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入学式から数日が経って、食堂の一件で多少浮いていた俺も、少しずつこの学園の空気に慣れてきた。
ただ、まだ周囲の空気は重い。サヴァナ以外で俺に話しかけてくる人は、極僅かだ。
あの一件のすぐ後に、マーカスが一度部屋に謝罪の手紙を、菓子折りと共に持ってきたが、別に気にしてはいないと言っておいた。あれ以来、生徒会の三人とは会っていない。アレクにはもう一度再戦を申し込みたいと思っている。
しかし、そのためにはまず魔法を学ぶのが必至だ。
敵を知り、己を知れば百戦危うからず。
戦闘のたも魔法を知っていれば、もうあのような醜態を晒すことは無い……はず。
「今日の一時限目は何だっけ?」
朝、俺は部屋でローブに着替えながら、教科書を整理しているサヴァナに尋ねた。
「魔術学よ。アップルガース教授の」
「ああ、そっか。アップルガース子爵は魔術学の教師だったんだ」
「ええ、グレイスは初めてよね」
「うん」
手紙で何度もやりとりをしていたが、会うのは初めてだ。入学してからのこの数日も、一度も姿を見ていない。
ついに魔術学の授業か。やっとだ。
今までは国語とか数学とかの基本的な座学と、社交マナーの授業しかなく、退屈極まりなかった。しかも驚くべきことに、一部では男女で必修科目が違うらしい。男が剣術や戦闘技能を学ぶ一方、女は音楽や踊りをやるのだとサヴァナに聞いた。
これではアレンに差を付けられる一方だ。何とか戦闘術の教師に、授業へ参加させてほしいと懇願したが、女は駄目だの一点張りだった。
つまり、あいつと少しでも差を縮めるには、もう男女共に必須科目である魔術学しかないということだ。
俺はいつもより軽い足取りで、サヴァナと共に教室へ向かった。
「グレイス、何か嬉しそうね」
「そりゃそうだよ。ついに俺も魔法が使えるようになるんだ」
「でも、今日の授業は魔術学で、魔法学じゃないわよ?」
「え? 違うの?」
サヴァナは一瞬キョトンとしたかと思うと、顎に手を当てて首を傾げた。
「うーん、違うんだけど……どう違うんだっけ?」
「何だそれ」
「とにかく、ちょっと違うのよ。分かんないけど」
詳しいことは授業で聞けば良いじゃない。と、尤も意見を言われれば、引き下がらざるを得ない。
二人掛けの横長の椅子に座り、分厚い教科書を取り出す。表紙には近代魔術学と書かれ、その横にダリル・アップルガース著とある。アップルガース子爵の著作らしい。
パラパラと捲って斜め読みしてみるが、何やら怪しげな魔法陣が描かれ、やたら難しい言葉で説明がなされている。一通り読み書きは習ったが、やはり高等教育に使われる文法は難解だ。俺の識字能力はせいぜい子供に読み聞かせる童話を読める程度で、専門科目の言葉となると時間をかけて辞書を使わないと読めない。
教科書を読むのを早々に諦め、グルグル魔法陣を眺めていると、教室の扉が開く音がした。
生徒全員が椅子と姿勢を直す。
ドアから入ってきたのは、ヒョロっとした長身で痩せぎすの男だった。頬がこけ、目は落ち窪んでいる。顔つきは若いような気もするが、白髪交じりの頭髪と、若干の猫背からくる暗い雰囲気に、五十にも六十にも見える。
男は入るや否や、教室に居る一人ひとりを睨め付けた。粘着質な視線だ。俺は思わず目を逸らしてしまった。
生徒のほとんどが困惑したような表情をしている。何かイレギュラーなことが起きているらしかった。
サヴァナに何事か聞こうとしたと同時に、男は第一声を発した。
「おはよう。俺はジェイラス・モーペス。呪術学を教えている」
暗い雰囲気とは全く似合わず、意外と若々しい声だ。
モーペスの声に、教室内はにわかにざわついた。呪術学とはどういうことだろう。確か魔術学の授業のはずだが。
モーペスは教壇に立つと、すぐに訳を教えてくれた。
「今日お前達に魔術学を教えるはずだったアップルガース教授だが、急な出張が入ってしまったため、この一年の授業スケジュールを変更して、魔術学の代わりに呪術学を先行して教えることになった」
アップルガース子爵が出張? どこに……いや、それより何でこんな時期に?
