5
空は快晴。つい昨日まで濡れていた地面も、カラリと乾いている。いつもより少し冷たい風が、秋の始まりを感じさせた。それでも、夏の残暑は続き、ドレスの下に少し汗をかいていた。
しかし、この暑さの原因は他にもある。
「グレイス! 王都行くんだって!?」
「もっと早く言ってくれたら良かったのに」
「グレイスちゃん、元気でね」
「王都に着いたら、手紙頂戴ね」
「お姉ちゃん何で行っちゃうんだよぅ」
「いいなあ、王都って旨いもんいっぱいあんだろ?」
一体どこから聞きつけたのだろう。屋敷の前には村の連中がわんさと集まっていた。
「お前ら、仕事どうしたんだよ。ほっぽり出してたら、また怒られるだろ」
午前中の忙しいときだ。子供達にも家業を手伝うなど、やらなきゃいけない仕事がある。
俺の疑問など最初からお見通しだとでも言うように、皆一様にニンマリと笑って言った。
「グレイスの見送りに行くって言ったら、行ってこいってさ」
「その代わり、多分明日は倍の仕事させられるな」
呆れた奴らだと言う前に、何かが喉につっかえ、目が熱くなった。
「馬鹿だな。別に来なくていいのに」
「そんなこと言わないで。皆グレイスに会いたくてきたの。最後にお別れできないなんて、そんなの……」
嗚咽を含ませながらそう言って、彼女は俺を抱きしめた。
そうだ、そうだよ。昨日の今日で実感が無かったけど、俺はこの村と今日でお別れだ。十四年間、この村の外を見たことは無かった。この中だけで生きてきた。ここが、俺の世界の全てだった。この仲間達とも、小さい頃からずっと遊んできた。
それももう、今日で最後だ。
「皆、三年経てば、また帰ってこれるから、それまで……元気で」
「グレイスも、元気で居ろよ」
「嫌な事があったら、いつでも帰ってきていいから!」
ありがとう。鼻の奥を貫くような痛みに必死に耐え、せり上がる感情を抑えながらそう呟いた。
***
さて、友人達との別れも済ませ、俺は馬車に乗り込んだ。馬車への荷物の積み込みはほぼ完了している。
屋敷の使用人達が、一人ずつ馬車へ来て別れの挨拶を述べる。馬車越しで見下ろすのは申し訳ない、と馬車を降りようとすると、全員が今降りて来られると別れられなくなると言って拒まれた。
二十名弱居る使用人の挨拶が終わり、次にレンバッハ夫婦が来た。しかし二人はいつも通りクールで、何か特別な様子は無い。
「レオ、レナータ、今日までありがとう」
「お前がそんなこと言う必要は無い」
馬車に乗っていても顔が俺より上にある大男は、無愛想に言った。基本、無表情で無口な彼は、冷たい人なのだと誤解されやすいが、彼と十年一緒に暮らしている俺は、本当は優しく情に厚い男ということを知っている。
「グレイス」
「何、レナータ」
「……大きくなったな」
「そりゃあね」
「綺麗にもなった」
「そ、そうかな」
「ああ、クリスにそっくりだ」
こうも面と向かって褒められると、流石にくすぐったい。思わず赤面して顔を下に向けてしまった。
「大丈夫、お前なら上手くやれるはずだ。あの二人の娘なんだからな」
「うん」
いつもはクールなレナータが優しい微笑を浮かべて、俺の頭を撫でた。傭兵らしい、武器を握っている硬い手だ。
「レナータ、ヤンはどこ?」
「さあ、見ていないな。会っていないのか」
「今朝会ったっきり。俺、大人げ無さ過ぎたかな。あいつ怒ってるかもしれない」
あの態度は流石に悪かったよな。仕方の無いことで、ヤンに当たるなんて、怒るに決まっている。
このまま、ヤンとお別れかもしれない。
「……大丈夫だ」
レオがボソッと呟いた。
「ヤンはお前を嫌ったりしない」
「そりゃそうだ。グレイス、心配しすぎだよ」
「そうかな」
俺が二人と話していると、馬車の御者がおずおずと歩み寄ってきた。
「お嬢様、ご用意が出来たようですが、出発は……」
「そんな急かすなよ。まだお別れ済ませてないんだ」
「そうは言いますがね。早く出発しないと、日没に間に合わないんですよ」
そんな遠出になるのか。
「でも、まだヤンが」
両親を始め、屋敷のほとんどの人間が来てるのに、その中にヤンだけが居ない。
