ピンポン・ダッシュにうってつけの家
それは普通の家だった。日本中にあるようなつくりの、日本中にあるような名字の表札がかかっている家だった。
これといって目を引く装飾があるわけでもなかった。かるたの絵札のような家だった。家を思い浮かべたときに頭にぷかりと浮かんでくるあれだ。
薄暗い場所にあったり、事件が頻発するような地域にあるわけでもなかった。日中はぼんやりと時間が過ぎていき、朝と夜の通勤時間にだけ人通りが増えた。
だがそれは、通りすがりの人から見れば、という話にすぎなかった。どんなことでもそうだけど、通りすがりの人には何一つ大切なことなんてわからない。その家には実は特別な引力があったのだ。
僕がその家(そしてその家に一人で住む二十五歳の女の子)のことを知ることになったのは大学生のときだった。それはまだ僕が二十代に鼻先を突っ込んで、くんくん匂いをかいでいるくらいのときだった。
チラシ投函のアルバイトをしていた僕は、ちょうどその家がある地域を受け持っていた。バイト自体はたいした時給ではなかったけれど、お金を貯めたかった僕は合間を見つけてそのアルバイトをやっていた。一体何にそこまでアルバイト代を使っていたのかに関してはまるで思い出せないけれど、とにかくそのアルバイトにはそこそこ若い時間を使ったのだった。(あの金と時間はどこに消えたのだろう?)
その家は静かな住宅街の一角にあった。最寄り駅からは離れていて人通りは多くはなかった。周りにあるのはコンビニとか公民館とか小さな鳥居のある神社くらいで、これといって人が集まるような施設がある場所ではなかった。
そういう落ち着いた雰囲気が僕は割と好きで、この家の周りにチラシを配るときは気が楽だった。
その日も僕はいつものようにチラシを配っては自転車を走らせていた。よく晴れた五月の午前中だった。屋根の上に真っ青に澄み渡った五月晴れの空があり、日差しはまだ暖かくて、新鮮な花の香りが穏やかな風に乗って通り過ぎていった。生きていればきっと良いことがあるに違いないと真心から信じてもいいようなムードの中で僕はチラシを配り回っていた。
僕は適当なところで自転車を脇に寄せて停めて、チラシの詰まったトート・バッグを肩から下げながら、各家庭のポストにチラシを投函していった。乗りながらいちいち停止するよりもこっちのほうがスムーズなのだ。
改めて書くことになるけれど、その日は本当に気持ちの良い日だった。
一年に一度あるかないかくらいの日だ。
だから僕は驚いた。角を曲がったときに、ある家の呼び鈴を大人の男が連打していたのだ。気持ちの良い日に相応しくない光景だ。
男は光沢のある紺色の背広を着ていた。背が高く、肩幅はがっしりとしていて、浅黒い肌と短く刈り上げた髪型には体育会系の雰囲気があった。
不思議なのは、その男が手ぶらだと言うことだった。セールスマンならカバンがあるはずだった。忘れ物を取りに帰ったとか、近所に住んでいて立ち寄ったとか、そのどれでもなさそうだった。電話を一本かければ済むからだ。あんなに呼び鈴を無心で連打するということの意味がなかった。
がっしりした成人男性が、静かな住宅地で、一件の家の呼び鈴を鳴らし続けている様子は、不穏なものを僕に感じさせた。家には人の気配がなさそうだった。洗濯物も干していなかったし、カーテンも閉め切られていた。
男もさすがに諦めた様子だった。くるりと僕に背を向けて、向こうのほうに小走りで逃げていった。その後ろ姿からは何の意思も感じられなかった。鳩時計の鳩みたいだった。
僕は男の姿が見えなくなるまで待ってから、チラシ配りを再開した。もちろん、その家にもチラシは配った。
そのときに近づいて家の様子を伺ったけれど、特に防犯意識が高そうには見えなかった。防犯カメラもなかったし、セキュリティ会社のステッカーもなかった。玄関先に小さなオレンジ色の花が咲いた植木鉢がひとつ置いてあった。表札には、ごくありふれた名字が書かれていた。空き家ではなさそうだった。
次にその家にチラシ配りを行ったのはその一ヶ月後、六月のことだった。
その日は午後から休講が重なり、夕方からの別のアルバイトまでつなぎにと思い、急遽シフトを入れたのだった。
いつものように配っているうち、またその家に近づいた。自転車を停め、角を曲がるところで、僕は先月のことを思い出したのだった。
のぞきこむように、その家の前を確認した。
誰もいなかった。
ほっとして角を曲がろうとする僕の背後を風が通り抜けた。人の気配がしたときにはもう僕のそばを黄色いジョギング・ウェアに身を包んだ成人女性が颯爽と走り抜けていった。彼女の鮮やかなフォームが空気を揺らすと、たちまちせっけんの香りがした。彼女のポニー・テールが軽やかに揺れていた。
僕がその後ろ姿に見とれているとその女性はなんとあの家の前でさっと手を伸ばして、家の呼び鈴を押したのだった。
