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その後、俺は案の定授業に遅れこっぴどく叱られることになった。サヴァナもフォローしようとしてくれたが、流石にこれいじょう彼女に迷惑はかけられないので、不本意ながら甘んじて説教を受けることにした。
当然説教だけで終わることは無く、放課後ダンスホールの準備室で一人文を書かされる事になった。薄暗い部屋で一人、羽ペンを持って机の真っ白い紙に向かっている。
しかし一向に筆が進まなかった。
理由は分かりきっている。反省文を書かなければならない状況で、俺の頭はマーカスの事に集中していた。
マーカスの話した内容は極普通のもので、理解できなくも無いものだ。林間学校への誘い。何故あの時あの場所で、と疑問はあるが、生徒会長として話す内容としてはなんら不思議は無い。
ただ引っかかるのは、奴のあの態度だ。以前話した時は、自信に満ち溢れてハキハキした喋り方だった。上の人間という自覚を、良い意味で持った男。好感が持てた。
しかし先日の彼は、オロオロとどもりながら冷や汗をかき、目を合わせずに話していて、王子様という雰囲気がまるで無い。ただただ極普通の十六の少年だ。
俺はああいう態度に、実は心当たりがあった。おそらく、俺が前世の記憶が無く、完全に女だったら分からなかったら、この仮説に思い当たることはなかっただろう。
そう、多分だが奴はこの俺、グレイス・ブライアーズに少なからず好意を寄せている。
何故か、いつからかは、俺にも分からない。ただ、そうだという確信めいたものは俺の中にあった。
ぶっちゃけ分かりやすい。
マーカスと顔を合わせたのは四度目だ。入学式の時、食堂の一件、その後の謝罪、そしてさっき廊下でぶつかった時。三度目に顔を合わせた謝罪の時は、特におかしいことはなかった。これまで見てきた、マーカス皇太子そのまま。
そこから数日の間に、どんな心境の変化があったというのか。思い当たる節は無い。俺とマーカスの間には、ほとんど接点が無い。学年も違えば立場も違う。最後に会ってから数日経過していて、その間は間接的にも接触していなかった。
はっきり言ってしまえば、俺にはマーカスに惚れられる謂れは無いのだ。
なので心底気色が悪い。ほとんど会わず、話もしてない男に、いきなり好意を示されればそれは当然だ。
杞憂であればとも思うが、俺の前世の記憶がそれを否定した。男なら分かる。好きな相手にドギマギしてしまう、思春期の少年の心情とその態度。俺には経験があった。
相手の気持ちは分かっても、理由が分からない。もやもやとした疑問が胸の内側に張り付く。
ふと気が付くと、反省文を書くべき紙に、いつの間にかマーカスの名前を書いていた。自分が書いたその下手な字を、トントンと羽ペンで突っつく。
理由はともかく、こいつは俺のことが好きなんだよな。
様々な疑問が頭の中をぐるぐると廻っているが、一つ確かなのがそのことだ。勘違いでも自惚れでも無く、それだけははっきりと分かる。
何故あいつは俺が好きなのか。いくら考えても答えの出ないその疑問にすっかり気を取られ、反省文が完成した時には外に真っ暗な夜が落ちていた。
翌朝、俺は昨日あったことをサヴァナに話した。念のため、マーカスは俺に気があるんじゃないか、というのは伏せておいた。言っても信じないだろうし、女の子には分からないニュアンスなはずだ。
「ふーん、林間学校ねえ。話には聞いてたけど」
「俺がダンスホールに居残りしてたとき、クラスに通知来たんじゃないのか?」
「ううん、来てないわ。でも、確かに毎年この時期になると、高等部の人達が遠征に行ってたから、今年もやるとは思うけど」
