プロローグ
――死んだ。
これは紛れもなく死というものだろう。体の感覚がない、匂いも、暑さや寒さも、何も感じない。目の前に広がるのは暗闇だけ。いや、目の前というのも正しいか分からない、目がないのだから。
何も思い出せない。感じるのはただ死んだということだけ。
いや、待てよ。それでいいのか? ……思い出せ。俺が何者なのか、思い出せ。俺は誰だ? 小野寺翼。何故俺は死んだ? 車に轢かれたから――
その時、霧が晴れたように、なだれ込むように、パズルが組み上がるように、男は記憶を取り戻した。
「小野寺、今日みんなで飲みに行くんだけど、一緒に来ないか?」
「いや、明日までに仕上げなきゃいけないレポートがあるんだ。また今度な」
「そうか」
その日、男は高校時代からの友達の誘いを断り、家で締め切りギリギリまで手をつけなかったレポートを仕上げようと、帰路に着くつもりだった。何故か、レポートは大学でやるより自宅でやった方が捗る。まあ、あとは不備がないか確認するだけの、簡単な仕上げだったし、ちょうど見たいテレビ番組もあったので、早めに家に帰ろうとしていた。
その男、成績優秀というわけでもなく、運動神経抜群という訳でもなかった。クラスに二、三人いるだろう、中の下的なポジション。自分が入れる高校に行き、自分が入れる大学に行った。将来になんの希望も持たず、ただ漠然と、みんなと同じように学校に行って、みんなと同じように職に就く。そんな考えしかなかった。そんな自分になんの疑問も持たず、集団の中の一人としてやっていくつもりだった。
男が死んだのは、大学からの帰り道。電車を何本か乗り継ぎ、自宅の安アパートまであと数百メートルというところだった。突然俺が歩いていた左側のガードレールがひしゃげ、巨大な鉄の塊が
目前まで迫っているのが見え、俺の意識は暗転した。
今考えると、あれは紛れもなくトラックか何かだったのだろう。この世に生を受けて二十一年、長いようで、一般的に見れば短い一生だったな。男はしみじみと考えた。
「これは珍しい、生前の記憶があるなんて」
誰だ?
「私かい? 私は運命の神、フォルトゥムだ」
フォ、フォルトゥム? 神様? 君みたいな子供がか?
「ほう、君には私が子供に見えるのか」
何言ってる? 俺になんのようだ。
「いや、私はただ、君みたいな普通とは違うものに興味があっただけだよ。死んだはずなのに、君みたいに記憶がある奴は珍しいんだ」
……やっぱり死んだんだな。まあ、なんだか軽くなったみたいで、いい気分なのだが。
「君には体がないからね、魂としての質量があるだけだし、ここにはあらゆる力が働かない、なんの重さも感じないのは当然さ」
ここってなんなんだ? 死後の世界か何かだろうとは思うけど……。
「ふふ、そうだね。ここは君がいた次元と、あの世と呼ばれる次元の狭間にある」
狭間?
「そう、そして君がいた世界と、私の世界の狭間でもあるのさ」
それは……?
「ふふふ、やっぱり君は面白いね。君みたいのがいると、私の世界にいい刺激になるかもしれない」
な、なんだよ。少年は不意に右手を俺の方に向けてきた。
「大丈夫、君に新しい命を与えるだけさ」
新しい命? そんなことができるのか。
「ああ、ただ転生したとき、君は全くの別人となる。何もかもが違うだろう。あと、君は私の世界に行く事になる」
いや、え? もう決定なのか?
「うん、このまま消えるのは嫌だろう?」
……どうなんだろう。このまま消えるのもいいかも知れない。でも、まだ生前では何もやっていない気がする。それでいいか、と言われると、そんなことはないと思う。もう一度やり直せるとしたら、やり直して、今度は何かを成し遂げてから死んでみたい。
「じゃあ、いいね。私の世界では、君は何かを成し遂げることができるかも知れないよ。できることなら、人々を助けてやって欲しいと願う」
なあ、お前の世界って、どんな世界なんだ?
その答えは、小さな微笑みだけだった。