をしたいなどと突拍子も無いことを言い出した訳だが、事情を聞いた私は軽率に此処へ置くことに決めた。
名前は角崎。私が大学生だった頃の先輩だ。そして今も、同じ研究機関に所属していた先輩でもある。
「ここ数年姿を見ないなと思っていたら、まさか死んでいたなんて」
笑えない話である。それになぜ、そんなに交流の薄い彼が私の家などに居候を頼みに来たのか、それこそよく分からない。
何も答えない代わりに椅子に促されて、素直にしたがう。目の前の料理を見て、ふと不思議に思う。
「食べないんですか?」
「食事は基本、必要としないからね」
だが珈琲やお茶は進んで飲むし、全く食べられないという訳ではなさそうだ。別にお金には困っていないし、もし遠慮しているなら食えと言ったのだが、そういう訳でもないらしい。
それと、朝食のメニュー。ベーコンと目玉焼きにご飯とみそ汁。いつも決まって食べている定番メニューをどこから聞いたのだろう。正直私より上手くて腹が立つ。
「ところで君、昨日の話は」
「君、は私の名前ではありませんよ」
特にこだわりはなかったが、なんとなくそう呼ばれ続けるのも嫌で、つい釘をさす。
「これは失礼。春乃、昨日の話はどこまで覚えている?」
学生時代もそこまで交流があった訳でもなく、またしばらく会っていなかったというのに、名前を覚えられていたことに安堵した。
それから昨日の話を反芻する。
◇
「つまり僕は死んでしまった。それなのに気が付いたら君の部屋の前にいた。驚きだろう?」
「…は?」
私はただ一音を繰り返す。この男は何を言っているのか、話の流れ的に分からない訳ではないし、受け入れるべきなのだろうとも思う。
だが、あまりに突拍子がない。
「なに、ふざけたこと言ってるんです?」
「そう言いたい気持ちもわかる」
私はついさっき、それを子どもたちの遊びだと一蹴したばかりだ。
だが、目の前の男は、私がそういう類のものを信じない人間だということくらい知っているはずだ。からかいに来たのでなければ、一体何のために嘘を吐く必要がある?
「自分が何言ってるか分かってるんですか?」
「もちろんだ。気が狂ったわけじゃない。生前の僕についての記憶も恐らく間違っていない」
「ご自身の研究のことも?」
「…ああ」
一拍遅れて、彼は頷いた。伏せていた目を上げて、どこか遠い目をしている。
「君は思うだろう。僕みたいな人間がこんなことを言い出すなんてどうかしている、と」
「…正直、気が狂ったとしか」
包み隠さずそう表現する。それくらいおかしい話だからだ。これが、私たちとは無関係の誰かであれば、そんな発言もきっと許されるのだろう。
「原因は…?」
「それが覚えていないんだ」
聞いてもいいものか分からず、それでも尋ねた疑問は、解決しなかった。問いかける声が震えてしまう。
そんなことあるはずが無いのに、その真偽を確かめる問いかけをしてしまう。
「本当…なんですか?」
それでも私に選択肢など用意されていなかった。
だって、彼は飄々としているように見えて、どこか寂しそうだったから。ただ、それだけ。
「確認してみるかい、ほら」
そう言って差し出された手首に恐る恐る触れると、ヒンヤリと氷のような冷たさが指先に伝わる。ゆっくりと親指の付け根の方まで滑らせれば、本来あるはずの鼓動がない。
じんわり、私を蝕む死の感触に、無意識に体が震えた。
「…驚かせてすまなかった。だけどこれではいけない。君の言うように、早くいるべき場所に還らないと、と思って」
「本当に…」
気が付けば、彼の言葉を遮るように口を挟んでいた。目の前にいるのは、確かに先輩で間違いない。数年会っていないとはいえ、もうすっかり大人である人間をそうそう見違えるはずない。
認めたくないと堰き止めていた感情がパンクしそうになる。
「本当に、死んでしまったんですか」
その声がやはり震えてしまう。
なんて呆気ない。
先輩は優秀で、私の目標でもあった。だから同じ研究機関を志望した。その中でも期待の声が多かった彼が、この若さで死んでしまうなんて。
なんて、呆気ないのだろう。
「…ああ。ごめんね」
本当に申し訳なさそうにする顔は、嘘を言っているようには見えなかった。訃報すら入ってこないなんて、私と先輩はいつの間にそこまで遠い存在になってしまったのだろうか。
今まで噂に聞いてはいたものの、実際に自身が死者戻りに遭遇するとは誰も思わないだろう。実際遭遇してみて、初めてその気持ちを想像した。そして、痛感した。
