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【ジャンの大森林】。王都より北東に位置し、国の二割を占める広大な森林。標高千メートルに満たない山々が連なり、深い森を形成している。
ここディーヴァ王国の中では「森」というのはその場所を指す。古くから国内で林業の主要な森林として重宝されてきた。今では林業だけでなく、国の大事な観光資源にもなっている。
森林の周りには林業を生業としている村がいくつか存在しており、その村の住人が森林の一部を観光スポットとして整備している。
だがそれも広大な森のほんの一部にすぎず、大部分がまだ人があまり踏み入られていない場所だ。
森林というのは元来、魔力的に不安定な場所だ。天候もコロコロと変わり、絶えず魔物達の食物連鎖が続いている。深くまで踏み入れば、その道のプロでも命を落としかねない、危険な場所だ。
そんな危険なところへ、学生と数人の引率教師だけで遠征中というのだからどうかしている。
「と言っても、この林間学校も別にそこまで森の深くまで行くわけじゃない」
隣で俺と一緒に馬車に揺られているマーカスが、こちらに微笑みながら話ていた。
「麓の村にベースキャンプを置かせてもらって、そこから班に分かれて森に入り、森の中で一泊する。自分達で食料を調達し、火を起こし、寝床を作る。自然の中で生活することで、健康的な自立した人間に近づくというのがこの林間学校の目的だ。
生徒会が主導になって毎年行ってる。引率の教師は最小限。あくまでも求められるのは、生徒達の自発的な行動ということだ。自分から動かないと、食べることも寝ることも出来ない。獣が出るなどの危険はないが、都会暮らしの貴族の子供達には過酷だろうな」
マーカスが話好きな人なんだろうな、というのは分かった。学園を発ってから随分経つが、ずっと喋りっぱなしだ。最初こそ相槌を打って聞いていたが、次第にそれも億劫になり、今はただ右から左へ聞き流すだけになった。
馬車に乗っている班の皆にどうにか助けを求めようと見渡すが、サヴァナはさきほどから酔ってしまって今は寝ているし、フィリップは俺が困っているのを承知でニコニコとこちらを見ていて一向に助けてくれる気配は無い。
アレンと他二人の三回生の先輩は、馬車の外に目を向けている。明らかに兵といった雰囲気だ。とても都会暮らしの貴族には見えない。
「まあ、この班ならば、多少森の奥に入っても大丈夫だろう。アレンとその二人は、並みの騎士よりずっと頼りになるからな。私が直々に選出した精鋭中の精鋭だ」
あの先輩方は単なるマーカスのボディガードって訳だ。
この班は一回生が俺とサヴァナの二人、二回生が生徒会の三人、三回生が二人の七人で構成されている。三回生の先輩の一人は、アレンにも負けないくらいの巨躯を持った大男だ。十七、八の青年とは思えないほど老け込んでいる。ヤンの父親であるレオと同世代と言われても納得できるな。
もう一人は女子生徒だった。女にしては比較的長身の俺よりも背が高く、筋肉質で無駄な肉がついていない。馬車の後方で外を眺めている後姿は、まるでハンターのような凄みがある。
マーカスの言葉が耳に入ったのか、その女子生徒がこちらを振り返った。
「そうですよ! 熊でも狼でも、私が一発で倒しちゃいますから!」
先ほどの剣呑な雰囲気とは一変、彼女はぱあっと華やぐような笑顔を見せた。
「ああ、ミア。頼りにしてる」
「お任せください、マーカス様! グレイスちゃんも、私がついてるから何も心配ないからね!」
「え、は、はい。よろしくお願いします……」
ミアは俺にニコリと笑いかけると、また自分の仕事に戻った。
「彼女は学園で騎士になる訓練を積んでいる唯一の女だ。女が騎士になるには、由緒正しい血統であることはもちろんの事、男以上に優秀である必要がある。歴代でも女性が騎士になったのは両手で数えるほどしかいない。剣の腕ならアレンにも引けを取らないぞ。もちろん、魔法やその他の武器なら違うが」
アレンと同等の実力……悔しい。俺も剣術とか体術やりたい! ダンスに歌に、女の子みたいな授業はもう飽きた。彼女がやっているなら、俺も出来るはずだ。
「私もミア先輩と同じく、騎士の訓練をしたいです」
「……ははっ、無理に決まっているだろう!」
「で、でも」
「ミアは生まれたときから訓練されているんだ。騎士の訓練というのは、お前が今更どうこうできるものじゃない。それに、ミアが男子生徒と一緒に訓練しているのは特例なんだ。全員が彼女のように訓練できるわけじゃない」
マーカスは無遠慮に笑っている。
