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最近は一時限目の授業によく遅刻する。理由は単にヤンと早朝訓練を行っているからなのだが、そんなこと言っても仕方ないので、寝坊しましたとだけ伝えて大人しく怒られる事にしている。
しかし同じ部屋で寝起きしているサヴァナだけは不審がっていた。
「毎朝どこに行ってるのよ」
「んー、散歩?」
「何それ」
「街中歩いたりしてるんだ。ほら、俺って田舎者だから、都会が珍しくてさ」
「むぅ……私に黙って何か面白い事をしてる臭いがする」
「どんな嗅覚だよ」
女子生徒が許可なく敷地外へ出ることを禁止されているこの学園で、城壁の外に出ていることが知れたら大目玉では済まされない。そう思いながらも先生に黙っててくれるのが、彼女の良いところだ。
「お喋りは終わりました?」
「へ?」
声をした方を向くと、女性が呆れた表情でこちらを見ていた。周りからクスクスと笑い声も聞こえてくる。
「ブライアーズさん、ノールズさん。今が授業中だってことお忘れですか?」
「あ、ああ。そっか」
「そっか? ブライアーズさん、貴女遅刻までしてるのよ? ポーズでもいいからもう少し真面目な姿勢を見せたらどうなんです?」
今は音楽の授業だった。いつもならギリギリ授業開始と同時くらいには教室に着いているのだが、音楽は教室が違うので大分遅れてしまったので、先生はお怒りなのだ。
音楽教師のシルヴィ・ファリエール先生は、ダークブラウンの髪をした異国の美女だ。南の王国の出身らしい。線が細くて背が低いので、割と大きい俺からしたら人形みたいに見える。異国訛りの入った喋り方も相まって、怒られてもひとつも怖くない。
生徒達からの人気――マスコットとしての人気だが――も高く、皆から可愛がられている。しかし本人はいたって真面目な正確であり、プライドの高い人物でもあるので、頑張って厳しい口調を徹底しているらしい。そういうところがまた愛らしいのだ。
「ちょっと、聞いているんですか?」
「はいはい、ちゃんと聞いてますよ」
「んっ……分かりました、そんな態度を取るならこちらにも考えがあります。授業終わったら私の所へ来なさい!」
鈴を転がしたような声でそう言うと、シルヴィは黒板に向き直った。
正直音楽なんてこれっぽっちも興味などなかった。なんなら音楽なんかより、魔術学や呪術学をやっていた方が良い。男子生徒達は今、戦術学の授業で戦闘訓練を受けているらしい。羨ましい。
何故か女生徒は舞踏や音楽、作法などの授業が鬼のように多い。一方男の方はというと政治や戦闘、化学や魔術などの専門的で役立つ授業をほとんど受けられる。
この扱いの差は解せない。
ふと気づくと、シルヴィが杖を使って黒板に何かの模様を描いていた。円形の枠内で、グニャグニャと何匹もの芋虫が這ったような絵だ。これが音楽か?
