二章 生ける伝説
翌日、朝。
シーナとイーナは、国の機関施設を訪れていた。
この場所は、モンスターに関する全てを取り扱う施設。
モンスター被害状況の報告や掲示、モンスター討伐依頼の作成から発行、生態に関する資料まで。そしてギルドの設立……。この場で全てが可能となっている。勿論、利用は個人も可能。依頼は国が発行する大規模かつ緊急なものもあれば、個人が報酬金を設定し機関の掲示板に貼ってもらうこともでき、他には機関を介さない直接依頼も存在する。資料室はまさに図書館で、年々その保存量は増え続けている。
シーナたちが今ここにいる目的――それは【シュヴァルツ・レーゼン討伐】依頼を受ること。
その依頼は、掲示板でも最も目立っていた。
シュヴァルツ・レーゼン。
略称、レーゼン。
現在、東の霊峰に潜伏しているモンスター。
目撃情報――いや、損害情報は以下。数個の村を襲撃、壊滅、北の防衛線の全壊。
受諾者が依頼を受ける際、最も注意することは、モンスターの危険度だろう。
自分の技量に合わない依頼を受けるのは自殺行為、そして結果は――死。帰ってこれない。
だがシーナたちが受けに来た依頼、レーゼンの危険度は――設定されていなかった。
――アンノウン。即ち、――不明。
この表示は普通、既没のモンスターには存在しない。
――即ち、新種。その代名詞――未知。
全ての受諾者は危険度を最優先で考え、その依頼を受けるかどうかを決める。
……報酬金で自分の生死を決め、自殺行為をする馬鹿も稀にいるが。
しかし、レーゼン討伐依頼には、最初から討伐されることを想定していないのか、報酬金が設定されていない。表記さえていない。もしもだが、討伐した暁には、想像もできない金額の報酬が国から授与されるのだろう。
金のために命を賭けろ、四肢を捨てろ。それに応じるのは稀にいるかもしれないが、今回ばかりは相手の次元が違う。
結果、誰も受諾しない。皆、掲示板の前で怖気づくばかり。
いくら昨日ヴァイル・ギルドが出発したとはいえ、討伐の対象はレーゼン。
世界最大規模とまでいわれた北の防衛線を瞬時に破壊したモンスター。
国内最大勢力、ヴァイル・ギルドが出陣したところで、
帰って来る可能性は――低い。
そんな相手の討伐依頼なのだから、いくら国が強制的に招集かけても怖気図いて討伐に向かうのは極僅か。
そういうことで、このレーゼン討伐に行きたい者らは手続きしさえすればどんなギルドでも個人でも可能――ということだ。
ここに向かう前、イーナはまだ討伐に行くなんて決まってないのに、と考えたが、シーナは。
『討伐依頼を受けることは何も問題ないわ。レンは必ず私たちと討伐に向かう』
そう言ってここまで来た。
二人は開かれていた巨大な入口を跨ぎ、ホールに入ると、あたりを見回した。
――ここに来るのは、何度目――かな。ギルドを作った時と、レンの情報を探しに来た時と、そして今回。
――……この空気、重いわね……。
――ここにいる人たち、皆レーゼン討伐に向かうかどうか躊躇している。すごい緊張感。
シーナとイーナは、重い空気を撒き散らしながら点在するように立っている者たちをすり抜け、強大な掲示板の前に立つ。それは、二人の少女。
ホールに元からいた者たちは、彼女らを見やるなり鼻で笑ったり、一瞥してまた違うところを向いたりする。
レーゼン討伐依頼はすぐに見つかった。というより、ホールに入った時から目に入っていた。
シーナは一応念のため、討伐依頼の発行番号を確認し、イーナと二人でカウンターへ向かう。
「……嘘だろ?」
「あいつらレーゼンの依頼を見てたよな?」
「いやまさか。違う依頼だろ」
周りにいる者は口々に驚きを零す。
「お前行けよ」
「いや――、俺はまだ死にたくない」
今、カウンターの前には、二人の少女が。
「すいません、国が発行している依頼――〇〇三【シュヴァルツ・レーゼン討伐】に向かいます。――シーナ・ギルド」
シーナは最後にギルド名を付け足し、受付の職員に依頼受諾を申し込む。しかし。
声をかけられた人――左胸のネームプレートを見るあたり――ロイド・クラッシーは業務中にも関わらず、それには似合わない言葉を発する。本来、懇切丁寧、慎んだ言動が求められるのだが――
「この依頼は君たちには次元違いだ。止めておけ。万が一遭遇できたとしてもその瞬間死ぬぞ。俺は薦めない」
――ヴァイル・ギルド、リーダー本人のお墨付きギルド……シーナ・ギルド、か。
ロイドは二人の女の子を見据え、懊悩する。
昨日、ヴァイル・ギルドが出発する前、一通の封書が機関に届いた。
封筒には赤い紋章が捺印されていた。一目見ればヴァイル・ギルドのものだと分かる。 それは魔法で施されており、偽装は不可能。
そしてその内容が機関職員全員に伝達された。
シュヴァルツ・レーゼン討伐依頼において、シーナ・ギルドに全面的に助力すること。
【生ける伝説】――レンの依頼参加を機関は強制としない。
――ヴァイル・ギルド ヴァイル・テイルより。
――とのことだそうだ。
ロイドは頭を抱えて唸る。
なるほど、全くもって意味が分からん。
――ヴァイルは何を考えているんだ? シーナ・ギルドはたったの女二人。しかも若い。何故こいつらの依頼参加をヴァイルは――……。何か特別な理由でもあるのか?
「…………」
――例えばこのエルフ。何かあるのか……?
ここで一呼吸置いて、冷静に頭を回すロイド。
――ヴァイルはこの国の命運を持つ最大規模ギルドのリーダー。無意味なことはしない。何か意図があってのこと……。恐らく、俺に理解なぞ無理なことなんだろう……。
――俺のところに手続きをしに来てそれからいなくなった奴は――もう数えていない。あのとき止めておけば――と何度思ったか。
全く関わりの無い者でも、一度自分のカウンターで依頼を受け、顔を合わせ。二度と帰ってこない人となった時は、辛い、悲しいこと以外は無い。
ロイド、眼前の二人を見据える。
濁りの無い、唯自信で溢れた青い眼の少女。それを傍らから支える存在なのだろうか、まるでこの赤毛と二人で一人とでも言いたげなこの雰囲気のエルフ。きっと何かで強く繋がっているのだろう。
まだ若い。
――こいつ等……戻ってくるよな?
「あの、早くしてくれません? 私たち急いでいるんだけど」
ロイド、内心乾いた笑い。
――まるでこっちの心配なんてどこ吹く風のようだな。彼女たちの依頼受諾はあのヴァイルが推したんだ、大丈夫だろう。
ロイドはヴァイルの意図を信じ、受諾手続き書をペンと一緒に差し出す。
「……分かった。この書類にサインしてくれ。それと――」
「はい?」
シーナはペンをすらすらと走らせながら。
「――必ず戻ってきてくれ」
ロイドは本心から、願うように言う。
――この二人だってこれから向かう依頼はどんなものかぐらいわかっているはずだ。
「――? はい、そのつもりだけど?」
シーナは書にサインするのが面倒だとでもいうように書き流し、突き返す。
――レーゼン討伐を前にしてこれか。笑わせてくれる。
ロイド、呆れながらも苦笑する。
――なんという自信。まるで未来を見定めているかのような雰囲気。
まるでレーゼンを討伐するのがさも当たり前で。帰ってくるのが当然、確定しているかのような。
――ヴァイルはやはり何か意図を……。
ロイドもまた書にサインをする。
手続き――完了。
「これがシュヴァルツ・レーゼン討伐依頼の詳細だ」
ロイドは予め大量に用意してあった冊子の一つを渡す。
シーナはそれを受け取り、もうここには用は無いと言わんばかりに踵を返し、慌ててイーナもついていくが――
……何やら後方で、大きく息を吸う音がし、
「シーナ・ギルドッッ! シュヴァルツ・レーゼン討伐――出陣ッ!」
突然のホール全体に響き渡る叫声に、シーナとイーナは肩を跳ね上げた。。
音声拡張機を付けているロイドが叫んだのだ。
ホールが動揺と驚き、そして出陣を称する声で埋まる。
「……本気か?」
「おいおい、女の子二人だぞ?」
「ちょっと若すぎないか」
「自殺行為にも程がある」
「マジで行くのか……!?」
依頼受諾を躊躇していた者らは口々に零す。
次第に、それらは歓声に変わる。
周りにいる者や機関の職員までもが、世界の脅威に向かう二人に拍手と喝采の声を上げている。
その声はシーナとイーナの心身にも反響し鼓舞され、強く引き締まっていく。
「――行こう?」
呆気に取られていたシーナの手を引くイーナ。
シュヴァルツ・レーゼン。国一のヴァイル・ギルドを持って尚、討伐が困難な相手。
国、民、全ての者達が求めるのは大小構わない蛮勇の力。
そんな依頼をたった今受諾した二人の少女――片や人間、片やエルフ。
無謀、自殺行為、遭瞬必死――――。二人の少女の行動を表すのは愚かな言葉ばかり。
しかし人々はそんな二人の少女を評する。
二人は歩き出す。
「あんな女の子が行くんだ、男のオレらが行かない訳にもならんだろォッ!」
二人の少女の行動は、今まで怖気づいていた者たちを奮い立たせ、次々とレーゼン討伐依頼を受諾していく。
「ほら早くしろッ!」
「シーナ。ギルドが行っちまうじゃねぇか!」
がら空きだった各依頼受付カウンターは今や行列。
今も尚喝采の止まぬホール。二人は固く手を繋ぎ、外へと歩いていく。
彼女らの後ろに並んで歩くのは、たった今レーゼン討伐依頼を受諾した者共。
それを見たシーナ、その右手は何かに駆られるようにボロマントに隠れる柄を掴み――、
右腕を真上に振り抜いた。
強大な脅威へと立ち向かう我を誇示するように突き上げられた銀の剣先。
自身の先を行く少女が振り上げた剣、
それを見た者共。
後ろに続く者、そうでない者も――咆哮。
先頭につられ、同じように我が武器を振り上げる。
――ああ……、堪らないわ。
シーナ、思わず一笑。そして、思う。
――レン……。あなたがどんな世界で生き、そして堕ちたか――今ようやく分かったわ。
そう、こういう世界だったのね……、と。シーナは納得し。
――やっぱり、その力は発揮するべきよ、レン。異の力は救うだけでなく、味方の均衡を崩す、けど。あなたは終わっていい存在じゃない。あなたの舞台は――そんなところじゃないわ。
頭上で重々しい鐘が何度も鳴っている。
シーナはその響きに恍惚のようなものを覚える。
――ああ……、いつか――、あなたがいた世界――、そしてこれから再び始まるこの世界……。私もいつか、本当の意味でこの舞台に…………。
「シーナ」
「――?」
左にいるイーナから名を呼ばれる。
「行こう、レンの元へ」
「ええ! 生ける伝説の元へ!」
そして――二人は機関から姿を消した。
***
「お腹空いたァ…………」
――――――。
「腹減ったぁああ」
――――……。
そう悶え。深紅の眼光を鈍らせ、濁す青年、レン。またの名を――【生ける伝説】。
「ホテルフロントの野郎めぇ……俺を空腹で殺す気かぁッ……」
いくら種を超える化け物でも、何も食べられなければ死ぬ――。
傍からすれば、いくら化け物であっても空腹で悶える彼を見れば、生き物と判断するしかないだろう。
「クソッ! 朝食はまだかッ!」
レン、自棄になって叫ぶ!
あまりの空腹に、誰もいない部屋で闇雲に叫ぶ!
「こっちは昨日の夜から何も食べてねぇんだ――」
「あら? ドア、直したのね?」
「――――――……」
レン、黙る。
非常に聞き覚えのある声は、少し離れた廊下から。
「いや、それは直したのではなく――」
ドア向こうで姿が見えないホテルフロントが何かを言おうとしたが――だが聞こえたのはドアを蹴る音。
バダァアアンン――……。
ドアは大きな音を立てて倒れ埃を舞い上げる。……ベットの上には無表情のレンがいた。
「――――立ててあっただけなのだが……」
現在系で言おうとしたが過去形にし、あーあ俺知らね的な口調で付け加えるホテルフロント。
――絶対分かって蹴っただろ立てかけてあるだけだって!