「もう少し待てないのか」
父が御者へ問うが、夜道を走るのは危険だ、と断られる。
「大体、もう少し早く準備が整うと思ったんです。それなのに、もう昼近いし、荷物も多いし」
「何よ、私達が悪いみたいな言い方じゃない!」
「あ? そうだよ! それ以外にねぇだろ!」
「何よその言い方! ただの御者の癖に!」
何故か御者とメイドで喧嘩し始めてしまった。
もういいんじゃないか。いくら待ってもヤンが出てくる気配は無いし、時間は差し迫っている。
「出して」
「え?」
「いいよ、出して」
「グレイス、いいの?」
「うん。大丈夫だよ、母さん。ヤンによろしく伝えておいて」
「いいですね、出発しますよ?」
「ああ、いいよ」
俺は小さく返事をし、窓の外に顔を出して、いつの間にか集まった村中の人に手を振った。彼らとは、これでお別れ。屋敷に戻ることも、向こう三年間は無いだろう。
馬車が軋み、ゆっくりと動き出す。カラカラと車輪の回る音と共に、座敷が小刻みに揺れた。
車窓から、家や田畑が後ろへと流れていくのが見える。一軒ごと、一区画ごと、俺は王都へと近づいて、故郷から離れていく。
後ろからはまだ、村の人々の声が聞こえてくる。めいめい、俺に対し最後の言葉を叫んでいるんだろう。
このまま、黙って馬車に揺られていよう、と思っていた。振り返れば、また故郷の恋しさが膨れ上がりそうだ。ただ、本当にいいのかとも思う。あれでよかったのか、逃げるようにしてそそくさと村を出て行って、俺は後悔しないのか……?
遠ざかっていく皆の声が、何故か一際大きくなった。それに何か惹きつけられ、俺は衝動的に窓から顔を出した。吹き付ける強風に長い髪が鬱陶しくはためいた。
俺は髪を撫でながら後ろを振り返った。
「みんな!――」
「――グレイス!」
俺が言い切る前に聞こえてきたのは、この十年間ずっと隣で聞いてきた声だった。
「ヤン!?」
ヤンだ。赤みがかった茶髪を棚引かせ、屋敷からまっすぐこちらへ疾走している。村の人達の声援は、ヤンに向かっていた。
「グレイス!」
「何してんだよお前! ちゃんと前見とけよ、危ないだろ!」
馬車は既に結構な速度に加速している。ヤンはそんな馬車に追いつこうと全力疾走しているのだが、目線がずっとこっちを向いているのだ。危なっかしくて仕方がない。
俺のそんな心配を余所に、ヤンは徐々に馬車に近づいてきた。
「お嬢様、止めましょうか?」
御者が後ろで起きている出来事にようやく気付いたようで、おずおずと聞いてきた。
「……いや、いい!」
「え?」
「おい、ヤン! 今更何なんだよ!」
今更来られた所で、何だというのだ。さっき、心の奥底にしまった彼に対しての憤りが、別の勘定と共に湧き上がる。
「このバーカ! 遅いんだよこの野郎!」
「グレイス! はあ、はあ……んッ、ごめん! 俺……!」
「何!? 聞こえない!」
ヤンは今にも泣きそうな顔で走っていた。息を切らし、いつスタミナが切れてもおかしくないほどの全力疾走。ただ、視線は決して俺を離さない。
すると突然、ヤンの右手が腰に回った。急に減速し、ツーステップで右手を振りかぶる。
「え?」
ヤンが何かを投げたと気付いたのは、それから一瞬後のことだった。いつの間にか目の前に飛んできたその投擲物を、咄嗟に掴む。鈍い痛みが腕に走った。
掴んだものは、短剣のようだった。控えめな銀の装飾がなされた鞘に入った短剣。何だってこんなもの……。
ヤンが既に止まっていることに気付き、俺は更に身を乗り出した。
「ヤーン! これ貰っていいのかー!?」
「俺は……の事……だった……ぞ……」
何かを叫ぶヤンの言葉は、風と、車輪が転がる音にかき消された。俺はせめても、大きく手を振る。
「ありがとう! ヤン!」
あれだけ大きかったはずの屋敷と共に小さくなって消えていくヤンが、大きく手を上げるのが見えた。
この村に帰ってきたのは、それから十年以上経ってからだった。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
ここで第一章「ブライアーズ男爵領」終了です。ここから、学園編へと入ります。