12
地面を踏みしめる音と、木々が身体に擦れる音、そして走る自分の息遣い。
彼は走っていた。自分の中で目的ははっきりしている。そのために生きてきた。そのために皆動いてる。
だからこそ焦っていた。時間が無い。
馬車も、馬も持たない彼の状態では、走るしか方法がなかった。しかし、もう昨日からずっと走ってる。あたりは暗くなり、月も出てきた。それを確認する暇も無く、彼は一心に走り続けた。
夏が終わった森の中は寒いくらいだった。地面が湿っていて冷たく、裸足の彼の体温を徐々に奪っていく。靴は壊れて、ずっと前に捨てた。
これまでいくつか、森の中でキャンプしているそれらしい集団を見つけたが、どれも本命ではなかった。
どこだ。どこに居るんだ。
森を走りながら、暗がりに目を凝らす。
遠くを走る川の近くにテントが張っているのが微かに見えた。
焚き火と、その近くに数人の人影が見える。
きっと、あれだ。
彼は注意深く歩を進めた。ここから、作戦は動き出す。
***
黒い人影が揺れた。まるで夢の中のように、輪郭もはっきりせず、現実感がない。
いっそ夢ならどんなに良いだろうか。これは夢で、まだ俺はテントの中で眠っているとしたら……。
眼前に突きつけられていた剣の切っ先が、フッと消えた。
黒い影が腕を上げている。
剣を振りかぶっている。
振り下ろそうとしている。
そして俺は斬られる。
一瞬で。
死ぬ――
「――うぅ」
……低い呻き声と共に、黒い影が消えた。
何が起きたんだ?
疑問が浮かぶと同時に、周囲から短い悲鳴が次々に聞こえてきた。
誰かが……誰かが黒い奴らと戦ってるのか?
次々に倒れていく刺客達に、マーカスやフィリップ、アレンも同じように動揺していた。
闇夜に靡く髪が、焚き火で赤く輝いた。縦横無尽に駆け巡るそいつに、刺客達は剣を構える暇も与えられないまま倒れていく。奴らも現状が理解できていないようだ。闇に紛れて殺しに来た奴らは、予想外の襲撃者に混乱し、対応が何段階も遅れている。
奴らがその襲撃者と本当の意味で交戦を始めた時には、既に数が半分以下に減っていた。
交戦と言っても、明らかに一方的なものだった。
一合。剣を交わしたかと思うと、黒装束の男は既に事切れている。
圧倒的だ。その圧倒的強さに、俺はこの上ない安心感を覚えた。そうだ、そうだよな。お前はいつだって……。
全てが終わったとき、場に静寂が降りた。そいつは折れた剣を放り投げると、疲れたようにトボトボとこちらに歩いてきた。
「おい! グレイスに近づくな!」
吼えるマーカスを、俺は手で制した。
「どうして、ここに……?」
ちょっと伸びた赤みがかった茶髪は大分汚れていて、良く見ると服もボロボロで靴を履いていない。顔もやつれていて、覇気が無い。疲れきっているのが丸分かりだ。
それでも、それを隠そうとしているのか、笑顔を貼り付けている。
「グレイス、お怪我はありませんか?」
「……ヤン」
俺は今、恐らくこれ異常ないほどの間抜け面を晒していることだろう。それも仕方の無いことだ。俺の理解の範疇を超えたことが、次々に起こっている。
こんな夜遅く――いや、東の空が白んできているから、もう朝方なのだろう――に襲撃され、気付いた時にはイーサンやミアが殺され、そして今度は俺が奴らの手に掛かろうとした時に、遠い故郷に居るはずのヤンが瞬く間に全ての襲撃者を制圧してしまった。
「お、お前、どうしてここに居るんだ? 村に居るんじゃ……、というかこいつら何なんだ。こいつら、俺を殺そうと……そうだミア先輩も殺したんだ。イーサン先輩も。俺が、起きたらもう、何が何だか」
感情の整理がつかず、とにかく俺は何かを口に出そうと試みた。しかし、出てくるのは支離滅裂な言葉だけだ。