レン、イライラと内心愚痴を零す。
だがそんなのは全く気付かずそれともどうでもいいのかシーナ、イーナと入室し、言う。
「おはよう。レン、早速だけど私たちの依頼を受けてほしいんだけど」
「――――そっちのエルフは?」
唐突な、単刀直入すぎる直接依頼を遮り、シーナの後ろに隠れているエルフをレンは指摘する。
「わ、私はイーナといいます、い、【生ける伝説】レンさんに会えてとても光栄で――」
「ああそういうのいいから」
レンは気怠そうに吐き捨てる。
「イーナ、緊張しすぎ」
「だ、だって【生ける伝説】よ? しかも私は初見――緊張ぐらいするって」
「……まぁ、そのうち慣れるから大丈夫よ。で、依頼なんだけど――」
…………そのうち慣れる?
依頼の説明をしようとしたシーナをまたも遮るは――レン。
「いいだろう」
「「――――ッ!?」」
説明も受けないで受諾すると即答したことに思わず動揺する二人。
「ただし――一つ条件がある」
――そう言うと思っていたわレン!
事は確信道りの展開に。
シーナは内心したり顔、聞き返す。
「何?」
シーナは興奮を隠し、応じる。
「俺の代わりを用意しろ。俺が討伐に行っている間、代わりにこの部屋にいてもらう」
「あなたが他の宿に移動した――それではダメなの?」
――愚問だったかしら。
シーナ、自嘲。自身の質問に肩を竦める。
――ふん、分かり切った質問だな。
レン、嘲らう。
「駄目だ。被害は出したくない。俺はここに居続けていると思わせる必要がある」
「だが――――」
ここで、一つ間を置き――、レンは哄笑、
「この俺の代わりになれる人材なんているはずが――」
このときシーナ、口角を上げ満面のしたり顔。
「――レンがそう言うと思って、連れて来たわよ。その代わりを」
レン、その顔は固まる。
「さあ、入って」
そう促され、入室するマントの人物。
「…………」
レン、懊悩。頭を抱える。
「俺がお前の代わりにこの部屋にいる」
そう、その人物は。マントを羽織り、フードを被った――――ホテルフロントだった。
「…………、」
「――ちょっと待ってくれ」
「何か問題?」
………………。
――――――――?
レン、思考が追い付かず。
「いや、ちょっと待て」
「何よ」
「何でコイツが俺の代わりなんだ?」
レンは心底分からない、という表情で。
「だって他にいる?」
「……いや、だからって何でコイツなんだ?」
「私たちには頼れる人がホテルフロントぐらいしかいないし」
「――俺のことはホテルフロントじゃなくてマックスと呼んでくれ。……俺の名前だ」
「分かったわマックス。でもホテルフロントと呼びたい時もあるわ」
「……まあ別に構わんが」
――…………〜〜〜〜ッ。
レン、懊悩の連続。
「いや――待て。待てったら待て。いいか? そもそも、俺の代わりになれる奴なんて存在しな――――」
ここでシーナ、大〜〜〜〜きく溜め息をつき。
「レン、まさか最初っから依頼受けるつもりなかった? それとも何? 依頼内容を聞く前に怖気づいちゃった?」
「お、おい! レンに向かって何を――」
マックスはシーナの口を抑えようと手を伸ばすが、既に手遅れ。
――――――。
――…………怖気づく? ……この俺が?
レン、その深紅の瞳に光を灯し、濃く、輝る。
「ふっ……クク……ハハハハハッ!? 怖気づく!? この俺が!? 場違いな発言にも程があるぞシーナァ!?」
失笑。
その場にいる者、唖然。凍り付く。
「フフフフ、俺が――怖気づくだと? クク……ハハっ――――あ」
――――……。
「んっん――! ……俺が怖気づく? ハッ――――天地がひっくり返ってもありえねぇ。
――分かった。いいだろう! ホテルフロントで手を打ってやる」」
さっと手を顔に翳し鮮やかに言い直すレン。
それ以外の者、微動だにせず。
「――ん? どうしたお前ら」
「はっ……い、いえ、何でもないわ?」
――心臓止まるかと思ったわ。
シーナ、ドクドクドクと激しく高鳴る胸を抑える。
――し、死ぬかと思った。シーナ、レンの前で冗談はもう止めて……。
イーナは青ざめて。
――だから止めておけってあれほど昨日言ったんだ。レンのことは煽るなって……。
マックスは冷や汗をどっぷりと掻いて。
それぞれ三人、生死を彷徨った感想を内心漏らす。
「――――内容は?」
レンはベッドに腰がけ、説明を要求する。
「え、あぁはい。討伐してほしいのは、レ――」
「――ん? ちょっと待て」
ポーチから依頼詳細の紙を取り出し説明をしようとしたが、モンスターの名前を伝えようとしたところでまたも遮られる。
「――何」
「その紙――誰が持って来た?」
「私たちです」
イーナが答える。
「いや、それって国が出したヤツだろう? どうやって持って来た? ……まさか俺の名前出したんじゃ――」
依頼詳細の分厚さにレンは国が発行した依頼だと予測する。
そして自分の名を出して依頼を受けてきたのかと危惧する。
「大丈夫よ。レンのことは欠片も出していないわ。それどころか――ねぇ? あんなことまで起きちゃったし」
シーナとイーナは微笑む。
「おい、あんなことって何の事だ?」
「いいえ、何でもないわ。それで、レーゼンのことだけど――」
「――ああ。それのことは新聞で知っている。北から出現し暴れまわったらしいな」
あんなことをはぐらかされて気に入らないが――今は流す。
「そう――私やイーナの村も破壊されたわ。全滅よ。たまたま村を出ていたのが不幸中の幸い」
――なるほど。そういうことか。
「それでこの街に来て二人は出会って、レーゼンを討伐するためにギルドを作り、しかし討伐は自分たちの手では成せないから俺の元に来たってことか」
「そうよ」
自分たちの経緯を理解したレンに――肯定。
「お願いします、ホテルフロントで妥協して、この依頼を受けてくれませんか?」
「妥協……」
ホテルフロントのその呟きは誰にも聞こえず。
――いや、もう依頼は受けると言ったが……聞いてなかったのか?
そういえば三人して固まってたな、と思い出す。
「――分かった」
二人の少女の顔に満面の喜色。
「――今すぐ行くぞ」
……一瞬、満面の喜色のまま――固まった。
「は――はぁ!? いっ――今すぐなんて無理よ! レンも新聞見ているなら知っているでしょうけど、レーゼンは常に移動――生息地が不確定なのよ!? 昨日出発したヴァイル・ギルドだって二週間分の食料やそれぐらいあっちにいられるくらいの準備をして行ったのよ!?」
「それに――」
シーナは付け加える。
「何日間あっちにいるかにもよるけど、私たちでは準備できるだけのお金だって足りるかどうか――」
「ハッ――明後日だ」
しかしレン、嗤って遮る。
「は?」
「今出発すれば、明後日には帰ってこれる」
レンは断定する。
「――そんなバカな…………」
驚愕の言葉に、ホテルフロント――零す。
「シーナイーナ。一旦お前たちの家に俺も行く。今着けているマントでいいから俺に貸してくれ」
シーナは自身からマントをはぎ取り、渡す。
レンはそれを羽織り、そこらへんに転がっている剣を何本か手に取ると、言った。
「――行くぞ」
「え、ちょ――ま、待って――」
マントを靡かせて颯爽と部屋を出ていくレンに、シーナとイーナは慌ててついて行った。
***
――初の隠密行動ね……。
シーナは全身を強張らせる。
――絶対に……、絶対にレンとばれないようにしなければ……。
シーナとイーナは道行く人全てに注意を払いながら歩いていた。
朝の賑わう大道り。レンを探し回っていたいつもは何も変哲のない道りだったものが、今では人の目線の全てが針の先ように感じる。
すれ違う同士の肩がぶつかる程の距離。
――…………お腹空いた。
それが、久しぶりに外に出、自らの正体がバレれば一発アウトの隠密行動中のレンが思ったことである。
レンはフードを目深く被り、マントで複数の剣を隠していた。
――見つかりませんように……、どうか誰も気付きませんように……。
「――おい」
隠密であることを重々承知の上、レンは重要な問題を伝えようと二人に声をかけるが、
「バレたら終わりよ! 今は黙ってて!」
――くっ……。
レン、歯ぎしり。染み出てくる唾液の味が喉に沁みる。
「――いや、そうじゃなくてだな……家まであとどれくらいだ? もちそうにないんだが」
小声でそう二人に伝える。だが何を勘違いしたのか――
「は――え!? もちそうにないですって!? イーナ、この辺りでトイレってある!?」
血相変えてイーナに仰ぐシーナ。
――冗談じゃないわ。こんな人ごみのど真ん中でレンがそんなことしたら――――
そして青ざめる。
「え、え!? トイレ!? そんな急に――……、家までもたないの!?」
「――もたないみたい……」
「ど、どうするシーナ!?」
――――?
「いや、……は? 何でトイレ?」
――俺は唯空腹でもうもちそうにないと――――。
しかし慌て始めた二人にレンの言葉は届かない。
視界は時折ぼやけ、足は地面を踏んでいる気がしない。それ程フラフラなのだ。
「こうなったら――どこかに転がり込むしかないわ」
シーナは意を決した表情で、言う。
「ちょっと待ッ――俺は何か食べ物を――」
レンは二人に引っ張られ、誤解を解こうとした時。
――ッ、まずッ――
その時レン、何か良くないものを感じ取る。
「おいッ――逃げ――――」
「シーナ・ギルドだぁああッ!」
レンが危機を察したと同時、突如響く男たちの声。それは恍惚にも聞こえる。
「「なッ――」」
シーナ、イーナ、驚倒。
目の前から、幾多の男たちが走り押し寄せてくるではないか。
「――逃げるぞ」
レンは二人の手を取り、空腹の極限の中、最後の力を振り絞って走る。
「「――!」」
――はッ――早い!
二人の足は地面に付いておらず、身体は宙を浮いていた。
迫りくる脅威を回避すべく、レンはそのまま路地に逃げ込む。
「うぉ!? 何だあのマントの獣人は! シーナ・ギルドを路地に連れ込みやがって!」
「野郎ッ! 必ずシーナ・ギルドをあの獣人から助けるぞ! 向こうだ、先回りしろッ!」 人間には決して真似できない身体能力に男たちは獣人と判断したのだろう。まさか、そのマントの正体が【生ける伝説】とはその時誰も思わなかったことだろう。
細くて狭いを路地を、シーナとイーナには信じられない速さで疾走し、やがて止まった。
「大丈夫か?」
レンはふぅ、と小さく息を吐き、二人に振り返る。
「大丈夫じゃないわよ! いきなり走り出して……ていうか、何であんなスピードで走れんのよレン!?」
………………。
――はっ。
ここで初めて気づく。
――これが? これが――レン? 生ける、伝説……?
シーナ、愚問。
「何でって、俺だから?」
「あははっ……よくいうわね」
――そうか、これが――【生ける伝説】…………。
――凄い……。ありえない……。
シーナ、イーナ、初めてのレンの力に、驚嘆を思う。
「行くぞ」
三人が再び歩き出し、通りに出た瞬間――
「いたぞぉぉおッ!」
――なッ……、先回り!?
極限の空腹で頭が回っていなかったのか、読まれることを考えていなかった。
「――チィッ!」
レンは舌打ちし、二人の身体を抱き寄せ、脇に抱え――
「え、え?」
「ちょ、どこ触って――」
跳んだ。
「ひッ――」
瞬間的に遠くなる、地面。
男たち――もとい機関でシーナ達の後ろについていた男たちが、皆揃って上を見上げる。 トンッ、と靴底を鳴らし、建物の上に着地するレン。
「最初からこうしていればよかったな」
「そ、そうね……」
建物の高さ、優に四階。人の身では到底届かない高さ。
――に、人間なのに、それをレンは一蹴りで……。
シーナ、イーナ、共に畏怖を感じる。
「さ、早く家に案内してくれ」
二人はその言葉に従い、レンの前を歩くのだった。
***
「着いたわ。入って」
そこは木造の二階建ての小屋で、二人暮らしなら住みやすそうな空間だった。
あるのは生活最低限の用品だけ。
レンはマントを脱いで目についた椅子に掛け、座る。
「……一つ、お願いがあるんだが」
レンが徐に口を開く。
――限界だ。
レンの口から、お願いという言葉が出、シーナは反応する。
「あら? 何かしら」
シーナは上から態度で答える。
「何か食べ物をくれないか? 昨夜から何も口にしていないんだ……」
「――! サラダとパンだけなら、すぐに出せるけど……」
手に地図を持ったイーナが言う。女神の言葉にも聞こえた。
「十分だ。頼む」
イーナはすぐさま台所に向かい、そしてすぐに野菜を切る音が奥から聞こえてくる。
「何も食べてないって、ホテルで食事出なかったの?」
「ああ。何も。かといって俺はどこかで外食するわけにもいかねぇし……。ホテルフロントの野郎、この俺を空腹で苦しめようとは……な、かな……かの、策……」
テーブルに突っ伏し、沈む。
「――っ、……っ」
――レン……【生ける伝説】でも、お腹空くのね。
――あの走りの速さを見て、人間じゃないと思ったけど……。やっぱり人間なのね。
お腹も空くようだし……。だったら、あの速さは何……?