癪に障るが、言ってることは尤もだ。今更訓練したところで、アレンやヤンのように強くなれる訳は無いだろう。
だが、どうも踊りとか音楽とかは性に合わない。故郷でも歌ったり踊ったりは収穫祭の時だけだ。あんな上品で窮屈な踊りは知らん。
「イーサンもそうだ。生まれたときから訓練されてきた、生粋の戦士」
ミアの向かい側に座っている男を指し、マーカスは得意げに言った。
「彼は人間と獣人との混血だが、見込みがあると思って近衛に引き込んだ。基本無口だが、良い奴だ。王都には女や獣人は俺の傍に置くのに相応しくないとかつまらん事を言う奴も居るが、俺は使えそうで信頼の置ける者を評価しているだけ。そもそも性別や人種で人選するのはナンセンスだ。そう思わないか? 現に彼らは、俺の期待以上の働きをしてる」
「……ええ、素敵ですね」
「そ、そうか?」
素直に口から出た。
一ヶ月近くを学園で過ごせば嫌でも分かる。どれだけマーカスという人間が尊敬され、頼りにされているか。それは王子という肩書きだけでなく、彼のひとえに彼の人柄によるものが大きいのだろう。
差別をせず、能力で人を判断する彼の人柄は、確かにリーダーに相応しいものなんだと思う。
俺の口からポロリと出た言葉に、マーカスは頬を赤らめ、目を泳がせていた。
マーカスが俺の何を好きになったのか、正直言って全く分からないが、こういう反応は女性側から見ると笑える。
「マーカス!」
馬車の後方から、アレンのイラついた声が聞こえてきた。
「イチャイチャすんのは良いけどよ、もっと気にしなきゃなんねぇ事あんだろ」
「どうしたアレン、何かあったか」
「……つけられてる、少し前からだ」
「本当か? 後から来る参加生徒の団体じゃないのか?」
「おいおい」
アレンの呆れた声を引き継いだのは、先ほどからこちらを見てニヤニヤしていたフィリップだった。
「本当に気付いてないの? マーカスってば、そういうとこ抜けてる」
「何だと」
「僕たちはベースキャンプの下見の為に他の班よりだいぶ先に出てるんだよ? 追いつけるわけ無いでしょ。それに、大勢の馬車の音なんて聞こえないよ」
「じゃあ、誰なんだ。アレン」
「はっ! それが分かったら苦労しねぇよ。分かってんのは相手が一人もしくは少数で、馬にも乗らずに走ってこの馬車についてきてる、熱烈な追跡者さんだってこと。まあ、さっきから女とイチャついてる我らが王子様には、それすら分かんなかった様だが?」
「っ……!」
挑発じみた発言に、マーカスは息を詰まらせた。悔しそうに顔を真っ赤にさせている。フィリップはそんな様子を見て、またクスクスと声を押し殺して笑う。
すると、優しげな表情でミアがこちらを見て言った。
「大丈夫です。あちらに馬などの足は無さそうですし……ほら、だんだん遠のいていきます。流石に馬車にずっとついてくるのは無理です。それに、もし仮にあちらが何かしてきても、私もイーサンも居ますから、マーカス様をどうこうさせはしません。どうぞ、グレイスちゃんとお話しててください」
「な、ミアまで」
「……ふふっ」
「え」
マーカスのどぎまぎしている様子に、思わず吹き出してしまった。
マーカスが不思議そうにこちらを見ている。
「っくふ……ごめん、面白くって……はははっ」
「おい、笑ってる場合じゃねぇんだぞ」
「でも、先輩達が守ってくれるんですよね?」
「あ?」
俺はアレン、ミア、イーサンを順番に見て言った。
「マーカス様は先輩達が護衛についてくれてるから、こうやって私なんかと話せるんです。だから、私も安心して笑っていられます」
「うん! そう! グレイスちゃんは良い事言った! マーカス様が気を煩わせる必要なんて無いんですよ。私達が必ず守るんですから」
「だが、緊張感を持たなくて良い理由にはなんねぇだろ。林間学校の目的忘れてんじゃねぇぞ」
「悔しいがアレンの言うとおりだ、グレイス。確かに彼らは優秀だが、その上に胡坐をかいているようじゃ主として失格だ。これからは常に緊張感を持つことにするよ」
そこからは、マーカスが必要以上に話しかけてくることは無かった。まあ、常にそわそわして落ち着きが無く、何度もこちらをチラチラと見ているけど。
こうしてマーカスの長話から開放された俺だが、そうなると先ほどの謎の追跡者が気になって仕方ない。
やっぱり共和国側の殺し屋なのだろうか。真相は分からないが、明らかに場車内の緊張感が増したのは確かだ。
【ジャンの大森林】に着いたのは、それからまもなくの事だった。
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