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時間は少し進みます
夏も終わりに差し掛かり、日が落ちる時間が次第に早くなっている。まだ十四の俺には、それが少し残念に思われた。しかし、暑さはまだ健在で、屋敷の中では蒸しあがってしまう気がするので、この夏の間はよく川へ遊びに行っていた。夏の遊び場といえばこの山に囲まれた狭い領地では相場が決まっているので、川に行けば遊び相手に欠くことは無い。
今日も俺はヤンを連れて、近くの渓流に釣りに出ていた。しかし、今日に限っては見知った顔どころか、人っ子一人も居ない。いつもなら子供の笑い声や泣き声が聞こえてもおかしくはないのに、聞こえてくるのはゴーという川の流れる音だけだ。先日降った雨の影響だろう、いつもより水量が多い。ここ二、三日ずっと雨が降っていたせいで、俺は屋敷の中で退屈な日々を送る羽目になった。ようやく雨が止んだというのに、川へ来たのが二人だけじゃ退屈なのに変わりないじゃないか。
最初は俺もぶつくさ文句を言っていたが、いざ釣りを開始してみると、いつもより魚が面白いように釣れる。しばらく夢中になっていた間に日が傾き、釣り糸を垂らす水面へ落ちる自分の影が、竹の子みたいに伸びていた。
「グレイス、もう日が暮れます。帰りましょう」
楽しい気分を俺の隣の竹の子が、水を差した。
「ヤン。もう少しだけ居よう」
「駄目です。また奥様にしかられますよ?」
「今いいところだろ、ちょっと待てよ」
ヤンはやれやれと、わざとらしく呆れたようにため息をついた。こいつめ、出会ったばかりはこんなやつじゃなかったのに、いつの間にか家の奴らの手先になりやがって。
「本当はここに来るだけでも危ないと言ったでしょう。ただでさえ川が増水して流れが速くなってるのに、暗くなってしまってはグレイスが流されても助けられませんよ。そんなことになったらどれだけ旦那様や奥様が悲しむか……」
「ああ、はいはい分かったよ。まったく、ベネットにどんどん似ていくな、お前は」
ヤンは俺の護衛兼付き人になっていた。最初はただの遊び相手という認識だったのだが、いつからか執事のベネットがヤンの教育係になり、口調から何から全てを変えられてしまった。
俺はしぶしぶ釣りを切り上げ、ヤンと共に帰路に着いた。
ヤンと二人で並びながら、大した舗装もされていない道を歩く。ほとんど見えないほど暗い森を抜けると、オレンジと紫が綯い交ぜになったような空が広がっていた。薄っすらと星も見える。
「綺麗」
意図せずポツリとそんなことを言うと、ヤンがおかしそうに吹き出した。
「またですか。いつも言ってますね、それ」
「別にいいだろ。綺麗なんだから」
「ええ、綺麗ですね」
この世界に来るまで、こうやって空を見ることなんて無かった。それだけじゃない。こんな自然の中で遊びまわることなんて無かった。ここで十四年暮らした今でも、この何気ない風景に感動してしまう。
そんな俺を、周りの人間、特に一番近くに居るヤンは不思議がり、面白がっていた。
「グレイスは本当にこの地を愛していますね」
「はいはい、変人だとでも言うんだろう」
「でも、それは貴族としてとても大事なことです。自分の領地、領民を愛してこそ、上に立つことが出来ます」
「変人は否定しないのか」
彼はこらえるような笑いで返した。
「主人を変人扱いなんて、不敬だとは思わないのか」
「その言葉遣いを直してほしい、と奥様から散々言われているのに、一向に直る気配が無いんですから。村の皆から言われていますよ。グレイスは変人だって」
「そ、それは言わない約束だったろ!」
俺も十四年間、女子として生きてきた。しかし、口調だけはどうしても男言葉のほうがしっくり来た。この世界の言語にも、女らしい口調と男らしい口調がある。母はとても上品な女言葉を使うのだが、どういう訳か俺はその影響をほとんど受けることは無く、村の男の子が使うような口調が板についてしまった。
「仕方ないじゃないか。ずっとこれで生きてきたんだから」
半ば投げやりにそう言うと、ヤンは困ったような顔をして、こちらを見た。
