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神聖ディーヴァ王国の王立教育研究機関は、貴族を中心とした国の優秀な青少年を育成する機関である。百年ほど前に国が二つに割れた時、神聖ディーヴァ王国を名乗ったこの国が、次世代の人材育成と王への求心力を強めるために作られた。俺は実は子供に王様万歳教育をさせるための場所なんじゃないかと思ってたりする。
そんな教育機関、ほとんどの人は単に学園と呼ぶ。学園は九歳から三年間の初等部、十二歳から三年間の中等部、十五歳から三年間の高等部に分かれる。基本的に、爵位や地位が上の子弟が、小さいころから長く学園で学んでいる傾向にあるらしい。
貴族はほとんどの場合が初等部や中等部から入る。 しかし俺は今十四歳、もうすぐ十五。男爵令嬢としては珍しいが、高等部から就学することになった。
「お嬢様、ほかに何か持っていくものはございませんか?」
「いや、というかそんなに持っていく必要あるか?」
「何を言っているんですか。私としては心許無いくらいですよ」
俺がいきなり学園への入学を知らされたのは昨日のこと、その晩から屋敷内は俺の出立に向けて慌しく動いていた。今も使用人が朝早くから俺の部屋に出入りし、大量の荷物を纏めて馬車に詰め込んでいるところだ。
入学、進学してから三年間は、夏休みと冬休み以外はほとんどを、学園内の寮で過ごす事になる。そこで学園での勉学だけでなく、人間関係やコミュニケーション能力も学んでいくことになる。
そこがまあ、一番心配なわけだ。
部屋の中の慌しさを横目に、俺は窓の外を眺めていた。窓の外は、しばらくだだっ広い庭が広がっているだけだが、そのずっと遠くには民家も見える。一見大きく広がっている村に見えるが、山に囲まれた小さな小さな場所だ。人の顔と名前はほとんど覚えている。十四年間ここで暮らしてきて、ここを出たことなんて一度も無い。それをいきなり王都で一人暮らしなんて……。
「グレイス」
後ろからの声に、俺は振向かずにまだ外を眺めていた。
「ヤン、邪魔するな」
「不安ですか?」
何がとは言わなかった。いや、そもそもそんなこと聞かなくても、俺が不安であろう事なんてヤンが分からないわけが無い。俺は肯定も否定も、答える気も起きなかった。
「大丈夫ですよ、そんなに心配しなくても」
「何が!」
自分でも驚くほどの声量が出てしまい、部屋の中が静まった。
「よくそんな無責任なことが言えるな。お前が行くわけでもないのに」
「……グレイス、それは仕方の無いことで」
「分かってるよ、そんなこと」
俺は吐き捨てるようにそう言うと、再び窓の外へ顔を向けた。
「学園は、貴族や選ばれた家系の者でないと、中に入ることも……」
「分かってると言ってるだろう。お前は来られないんだろう、ああ聞いたよ、昨日から何度も」
「グレイス」
お前は俺の護衛じゃなかったのか! 口に出すのは、あまりにもかっこ悪いと思ったのでやめた。
「何で昨日の今日で、行った事も無い所に一人で行かないといけないんだよ」
「それは」
「おかしいだろ? 学園の存在も昨日知ったんだ。それでいきなり今から王都で暮らせとか、訳分からん。デリカシーというものを根こそぎワイバーンに食われたんじゃないか」
「何もそこまで言わなくても」
「お前もだよ。知ってたんだろ、俺が学園に行くこと。だから昨日だってわざわざ口調について言ってきてんだ。王都でこのまま喋ってたらおかしな奴に思われるから」
「分かっているならもうそろそろ直してください」
「やかましいわ、今更変えられるか」
「酷くなってます」
俺だって、もはや仕方の無いことだとは分かっている。ただ、周りの態度がどうも気に食わない。学園のことくらい事前に教えるべきだ。黙っていた理由が全く見えてこない。サプライズのつもりだった、とかじゃないだろう。