僕は驚いてその場で固まってしまった。
その女性はスピードを落とすことなく、流れの中で完璧なピンポン・ダッシュを行ってみせた。動きはベテランのマラソン・ランナーの給水そのものだった。そしてあっという間に女性は見えなくなった。
僕は二回も見てしまった。男性だけではなく、女性まで、この家の呼び鈴を押して逃げていくのだった。
確かに日中は人通りもない場所だから、目撃者は僕一人しかいないのだろう。そしておそらく家の住人も出払っているから何が起きたか知る由もない。このピンポン・ダッシュに対して、今のところ誰も困ってはいないのかもしれない。
でも、そうだとしても、正しくて気持ちの良い行いではないということは僕にもわかった。そもそも、この家の隣にも、というよりそこら中に家があり、家の数だけ呼び鈴があるはずなのだ。それなのに、この家だけが狙われていた。とても不思議だった。
僕はいつものようにチラシを配った。そしてその家にもチラシを入れた。玄関先の鉢植えの花は枯れていなかった。住んでいる人がいるのだ。誰かが花に水をやっているのだ。
次にその家に向かったのは一ヶ月後、テストの終わった七月のことだった。
もっと割の良いアルバイトを見つけた僕はチラシ配りはやめる気でいた。しかし、社員に頼まれてしまい、代わりにテーマパークのチケットやらクーポン券やらを貰って、あと一回だけやることに決めたのだった。
そしてその日は、ボーナスを出したぶん夜間も使って倍の量を投函してほしいとのことだった。僕は了承した。僕はまだ若く、優しかったのだ。
二度もピンポン・ダッシュに遭遇したということは誰にも言っていなかった。
とはいえ、あの光景は僕にとって少なからず衝撃的なものだったし、簡単に忘れられるものではなかった。だから自分一人で抱え込むことになった。それは少なからずきついものだった。だから、いつも頭の隅に、あの家があった。
その日、昼間はいつものようにその家のそばに自転車を停め、角を曲がった。今度は立ち止まらずに進んだ。後ろから追い抜いてくる女性ランナーも今日はいなそうだった。
例の家の前に、ランドセルを背負った小学生が二人、手を繋いで立っているのを僕は見つけた。
よく見ると男の子と女の子で、思い詰めた表情をしているのがわかった。彼らは手を繋ぎ、まるで崖から身を投げる直前みたいな顔つきだった。そして僕が想像していた通り、男の子がその家の呼び鈴をおそるおそる押した。反応がないとわかると、二度三度と繰り返し押した。それでも反応がないので、女の子が男の子の手を引っ張ってすたすたと向こうに歩いていってしまった。
結局僕は彼らを見守ってしまった。一体この家に何があるというのだろう?
三回来て、三回とも、そういう場面に遭遇する。ということは、僕が来ていない間もずっと誰かがこの家の呼び鈴を鳴らし続けていても不思議ではない。どうなっているのだろうか。
僕はゆっくりと家の前まで歩いた。
玄関の前に立ってもどうってことはなかった。
僕は呼び鈴を押そうかどうか迷って、結局押さなかった。
一度事務所に戻って、夜のぶんのチラシを抱えて、再び投函をして回った。
あの家のぶんに限って、僕は昼と夜のぶんをまだキープしていた。
またいつものように自転車を停め、角を曲がると、例の家の前に野良猫が三匹集まって鳴いていた。そして、カーテンの隙間から明かりがこぼれていることがわかった。家主が帰ってきているのだ。
猫たちは一度、近づいてきた僕をじっと見つめた。でもすぐに目を離して、毛繕いを始めたりした。僕は、猫はピンポン・ダッシュしないよな、と考えていた。
そのとき、家の玄関が開いて、中から女の子が出てきた。
彼女の姿を見つけた途端、猫たちは背筋を伸ばして尻尾を振り回した。きっと仲良しなのだ。
「あら、どうも、何かご用ですか?」と彼女は言った。
落ち着いた声色で、僕はすぐに彼女に好感を持った。
「いや、あの、猫がたくさんいたから」と僕は言った。嘘ではなかった。
「みんな野良猫なんです、首輪はあるんだけど迷い猫みたいで」
彼女は紙皿にキャットフードを盛って、猫たちの前に置いた。
猫たちは信頼しきった感じで餌に近づき、むしゃむしゃと食事を始めた。
「わたしが放っておけなくて餌をあげちゃったら、それ以来不思議と頼りにされちゃって、餌付けはいけないってわかってるんだけど」
「そうだったんですね」
「ところで、何か用事ですか」
「あ、僕はチラシの投函をしていて、ちょうど配り忘れたやつをお届けしようかと思ったんです」
「あぁ、そうだったんですか、わざわざありがとうございます」
僕はトート・バッグからチラシを彼女に渡した。彼女はそれを受け取った。
ここで帰っても良かった。