「男爵令嬢として、最低限の礼節を覚えていただかないと」
その言葉の真意を知るのは、屋敷に着いてすぐの事だった。
***
屋敷に近づくと、ヤンは前に出て重い門とその奥の扉を開けてくれた。十年前の事件から、門と扉がより頑丈で重厚なものになってしまったので、俺の体格では上手く開けることが出来ない。ヤンは俺のために門を開けるのが習慣化してしまったのか、ごく当然のことのように開けてくれる。
昨日一昨日の雨でぬかるんだ道を歩いてきた靴は泥まみれになっていた。泥でずいぶんと重くなったブーツを脱ぎ、用意してあった別の靴へと履き替えた。重くなった靴に慣れていたのか、履き替えたとたんに足がおそろしく軽い。
ヤンが扉を閉めると、大きな音とともに屋敷が響いた。
「グレイス、ヤン」
ピンと張り詰めたような特徴のある声が掛かったのは、俺が靴を履き替え、しゃんと立った瞬間だった。この広い屋敷で何人もの人間が生活と仕事をしている訳だが、仮にもここブライアーズ男爵の令嬢である俺を、ファーストネームで呼び捨てにする人間は片手で数えられるほどしか居ない。それはつまり俺の両親と、傭兵の家族だ。そして当の声の主は――
「ただいま、レナータ」
レナータは俺と自分の息子を、交互に見て、まるで狙いを定めたかのようにヤンを睨み付けた。
「もう日が暮れている。いったいどこをほっつき歩いていた?」
「はい。グレイスと川で釣りをしていました」
「川は危険だから行くな、と昨日のうちから言ったはずだ。忘れたのか」
「ごめんなさい」
「レナータ、俺が悪いんだ。俺が無理やりヤンを」
「もちろんグレイスにも言ってる」
ぴしゃりと言い渡され、俺は口を噤むしかなかった。もちろん、レナータの忠告は聞いていたし、危ないなんてのは言われなくても分かってる。でも俺にとっては退屈なほうが問題だ。屋敷のなかであれ以上勉強なんかしてたら、湿気でふやける。説教を受けるのも織り込み済みで、俺は川へと出かけたのである。
ただ、今日の説教はいつもに増して険があった。
「クリスとレニーがどれだけ心配したか。もちろん私も心配していた。行き先も告げずに黙って家を出るのが、どれほど人に心配をかけるか、いつも言っているのにお前達は治そうとしない。ヤン、お前にはよくよく言い聞かせていたつもりだった。ベネット殿からも言われていただろう。お前の役目は何だ?」
「グレイスを、守ることです」
「それなら何故黙ってグレイスを増水した川に連れて行った。本来なら危険な川に行こうとしたグレイスを止めるというのがお前の役目のはずだ。お前はグレイスの命を預かっているんだぞ、自分の命以上に扱うのが常だ。川でもしグレイスが流されたらどうする。お前は必ず助けられるのか」
レナータの説教はいつもより長く続いた。いつもは必要最低限のことしか喋らないが、俺達を叱る時は何故か饒舌になる。それが彼女の真剣さ故というのは分かっているつもりだが、こう毎度怒られるとうんざりもしてくる。そりゃあまあ、俺が彼女の言いつけを守れば済む話ではあるのだが。
彼女が叱るのは主にヤンにだ。元凶はほぼ俺なのに、ヤンに対してお前がしっかりしていないから、と厳しく言いつける。俺はそれを横でただ聞いているだけで、いつもヤンに申し訳ない気持ちがある。これだけこっぴどく叱られても、ヤンはほとんどの場合俺の味方だった。今日も本当ならヤンも俺が川に行くのに反対だっただろう。現に行くときも、行く途中も、川に居るときも何かと口うるさかった、それでも最終的に許してくれるのは、増水した川に俺が落ちても助けられる自身が彼にあるからだろう。俺もいざとなればヤンが助けてくれるだろう、という漠然とした確信がある。
「……グレイス」
「ん、はい!」
やばい、何か聞き逃してたのか。と、少し焦るが、話の前後は繋がっておらず、話が一段落して俺を呼んだらしいことを何となく察した。
「もう帰ってきたのは分かっているだろうが、クリスの所に行って安心させてあげなさい」
「うん」
俺は頷いて母が居るだろう大広間に向かって歩き出した、その数歩目である。違和感に気づいて後ろを振り返る。ヤンが此方を見たまま動こうとしない。いつもなら俺の三歩くらい後をついて歩いてくるはずなのだ。ずっと前からそれが自然な状態だった。