よく分からない世界だ。俺からしたら魔法陣と変わらないように見える。
「これはある魔法陣です」
魔法陣で合っていたようだ。
「例えば、この魔法陣を発動するには、石板などの土台と、その上に図を描くインクなどの媒体、人による……あー、きっかけ? が必要です。『きっかけ』で、良かったかしら? きっかけというのは、呪文を詠唱したり魔力を流し込んだりといった事です。
でもこういった物質的な条件は、時として術式の枷になったり、不安定要素になりかねません。そこでこの魔法陣を……」
シルヴィはおもむろにバイオリンを取り出して、肩に挟んで構えた。彼女が弓を弦に当てると、高い音が教室に響く。
一拍おいて、音楽が流れだした。
バイオリンの音色が、その一つ一つの音が、まるで何かに訴えかけるように響いている。
すると、次第に音が光りだした。シルヴィのバイオリンから発せられた音が、光のツタの様に具現化し、教卓の上に集まってくる。
見たことのない不思議な光景だった。今まで見たどんな不思議で神秘的なものよりも、はるかに綺麗で、奇跡のような出来事だ。
やがて音楽が終わり、シルヴィがバイオリンを下ろして息を一つ吐くと、教卓の上にはそれまで無かった一輪の薔薇が花瓶に挿して置かれていた。
すごい! 間違いなく、彼女の音楽によって薔薇が生まれたのだ。
クラスの全員が、呆気に取られて何の言葉も発せられずにいた。
しかしそれも仕方のないことだろう。このクラスが初めて目の当たりにする魔術なのだから。
「というように、音楽で構築・発動させることができます。音楽を用いれば先ほど言った三つの条件が揃わなくても……皆さん? 聞いていますか?」
「……先生」
生徒の一人がクラスを代表して手を挙げた。
「はい何でしょう?」
「私達はまだ、その……呑み込めていないというか、あまりに突然のことで」
「何故です? 貴女達は一年ですが、もう魔術の基本は習っているはずでしょう?」
「いいえ先生。私達は魔術学の授業をまだ受けてません。アップルガーズ先生が出張居ないので、代わりに呪術学を習っていたので……」
「あっ」
シルヴィは「しまった!」とでも言いそうな顔をしていた。
「ごめんなさい、忘れていました。そうでしたね」
「私は中等部で魔法を習いました。でも、音楽で魔法が発動するなんて、聞いたことありません」
サヴァナなどの中等部から魔法を学んできた生徒も漏れなく驚いていた。
「じゃあ魔術の発生条件を少し教えておいた方が良いかもしれません。ちょっと長くなりますので、しっかりとノートを取ってくださいね。これから魔術学を学ぶときに役立ちますし、音楽の授業では必要不可欠な要素ですから。
まず魔術や魔法には、必要な要素が二つあります。さきほどの魔法陣のものとも関係するものです。
一つは魔力。当然ですね。あらゆる術式に必要不可欠なものです。これがないと成立しません。術者自身の魔力を用いる事もあれば、魔石や周囲にある魔力を使う場合もあります。
二つ目は術式。その魔術が何を目的としていて、どんな効果を表すかを決めるものです。魔法陣として物理的に術式を描くものもあれば、自分の中で構築するものもあります。
問題は大掛かりで複雑な魔術を行う時に、術者の魔力が足りなかったり、術式が複雑すぎて並みの人間では処理できない場合があるという事。
その問題を解決するのに、術者で補えない魔力を魔石などから抽出するという複雑な術式を、本来の術式と並行して魔法陣などで術者の代わりに処理をする。という方法が一般的です。
ただ、ここでさきほどの話に戻ります。複雑な魔術を魔法陣で行うには、媒体と土台ときっかけが必要なのです。それは場合によって不安定になり得ます。
そこで、音階によって術式を構築し、発動するという方法があります」
俺は抑えきれない興奮を必死に隠し、次の言葉を待った。
「貴女達がこれから学ぶのは、音楽によって魔法や魔術を扱う方法です」
***
「何でそんな大事な事これまで教えてくれなかったんですか!」
「ブライアーズさん。貴女、ここに怒られに来たという事をちゃんと分かっていますか?」
シルヴィはソファに腰かけ、ため息交じりに言った。
この城の教師達はそれぞれ、自分の研究室を持っている。研究室と名前がついてはいるが、名前通りの使い方をしているのはごく一部で、実際には各々の休憩室のようなものらしい。
シルヴィの研究室はその最たるものだろう。全体が薄いピンク色に染められた部屋の中央にはソファと背の低いテーブル、ティーセットまで完備してあり、窓際にはグランドピアノが置かれ、壁には管楽器から弦楽器まで様々な楽器が並んである。趣味全開の部屋だ。