その疑問は、レーゼン討伐を済ませてから本人に聞くことにした。
この時、あの速さをこの身で知り、レンならばレーゼンを討伐できると安堵した。
テーブルに顔を突っ伏し、微動だにしない彼を見、シーナは笑いそうになった。
「そういえばレン、さっき言ってたもうもたないって、大丈夫なの? トイレ行かなくて」
――――? 何のことだ?
「何、で……トイレ?」
「は? いや、もうもたないって……」
シーナ、素っ頓狂な声を上げる。
「ああ――……あれは、唯空腹でもう身体がもたないって……そういう……。勝手に勘違いしてんじゃねぇよ…………」
「え!? 空腹? あ、なんだ、空腹ね。空腹でもうもたないってことね、あーはいはい」 ――うわあああ、私何を勘違いして……。
シーナ、赤面。
しかしレンはテーブルに突っ伏しイーナは台所、誰もそれを見る者はいない。
「はいできたよレンッ!」
――…………。
レンは緩慢に首を擡げる――、
――ッ!?
――野菜が、輝いているだと!? それにどういうことだ、この香ばしいパンはッ!?
レン、生まれて初めての光景に感激を覚える。
「――――悪い、頂く……」
そして、レンは怒涛の勢いで食べ始めた。
***
「ここに来たのは、何か食べたかったからなのね」
「ああ。そんなところだ。それに、早くホテルフロントと入れ替わっておきたかったしな」
「そう……」
「そろそろ依頼の説明を頼む」
「ええ。これが詳細よ」
シーナはレンに紙の束を手渡す。
シュヴァルツ・レーゼン討伐依頼。
生息地域――不確定。
報酬――未定。討伐者またはギルドには、後日機関より報酬を授与する。
現在は東の霊峰に潜伏している模様。
このままでは、フィーア国だけではなく、隣国シノナ帝国も滅ぼされる可能性大。至急、有力者は討伐へ向かえ。
――こんなもんか。
レンは手渡されたそれを流し読みし、返す。
「予定通り、俺たちはすぐに霊峰へ出発し、明後日には帰ってくる」
「……帰ってくること前提なのね。しかも明後日って……無茶よ」
シーナは深刻な表情で言う。イーナも、憂い顔。
「無茶とか不可能を実現するのが俺だ。――ナメんな」
「「…………」」
先ほどの逃走で【生ける伝説】を見た二人は――言葉が出ない。
「移動は高速馬車を借りる。無論、俺は顔を出せないから、シーナ・ギルドで借りて来い。高速馬車ならばここから霊峰麓まで約一ニ五〇キロ。約一九時間で着く。高速馬車の馬なら二日はぶっ通しで走れるからな……――おい、お前らも行くんだろ? 聞いてんのか?」
レンがテーブルに広げられた地図、目的地にピンを刺し、コンパスを使い距離を測っていたが――それを止め、顔を上げる。
そこには暗く顔を染めた二人の少女。
……いざ本気でレーゼンを討伐しに霊峰へ出発することに――恐怖。不安。
二人はまだ、そこら辺りのモンスターしか相手にしたことのない初心者だ。
それに〝明後日〟というレンの言葉も気になる。
「行きたくなかったら行かなくていい。俺一人で討伐してくる。お前ら、何のために俺を呼んだ? 何のためのシーナ・ギルドだ? その目で村を壊したモンスターが討伐されるところを見たいんだろう?」
レンは、シーナとイーナ、二人を見据える。
――――……。
「私たちも行くわ」
シーナ、少し間を置き、言い切る。イーナもまた、強く頷き、同意を示す。
「私たちのギルドを作ったのは、レーゼンを討つため。でも、私たちではそれは成すことができない」
「最初はヴァイル・ギルドや他の人に直接依頼しようと考えた。でも、彼らは私たちの依頼を、願いを、叶えることができないとも思った。それほど、強大な相手だもの」
「そして、レン――【生ける伝説】のことを知った。あなたしかいない、そう直感したの。それからあなたを探して、一か月。――やっと、私たちの願いが叶うわ」
「私たちも行くわ。レン!」
「――――そっちは!」
レン、イーナへ鋭く視線と言葉を投げる。
「はいっ、行きます! レーゼン討伐、よろしくお願いします!」
この時、イーナはレーゼンに対しての殺意を思っていた。
……ようやく、ようやく、葬ることができる。
そして、レンは満足したように口角を上げて頷き。
「なら、早急に準備を」
「「――はい!」」
***
シーナ・ギルドだとレンが乗る馬車は、一ニ五〇キロに渡る長い道のりを駆けていた。
石畳はアルバで途絶え、後はずっと土の道。
高速馬車――丸一日なんてざら、二日間は走り続けることができ、一日で約一五六〇キロは走ることができる。
それは機関から借りた最後の一輛だった。
「明日の朝四時頃には霊峰麓に着く。俺はそれまで寝る。モンスターが出てきて馬車が横転でもしたら起こしてくれ……」
と、朧に言った直後、レンはキャビンの椅子の上で横になり寝息を立ててしまった。
――空腹で夜眠れなかったのかしら……。横転でもしたらって。横転したら普通目覚めるでしょう? 要するに起こすなってことね……。
シーナは溜息を一つ、窓の外に目を移す。
――アルバを出て、それから幾つか村や町、そして東の防衛線があったけど、ここはもう完全にモンスターの域ね……。
「イーナ! そろそろ変わるー!?」
窓から顔を出し、御者台にむかって叫ぶ。
「大丈夫! 夜までいけるよ!」
――夜、か……。夜はレンに御者をやらせるとして、馬車の中で二人寝るのはちょっと窮屈だわ……。
「……」
シーナは目の前で寝ているレンに半眼を向ける。
――ほんと、緊張感無いのね……。これから【シュヴァルツ・レーゼン】を討伐しにいくというのに。
「それにしても――……モンスターいないわね」
再び窓の外を見、思う。
――今ここは完全にモンスターの領域のはず。東の防衛線も越えたし、モンスターがいてもおかしくは無いんだけど……。
シーナ、不安に駆られる。
「分からないけど――レーゼンの影響かしら……」
不思議に思いながらも、出発する前に買ったパンの一つを、口に入れるのだった。
***
――……意識が……朦朧と、し……て……。馬車の振動が身体に伝わってくる……眠い。
シーナは、一定の振動のリズムに、睡魔を感じていた。
眼は完全に開けず、ぼやけた視界で外を見る。
――……空が……赤い? ……私、寝ていたのかしら……。
「あれ!?」
シーナ、驚き上体を起こす。
いつの間にか太陽は空から消えていて、かわりに綺麗な残照が広がっていた。
馬車の中は暗く、外には何もなく、唯平地が続いているだけ。
相変わらずモンスターらしきものは見当たらない。
「――――今何時だ?」
「――ッ!?」
背筋を凍らせ、がばっと右に首を回すと、暗闇の中、目の前に深紅の光が浮かんでいた。
「お、起きたの」
シーナ、激しい鼓動が収まらない。胸に手を当て息を整えようとする。
「ああ。何時だ?」
シーナはポーチから時計を取り出し、
「六時ちょうどよ」
「出発してから八時間か……。退屈だな。ずっとイーナが御者してるのか?」
「……ええ」
「そうか――――なら明日の朝まで俺が変わる。お前とイーナは寝てろ」
シーナ、予想外の言葉に――唖然。
「いやそんな――、レンはレーゼン討伐があるし寝るべきなのはむしろ――」
「フンッ――問題ない」
そう言い切り立ち上がると――
「お前、この後どうするんだ?」
「――え?」
その問いは唐突だった。
「レーゼン討伐した後だ。シーナ・ギルドはどうするんだ? 存続するのか?」
――討伐は確定なのね……。いや、それよりも今は今後のこと…………。
「――――……」
シーナ、言葉出ず。
「パンと水貰っていく」
レンは食料を脇に抱え、キャビンを出て行った。
――――。
――私とイーナは、レーゼン討伐のためにギルドを作った。でも、もし明日――討伐できたら――? 私とイーナは、どうなるの――?
ガチャ――
ドアの音に反応して顔を上げる。イーナが髪を抑えながら入ってきた。
「ふぅ、もうお腹ぺこぺこ〜。でもレンから変わってくれたなんて以外」
「ごめんイーナ……。私寝ちゃったみたいで……」
「うん、朝早かったもんね……」
この時シーナ、逡巡。
――話すべきか。今後のことを。もし明日、レーゼンを討伐できたとして。街に帰って、家に、あの小屋に帰って――……。その……、後は――……。
急に不安になってくる。
「シーナ、不安?」
「――え」
「大丈夫。私たちの依頼を受けてくれたのは、不可能を可能にする――【生ける伝説】なんだから。心配しなくても大丈夫。だから――パン食べよ?」
「うん――」
イーナは二人分の食料を取り出し、シーナに渡す。
このときイーナ、あることを躊躇する。
あの時。レンに再び会いに行ったとき、何が起こったのか、問い詰めるべきか。
――このことは、依頼が終わってから話そう。
シーナ、決断。
イーナもまた同じく、家に帰ったら聞こう、と決めるのだった。
レン、――潜考。
それは――レーゼン討伐後のこと。
それと同時に浮かび上がってくる、もう一つの要素。
――シーナ・ドラシオン。
――今後ろでイーナと寝ているだろう、この俺に依頼を申し込んできた少女の名前。
レンは彼女の姿を思い浮かべる。
赤毛で、青い双眸の……女の子。
――ドラシオン。
過去という時間の流れのどこかに引っかかる言葉。その正体を思い起こそうと思考を研ぎ澄ませ、螺旋させるが――叶わず。
――あれは――いつどこで聞いた言葉だったか……。
レン、眼を細め、意識を過去に飛ばす。
――ダメだ。全く跡が無い……。クソッ。
思考が行き詰まり、非常にやるせない。
――明日、登山中にでも聞くか……。……いや。
だがその案を脳内で抹消する。
――帰ってからにするか。
その時、レンの中――レンの思考に、一つの摩擦が生じた。
――帰る? どこへ――――?
――まさか。
レン、自分自身を危惧する。
いやまてあり得ない、と。
――まさか、まさかまさかまさか。そんなことは――……。いやあり得ない!
そんな――、俺は、また引きこもるのか?
レーゼン討伐を成して街に戻り――、そして俺はどこに――――?
レン、得体の知れない恐怖に襲われる。
――まさか、またあのホテルに? いやまてふざけるな。そんなことはあってはいけない、俺が本当にしたいことは――…………。
――街に帰ってからシーナに聞く、ということで少なくともシーナといれる……即ちホテルに引きこもり――一人になることを回避することができる、と考えている自分に怒りを感じる。
――シーナに興味を持ち続けていれば、引きこもりに、またあの部屋に戻ることはない、だと? 何考えてんだ黙れこのクズが吐き気がする!
「――チッ」
舌打ちを一つ。自分に対して。
――力を持っていてそれを発揮することで、均衡を崩しそれによって自分の夢とは逆に苦しむ人が生まれる――そういう理由で引きこもって、唯隠れて、そんな生活に死ぬほど心底うんざりしているだけのこと。
――だから、自分が変わるのではなく、周り――世界が変わればいいだけの話――。俺が外に出て力を出しても苦しむ人が生まれない世界になれば……いや、違うな。
そう、それは少し――違う、と。
レンは何かに期待をしているのか、鼻笑い一つ。それはシーナを理由に、シーナへの興味を言い訳に引きこもりを止めることなのか、それとも……。
何か確信的なものを感じていた。運命的なものを。
それはレンにとって初めての感覚。感情。
そしてそれは何かとてつもないことに感じる。
――シーナ。お前は俺の何を変えた――変えてくれた? お前は俺を変え、もしかしたらこれから先、さらに俺のことを変えてくれるのか?