けれど、帰るのを僕はためらった。今日でこのアルバイトは最後だったし、何より彼女に好感を持ったからだ。正直言って僕は帰るのが惜しかった。だから僕は彼女にこう言った。
「花、綺麗に咲いてますよね」
「あぁ、ありがとうございます」
「実はいつもチラシを配るときに見てて、いいなってリラックスしてたんです」
「そうなんですか、嬉しいです」
「あの、言いにくいんですけど」
「どうされましたか?」
「昼間、お宅の家でですね、偶然かもしれないんですけど、ピンポン・ダッシュされているのを何度も見かけてしまったんです、本当に何度も見てしまったものですから、気になっちゃって」
彼女の表情はこれといって変化はなかった。ただ黙って次の言葉を待っていた。
「それで、もしあれだったら証人になるし、迷惑行為として警察に届けたりとかできますよ」と僕は言った。
「どんな人でした?」
不意に質問された僕は何と言えばいいのかわからなかった。
「男も女も、子供までやってました」
「そう」と彼女は言った。「それは困ったわね」
「日中は家にいないみたいですけど、夜はそういうことはないんですか?」
「日中も家にいますよ」
「いるんですか?」
「えぇ、います、家で仕事をしていますから」
「じゃあ、さぞ迷惑でしょう、あいつら」
「でも、わかるから、大丈夫なんです」
「わかる?」
「えぇ、わかるから、対応できます」
「カメラとかあるんですか?」
「そういうことじゃないんですけど、ただわかるんですよ」
「わかった、もう警察に連絡済みなんですね、良かった」
「いいえ、警察には連絡していませんし防犯カメラもありません、わたしとあなたくらいしか知らないんじゃないでしょうか、あとはやった本人くらい」と彼女は言った。「ひょっとしたら本人だって覚えてないかも」
「大丈夫なんですか?」
「わかるから平気です、試してみますか?」
通されたリビングは清潔で片づいていた。壁にかかった柱時計がこちこち音を鳴らしているくらいで、テレビもラジオもなかった。
僕は椅子に座って、出された紅茶とクッキーをかじったりしてそのときを待った。
「本当にわかるんですか?」と僕は言った。
「そう、わかるんです、そのときは言います」
「わかるのに、家の中にいるんですか? なんていうか、辛くないですか」
「そんなこと感じたことはないですよ、社会に出ればもっと辛いことはありますから」
そう言われると僕は黙るしかなかった。確かにその通りだ。でも、そういうことじゃないんだけど、と僕は言いたかった。
「でも、当分は来ませんよ、ちょっと暇な時間が続くと思います」
彼女の言うとおり、それから数十分ほど、暇な時間が続いた。紅茶を三杯もおかわりして、クッキーも食べ尽くしてしまった。晩ご飯が食べられなくなるやつだ。
彼女は、画用紙に向かい、さらさらと何かを書いていた。どうやらイラストレーターか何かで生計を立てているらしかった。
「凄いですね、絵で自立するって」と僕は言った。
「そうかしら? 簡単なことよ」
「そんなことないです、僕も才能があればチラシ配りじゃなくて絵書きでバイトしたり仕事したりしたかったですよ」
「でも、こういうのって時々おそろしくなるのよ」
「へぇ」
「そういうおそろしさに鈍感でないと、困ったことになるかもね」
僕はクッキーの最後の一枚をかじりながら、絵を書いて収入を得ることのおそろしさについて考えを巡らせた。
トート・バッグの中に詰まったチラシを一枚取り出してテーブルの上に広げた。高級分譲マンションの広告だった。美しく加工されたそのマンションは、夕闇の中で一層華々しく際だつようにライト・アップされていた。エントランスの人工庭園を親子連れが手を繋ぎながら歩いていた。白抜きの文字で、キャッチ・コピーにはこう書かれていた。
時間を味方にする場所。
「これ、どう思いますか?」と僕は彼女に言った。
彼女はそのチラシをじっと見つめた。
「わたしにはよくわからない」
「そうですよね、僕にもよくわかりません」
「でも、よくわかるものなんて本当はどこにもないって一度でも学んでしまうと、よくわからないものを許せるようになるわ」
「チラシ配るより、絵を書きたいです、僕はそう思う」
彼女が目を閉じて、画用紙にさらさらと鉛筆を動かした。
「わたしもそう思う、そうやって生きていけたらいいなって」
「できてるじゃないですか」
「そうね、ありがとう」
柱時計の音がこちこちと鳴って、僕はそろそろ戻る時間を気にし始めた。
「そろそろ戻ります」
「そう、残念、あなたがいるからかしら、今日はもう呼び鈴は鳴らないと思うわ」
「あの、本当に、何か迷惑を感じたら早く警察に言ったほうがいいと思います」
「そうね、そうするわ、ありがとう、久しぶりに人と喋ったから、今夜はさみしい夜になりそう」
「また来ますよ」
「えぇ、来てちょうだいね」と彼女は言った。「そのときは、呼び鈴を押してね」