「私は、何をすればいいんですか?」
「話が早くて助かるよ」
そう言って彼は、机の上で指を組んだ。その仕草はよく覚えている。真剣な課題を吟味するときのアレ。
「さっきも言ったように、僕は還りたいと思っている。その、手助けをね…頼みたいと思って」
歯切れ悪く言ったかと思えば、そのまま暫く沈黙してしまう。俯くと、長い睫がいつもより余計に影を落とす。
一先ず私が納得したことに安心したようで、気が変わらないうちに、早急に話を進めようとしているのが分かった。
「この、戻ってきてしまった死者を還す方法を、君は知っているかい?」
「…いいえ」
「殺すんだよ。死んだ奴をどうまた殺すかなんて分かんないけど、とにかく殺すんだって」
彼はそう、一息で言った。
「それを私にやれと」
「酷なこと言っているのは承知さ。でも、気付いたら此処にいたんだ。つまりは、僕は君にそうしてもらうべきなのかなって」
驚いたことに、先ほどの動揺はどこへやら、私はとても冷静だった。
死者と聞かされてから、どこかでそんな結末を予想していたのかもしれない。例えばゾンビ映画を例に出せば、あれだって最終的に動かなくなるまで”殺す”ことがゴールだ。死んでいるのに、なお殺すことが正解なのだ。
「分かりました」
たまたま私の部屋の前にいたからと言って私に責任はないのだけれど、と思いながらも仕方なく頷く。
「…お、」
「だけど、準備期間をください」
「…長引くと情が湧くんじゃない?」
「私を誰だと思ってるんです?」
そう言って彼を真っ直ぐ見つめ返すと。驚いたように目を輝かせた。いつまでもそうやって子どもだと思っていると良い。死んで時間を止めてしまったあなたに比べて、私はまだ成長の余地を残しているのだから。
せいぜい指をくわえて悔しがるところを見せてほしい。
「そうだった。君は僕の優秀な後輩だ。期待しているよ」
◇
その時の嬉しそうな顔を思い出しながら朝食を片付けた後、彼はまたテレビを観ていたようなので、私は部屋へ籠ることにした。調べたいことが山ほどある。今まで都市伝説などと侮って碌に調べもしなかったことが悔やまれた。
不意にノックの音が響いて私は身を竦めた。
「珈琲、いるかい?」
「あ、はい」
返事を聞いて部屋を開けて入って来た彼から、カップを受け取る。ついでにコーヒーの入ったデカンタをウォーマーにセットしてくれる様子はすごく手慣れていて、彼の元の生活の様子が伺えた。
「ありがとうございます」
「良いんだ。君には大きな借りを作る予定だから」
「…そうですね」
「そういえば、食材の買い出しへはいつ?」
不意に尋ねられて答えに詰まる。質問の意図が理解できずに黙りこんでしまった。
「いや、朝食を作ったとき一通り見たんだが、そろそろ買い物時じゃ無いかと思ってね」
「あ…はい、ええと…ネットで注文するんですよ」
さも普通のことのように食事の心配をするが、彼は死者である。そのミスマッチさというか、人間らしさに少し呆気にとられた。
「なるほど。確かに女性一人暮らしは大変だ」
言われなければ、なかなか死者とは分からないものだ。冷たさとは裏腹に顔色もいいし、変な匂いもしない。次いで、一般に言われる幽霊のように体は透けてないし足もある。触ることも可能。
「…本当に死者?」
「やだな、君は一番よく分かってるじゃないか」
思わず口にすれば、間髪入れずに彼は返事をした。
確かに冷たく、そして脈がない。食事も必要としない。生物学上、確かに死んでいる。それがたまたま喋って動いている…その解釈の方がしっくりくる気がした。
「私だってたまには買い物くらいします。あなたは自由に過ごしててださい」
外で済ませる予定のものを、全て家で済むように手配した。友人はそれを生粋の引きこもりと表現して笑った。笑われているのに、どこかしっくりきて納得してしまう。
大体死んでいるはずの人間に外を歩かせて、万が一騒ぎになっても困る。
「夕飯の希望はあるかい?」
「また作って頂けるんですか?」
「…もちろん」
まるでそれが自身の仕事だとでもいう風に、彼はにこりと笑った。
ところで、彼がいなくなった職場はどれだけの損失が出るのだろう。そんな心配は露ほどもしていないとばかりに陽気なものだった。
「私の好きなもの、あててください」
「……了解」
一瞬考えた後、彼は意気揚々と出て行った。
彼に好きな食事など教えたこともない。好き嫌いは少ない方だが、何が出てくるか楽しみにしながら、私はパソコンに向き直った。
ついに居候が住み着きました。