まるで、生まれて初めて、興味の尽きない何かに出会ったかのよう。そんな、はっきりとしない感覚。
レンはシーナに、期待以上のものを、自分を変えてくれた彼女に、何かを感じていた。
その何かとは、一体――――?
――夜。月明り、遠くに黒い霊峰のシルエットが浮かぶ。
馬車は荒涼の大地を進む。
シーナ、イーナはキャビンの中で既に夢の中。
レン、その金髪は銀の月光を受け輝き疾風を靡く。
そして深紅をその眼から滲ませ、あたかも――彗星の尾のように夜闇に迸る――……。
***
車輪が土の上を進む音、馬の一定リズムの走る音。
「ん……」
いつも自分が寝ているベッドより幾分固い背中の感触、そして脳に絶え間なく伝わる振動。それらが今自分はレーゼン討伐のために霊峰へ向かっていることを思い出させる。
シーナは身を起こし、布団代わりのマントを剥がす。
キャビンの中は朝の光に満ち、少しだけ埃っぽい。
横からは可愛い寝息が聞こえた。
シーナはまだ重い瞼を擦りながら横を見る。
イーナは未だ向かいの椅子で寝ていた。
普段ならイーナが先に起きているのに、今日は先に目覚めてしまった。
「ふふっ」
シーナはイーナの寝顔を見て微笑むと、背伸びと新鮮な空気吸おうと、キャビンの外へ出た。
「っ……す、凄い……」
シーナ、その光景に圧倒される。
眠気も何もかも頭から抜けていく。
昨夜、眠りにつく前はまだ遠くに見ていた霊峰のシルエット。
それが今、――眼前。
ナイフで削ぎ落したかのような切り立った岩壁、稜線。
自分に覆い被さろうとしているかのようなデカさ。
とてつもないところではない圧倒的な迫力。
もはや目は全開に開かれ、息をするのも忘れていた。
壮大、荘厳、超然――……それらの言葉が当てはまる、人知未踏、この眼前の霊峰。もはや夥しい威圧や畏怖さえも感じられる。
シーナは真上にもたげた首を下げ、目の前の男を見る。
レンは御者台にはいなく、その先――馬に跨っていた。
――夜の間もずっとそこに……。
シーナ、想う。
馬車は少し険しい道に入ったのか、昨日ほどの速度ではない。
「レン――……おはよう」
夜の間もずっと御者をしてくれていたことを気にし、少しは気遣ってやろうと声をかける。
レンは緩慢に振り返り、このときようやくシーナの存在に気づく。
「――ああ……シーナか。よく眠れたか?」
「え? ええ」
返ってきたレンの言葉に不意を突かれ、シーナ、驚く。
――レンにしては珍しい。いや気味が悪い程ね……。よく眠れた? レンが私にそんなこと言うなんて……。
――寝不足でうまく頭回ってないのかしら。
「そうか……。夜はかなりとばしたんだが……」
馬車で速度を出せば無論、それだけ振動やぐらつきも大きくなるだろう、と。
それでも快眠できたのは、それ程疲れていたからだろうか。
「……まだ着くまでには時間がある。まあ出発の少し前には起きてもらわないといけないが――……。寝たりないならまだ寝てていいぞ?」
レンは再び振り返り、続けて言葉を発する。
「……」
それを聞くなり、シーナは踵を返し、無言で馬車に戻っていく。
――レンのくせに……。生意気。
開閉するドアの音。
レンは、シーナがキャビン戻ったことを背中で確認し、一つ。
「あぁ――」
誰にも聞こえない声で、一人、馬の上で苦しそうに息を漏らす。
「ぁああぁぁ――……腹減ったぁ……」」
レン、仰け反り愚痴をこぼす。また、この有様である。
――何か食いたい何か食いたい何か食――
ガチャッ
「――――……」
レンは咄嗟にドアの音に反応し、姿勢を正す。
――くっ……、俺は【生ける伝説】だぞ? 空腹で悶える姿を見せるわけには……。いやあの時は仕方ないが……出てきたのはどっちだ? シーナか? イーナか?
二度と弱っているところを見せまいと、襲い掛かる空腹を耐え、真っすぐと前を見続ける。
「レン」
「……シーナか。今度はどうし――」
レンが後ろを向いた瞬間。
シーナはレンに何かを投げて渡した。
――レンのくせに……。
気遣いに少しイラついたのだ。
――あれが本心からの気遣いかは分からないけど……。
レンは投げられたそれを掴み、瞠目する。
「……これはどうも」
シーナが投げて渡したのは、パンだった。
――パンは、お返し。レンのくせに私を気遣って……、生意気なのよ。
レン、動揺するが、それを隠しパンを口に運ぶ。
「それじゃあ私戻るわ」
そういい、踵を返す。
「…………」
レンは、あり得ない。あるはずがないと何度も頭の中で否定する。
しかし。
つい、言ってみたくなってしまう。
即ち――、
ツンデレ? と。
「ハッ、――まさかな」
レンは思わず苦笑するのだった。
***
シーナ、イーナはパンと水を口に運んでいた。馬車移動ながらの、朝食。
それは二人が初めて経験することだった。
実は街を出発する前にレンだけを置いて、食料を買いに行ったのだが。
携帯食料ということで、栄養価の高いブロック状のものもあったのだが、値段が高い。 ヴァイル・ギルドのレーゼン討伐遠征のために物資として送られたのだろう、店に残り数個しか並んでないそれらは、いつもより値段が沸騰していた。
だから、安価で腹の足しになる食べ物――パンを買ったのだ。それと、気持ち程度のジャム。
――あ、レンにジャム渡すの忘れてた……。
シーナ、はっと気づく。
――この大瓶ごとで投げてもいいけれど……受け取れなかったらあれだし……。ジャム付きパンを投げてもレンの手がジャムだらけになっちゃうし……まあ、いいわ♪
レンへの気遣いを遠く彼方へと飛ばすシーナ。
「イーナはよく眠れた?」
「うん、快眠」
「私も。何だか不思議だわ。あんなに揺れてたのに」
「それもそうだね……」
「シーナ、聞いていいかな?」
「うん?」
それは、唐突だった。
「?天使?って、いると思う?」
「てんし?」
聞きなれない言葉にシーナは問い返す。
「背中に翼が生えた人たち」
「――まさか。いるはずないわ」
即答。
――そう、あれは唯の走馬燈――……。
「どうして?」
「だって、街で見かけないでしょう? 隣国のシノナ帝国では分からないけど」
「そう? 私はいると思う。まだ、誰も行ったことのない、見たことのない地――、」
「極北に」
イーナは遠くを見る目で言う。
「極北……霊峰のさらに北ってこと?」
それは、北に位置する最高峰の霊峰を越え、さらに北。未知の領域。
「うん。私はいると思う。誰も足を踏み入れたことのない未知の世界だもの」
「……どこでてんしを知ったの?」
「昔、本で読んだの。昔……ね」
「……そう」
昔。今は無い故郷の村のことだろう。
この時シーナ、一つの不安と一つの興奮が蘇る。
――この後、レーゼン討伐の後。私はどうするのか。もしかして、イーナも私と同じように、今後のことを考えているのかも。
そして、興奮――……。
――あの時、機関に二人で行った時。喝采に囲まれて、頭上で鐘が何度も鳴って……。まるで、私とイーナが皆を先導して出撃するかのような――……。
シーナは、自身の笑みに気づかず。
――あれは、堪らなかった。最高だったわ。……まるで、違う世界だった。
そして、あの男がいるべき世界。
シーナ、身体のゾクゾクを噛みしめる。
――もし、イーナと二人で、またあんな舞台に立てたら――……。沢山の人の喝采を受け、期待され、希望として、活躍するギルド。もし、そんなことができるのなら――……。
――これが、夢というものなら、叶えてみたい。実現させてみたい……。
イーナもまた、シーナと同じように夢を持っていた。
――まだ見ぬ地を目指し、冒険するギルド。
――極北だけじゃない。南、海も。西も。東も。未知が広がっている。
その最大の原因はやはりモンスターだろう。討伐する能力を持つ者は、探検隊には必須。
過去の無数の冒険家たちは、海を渡り新しい大陸を目指そうとすれば、ことごとく未知のモンスターに海に引きずり込まれ。北の霊峰は頂上に辿り着くことは愚か、そもそも迂回してそれより北の領域に足を踏み入れることすらできていないという。
極北。一体誰があの領域にそう名付けたのだろうか。きっと、昔の冒険家たちだろう。
極北。なんていい響き。それだけで雪化粧の夥しい霊峰や、未知の雪の領域を空想してしまう。
――シーナと一緒に未知を求め、そして自分の目で知っていく。未だ誰も知らない、到達したことのない世界へ。……そんなギルドにできたら――……。
二人は互いに自分の夢を空想し、胸がいっぱいになる。
――ギルドの、存続!
二人の想いは同じ。心の中、二人は同時に叫ぶ。
シーナが人々の希望――〝英雄〟を夢見るならば、イーナは、未だ見ぬ世界――未知を知る、〝探検家〟になることを望む。
しかし。ギルド存続の理由、夢の実現の前に。
そもそも二人は家族なのだ。一緒にいることに、理由などいらない。
ここでシーナ、不安と一緒にある男のことを考える。
「レンは?」
「……うん」
――レンは? レンはどうなるの? まさか、またあの部屋に――また、引きこもるつもり? せっかく私が引き上げてあげたのに、まさか、また戻るつもりじゃないでしょうね!?
シーナは危惧する。
「……もし、レンが私たちのギルドに入ってくれたら――……」
「うん。私も、そう思うわ……」
それは二人にとって、あまりにも非現実で、絶望的な願いだった。
***
シーナとイーナはキャビンから出て、到着を待っていた。
またさらに迫力をます霊峰。
ひんやりと冷たく、そして透き通っていて、深い味がする。それが本来麓の空気の味なのだが。
「あれは――」
シーナ、前方に目を凝らす。
「ヴァイル・ギルドだな」
それは麓に駐車する、大量の馬車だった。
「まだ人がいるわ」
レン、鉄の匂いに鼻腔が刺激され、懐かしい気持ちに落ちる。
――……この匂い、久しぶりだな。長らく嗅いでいなかったが……。――血、か。
「レン、少し離れたところに止めた方が」
シーナは隠れた方がいい、と提案する。
「ああ。ここで騒がれても面倒なだけだ。それに登山コースも考えないとな……」
「っ――この匂い!」
イーナがレンより遅れて気づき、悲鳴に近い声を上げる。レンと違い、血の匂いに慣れていないようだった。
シーナは気づいても彼女のように声を上げなかった。
血の匂いは慣れだ。
慣れない者が嗅ぐと大抵気持ち悪くなり、吐く場合もある。
血に慣れている者でもそれを嗅げば自然に身体が強張るものだ。
血。負傷、死の象徴。人はそれに恐怖を抱かずにはいられない。
血といっても。日常で目にする鼻血や怪我程度ではない。
今目の前の惨状は、四肢胴体切断のもの。普段嗅ぐような臭いではない、圧倒的に濃く。多く。生々しく。そしてねっとりとしている。
――血の匂い……、ヴァイル・ギルド総力でこの有様か。かなりいるな。
――見る限り、負傷者を運んだり介護する人数を考えて……今山にいる戦力はだいぶ削られているな……。しかも、まだレーゼンと遭遇していない、か。全く、国一が。この先未来が思いやられるな。
レンは嗤う。
「「――――……っ」」
シーナ、イーナ、全身が強張る。
淀み、ゆっくりと下へ流れてくる、血の匂い。
レンは馬車を小屋の影に止め、馬から降り背伸びをする。
「まさか、もうレーゼンと遭遇を? どうするの?」
そこへ不安そうに訊ねるイーナ。
二人はこの大勢の負傷者、レーゼンによるものと勘違いしているらしい。
「レン――……」
――どうするの? もしレーゼンと戦うヴァイル・ギルドの前にレンが現れたら、正体が――。
「いや――」
レンは一度、言うか隠すか迷ったが、言った。
「ヴァイル・ギルドはまだレーゼンと遭遇していない。あの負傷者は、他のモンスターによるものだ」
「――? どうしてそんなことが――」
しかしその問いをレンは遮り答えず。
「俺たちもすぐに行くぞ。――準備だ」
***
東の霊峰、そのどこか。
猛吹雪。暴風に混じるはヴァイル・ギルドの咆哮と痛感の叫び、そしてモンスターの轟き。
状況――悪戦苦闘。
視界は前述のとおり零に等しく、モンスターの位置も数も不確定。
これでは、大人数で包囲し叩くという戦術は使えない。
そして把握していること――。
――モンスターに、逆に囲まれていやがる!