「グレイス、とにかくここを離れましょう。ここは危険です」
「待て」
ヤンが俺を手を引くと、その腕をまたマーカスが掴んだ。
「お前は何者だ」
「ヤン・レンバッハ、グレイスの護衛です」
「お前が?」
真偽を確かめるようにこっちへ視線を向けたので、俺は頷いてみせた。するとマーカスは、ヤンの顔をしばらく見つめると、掴んでいた手を離した。
「悪いがグレイスは連れて行かせられない。まだこいつらの仲間が潜んでいるかもしれないし、私達と一緒に居たほうが安全だ」
「お言葉ですが、貴方達が居ても俺の邪魔になるだけです。俺はこのままグレイスを連れて帰る。異論は無いでしょう?」
ヤンの辛辣なもの言いに、アレンが「貴様無礼にも程がある!」と怒り狂っていたが、マーカスがすぐになだめた。
「しかし、規則だ。林間学校の間はいかなる場合でも班行動を厳守。まだグレイスは私の班の班員だ。学校行事内においては、学外の人間であろうと規則に従って貰う 。これは王によって指名された生徒会長である私の命令であり、よってこれは王の命令だ」
「……俺の王じゃない」
「何だと?」
何故ヤンがこんな態度を取るのか、俺にも良く分からなかった。ヤンは確かな敵意をマーカスに――いや、この場に居る三人に向けていた。
アレンは今にもヤンに飛び掛りそうな怒気を発していたが、意外にもマーカスは冷静で、激高したりはしなかった。
「……君が協力する、しないに関わらず、グレイスは我々と共に行動することになっている。そうだなグレイス」
「え? ああ、はい」
戸惑ったまま俺は頷いた。ヤンは怪訝な顔をして、俺を見る。
「ヤン、言うとおりにしろ」
「グレイスがそういうのであれば従います。ただ、あの三人のうち誰か一人でも不振な動きをしたら、容赦なく斬ります」
「何でお前はそんな物騒になったんだ? 前はそんなんじゃなかっただろ」
「状況が違います。出来ればグレイスも、俺の言うとおりにしてもらいたいんですけどね」
「お前は知らないだろうけど、あの三人はこの国の偉い人達なんだぞ」
「俺が居なかったらそいつらも死んでた」
「とにかく、ここで班行動していた方が俺的に都合が良い。ただでさえ何が何だか分からないんだ。人が二人も死んでる。あー、お前が殺したのも含めればもっとだ。あの三人と一緒に居ないと、どうすればいいか分からない。というか、お前はどこへ連れて行くつもりだったの?」
ヤンが俺の後ろに居る三人を睨んだ。
「……いえ、俺と二人で行かないのであればいいです。ただ、これからは常に俺が傍についてます」
「はあ?」
「このようなことが今後起きないとは限りませんから。とにかく早くここを離れましょう」
一緒に行動することに決まったうまを、マーカスに伝えると、早速ベースキャンプに至急戻ることに決まった。荷物やテントはそのままだ。ミアとイーサンを、黒い奴らと一緒にここに置いていくのは、どうも心苦しかった。
出発する時、もう一度二人を見た。
ミアが這ってイーサンの身体に必死に手を伸ばしているのに、その時初めて気付いた。
最後の瞬間、愛する人に触れようとする彼女の願いは、ついぞその直前で命と一緒に潰えてしまった。
***
帰りの馬車の中で、俺の隣でサヴァナはずっと泣いていた。行きではあんなに喋っていたマーカスも、今は黙って厳しい表情をしている。
行きの馬車から、二人減って、一人増えた。馬車の外には王都から来た騎士達が大勢ついているが、人数だけでは分からない何かがこの班から消え去ってしまっているようだ。
久しぶりに会ったヤンは、どこか顔つきが変わっているように見える。髪が伸びたせいか、疲れているのが原因か……いや前もどこかでこんな顔をしていたかも知れない。
「ヤン、大丈夫か? 疲れてんだろ?」