「……今日通知が行くって言ってたけどな」
「あっ、そうだ。そういえばちょっと前にね、林間学校が中止になるかも、っていう噂を聞いたの」
「え? どうして」
「それが……」
サヴァナはこちらに顔を近づけ、声を潜めて言った。
「前に、共和国側との緊張が高まってるって言ったでしょ?」
「あー、五年前の紛争の事」
「そう。それが一端でね、外交上の溝が深くなっちゃって、実は今凄く緊迫した状況なのよ。パパが言うには、戦争もそれほど遠くないんじゃないかって」
「それは何と言うか……まずいんじゃ」
「うん。まだ具体的な衝突は無くて、国民には伝えられてないんだけど、薄々皆気が付いてるんじゃないかな。何だかキナ臭いって」
「でも、それと林間学校に何の関係があるんだ?」
「それがね、ちょっと前にパパと他の騎士の人が話してるのを聞いたのよ。マーカス様の命が狙われてるかもって」
「なんだって!?」
つい大きな声を出してしまった。
マーカスの命が狙われている、まるで現実味が無い。いや、一国の皇太子なのだから、良くない思いを持った者に狙われるのも当然なのかもしれないが、生まれてこのかた「人間」によって命の危機にさらされたことのない俺にとっては、実感がわかなかった。
「進学するちょっと前に、結構噂になったの。今でも度々話に上がるわ。林間学校で行く場所って、ここより東の共和国との国境に近い場所なのよ。だから、それが解決するまでは林間学校はやらないんじゃないかって」
それは仕方の無いことだろう。一国の主になる人を危険に晒してまでやらなきゃいけないような行事ではないはずだ。
しかし、もし林間学校が行われないのなら、マーカスが俺を誘うはずがない。その噂は杞憂で、例年通り林間学校は行われるということか。
それを確証付ける知らせが、ドアを叩いてやってきた。
「サヴァナ! 居る?」
声の主は、そう言うや否やいきなりドアを勢い良く開いた。
恐らく同じクラスの女子生徒だろうが、はっきりと思い出せない。しかし見たことはあるので、サヴァナの友人であることは確かだろう。
「どうしたの、騒々しい」
「林間学校やるって!」
「え!?」
「中庭の掲示板に張り出されてたのよ! 明日に全クラスに通知が来るって」
俺とサヴァナは顔を見合わせた。
***
アレンは学園内のテラスがある一室に、親友の二人と一緒に居た。
マーカス、フィリップ、そしてアレン。生徒会のメンバーは実質この三人である。生徒会本部であるこの部屋も、ほとんどこの三人が占領している。個人的な私物を持ち込み、生活しやすいような空間に――主にアレンとフィリップが――仕上げた。
生徒会長であるマーカスは、怠惰に過ごしてはいかん、と二人に度々注意をするが、当のマーカスだってここを私用で使うこともあるのだ。お互い様である。
しかし、そんな優雅な三人のユートピアが、今は重苦しい空気で満たされている。
その空気の発生源は他でもないアレンだ。
「今なんて言った、マーカス?」
怒気を隠しもせずに、アレンはマーカスに言った。
当のマーカスはアレンの怒気など意にも介さず、ソファに座って書類を纏めている。そんなマーカスの態度が、またアレンの神経を逆撫でた。
「言葉の通りの意味だ。遠征は例年通りに行う」
耳を疑った。二度目だ。
「お前、お前の置かれている状況を分かって言ってんか?」
「もちろん」
「だったら何も、今やらなくても良いだろう。今年は見送っても問題ないはずだ」
「情勢は日々悪化してる。次の年に無事開催できる保障は無い」
「何でそこまでこだわる必要がある?」
「もうグレイスを誘ってしまった」
耳を疑った。三度目だ。
我が親友は何と言ったか? 女を誘ってしまったんだから、開催しないわけにはいかないってことか?