ヴァイル、歯ぎしり。
「ああああぁッ!」
どこからともなく聞こえてくる、仲間の負傷の叫び。
また、仲間の血で雪が染まる。
「リーダァッ! また一人重症、それかそれ以上の――」
団員の一人が被害を叫ぶように報告。
叫び声から、負傷の度合いを図った。
重症か、恐らくは死んだだろう、と。
「くっ――! 負傷者は誰か運べ!」
ヴァイルは自身の身の程もある大剣を雪に突き刺し暴風を防ぎ、必死に頭を回す。
――何故だ――!? 何故、こんなにもモンスターが集結する――!?
「うわあぁぁぁぁッ!」
耳に届く、悲鳴。
――未だレーゼンと遭遇すらしていないのにィ――!?
「リーダー!」
――駄目だ、吹雪ではレーゼンの探しようがない!
「リーダァー! 戦力はもはや半減! 撤退! 撤退しましょう!」
――撤退。もしこのまま、分散しないまま撤退すれば、間違いなくモンスター等は追ってくる。ならここで分散して撤退するか? 各ばらばらの方向に。――却下だ。
吹雪が絶え間なく吹き続ける。
ヴァイルは顔を拭う。
――ここで分散すれば、再び合流できなく可能性がある。ただでさえこの天気、遭難も出るだろう。まだどんなモンスターがいるか、またその数も把握していない。戦力の分散は自殺行為。
――クソォッ! 何故天候は最悪、モンスターは異常なのだ!
ヴァイルは天運を恨む。ひいては、レーゼンを。
「駄目だ! ここで引けばレーゼンと遭遇できないどころか国が危ない! 何としてもここで食い止めるぞ!」
――全てこの吹雪のせいだ! この吹雪さえ無ければ――――ッッ!
ヴァイルは自身のギルド存続を放棄、ギルド存在の意味を果たすため、意を決する。
「死力を賭して戦えぇぇッッ!」
叫ぶ。
――せめて!、せめてだ! この吹雪が収まるまでッ! 何としてもッ!
ヴァイル、その身を賭して。その大剣を縦横無尽に、モンスターを切り続けた。
***
「はぁ――ッ、はぁ――ッ、ハァ――……」
麓を出発し、登り始めて既に三時間。今は朝の七時頃だろうか。
ヴァイル・ギルドに見つからないよう、シーナ・ギルドとレンの三人は正規登山ルートから大きく外れ、唯々尾根を登り続けていた。
他と比べれば、傾斜の低い尾根。
しかし傾斜が低いといっても、他の尾根と比べればの話で、いずれにせよ、人を一切寄せ付けない、険しい表情なのは変わらない。
レンを先頭に、シーナ、イーナの順。
皆、マントとフードを身に着け、傍からは正体をばれないように隠している。
レンは両腰に剣を四本装備している。後は――何も。
国をも滅ぼすレーゼンが相手だというのに――……。かといって、私やイーナも防具らしい物は身に着けていない。
レンに『必要ない。かえって登山の時間がかかるだけだ』と言われたからだ。そしてこうも言っていた。遭遇したらすぐに終わらせる、と。
シーナは自身の剣に登山食。
イーナの場合、その真っすぐに尖った耳から分かるように、種族はエルフ。そのため魔法発動の主な部分となる利き腕が武器になるので、水や簡単な食料以外持ってきていない。
「うぅう……」
猛吹雪が登山者たちを強く煽る。視界は――ほぼきかない。
――き……、厳しい――……。
標高、約四千。
ここは尾根であり、左右に逸れれば――即転落。死。
二人の少女は既に息が上がり、寒さや疲労で意識は朦朧とし始める。
「レン――…………、もう、少し――……ッ、ゆっくり――――」
「下るぞ」
「「――――え?」」
レンはそれだけを言って、右の斜面へ姿を消した。
「ちょ――……待っ――」
レンの後に続こうとするが、疲労でフラフラの二人は、上手に滑り落ちれるわけでもなく。
「――――ッ、――――――……ッッ」
仲良く二人、転がりながら落ちていく。
ゴロゴロゴロ――…………、と。
力のない悲鳴は下方に消えてゆく。
「うぐぅっ」
――や、やっと止まった…………。
「ッ、冷た――」
全身雪まみれ。髪も、身体も、靴の中も……。
二人は互いに身を重ねて雪の上に寝ころがっていた。
ビュゥゥゥゥゥウウウウウゥゥゥゥ――――
吹雪、弱まる兆しも無い。
ヒュゥゥゥウン――――…………
――――?
「止んだ?」
視界には、際限のない、どこまでも透き通った青空。激しく輝く眩しい太陽。
――吹雪が……消えた――? いきなり――?
残るのは、唯々不気味な静けさ。そして、頬を軽く撫でる弱風。
広がるのは、鍋底のような地形。
青と白、そのコントラストが素晴らしく美しい。
「ハァ……、何二人して寝てんだ。――来たぞ?」
首を擡げる。目の前には腰に片手を当て、片足を崩したレンがいた。
「え? 来た? 何が」
「レーゼン」
そういい、レンは三人が滑り落ちてきた斜面とは反対方向の山の斜上を指す。
――――。
――――……。
「何も……、来ないわよ?」
「シーナ! こっちに向かってくる!」
「――え?」
横を見ると、イーナが遠視魔法を使っていた。
利き腕の右腕をレンが指さした方向に伸ばし、その腕の上に淡く光る緑色の小さなサークルがいくつも重なっている。
そして、シーナも目視する。
「――来たッ!」
シュヴァルツ・レーゼン。
三人に向かって来るは黒いモンスター。
禍々しい漆黒の燐が体を覆い、それを飛翔させるは左右に荒々しくも巨大に生え渡る黒の翼。
その飛膜には傷がいくつもあり、歴戦を感じさせる。
口元は鋭利な形状で、非常に攻撃的な容。
「――――――――ッッッ!!」
「……無理だわ」
シーナはガタガタと震え、後ずさり。
デカいってものじゃないわ――次元が違う! こ、こんな――こんなモンスターがいるなんて……。
そう、それは唯単に知らなかっただけ――。
そこら辺に行けばいるモンスター程度しか知らないシーナからすれば、実態のレーゼンは規格違いの大きさ、存在だった。いや、資料としては例えば大型モンスターなどの実態は知っていたが。
実はこのレーゼン。国をもってすら規格外なのだ。
二人は激しく動揺、身を強張らせる。
イーナは右腕をマントから出し、前に突き出した姿勢に。迎撃態勢をとる。その腕にはエルフ特有の赤い模様。
シーナも腰から剣を抜き、討伐開始の時を待つ。
しかしこの時レン。心の中ではこんなことを思っていた。
――触らせやしない、と。
しかし今は敵は上空。レンでも手が届かない。イーナの魔法はカウントしない。
レーゼンと三人の衝突の時が迫る。
イーナ、右腕に意識を込める。
再び緑色のサークルが複数現れ、その円の中心を通る一本の線が伸び、掌の先に魔法陣が出現。
左手を添え、腕に奔る赤い模様――筋は熱を帯び始め、魔法陣は光を放ち――
「ッ!」
力みと同時、光弾を発射。
それは安定した軌道でレーゼンに向かう。
遠距離精密射撃魔法。単に言えば狙撃魔法。限界までの正確射撃。
放たれた光弾はレーゼンの目前まで一直線迫り――だがレーゼンは巨大な翼を一打ち、躱す。
「くっ!」
イーナ、次発の構え。
右手の掌に、第一射撃とは異なる複雑な模様の魔法陣が出現。
イーナは右腕で真横に空を切り、真上に突き上げる。
同時、イーナの両横に複数の魔法陣が出現、斉射。光弾の嵐――弾幕がレーゼンを迎え撃たんとするが――それは牽制にもならず。
レーゼン、大きく方向を変え、全て避ける。
翼を大きく広げ胴体を斜面すれすれまで下げ、山の斜面を滑空。直線的に三人に近づいてくる。それはもう既に対の斜面。
「――ッ!」
シーナ、強張りながらも剣を構える。
瞬間。
シーナはその時自身の横で何かが弾け飛んだと幻聴、幻視。
レンがその足に力を溜め、飛び出したのだ。雪が次々と爆ぜる。
瞬間的に種を超える速さに到達、尚も速度を上げる。
レーゼンとレン、互いに真正面から計算外の力でぶつかりせんとし、彼の持つ剣の刃は左翼の付け根を抉り――そのまま互いの力が作用し、左翼を切断。
鮮血の飛沫。雪が赤く濡れる。
左翼は彼方に吹き飛び周囲にこだます痛みの咆哮ながらの墜落。
遠くにいてもシーナとイーナが耳を防ぐに値する叫びの声。
レーゼンはそのまま斜面を滑り落ち、二人のすぐ隣を豪速で通り過ぎて斜面に激突、停止。
想像を絶する痛み。
左翼の損傷、例えるなら左腕の切断か。
赤い血が雪原を迸る。
レーゼン、左翼を失い、絶命の傷。
失血致死量に至る血がその付け根から噴き出し続ける。
その命、残り僅か。最期。
レーゼンは口を大きく開け、口内に光が溜まる。
「ッ――!」
「ブレス!」
それを見たシーナは身の毛がよだち、全力で後方に跳び。
イーナはブレスを迎え撃たんと、瞬間的に二度三度右腕で空を切り、魔法陣を出現させる。
刹那、――発射。
しかしレーゼン、ブレスを撃たず、口内に迫る光弾を残った右翼で防ぐ。
「シーナッ!」
ブレスは回避できないと悟ったイーナ、シーナを呼び寄せ、全力で防護魔法を紡ぎ始める。
最初は一つの魔法陣。それは次第に増え、互いに結びつき、重なり合い、強固になってゆく。
光が口内で膨れ上がるのを目視――
――間に合わない――ッ!
その時、レーゼン自身すら焼く程の、口内で膨れ上がる光を目の前にした二人、死を悟る。
――間に合ったとしても、即席の、私の魔法じゃ防げない。
――防ぐじゃなくて逸らす、防護魔法から湾曲魔法への紡ぎ直し? いや、変換?
――いや、そもそも私は一度紡ぎだした魔法を別の魔法に変換できる技術は無い。
――一度今の魔法を完全に放棄して一から湾曲魔法を作る。そんなことは時間的に不可能。
――不可能を可能にたらしめるレンは左翼切断から姿が見えない。レン頼りはできない。
尋常ではない速度での思考。死を迎える身体はそれを回避しようと脳に力が注がれる。
死を免れる方法を探せ、と。
――もう走った方がいいんじゃ――それではダメッ! ブレスを薙ぎ払いされたら消えてなくなるわ!
イーナは思考ながらの魔法を続ける。
「くぅ――ッ!」
魔法の過度行使により体内の熱さに歯を食いしばる。
全身の神経が焼ける感覚。
最も力が集中する腕からは湯気さえ出ていて。
イーナ、その腕がもぎれようと全身が焦げようと、死力で魔法を紡ぎ続けた――。
自身を滅する敵を前にし、死が見えたモンスターが最期の間際。
自身を顧みない、残存する己の全ての力を賭す、死力の攻撃。
せめて眼前の、己を滅さんとする敵を殺す、道連れにしようとする自害にも等しいそれを軽んじた、二人のミスだった――。
「――ぶほっ……、ぺッ――雪につっこんじまった……ん?」
見ると、ブレス直前のレーゼンと防護魔法を展開させようとしているイーナ、その後ろのシーナ。
――あの魔法じゃ、死力のブレスは防げねぇな。ハァ……。――終わりにするか。
レン、雪から飛び出し瞬間的に加速。
「――――ッ」
刹那、レンの刃はレーゼンの首へ――――そして、刈る。
切り飛ばされた頭が宙に浮き、首から光が溢れ――爆発。
それによって、レーゼンの身体が抉り取られる。
血の爆散。ブレス、不発。
もはや、原型は留めていなかった。
レーゼン、轟沈。
一瞬の出来事だった。
二人は唖然し立ち尽くす。
レンは端から端の斜面へ移動したのだ。
……その移動速度は、獣人の限界を遥かに超えたものだった。神速。
完全に力尽きたレーゼンを、煙の中を見るように透視魔法で確認したイーナ、魔法から完全に意識を逸らし、膝を折る。
死を回避しようと死力を尽くして魔法を行使したのだ、その疲労は計り知れない。
しばらくすると、煙の中からレーゼンの頭部を引きずってくるレンの姿が。
「怪我はないな?」
「……ええ」
シーナは答える。イーナは小さな声を出すのもままならない。
「途中の小川で――いや、ここで血抜きするから少し待っていてくれ」
「「…………」」
二人は思う。あっという間だった、と。
シーナに関しては一度も己が剣をレーゼンに当てていない。いや、そもそも当てられる相手だったのか。……否だ。
イーナの魔法も、レーゼンに対して攻撃とは程遠いものだった。
全て、レンが。――――【生ける伝説】が。
この討伐はレン単独と言った方が正しいように聞こえる。
――――化け物。
二人は激しく畏怖する。
人間の外見で、獣人を、エルフを、全てを凌駕する力を持つレンに。
彼は、生き物でさえあるのか――?