「お嬢様、奥様が下の談話室でお呼びです」
メイドの一人が部屋の入り口で固くなっていた。気まずい雰囲気で、よく入ってきたと思う。
部屋はあらかた片付いて、今は数人がクローゼットの中で作業しているだけの状態だ。もうここは俺の部屋とは呼べない、殺風景なものになっていた。
「ああ、分かった。今行く」
気まずい空気の中で、出来る限りヤンと話したくない俺からしたら、願っても無い要請だ。すぐに部屋を出よう。
だが、いざ部屋を出ようとすると、クローゼットの中で何か作業していたはずのメイド達が慌てた様子で俺を制止した。
「まだお嬢様の御支度が終わっていません!」
「もう終わったんじゃないのか、馬車にも積み込んだし」
メイドはとんでもない、と首を振る。
「いえ、お嬢様。そのような格好で王都へ赴くおつもりですか?」
何かおかしなところがあるだろうか。動きやすい丈の短いパンツに、麻のシャツ。とても良い服だ。ちょっとやそっとじゃへこたれないし、安いから破いてもすぐに替えられる。
そう告げると、呆れたように頭を抱えた。部屋に居る全員がである。
「お嬢様、この際はっきりと言わせていただきます! その服装は庶民の、しかも男子が着るものです! お嬢様はこれから、ブライアーズ男爵家の令嬢として王都で暮らされるのです。市民の上に立つ貴族として、ふさわしい装いをしなくてはなりません!」
貴族の娘というのは、面倒くさいことがつきものだ。前世の俺も、服装に対してこだわりがある方ではなかったように思う。この世界に生まれた後も、それは変わらない。しいて言うならば、山で遊ぶときに邪魔にならない服装が良いということだ。
貴族の令嬢として相応しい様相というのは、山で遊ぶには明らかに適さない服装をする。今まではドレスを着せようとする屋敷の人間達をどうにかはぐらかして、村の子供と同じ服装で過ごしてきた。
「今更そんなこと言われても」
「ずっと言ってきました! 十年間ずっと! そんな格好で王都に出たら、恥をかくのはお嬢様であり、旦那様なのですよ! さあ、着替えましょう。この日をどれだけ待っていたことか……ヤンは出て行きなさい」
さもありなん。俺は別に見られても構いはしないが、今ヤンが出て行くなら好都合だ。
積年の鬱憤を晴らすかのように、メイド達はああでもないこうでもないと俺にドレスを合わせながら唸っていた。俺を呼びにきたメイドは先輩達のあまりの迫力に硬直してしまい、扉の前でただ突っ立っている。
ドレスを着るのにも想像以上の時間が掛かる。いつものスタイルなら数秒で着替えられるのに、ドレスに関しては三人がかりでもその三倍はかかる。こんな慣れないことを一人でやるとなったらと考えたら、とことん憂鬱になる。
悩みながらも、三人の仕事は早かった。ドレス、装飾、靴、化粧など、それぞれ分担し、効率的に進めている。完璧に統率された動きだ。今まで誕生日程度にしかここまでのおめかしはしたこと無いのに、どこでこの腕を鍛えていたのだろう。
全ての準備が終わるのに、時間はかからなかった。
「ああ、お綺麗ですよお嬢様。この日をどれだけ待ったことか」
メイド達はそれぞれ感嘆の吐息を洩らす。確かに、改めて姿見の前に立つと、綺麗なルックスをしていることに気付かされる。自分で言うのもなんだが、意外と良い線いってるんじゃないかと思う。
「さあ、旦那様と奥様にお見せしましょう」
「あ、ああ」
「優雅にですよ?」
優雅ね、俺とは無縁の言葉じゃないか。
談話室に入ると、両親とベネットが俺を見て誰か知らない人が来たかのような反応を見せた。ポカンと阿呆みたいに口を開けて、上から下まで嘗め回すように見ている。我が子にその反応はどうなんだ?