「ヤン、来ないのか」
それは疑問のつもりで言ったわけではなかった。早く来い、という単なる催促である。しかし、想定していた答えは返ってこなかった。
「私は行きません」
何故か、ヤンは俺について来ないつもりらしい。意味が分からなかった。
「何で」
「旦那様と奥様から、お話があると思います」
別に、ヤンとは常に四六時中一緒に居るわけじゃない。当然寝る時や体を洗う時、用を足す時まで一緒に居たりはしない。一人でだって動けるし、一人でこっそり村に出たこともある。ましてやここは屋敷の中、ヤンが居なくて困ることなんて何一つ無い。
ただ、どういうわけか俺の感情はそのことを許さなかった。
「どういうことだよ、別にいいだろう。来なよ」
今度は何も言わずに、首を横に振って見せた。なんて融通が利かない奴なんだろう。一瞬怒りが顔を出す。が、すぐに掻き消えた。一瞬前の事なのに、本当に憤っていたのかすら分からなくなるほど、パッと消えてしまった。
ヤンが悲しそうに笑っていたからだろうか。
「グレイス、俺は用事があります。それより早く、奥様の元へ」
「分かったよ」
逆に自分から突き放すような言い方をした。ヤンがあんな顔して、あんな事を言い出したのは理由がある。多分、俺だけが知らないんだ。ヤンも、レナータも、すまし顔で廊下の端に立っている召使も、あるいは知っているかもしれない。
俺は今から、何かを両親から告げられるのだろう。
大広間につくまでにぐるぐると思考を回転させていたが、とうとう検討はつかなかった。開け放たれた大きな扉を潜ると、大きな食卓が中央に置かれ、両親はその最も奥で座っているのが見える。
「グレイス!」
「母さん、帰りました」
「何が帰りましたよ! 黙ってどこかへ行って、どれだけ心配したと思ってるの!」
「レナータに散々聞かされたよ」
「何なのその態度は! だいたい母に向かってその言い草は何!」
母は今にも泣きそうだった。母がこうヒステリックに俺を叱りつけるのは珍しく、やはり何かあるのだろう事は分かった。怒りが収まりそうに無い母では話が一向に進みそうも無いので、俺は助けを求めるように父を見た。しかし、今日は父もどこかおかしい。いつもなら仲裁に入ってくれそうなものだが、今はテーブル上で腕を組んで下を向いている。
助け舟は思わぬところから来た。
「言葉遣いを直しなさいといつも言ってきたでしょう? それなのに貴女は……」
「奥様、落ち着いていただかないと、お嬢様も困惑してらっしゃいます」
後ろからベネットの諭すような声が聞こえた。いつの間にか後ろに立っていた事に若干の薄気味悪さを感じながらも、俺はこれ幸いにと口を開いた。
「そうだ、今日の皆は何か変だよ。。ヤンもおかしな事言い出す、母さんとレナータの説教は長い、父さんは黙ってる。……俺、何かしたのか?」
再び沈黙が落ちた。母はまた何かを言おうとしたが、何を思ったのかすぐに口を噤んで目を伏せ、その後に父の方を見た。ベネットも今度は何も言わずにいる。
小さくため息をつく音が聞こえた。
「いや、グレイス。お前は何もしてないよ」
「じゃあ何だって言うの、父さん」
父は上半身を乗り出して、テーブルを滑らせるように何かをこちらに差し出した。手紙のようだ。真っ白で上品な封筒である。紙の質感からも、普段自分が使っている茶色がかった紙ではなく、貴族からの公的な封書だということが分かる。これが、俺に関係あるものだというのが、どうも理解できない。
俺は黙って封筒を手に取る。封蠟はすでに解かれていた。丁寧に折りたたまれて入っている一枚の便箋を取り出すが、その品の良い紙で出来たものが、何か不気味なものに感じてしまう。困惑して母を見ると、読みなさいと静かに言われてしまった。
躊躇った後、恐る恐る便箋に目を落とす。
「これって……」
「お前はこれから、王都で暮らすことになる」
その手紙は、つまり就学通知書だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
明日また更新しますので、よろしくお願いします。