――生き物だ。
シーナは答える。レンは何も食べなければ餓死する。
それならば。
どうやって彼を説明すればいい?
未知。――いや、そんな言葉は通用しない。不可解。
彼は――レンという?何か?は、一体――――?
恐怖。
目の前のソレに、それ以外の何がある?
それでも尚、人々がレンを、【生ける伝説】を求める理由――。
それはどんな依頼でも、何が相手でも、必ず成し遂げるという結果。
そして、レンは麓に着いた時には、まだヴァイル・ギルドはレーゼンと遭遇していないと断定した。
――わけがわからない。
――何者……?
レン、【生ける伝説】の、正体は――――?
***
時はシーナ・ギルドとレンが霊峰に出発して間もない頃。
場所、マックス・ホテル、そのニ◯五号室。
レンの代役をシーナに任されたホテルフロントは、ベッドに寝転がっていた。
――誰も来ないで欲しいんだがな……。
ホテルに客が、ではない。レンを探しにくる来客の方だ。
そして目を瞑り、笑う。
「ハハ、まさか本当にレンを動かすとはな」
そして、あの時の彼女の豹変。
「シーナ、お目は一体何者なんだ?」
シーナ・ギルドとレンが向かったのは霊峰。シュヴァルツ・レーゼン討伐。
国最大のモンスター討伐ギルド、ヴァイル・ギルドすら全滅させるかもしれない、つまりフィーアを、世界を滅さんとする――そんな脅威を一体誰が止めるか。
――思い当たるのは一人ぐらいだな。
「シーナ、お前はこの国を、――それ以上のものを救った。レンを吹っ掛けることによって」
「――やはり、俺の目は確かだったな」
マックスはフッ、と微笑を浮かべる。
――コツ、――コツ、――コツ…………
足音が階段、そして廊下に響く。
――ヒール? いや、それにしては響きが少しだけ重い。ブーツヒールか。
レン狙いの依頼者じゃなさそうだな……。
マックスは足音から、大人の女性と判断。
ベッドから跳ね起き、フードを顔の判別が難しくなる深さまで被り、カーテンを閉める。
室内は暗闇に染まる。
近づいてくる足音。
マックス、緊張の波高まる。
そして、その人物は部屋の前に現れた。
――あ、あんたは、確か――……。
マックス、瞠目する。それは全く予期しない人物だった。
確信どうりブーツヒールを履いた女性。
燃えるような赤色の髪を後ろで束ね、黒のドレスに黒のロンググローブ。
上品さがあり、どこか妖艶を感じさせる雰囲気。
「いきなり押しかけて申し訳ございません。私はリヴェリー・テイルと申します。ヴァイル・ギルドの運営を務めている者です」
「……」
名乗らなくてもその姿を見れば、この国の者なら――いや隣国の者でも分かるかもしれない。
リヴェリー・テイル。
紛うことなき、フィーア最強ギルドのリーダー、ヴァイルの妻だ――――。
「レンさん、お願いがあります。ヴァイル・ギルドの救助に向かってはくれませんか」
――救助? 何故だ? それに当の本人はその霊峰に行っているんだが……。
リヴェリーは懇願していた。
マックス、酷く困惑。
――聞く話によると、ヴァイルギルドは霊峰出発前、機関に一通の封書を置いていったそうだ。内容は確か……、
――レーゼン討伐においてレンの強制捜索、同伴を禁止する、だったかな。しかしそうなるとおかしいな。……目の前のリヴェリーだ。封書にはヴァイル・ギルドの紋章が捺印されていたらしい。封書はリヴェリーが用意したものじゃないのか?
マックスが思考を重ねていると。
「情報によると、フィーア国の東をぬけた一帯から、霊峰へモンスターが移動しているとのことです。おそらくシュヴァルツ・レーゼンの影響でしょう。ただでさえ霊峰は天気が荒れやすいんです。レーゼン討伐だって無茶に等しいのにあの人は――――……ッ」
リヴェリーは、今にも泣き出しそうだった。
「お願いします――ッ、救助に向かってはくれませんか――……」
薄暗い部屋に一つ、鼻啜りが響く。
――まずいな。嫁を泣かせたと知れたらヴァイルに殺されてしまう。
リヴェリーは唯じっと、マックスの言葉を待ち続けている。
――ん?
階段を駆け上がる複数の足音がマックスの耳に届く。
――重い。武装をしている。四人、……レン狙いか?
それは本人が一番危惧していることだった。
――ここにヴァイル・ギルドの運営がいることは不味い。とりあえず安心させてあげなくては。
「ぁー、ミセス・テイル、安心してください」
リヴェリーに対し若干口下手なマックスはそれだけを言い。
「――――?」
マックスはリヴェリーに歩み寄り、フードをずらす。
「私はレンではありません。ここの――マスターです」
「――っ!」
「本物のレンはつい先程、シーナ・ギルドと共に霊峰に出発しました。レーゼンの討伐へ」
リヴェリーは目を見開き、そして安堵する。
「マックスさん……あなたレンさんの――代わり?」
「はい」
マックスは微笑む。
「よかった……」
リヴェリーは胸に手を当て目頭を抑える。
そして足音が近くなり、乱雑な足音の正体が現れた。
そこには予想どうり、四人の武装した男たちがいた。
「なッ、なぜヴァイルの嫁がレンの部屋にッ!」
男たちはレンと一緒にいる人物を見るなり狼狽える。
――ふん。リヴェリーのヒールブーツもそうだが、ここは俺のホテルだ。階段や床を歩くときの音の響き具合で大抵どんな身なりかわかる。長く居れば造作もない。
ホテルフロントは誰に自慢するわけでもなく、一人フードの下、すかした顔をした。
「まさか、ヴァイル・ギルドもレンを!?」
「いや、ヴァイル・ギルドは昨日出発したはずだ」
「ならばこれから連れていくということか?」
「くっ――…………」
男たちは先を越された、と悔しそうな顔をする。
さすがにヴァイル・ギルド、その運営――、しかもヴァイルの嫁ともなると、身を引くことしかできないのだろう、そして、次にその表情は一転する。
「いえ、私はこれで失礼します。レンさん、また後程」
リヴェリーは含み笑いを浮かべ、退出する。
「は……?」
「何しに来たんだ?」
男たちは唖然としていたが、すぐにマックスに向き直る。
「ま、まぁいい。レン、俺らと一緒にレーゼン討伐にい、行くぞっ」
――――ハァ。
マックス、呆れて溜息を内心こぼす。
自分に怖気づきながらの要求。
だがそれを当然ながら断る。
「悪いが、俺は今体調が優れないんだ。行けない」
マックスはいつもの口調より少しだけ声のトーンを低くする。
――どうせ、レンの声なんて知らないだろう。
「ハッ、その手には乗らないぞ【生ける伝説】よ! この国を守るため、お前は俺らと一緒にレーゼンを討伐しに行くのだ!」
――……。
――なんだそのシナリオ。英雄? 英雄になるつもりかこいつらは? 死体になるの間違いでは?
マックス、目の前の無謀の塊に頭を抱えたくなるが、なんとか自制し抑える。
――悪いが、もう英雄は二人、決まってしまったんでな。
「ハハッ、体調が優れないならば結構! 俺らが霊峰まで運んでやる!」
そう言い、一人の男が縄を取り出す。
「――ハァぁああぁ……」
ホテルフロントは遂に頭を抱えるに至り、それは深い溜息を吐いた。
「なっ、なんだその溜息は!? う、動くなよ!」
――おっと、あまりにも酷すぎて本当に溜息が漏れてしまった。
マックスはつい笑ってしまう。
――こいつら俺が偽物と知らないからいいが、本物のレンにも縄を使うつもりなんだろうな。馬鹿か。レン相手に縄とか。無理だろ……。
この世界のトンデモナイモノを見てしまったように項垂れた。
マックスは勢いよく立ち上がる。
「――ッ!」
男たちは驚き肩を跳ね上げる。
「悪いがお前らに捕まるわけにもいかなくてな」
マックス、フードの下で獰猛な笑みを浮かべる。
――動くのは何年ぶりだ? 身体が鈍っていないといいがな。
「――! そうこなきゃなッ!」
男達はじわりじわりと壁に追い込んでいく、――が。
シャァァッ
「うぅ!?」
マックスは閉められていたカーテンを勢いよく開け放ち、男三人の目を晦ませた。
その隙に素早く窓を開け、その身を滑らせる。
高さ建物二階。身体は垂直に落ち、衝撃を吸収するように華麗に着地。
そのままフードを抑え、走り始めた。
「レ、レンの奴二階から飛び降りやがったッ!」
「あいつやっぱり体調なんか悪くなかったんだ!」
「く、くそぉ! 誰かそいつを捕まえろぉッッ!」
男たちが窓から身を乗り出し叫び散らす。
「――ん?」
マックスの走る先には、先程のように装備を身に着けた男の集団が。
――何ごじゃごじゃ固まってんだ、霊峰に行け霊峰に!
ヴァイル・ギルドやシーナたちが必死で戦っているのに、と苛立つマックス。
その時、自分に向けられた男たちの複数の視線に、何か嫌な予感を感じた。
「おい! あのマント、シーナ・ギルドを攫った獣人じゃねぇか!?」
集団の一人が自分を指さし、声を上げる。
「ほんとだ! よぅし、今度こそ捕まえて締め上げるそぉ!」
男の集団が雄たけびを上げながらマックスを捕まえようと駆けだす。
――レン、お前は何をしたんだ?
心底疑問に思いながらも、マックスは加速する。
互いの距離がぐんぐんと縮まる。
「――は、早い!?」
「よぉおし抑え込めぇ!」
集団は迫るマントを抑え込もうと前方に飛び込む。
――そして。
「な――ッ」
次に一同、驚愕。それぞれが首を真上に擡げる。
マックスは捕まる直前に跳び、空中で一回転。
青い眼光が浮かぶその眼に、男たちの見上げる顔が映り。
そして集団の後方に着地――、再び走り出す。
「俺らを飛び越えて回避だとォッ!?」
「くそっ、追いかけるぞ!」
男たちは急停止、方向転換、再び追いかける。
しかし、一向に距離は離れていく。
――よし、追っ手に獣人が混じっていなくて助かった。いたら敵わない!
「おおおい! そいつだぁ! そのマントが犯人だぁ!」
遥か後ろの方で男が叫ぶ。
目の前には――警察。
――げぇっ。仕方ない。逃亡だッ――!
「と、止まれぇぇえ!」
警察は両手を広げて進路を塞ぎ行かせまいとするが、
しかしマックス、軽々と飛び越え――逃走。
「――!?」
後ろからはまだ諦めないのか、雄たけびやら叫び声がこだまする。
――ひぃっ!? 俺はいつまで走ればいいんだ!
ホテルから全力疾走のマックスは息切れしながら狼狽する。
身体は既に悲鳴を上げている。……特に脚が。
呼吸は乱れに乱れ、ホテルフロントは苦痛に顔を歪める。
――くそぉっ! どうして俺がこんな目にッ!