「ん、いや大丈夫ですよ」
「寝ても良いんだぞ。騎士の人達だって居るし」
「……信用できません。起きてます」
「むっ……」
まったく、こいつは。こっちが親切で言ってやってんのに。
「いいから寝てろ」
「でも」
「でももへちまもねぇよ。寝ろったら寝ろ」
「そう、ですか。じゃあ、お言葉に、甘えて……」
よほど疲れていたのか、ヤンはすぐに寝息を立てた。馬車がどれだけ揺れても起きる気配が無い
ずっと走ってきたって言ってたけど、行きの馬車でアレンが言っていた追跡者って、もしかしてヤンの事だったのかな。そうだとしたら、とてつもない距離を走ってきたことになる。
そんな身体で黒い奴らと戦ってくれたんだ、疲れないほうがおかしい。
「――レンバッハ」
「え?」
サヴァナが涙交じりの声でボソっと呟いた。泣きはらした目で、ヤンの事を見ている。
「どうしたの?」
「どこかで聞いたことあったの」
「ヤンのこと?」
サヴァナは小さく頷くと、涙を全部搾り出すように、目を力いっぱい閉じて自分のハンカチを押し当てた。そしていつになく真剣な眼差しで俺を見た。
「いつか言ったよね、私のパパ、共和国側で傭兵していたの。五年前だけじゃなくて、そのずっと前から何度かね」
「ああ」
「うちの傭兵団は、色々な傭兵達を集めて仕事してた。その中に居たのよ、レンバッハっていう家が。必ず共和国に呼ばれた時だけ、一緒に仕事してた」
「……どういうこと?」
サヴァナは言いにくそうに唇をかみ締めると、意を決したように俺の目を見て言った。
「だから彼は、共和国の人間だって事」
「……はは、そんなの……だって……ありえない」
「言い切れないじゃない」
「俺は十年こいつと一緒に居る。俺の親友だ」
「私は、彼と会った事がある。小さい頃だったから、彼は多分覚えてないと思うけど、パパがいつも話してたから私は覚えてた。
杞憂かも、共和国とは関係ないかもしれない。私が混乱してて、神経質になってるだけかも。でも、彼は何であのちょうどタイミングで来たの? まるで、今回の襲撃を分かっていたみたい」
「それは……」
ヤンから聞いていなかった。どうしてヤンが駆けつけて来られたのか、どうして馬車をつけていたのか。まだ説明されていない。
サヴァナはヤンを一瞥すると、声を一段と潜めて言った。
「本当に、私の勘違いかもしれないのよ。警戒しなさいとは言わない。でも、彼が共和国に居たっていうことは覚えておいて」
「……っ」
その会話が聞こえていたのかは分からないが、アレンとマーカス、フィリップもヤンに視線を向けていた。警戒されているのか……。
「大丈夫」俺はサヴァナに向かって言った。「ヤンは、そんな奴じゃない。俺が一番良く知ってるんだ。それに、もしこいつが変な事しようとしたら、俺が止めさせるよ」
「……そっか」
深い寝息を立てるヤンを見た。こいつが共和国の人間だなんて、信じられない。ヤンは、ずっと俺と一緒に居た。こいつが嘘がつけない真面目な奴で、クールぶってても熱い奴で、本当は泣き虫だってことも知ってる。大丈夫だ。何かあれば、直接聞くさ。
この時、事態は急速に動き始めたことに、俺はまだ気付いていなかった。
ここで一応、第二章は終わりの予定です。
だいぶ駆け足で進めてしまったので、読者の皆様を置いて行ってしまってないか、とても心配です。もしそうだったとしたら、本当にごめんなさい。
でも、物語を終わらせる上で必要な最低限の要素は盛り込めたと思ってます。
これからはのんびりと自分の書きたいこと――特にグレイスとそれを取り巻く男達の関係について、書いていきたいと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。