白鶴は曙に舞う
数年前のある冬の日、私は上野からの寝台列車に乗り込んだ。
別に美しい理由があったわけではない。青森の実家から母の危篤の報せを受けたのだ。
家に帰り身支度を整え、上野駅の駅員に今日の「寝台特急あけぼの」はまだあるか、と聞いたらたまたまにしてあったと言う訳である。
予約されていたのは開放式の寝台――ドミトリールームを想像してもらえばいいだろう。その下段であった。
見ると向かいのベッドに人は居ない。上段にもいない。そもそも、今日はあまり人が乗っていない様子である。
私は通路と直接繋がる部分のカーテンを閉じ、向かいのベッドを物置代わりにして寛いだ。
大宮を出ても、“テリトリー”への侵入者は居ない。モータリゼーションの時代と世間ではしきりに言われているが、このようなところでひしと感じるとは思っていなかった。
これもいわゆる「時代の流れ」なのか……
特にやることのない私は、ただぼうっと流れては消えてゆく町の灯りを見送っていた。
やがて、列車は高崎の街に入り、ホームで止まる。時刻は午後十時四十六分――寝静まりゆくホームでは俗な人間たちが家路へと向かう列車に吸い込まれてゆくが、私はそいつらとは隔てられた空間にいるのだという優越感を感じていた。
カクンとした衝動に身を揺さぶられたときに、背後でカーテンが開く音がした。
「ごめんなさいね、私のベッドがふさがってるわ」
向かいのベッドの客のようだった。まさか高崎から乗車してくるとは。
「すみません、すぐに片付けます」
相手の顔を見てみると、それは老婆だった。母のような優しさを感じる容姿の中に、目元と口元には深いしわが刻まれている。
寝台列車の客層には少々意外な人物、と勝手に評価しながらベッドを仕立てた。
「ありがとう。出張?」
はて、なんのことかと思ったが、大いに急いでいた私は服装にまで気が回らなかったのだ――もっとも、ラフな服装に手を出す状況でもないが。
「いえ、母が危篤で」
「それは大変ねえ、間に合うといいわね」
そう言うと老婆は慣れた手つきで読書灯を点ける(そんな所にあったのか)。そして鞄から折り紙の束を取り出した。
何を折るのだろう……そんな疑問をよそに彼女は折り紙を折ってゆく。
やがて、鶴のシルエットが姿を現す。折り鶴だ。窓辺に置かれた一羽の鶴は、時々窓辺に射す光に照らされてまるで景色の中を飛んでいるかのよう。
年季の入った手から次々と紡ぎ出されてゆく鶴は、窓辺へ、ベッドの片隅へ積み上げられてゆく。
私は、その鶴がすべて白いことに気づいた。いや、老婆の持っている折り紙がすべて白いのだ。
「すごく綺麗な鶴ですね」
「そう?旅行が趣味でね、夜行とか、新幹線とか、景色があまり見えないから折り始めたんだけど、だんだんうまくなっちゃってね」
「息子はいるにはいるけどやんちゃだから……あなたは立派よ。親御さんのことを心配することができていい子だわ」
彼女は、鶴を折りながら自分の身の上話、旅行の思い出など、様々な話をしていく。
「この列車も人が全然乗らないの。でも好きよ。ゆったり自分の好きなことができる空間って、いいじゃない?でも、今日みたいに誰かとおしゃべりするときがあってもたまにはいいわね」
気がつけば、車内は減灯され、窓辺の鶴は雪国を舞っている。
「白は好きね。鮮やかな色もいいけど、純粋だから好き。何より鶴に一番よく似合う」
「今日の鶴はあなたのお母さんが元気になれるように。いつもは自分の健康を願って折ることが多いけど、今日は特別ね」
ふと、こんなことを思った。確かに白は純粋な色だ。しかし、それは鮮やかな色――情熱的な赤、理性的な青、全てを無に変える黒でもいい――それら、染める色がいないと成り立たないのではないか。それは純粋と言えるのか。
しかし、僕はそれを未だ喜々としてお喋りを続ける老婆を前にして言うことができない。
このやりとりに水を差したくはなかったし、何より彼女の根底にある“白”を汚してしまうと思った。
僕はこの半分世間から隔絶された異空間の中に居て、やはり俗なのだと思った。そして、私は母の無事を祈ることを差し置いて、馬鹿なことを考えている。
皆が寝静まり、車輪がレールを滑る音だけが響く空間の中で、一羽、また一羽と生み出されてゆく鶴。その様子を私は、ただ見守っていた。
「もうこんな時間ね」
おもむろに彼女は立ち上がり、私に一礼。
ああ、彼女はここで列車を降りるのだ。もう二度と会わないであろう彼女に、軽く礼を返す。
時刻は三時十八分、老婆はしんしんと雪の降り積もる駅に降り立った。
彼女が元いたベッドには、溢れんばかりの純白の折り鶴が、一面に積もっていた。