気づけばあの喧騒がすぐ後ろまで迫っていた。
ホテルフロント、汗を顔から垂れ流し、歯を食いしばる。
「うぉおおおおお!」
――その日、マックスは走り続けた。
***
場所と時は変わり、霊峰。今のヴァイル・ギルドの様子は。
ヴァイルを先頭に隊列を組み、尾根を登っていた。
吹雪は止み、青空と白い太陽。視界は極めて良好。……しかし。
「……リーダー、レーゼン討伐は――あ、諦めましょう……!」
団員の一人が後方を振り返り、そして前を行くリーダーに訴える。
しかしそれを断じて切る。
「却下だ! ここでレーゼンを食い止めなければ、いずれフィーア国に来襲する!」
「しかしッ!? もはや吹雪の中の戦闘であろうことか総員の半分がやられました、もしレーゼンと遭遇できたとしても討伐は叶わな――」
「傷の一つぐらいは与えてやる! 撃退だ、せめてレーゼンを撃退させる!」
「……ッ!」
「それすらもできないギルドがフィーア国最強? 笑わせるな! もはや悪天候と異常事態に戦力の半分が削がれたのだ、半分だぞ半分! これでは撤退してもいずれはフィーアは滅ぶ!」
「な、ならばッ!? 帝国シノナの軍隊に要請を――」
「シノナは獣人以外を差別対象にしている、そんな国に要請などできるかッ!」
「ならば……いやしかし――」
「我らヴァイル・ギルドがレーゼンを葬るのだッッ!」
ヴァイルは歩みを止め後ろに振り返り叫んだ。
リーダーの叫びが静寂の雪山にこだまする。
そのとき、今この場にいる全ての団員は死を覚悟しただろう。
ここが、このヴァイル・ギルドの墓場になろうと。
この討伐に参加することが決まった時から、己の死を見定めた者もいるだろう。
静寂、全くの静寂。感じるは肌を撫でる微風と、それが雪を撫でる音。
高所故に深みのある青空、そしてそこにある白い太陽。
霊峰を覆う白い雪と深い青。思わず溜め息が漏れる。
感性ある者ならば、そこに何時間といようと飽きを感じないだろう。
――本当は霊峰にレーゼンなんていないんじゃないのか。
団員は思ってしまう。
こんな静寂とした場所に、まさか、と。
もう、北に帰ってしまったのではないか、国をも、そして我らギルドを滅ぼす脅威は、もうとっくに去ってしまったのではないか、と。
――、…………――――、
「進むぞぉ!」
とたんに現実に引き戻される団員たちの意識。
立ち止まっていた一向は、再び登りを始める。
ヴァイル・ギルドは数――、量でも他を圧倒しているが、最強の実態は〝質〟にある。
……ヴァイル・ギルドの団員、果たして最強とまで称される〝質〟は、腰抜けに見えただろうか。
――否。決して腰抜けなどではない。
ではリーダー、ヴァイルは冷徹であるか?
――否。リーダーは非情などでは決してない。本性は――逆。
しかし想像しよう。
世界最大のモンスターとの防衛線、それが?未知?によって一瞬で機能停止、全滅し。
悪運と異常で国一のギルドの総力、その半分が削がれ。
これからその〝未知〟と遭遇し討伐する。
……この現実が、事実が。どれ程重いものか、――如何に分かるだろう?
しかし、その状況においてもヴァイルが進むことを選ぶのは、賭けているものがあり、確信しているものがあるからだ。
団員は、〝非現実さ〟に狼狽えているのだ。
既知は現実であり、未知は如何なる場合でも非現実である。
しかし、撤退を進言するに至った恐怖。
未知は未知であるが故に、恐怖であり、死なのだ――。
世界最大規模の北の防衛線を、想像を遥か絶する簡易的破壊。それを現実にした未知との闘い。
……以上は非現実であるか? それとも現実であるのか?
――非現実と願いたい。
しかし事実――現実。不変。……絶望。
未知は常に既知を上回る存在、そして最強を超えていく存在。
ならば。
その未知と対抗するは。
最強を超える何か。
もはや比較するにも値しない。
ヴァイルが想い、信じるという名の確信とは――?
ヴァイル・ギルドはレーゼン捜索のため、尾根を登り続けた。
だがその途中、戦意喪失、自暴自棄、茫然自失とする者も多い。
国一。フィーア国最大勢力ギルド、その総力を上げて、半数がレーゼンと遭遇する前に潰えたのだ。無理もない。自信も無くすだろう。
しかし、先頭を歩くヴァイルだけが、全く違うことを考えていた。
たった一つの、淡い光を放つ希望に、全てを賭けていた。
ヴァイルは確信している。
ヴァイルが知る伝説は、数年前に止まった。潰えた。
暗闇の世界に閉じこもったのだ。
――しかし。
ヴァイルは確信している。
その伝説が再び動き出すとすれば――、と。
伝説が再び動き出すとすれば、――〝今〟しかない、と。
あの時。猛吹雪、モンスターの正確な位置も数も、味方の被害も分からない死線の時。
ふと、不思議なことに吹雪は突然――止んだ。
いきなり、何の前振りもなく唐突に。季節が移り替わるように。
あるのは開けた景色と唯不気味さ。
その景色――視界に入ったのは。雪地を赤く染めている血と死体、死骸。そして残る団員とモンスター。
ヴァイル・ギルドもモンスターも互いに動きを止め、茫然とした。
団員たちは自身の武器を握ったまま、あるいは魔法を展開、行使しながら固まり、皆空を仰いだ。
モンスターたちも同様に――否。モンスターは何かを感じ取っていたのかもしれない。
その後はヴァイル・ギルドの舞台だった。
敵味方の位置は明白に把握、魔法による過密弾幕の嵐。
四方八方乱れる激風も突風もない。獣人の身軽な身体は飄々とモンスターを狩り。
視界は行き届き常に状況を判断、ヴァイルは的確な指示を飛ばし陣形を組み。
ようやく本来の実力を発揮、群がるモンスターを根絶やしにした。
そして一行は、レーゼンの捜索を再開した。
その途中。ヴァイルは三つの足跡を見つけた。
そして、何かを引きずった跡。それはかなり大きく、血が伴って、下方に続いていた。
――何かのモンスターの一部か…………いや、待て。
「…………ッ!」
その時、ヴァイルに電流走る。
確信が現実となる。
――これは、まさか……、動いたのか? あいつが……、伝説が……!
ヴァイル、一種の混乱状態。
確信を不変の現実に変えた跡を、見続ける。
――ならば、ならばこの引きずった跡は!? 何のモンスターだ! まさか、本当に……!
「リ、リーダー……? 撤退、ですか……?」
立ち止まってから唯立ち尽くす我がギルドのリーダーに、団員は恐る恐る声をかける、が。
「進むぞ俺に続けぇぇッ! ――はは、はははははははッ!」
「――、――――!?」
いきなり笑いながら走り出すリーダーに、唖然。慌てて走り登る。
一行が走りながら登っていると、ふと、白と青の世界の中、右下に赤が混じる。
「あれは、まさかッ」
ヴァイル、目を見開く。
右斜面を見下げるとそこは鍋底のような地形で、その一部が赤く染まっていた。
その正体、大量の血。
そして中心にある黒い塊。それは焦げていた。広がる血、モンスターの死骸だろう。
しかし原型を留めていない。ここからではあの黒焦げの正体が分からない。
「下りるぞぉ!」
遠視魔法を使えと言うよりも先にヴァイルは身を斜面に投げ出した。
身の程の丈の大剣は背中に背負って横にし、、どこかの二人より上手く滑り落ちて行く。
リーダーを先頭に、皆次々と斜面を滑り下っていく。
「ハァ――ハァ――ハァ――ッ」
無我夢中で黒焦げに走り寄るヴァイル。
「おい! 早く照合を!」
息を切らせながら走ってきた団員の一部が、紙片や書物を広げたり、死骸の寸法を図り大きな翼を広げたりして検証をする。
――――――。
―――――…………。
「どうだ!? 分かったか!?」
ヴァイルは結果を催促する。
「……はい、間違いなくシュヴァルツ・レーゼンの死骸です。頭部は首の付け根より消えていて行方不明、また左翼は切断されています。それに身体の半分は吹っ飛んでいるようです」
傍から見るとそれは黒焦げの塊だが、よく見るとそれはレーゼンだった。
首の付け根から上は無く、翼は片翼がちぎれ腹部は内部から破裂したように抉れている。
元は黒光りしていただろう鋭利な殻は溶けて固まり、唯一まともに原型として見られるのは尾ぐらいだろう。
破滅の象徴シュヴァルツ・レーゼンは見る影も無くなっていた。
「そうか」
――そうか。そうかそうか! やはり……! ――レンッ!
ヴァイルは一人目を輝かせ、嬉しそうに口角を釣り上げる。
「しかし、我らより先に一体誰が? ……シノナでしょうか?」
死骸を見つめ、不安そうに呟く団員。
――こんなことをできるのは、一人しかいない。
――シーナ。レンを焚き付けることに成功したのか。
とうとう、長らく止まっていた伝説が、――動き出した。
【生ける伝説】は、――復活したのだ。
…………だがヴァイル、それは大きな勘違いだった。
【生ける伝説】は、まだ復活していなかった。
「くく、――ハァッハァッハァッハァッッ!」
「――!?」
ヴァイル、気分が高ぶり、突然大声を上げて高笑う。
団員たちは強大な脅威が排除され、多大な責任とプレッシャーから解放されておかしくなったのかと危惧するが、当の本人はそんなことには気付きもせず笑い続ける。
「ようしッ! 麓に戻るぞ! 下山だ!」
「リ、リーダー、死骸は? レーゼンの死骸はどうするんです!? 持ち帰りましょう!
まさか放置――」
団員の一人がとんでもないという表情で言う。だがそれを一蹴する。
「知らん。今は麓に戻ることが第一優先だ。もしあのモンスターたちの集結がレーゼンによる影響だったのならば、それが討伐されたんだ、モンスターも本来の居場所へと下山しているだろう。そうなると麓にいる団員たちが心配だ。肝心の頭が無きゃ話にならん! 行くぞ!」
――頭は討伐者にくれてやる……。
ヴァイルはニヤリと笑う。
その真意は本人以外誰も推し量れなかった。
現在。朝の八時。
ヴァイル・ギルドが麓に着いたのは、その後の度重なるモンスターとの遭遇で、夕方のことだった。
不思議なことに、麓周辺にはモンスターの死骸がゴロゴロと転がっていた。麓にいる負傷者や彼らを運んで来た団員は、下山を終えたモンスターを見なかったという。
この話を聞いて、唯一人、ヴァイルだけが高笑いをしていた。
***
「やっと着いたあぁぁ」
シーナ、脱力。
「私も、もう――ダメ」
イーナ、地に沈む。
百戦錬磨。下山はまさにそれだった。前から後ろから右から左から上から――……四方八方から際限なく現れるモンスターの数々。
イーナは過度の魔法行使で疲労の限界だったが、剣でなら戦えると言って無理をした。
まるでモンスターと下山しているかのようだった。
その上、【生ける伝説】はズルズルとデカいレーゼンの頭部を引きずって『あ、俺こいつ運ぶので大変だから二人で討伐しておいて』と言って最初こそは剣すら抜かなかったが。
――でも結局最後はレンがあっさり全部斬っちゃうんだよね……。
そう、二人が手に負えるはずのないモンスターの大軍とグダグダ攻防をしていると、何か堪えきれないのか、レンが二人の間を抜けて跋扈するモンスターを一刀両断にしていったのだ。
「イーナ」
「ん……何です、か」
無い力をいれるように地から首を擡げるイーナ。
「こいつの鮮度を保つように魔法掛けてくれないか?」
レンはレーゼンの頭部を指さす。
イーナに限っては先の戦闘、レーゼンとの戦闘で、それこそ死力を賭しての魔法行使。
もう一度言おう。死力の魔法行使。その上モンスターとの剣での戦闘。
今のイーナは、どれ程疲労しているか……は自明。
如何にレンの非情さが分かるだろう――?
「無、理……です、今は……」
「――イーナ」
深紅をその眼から滲ませ、冷たい声音を放つレン。
「…………っ」
シーナは死力を発揮したイーナにモンスターを押し付けるだけではなく、さらには魔法まで要求する酷さに怒りを覚えたが、もはや声を出す力さえ絞り出せない。
「分かったっ、て……」
イーナはその冷たい視線に応える。
………………。
「くっ、ぅぅ、ぅぐぅっ、ぁあっっ」
イーナは歯を食いしばり、ふらふらと死人のように立ち上がる。そして言われた通り魔法を掛け始める。
「……ぅうっ」
身体が内側から酷く痛むのだろう。神経が焼ける感覚を感じた後なのだから。
「ふうッ――ぅぅうあぁっ!」
力弱く、今にも消えてなくなりそうな魔法陣は、痛みを黙らせ悲鳴を上げながらも完成、
そして地面にぐったり座り込み、
「できたよ……」
精力の無い顔で言う。
「よし」
レンはそれをキャビンの屋根の上に片手で置き、傍から正体を隠すためシートで覆う。
屋根にも物を置けるように特別、ことさら頑丈に作られていたキャビンがミシミシと悲鳴を上げていた。そしてその上からロープで縛りつける。
それを見たシーナ、心底おかしくなって声が漏れた。
――ちょっと。その頭どれだけの大きさがあると思ってるの。
レーゼンの頭部は屋根から大きくはみ出ている。
――やっぱり、化け物、ね――……。
シーナは身体の芯から指の先までの全ての力を抜いた。
あとはこの意識を手放すだけ――
「おい、何地面で寝てんだ早く乗れ。帰りも俺が御者やってやるから。お前らは寝てろ」
「くぅぅぅッ」
――一度抜いた力をまた入れるのにどれだけ大変か! 御者やってくれるならついでに私たちを背負いなさいよッ!