自分の頭に血が上っていくのが感じ取れた。
「馬鹿!」
「ば、馬鹿とは何だ。不敬だぞ!」
「どこの馬の骨とも分からねぇ女のために、命を危険に晒す馬鹿に馬鹿と言って何が悪い!」
突然の罵倒に目を丸くしているフィリップを、アレンは容赦なく睨みつけた。
「あの女にそんな価値ない。田舎の男爵家の娘だぞ」
「それはアレン、お前が決めることじゃない」
「なんでいきなり。あれのどこが良いって言うんだ?」
グレイス・ブライアーズ。アレンはその女について思い浮かべた。弱いくせに一度自分に食って掛かってきた女。会ったのはその一回だが、噂は二回生のアレンのところへも届いていた。騎士団長の息子であるアレンの名も知らないような、世間知らず過ぎる男爵家令嬢。田舎者とは言え、男爵家の令嬢なのだから一定の教養はあっていいようなものだが、座学や礼儀作法に関しては高等部から入った市民の娘よりも劣るらしい。そんな奴がこの学園に入ることが出来たのが、まず不思議だ。
それより不思議なのは、あの女とも言えない奴に、親友であるマーカスが惚れているという事だ。
そんな素振り、つい最近まで一つも見せてなかった。それなのに、今はグレイス・ブライアーズのために、林間学校を行うとまで言い出してる。マーカスの中でどんな心境の変化があったのか。
もしかして、あのグレイス・ブライアーズという女は……。
「おい、その女。共和国側の手先じゃないのか」
「何!?」
マーカスの中で何かが一瞬で溢れかえったように見えた。急激に顔を真っ赤にさせて、アレンを睨んでいる。
「違うと言い切れんのか? ブライアーズ男爵家に、娘が居ることすらほとんどの人間が知らなかったんだぞ?」
そう、それこそアレンが最も危惧する事だった。
狭いこの国の社交界、誰がどこの家の者かなんて、アレンやフィリップほどの人間であればほとんど知っている。
しかし、グレイス・ブライアーズがこの学園に入学してくるまで、誰もその存在を知らなかった。確かにブライアーズ家は表に顔を出さないことで有名だったが、それでもその娘の存在が知られていないなんて事があるはずがない。
どうもキナ臭くてならない、とアレンは思っていた。
「……あの女の存在を知っていて、後ろ盾になっているのはアップルガースらしい。そのアップルガース卿は出張と言って国外に居る。おかしいとは思わねぇのか? あの女、絶対に裏があるに決まって――」
「――そこまで」
俺が睨んでいたのとは別の方向からストップが入った。
フィリップだ。
「アレン、少し頭冷やしなよ」
フィリップは暢気な口調でそう言うと、おもむろに立ち上がってマーカスの横に立ち、その肩に手を乗せた。
「マーカスも、落ち着いてって」
今気がついた。自分が話すのに夢中になりすぎて、マーカスの反応を見ていなかった。
マーカスは拳を真っ白になるほど握り締め、射殺さんばかりにアレンを睨んでいた。
意図せずゴクリと喉が鳴る。
殺される、ところだった……?
「アレンは別に、端から彼女が憎くて言ってる訳じゃないんだ。お前を心配して言ってるんだよ、だろ?」
「あ、ああ」
フィリップの問いかけに、上ずった返事しか出来なかった。
ここまで萎縮したのはいつ振りか。マーカスが放つあまりの殺気に、身が竦んで動けない。マーカスがあんな顔をしているのを見たのは、初めてだった。
「次、彼女を侮辱してみろ」
マーカスが、ゆっくりと口を開く
底冷えするような、冷たい声だった。
「お前でも、どうするか分からないぞ」
フィリップとアレンが、同時に息を呑む。
本気だ。付き合いの長い二人には、マーカスがそれを本気で口にしていることが分かった。
「……分かった。もう言わない。……ただ、これだけは言わせてくれ」
それだけは、毅然と言わねばならない。アレンはマーカスの鋭い眼光を真っ直ぐ見つめた。
「お前の命を狙っている者が居る事は忘れるなよ。遠征中に仕掛けてくるかもしれない。彼女と一緒に居るのは結構だが、命あっての物種だ。お前に危害を加えようとする奴がいたら、俺は誰であろうと叩き斬るからな」
「……ああ」
マーカスはそれだけ返すと、再び書類を手に取って、何やら分からない作業をし始めた。
グレイス・ブライアーズ。親友であり、主であるマーカスを、短期間でここまで本気にさせた女。ああは言ったが、無論奴への警戒を怠るつもりは無い。
実を言えば、マーカスは呪いで洗脳をうけているのかもしれない、とアレンは考えていた。そうでもなければ、マーカスのおかしな言動に説明がつかない。
確かめる術は自分には無い。だが、あの女が少しでも変な行動があれば、すぐにでも息の根を止めてやる。
(どうも悪い予感がする。もし、仕掛けてくるとしたら、遠征中。これまで以上の警戒が必要だろうな)
アレンは腰に吊るされた剣を鳴らした。
そんな悪い予感というのは、得てして的中してしまうものだ。