生徒の一人が手を上げながら立ち上がった。
「一回生の授業を全部変えたんですか?」
「ああ。基礎魔術学の代わりに、二回生で教えるはずだった呪術学をやる。魔術学は二回生になってから、応用魔術と平行して教えることになった」
ざわつきがいっそう大きくなった。
別の生徒からも声が上がる。
「アップルガース先生は一年間も出張に行くんですか?」
「そうだ」
「応用魔術と平行して教えるってどういうことですか」
「言った通りだ。基礎を学びながら、応用もやる」
そんなん出来るのかよ。教室の戸惑いやざわつきは収まらない。
戸惑いはやがて憤りへと変化し、ついにはモーペスへの野次になっていった。
モーペスは収まるまで待っているつもりだったのか、しばらく黙って教室の様子を観察していたが、ついに手持ちの短い杖で黒板を強く叩き、強制的に静まらせた。
「俺だって嫌だよ」
若干の沈黙の後、ため息をついてうんざりするように言った。
「例年通り二回生にも教えなきゃいけないの、一回生まで受け持つハメになったんだ。単純に仕事が二倍になったんだからな。お前らは俺に感謝すべきなんだ」
そう言われると何も言えない。俺たちは皆黙りこくった。
「まだ呪術学の教科書持ってる奴も少ないだろうし、持ってても今日は持って来てないだろうから、そうだな……Q&A形式で進めるか。何か質問あるか? ん、どうだ?」
いきなりそんなこと言われても、と思ったが、俺にはちゃんと質問があるのを忘れていた。
意を決して、手を上げる。
「はい、じゃあお前。名前は?」
「グレイス・ブライアーズです」
「ブライアーズ……西のブライアーズ男爵家の子か? 娘さんが居たんだな」
「あー、最近よく言われます」
「質問は?」
「あの、呪術とか魔術とか魔法とかって、何が違うんですか?」
教室中からクスクスと笑いが起こる。
何か変なこと言っただろうか。俺は知らないこと、知りたいことを質問しただけだ。笑われるいわれは無い。
「笑ってる奴でミス・ブライアーズの疑問に答えられる者は?」
モーペスがそう言うと、笑い声は水を打ったように静まり返った。いい気味だ。やっぱりお前達だって分かってないんじゃないか。
「まあいいだろう。ブライアーズの疑問は尤もで、これから呪術や魔術を学ぶのに、しっかりと認識しないといけないことだ。いい質問だったぞ」
「あ、ありがとうございます」
「うん。では、解説していこう」
モーペスは我々に背を向け、杖で黒板に文字を書き始めた。彼が再びこちらに向き直ると、黒板には呪術と魔術、そして魔法と大きな文字で書いてあった。
「この三つは、似て非なるものだ。共通する部分はあるにせよ、起こせる事象や条件が違ってくる」
そう言うと、彼は魔術と魔法を、大きな丸で囲んだ。
「魔術と魔法は、必ず発動に魔力を用いるという点が共通している。まあ、俺は呪術学の教師だからその二つは専門外だが、簡潔に説明すると、魔法は自己で完結し魔術は周囲の環境を利用する。一長一短で、どちらが優れているかというのは一概には言えないが、昔は魔術のほうが高尚なものとされていたらしい。詳しい話は、来年アップルガース教授に聞いてくれ。
ここでは呪術とその二つの違いを説明しよう。大きな特徴としては、呪術も魔力を使う場合があるが、そうじゃない場合があるということだな。
呪術は太古の昔、魔法や魔術が今の形に完成される前から、社会のシステムとして組み込まれてきた。お前達がこの学園で学ぶ中でも、最も古い歴史を持つものの一つだ。人間がこの世に誕生する以前、ドラゴニュートが独自に生み出したものではないかと言われている。
ドラゴニュートから伝えられた呪術は当時、今で言う法律の役割を果たしていた。コミュニティの中で祈祷師と呼ばれる者が一人居て、その人物が社会の中心になっていた訳だ。今でも彼らのコミュニティでは、呪術は大きな役割を持っている。
例えば、誰かがその祈祷師に、物が盗まれたから盗んだ犯人を呪ってくれと頼む。すると祈祷師は犯人に呪いを掛け、犯人は大怪我をするか家畜が死ぬか……まあ大損害を蒙るわけだ。だから、呪われたくないから皆が悪さをしなくなる。こういう風に、呪術は大昔の人たちにとってとても重要な役割を担っていたんだ。エルフなどから魔法が伝えられるまで、呪術での政治は続いた」
ドラゴニュートにエルフか……まだ見たことは無いけど、たしか孤島とか山奥とか、偏狭の所に住んでる排他的な人達だったよな。いつか会えるかな。
そんな全く関係ないことを思っていると、俺の後ろの席の生徒が声を上げた。
「呪術って、魔力使わないでどうして出来るんですか。魔法と違って、何か胡散臭いです」
胡散臭い? 何が? 俺からしたら皆が当たり前のように使ってる、魔法とか魔術とかも十分胡散臭い。
しかし教室内から、ちらほらと彼に同意するような声が上がっていた。
「お前達の疑問も分からなくない。ただ、この世界にあるのは何も魔力だけじゃないんだ。その他の神秘的な力というのがあるのも事実だ。呪術は魔力のみならず、そういった別の力を用いて行う。その辺も含めて、これから一年間呪いや呪いについて勉強していこう。
今日はここらで終わりにしておこう。教科書を持ってないやつは、次までに用意しておけよ」
一方的にそう言い残し、モーペスは教室を去っていった。
アフリカの小さな村などでは、魔法とか呪いがまだ日常にあるらしいですね。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。