「な、なんだよ」
流石にちょっと居た堪れなくなる。やっぱこんな格好、柄じゃなかったんだ。俺みたいな奴がこんなヒラヒラなドレス着てたら、村の奴らに笑われる。
「やっぱこんなの、似合わないよな」
良い線いってるって思った自分が恥ずかしい。
「そんなことないわ、グレイス!」
「そうだよ、とっても綺麗だ。見とれてしまったよ」
慌てたようにフォローに入る両親。
「べ、別にお世辞は良いよ……」
「本当よ! お姫様みたい! ああ、こんなに綺麗になって……。グレイス、貴女が生まれてから、こんな日をずっと夢見てきたのよ。でもずっと男の子みたいな格好ばっかりしてて」
「母さん」
「嬉しいわ、本当に。やっぱり女の子だったのね」
「んー……」
微妙な顔をせざるを得ない。
ただ、やはり娘を娘として扱うのが難しかった母からすれば、思いっきり女の子の格好をしている俺を見るのは嬉しいのかもしれない。悪いことしたな、とは思う。
メイド達と同じように、今まで我慢した十四年間分の何かを一気に放出するかのように、可愛らしいだの綺麗だのこそばゆい言葉を並べ立てる母親は、とても生き生きしていて止められる雰囲気ではない。何だか邪魔するのも悪いような気がして、俺は黙って母の玩具になった。
父とベネットは、何を言うでもなく、いじられている俺に一瞥をくれて談話室を出て行った。話があるというのは、母からだけなのだろう。と、言っても、母がこんな状況ではいつまで経っても抜け出せないのではないか。
「母さん」
「ん? どうしたの、私のお姫様?」
プリンセスはやめてくれ。
「何か話があるって聞いたけど」
「……そうね」
母の雰囲気が変わった。優しげな微笑はそのままで、言葉の温かみはそのままで、母を取り巻く空気だけが一変した。今までとの落差に、重苦しさまで感じてしまう。
俺の中で湧き上がった不安を余所に、母は踵を返して部屋の隅にある棚へ向かった。
「母さん?」
「渡さないといけないものがあるの」
母はそう言って棚から何かを取り出した。
金色の箱だ。木で出来ていながらも、凝った金の装飾がされていて、鍵穴までついている。大きな損傷は見られないが、ところどころ細かい禿げや傷があり、古いものだというのが分かる。
何の箱だろう、と考えを廻らせて見る。何か重要なものなのは確かだ、しかしそれ以上に、俺はこの箱を見たことがあるような気がした。
「これって」
「これはね、貴女が一歳の誕生日を迎えたとき、アップルガーズ子爵から貰ったものなのよ」
母から手渡された箱は、予想より若干重かった。純金の装飾によるずっしりとした重みと別に、中に何かが入っているようだ。両手でやっと持てる重さと大きさだ。
何が入っているのだろう。
「これが鍵よ」
俺は純金の鍵を受け取った。持ち手の部分に宝石などで装飾がなされ、細い鎖が通っている。一見首飾りのようにも見えた。
「開けても良い?」
「駄目よ」
きっぱりと言い切られる。
「いい、グレイス? この箱は、しかるべき時が来るまで、絶対に開けてはいけません。鍵は肌身離さず、いつも首から掛けておきなさい」
「良いけど、何が入っているの?」
母はまたも首を横に振った。
「教えられない。本当は、この箱がいつまでも開かれないのを、お母さんは願っているわ。でも、もしその時が来たら、覚悟を決めなさい」
話の全体像が全く掴めないが、母はそれを分かってて言っているのだろう。全てを教えるつもりは無いようだ。
その事に少しの不満を抱きつつも、俺は頷いた。
「分かったよ」
そう言うと、母はいつものようにニッコリと笑う。
「さあ、もう行きなさい。馬車が待ってる。大丈夫、貴女なら上手くやれるわよ。私の娘だもの」
母の周りにあった重苦しい空気は、母自身の弾ける様な笑顔に吹き飛ばされていた。
ありがとうございます。
今日はもう一本、出来たら投稿したいと思っています。