そんな部屋にお説教のために呼ばれた俺は、授業中で溜めに溜めた興奮を一気に吐き出した。
「音楽は魔法の授業ということですよね!」
「まあ、私の授業ではそういう事になりますね」
「今までの授業でそんな事言ってくれなかったじゃないですか! 最初から教えてくれれば、私だって真面目に授業受けたのに」
「授業は最初から真面目に受けるものです! でも、確かにそこは私が最初に説明しておくべきでしたね。魔術学の基礎がないと、私の音楽は理解しづらいですし……」
シルヴィは最後に別の言葉で何か呟いた。母国語だろうか。意味は分からないが、悪態をついたのではないかと思う。
「じゃあ、ブライアーズさん? 貴女はこれから真面目に私の授業を受けるのですね?」
「はい、もちろんです!」
今まで呪術以外ほとんど真面目に受けてこなかった。単純にそれ以外に有用性を感じなかった。お茶をしたりダンスをしたり、そんなのやりたい奴がやればいいんだ。
だから音楽にも魅力を感じなかったのだが、ただの音楽ならいざ知らず、魔術を使える音楽だったら話は別だ。魔術学が先延ばしになった今、現時点で俺が受けられる唯一の魔術ということになる。
「じゃあ、お願いできますね」
「え?」
俺が思いを馳せていた間に、シルヴィは意地悪そうな顔をして目の前に立っていた。紙を手に持ち、こちらに突き付けている。
「何ですか、これ?」
「来年の卒業パーティで演奏をお願いします。これはその概要です」
「は?」
俺は訳も分からず、無理やり渡された書類に目を通した。
曰く、来年の六月に行われる現三回生の卒業記念パーティに、在校生を代表して一人が曲を演奏するということらしい。楽器は自由、演奏する曲はその代表者が一から作曲したものに限ると書かれている。
「……え、どういうことですか?」
「今年はどういう訳か希望者が少なくて困っていたんです。貴女がやってくださるなら、とても助かるのだけれど」
「無理に決まってるじゃないですか。私に音楽なんて……今までの授業だって、ほとんど聞いてなかったんですよ?」
「それは問題ね、全く別の問題だけれど。心配しなくても大丈夫ですよ。発表までまだ半年もありますし、それまで私が全力で教えますから」
「そんな事言ったって」
音楽の授業なんてこれまで一切聞いたことはなかったし、今日だってシルヴィが魔法を使わなければあのままお喋りを続けようと思ってた。それくらい興味がない。無論歌を歌った事もなければ、楽器の演奏などやった事ともない。一から作曲するなど、俺からしたら遠い世界の話なのだ。
「私以外にも適任が居ますよ」
「それはそうですが、そういう人が何故か希望を出してくれないんですよ。幸い、ブライアーズさんが音楽に興味を持ってくれたようなので、これで私も一安心です」
「私やるなんて言ってません」
「卒業記念パーティには、貴族の皆さんが大勢集まりますので、そこで印象を良くしておけば、社交界に強力な繋がりが出来るかもしれませんよ?」
「そんなの……」
要らない。と、言いかけて俺は止めた。実際、社交界なんぞに興味も無いのだけど、ふとブライアーズ男爵家の事を思ってしまった。
もしも、俺が社交界で繋がりを作ったとしたら、故郷はどう変わるのだろう。上手くいけば、サピュタントとまではいかなくても、もう少し発展した町に出来るかもしれない。そうなったら、故郷の友達は喜ぶだろうか。両親は褒めてくれるのだろうか。
漠然とした考えが意識の表層にプカプカと浮かんでいる。しかし学も無ければ世間も知らない俺の考えが具体的になることはなく、ただ曖昧なイメージにしかならなかった。
ただ、話自体が自分の中で、どちらかというと良い印象に傾いていた。
どうせ音楽で魔術を学ぼうと思ってたんだから、やってみて悪いということはないだろう。
「分かりました。やってみます」
そう言うと、シルヴィはホッと胸を撫でおろした。
「そうですか。よかった。ここで断られたら、私の評価に関わることでしたから。中々やってくれるという人は出てこないので」
「何故です? この学園に居る人間なんて、パイプを作りたい人がほとんどじゃないですか」
「さあ? しいて言うなら、各国の名だたる貴族も出席する会ですから、失敗でもしたら国から追放されかねないからでしょうか」
「え?」
ニコニコしながら鼻歌交じりで部屋を出て行くサヴァナの背中を、俺は黙って見送ることしか出来なかった。