二人は互いを支えあうように立ち上がる。
「あと、お前ら斜面転がって濡れただろ。二人とも寝る前に着替えろ。イーナ、寒かったら魔法で温めてやれ。燃やすなよ?」
――まだイーナに魔法を使わせるの、レンは。寒さぐらい我慢できるわよ。
「……わぁ、優しいレンがいるぅ」
イーナがおもむろに言う。疲弊の果てに頭がおかしくなのだろうか。
それに最後の方は聞いていなかったのか。いや、遮断したのか。
「ハァ……。――黙って早く乗れ」
レンは飽きれるように言った。
シーナ・ギルドとレンは無事レーゼン討伐を果たし、アルバへの帰路についていた。
「私、何もできなかったわ」
「でも下山の時はシーナ凄かったよ?」
キャビンの乗り込んだ後、シーナとイーナは少し休んだ。さすがにすぐには動けなかった。手を動かすのでさえ激しく辛い程に。
二人は今、雪が解けてぐっしょりと濡れた服を脱ぎ、着替えをしていた。
「私どれくらい討伐したかしら……。必死だったから数えていなかったわ」
「えーと、シーナが三十くらいで私が十二、そしてレンが――百ぐらい?」
「あはは、桁違いね。恐ろしい殲滅力だわ。途中で力尽きちゃったものね私たち。私討伐学校にでも行こうかしら?」
「……」
「――――……」
互いに無言の時間が続く。
「――イーナ」
「――?」
話を切り出したのは、シーナ。
「この後のことなんだけど」
「うん……」
――ついにこの話をする時が来た……。
「レーゼンは討伐できて、一応私たちの夢は叶ったわけだけど――……。い、イーナはどう思う?」
「シ、シーナこそ」
「私からいいの?」
「いいよ」
「私は――ギルドを続けたい。覚えてる? 二人でレーゼン討伐依頼を受けに機関に行った時」
「うん」
シーナの脳内は、興奮で埋め尽くされる。
その興奮を、思い思いの言葉でシーナに伝えた。
「つい昨日のことなのに、何だか昔のような感覚だわ」
シーナは心底嬉しそうに、楽しそうに笑う。
「私もいい?」
「もちろん」
「私はね、北の霊峰のさらに北――極北に行ってみたいの。北だけじゃない――」
イーナは地図を広げ、目を輝かせる。疲労はどこにいったのか。
「南――海の向こうには何があるのかとか、シノナ帝国のさらに東はどうなっているのとか。未だ誰も到達していない地を自分の目で見て、自分の足で踏みしめたい。地図に記されていない世界を知りたい。興味が湧いてきて仕方がないの」
「私って、未知に憧れているのね。世界踏破っていうのかな」
イーナは子供のように微笑む。
「もちろんギルドも続けたい」
「ギルド存続、ね?」
シーナは確認のように言う。
「――うんっ」
疲労とは別の、何か重いものが肩から抜けていく感覚を二人は味わった。
――……やっと、イーナに話せたわ……。
そして、次の目標へ。
「私の夢とイーナの夢、このギルドで叶えられないかしら」
その方法に思考を巡らせるシーナ。
――二つの夢、それに共通するものはやっぱり、モンスターを討伐する力が必要なこと。
「わ、私の夢はいいよ、シーナのギルドだもの。それに世界踏破なんて無謀っていうか不可能っていうか――」
「イーナの夢はシーナ・ギルドの新たな目的でもあるの。だから、叶える。無謀なんかじゃないわ」
「――ありがとう」
イーナ、破顔。
「後、」
「――?」
シーナはおもぶるように言う。
「レンのことなんだけど――」
「シーナはどうしたいの?」
「私は、レンを放ってはおけないわ」
「……レンのこと、好き?」
――――。
――――……。
その時イーナ、空間が凍り付いた感覚に恐怖を覚える。
「あっ、その、ごめん、今のはちょっとふざけて……」
今のはほんのおふざけ……、全力を以って謝ろうとするイーナにシーナは。
「違うのよイーナ。私は唯……。恋愛というのがよく分からないだけ。それに――」
「あんな得体の知れない何かを、好きになんてなれないわ」
「…………」
「けど――」
「仲間として私はレンを受け入れるつもりよ」
「つまり、レンをギルドに?」
――さすがイーナ。考えることは私と一緒ね……。
「本人が進んで入ってくれるとは思わないけどね……」
その会話を最後に、二人は眠ってしまった。
***
「シーナ、シーナ起きて!」
「……――――ん……どうしたの……」
横でイーナが騒いでいる。
ガタガタと振動に脳が揺れている。
いきなり起こされてまだ頭の中が鮮明ではないシーナ。
「もう街に入っちゃったよっ!?」
「――え」
それを聞き、朦朧とした意識は吹っ飛ぶ。
「私たち今まで寝てたの!?」
「そうみたい――っ」
二人は外へ呼び出す。
急いでレンと御者を変わろうとするが――
「ホテルまでは俺がやるからいい」
「――え、でも――――」
レンは慌てる二人を言葉で制する。
「大丈夫だ」
そう言い、レンはさらに深く自身の顔をフードの中に沈めた。
「そう……」
レンが大丈夫というなら――、と二人はとりあえず安堵して息を吐く。
そしてあらためて周りを見渡すと、胸がいっぱいになった。
目に入ったのは、懐かしい風景だった。
いつも二人でレンを探し回った街。
たった一日いなかっただけなのに、相当長くこの街に居かった感じがする。
フィーア共和国、首都アルバ――宿泊施設や酒場が並ぶ通り。
ホテル等に宿泊している大抵の人がまだ夢の中、朝の静けさが漂うこの通りを、馬車はゆっくりと進んだ。
***
「ふぅっ――」
マックスは普段のフロントの制服を着て、エントランスの窓を開け終え、自身のホテルの入口――大きな木の扉の前で背伸びをしていた。これが日常。一昨日や昨日は特例。
レンたちが出発した日は散々走らされホテルに帰って来たのが夕方だった。
マックスはもう、それこそ死ぬ寸前だった。
次の日も、また追い掛け回されると自身の身体を危惧したが、驚いたことにそんなことは起きなかった。
おかげで、丸一日ベッドに寝転がって過ごした。何もない日だった。あるのは唯苦痛な全身の筋肉痛だけ。
早朝の空。
夜の黒いベールを透かすように、空が橙色、薄色と白み始め、青との境界にはうっすらと緑も見える。それは素晴らしいグラデーションを見渡すことができる。どこからか小鳥の囀りが聞こえてくる。朝の空気は、山の麓のような深い味にも似ている。
「ん〜〜っ」
マックスはそのまま仰け反って身体をよく伸ばし、全身の痛みを味わう。
「――んん、全く、昨日は我ながらよく走ったな」
「んん――っ、く、くうぅ……」
再び背伸び、深呼吸。筋肉痛が酷い。一日たってもこの様だ。
「――ん?」
朝の日課を終えたところでホテルフロント、永きに忘れていた匂いに鼻腔が反応した。
何やら懐かしい匂いが向こうから漂ってくる。
記憶が過去を遡る。それはマックスが、ホテルフロントになる前の記憶からのものだった。
――死骸の匂い?
匂いが漂う方向を向く。すると丁度、ガラガラガラ……と馬車が道を進む音が聞こえてきて、それは姿を現した。
「おおっ!」
マックスの眼に映ったのは、何かどでかい物をキャビンの上に乗せ、ゆっくりとこちらに向かってくる馬車だった。
「うおおおいっ!」
馬に跨るマントの人物と、馬車の外に立つ二人の少女を見るなり、マックスは気分が酷く高揚し、大仰に手を振った。……筋肉痛はどこへ行ったのやら。
対してレンは街中だというのにフードを後方へ流し堂々と金髪を露わにし、レンの姿に後ろの二人は驚きもしたが、まだ人は通りにいないし放っておくことにした。
軽く手を振り返す。
――チッ、周りが起きないように静かに馬車を進めているのに。騒ぐなよ……。
手をブンブンと振るマックスを見、レンは顔を引き攣らせるが、
――ま、その気持ちは分からなくもないがな……。
と、同情の笑みを含む。
馬車がホテルの前まで来るまで、マックスは腰に手を当てて待っていた。
「おう、帰ってきたか!」
そのままの格好で威勢のいい声を上げた。
「――ああ、帰ってきたぜ」
レンは馬から下りながらしたり顔で言い、マックスの前に向かう。
「身近で見ると思ってたよりでかいな! それレーゼンの頭だろ?」
シートに覆われ、キャビンの屋根から大きくはみ出すように乗っかっている物を見て、歓喜の声を上げる。マックスは自身の問いに確信を持っているようだ。……あえて確かめたくて仕方がないのだ。
「――そうだ」
「おお! よくやった! レンお前は国を救ったぞ! シーナ・ギルドのおかげでな!」
シーナ・ギルドがあってレンは動けた、ということだろう。
「――いえ、私はあまり役に立ちませんでしたよ」
シーナが不服そうに言う。きっとレーゼン討伐の際のことを言っているのだろう。
あまりにも自分は無力だった、と。
「そうなのか? いやぁ、お疲れ様だな! お前達本当によくやった! アッハッハッハッハッハ!」
「「……」」
マックスがテンションMAX、一人で騒ぐ。
その声がまだ四人以外誰もいない通りに吸い込まれていく。
レンはフフ、と静かに笑っていたが、二人の少女はもはや笑う元気さえも残っていない。 だが街に帰ってきた喜びがあるのか、顔に喜色を浮かべる。
レンが二人に向き直り、
「レーゼンの頭はお前らにやる。どっかで観賞用に加工して貰え、腐らないうちにな。後馬車は任せる」
「それと――」
レン、ここからが重要、というしたり顔で。
「報告。必ず機関に行けよ?」
「「――え?」」
「レーゼンを討伐したっていう報告だ。当然だろ。そいつを見れば皆黙る」
レンはシートの中身を顎で指す。
「でも――討伐したのは――――」
「ああそれは俺の名前を使っていいが、報酬はいらん。全部シーナ・ギルドにやる」
平然と言い放つ。
「「――――」」
瞬間、シーナとイーナの頭の中は金銭の嵐、竜巻で思考停止に陥った。
――い、いくら報酬があると思ってるのよ……。
二人はふらふらとよろつく。
「っ――そんな大金――――」
「それはそうと、俺も大変だったんだぞ?」
ホテルフロント――マックスが自虐的な笑みを浮かべ話を切り出す。
「――ああ。俺の代わりは上手くいったか?」
レン、口角を釣り上げる。
「ははっ、上手くいったも何も、一日中前から後ろから追いかけ回された!」
「それはいい運動になったな」
「だな、まあ、全員跳んで躱してやったけどな。それのせいか俺のこと獣人って言い始める奴もいてな」
「ハッ――、流石だな、マキシマム」
――もう、本名をこいつらに隠す必要も無いだろう。
マックス、仮面を外す。
「そうだろう、大したものだろう、アッハッハッハッ! まあ【生ける伝説】程ではないけどな!」
「――フン、ほざけ」
レン、くっくっくと心底楽しそうに笑いながら。
マックスは何か遠い昔のことを思い出しているような、嬉しそう笑っている。
話に置いて行かれたが、シーナとイーナは、こうして二人が面白可笑しく笑いあっている風景がとても驚きだった。
それと、この二人は元々同じ世界の人間だった雰囲気が――。
――? その名前……、
「ちょ――、マキシマム?」
「ああ、そうだが?」
マックスは自分の名前を呼ばれて笑っている。
「マキシマムってあの――過去にヴァイルと互角だったっていう人の名前じゃ――――」
二人の質問に本人が答える。
「ああそれ俺だ、マックスは偽名だ。このホテルを始めた時からのな」
マックス――マキシマムはホテルを仰ぐ。
「本名は、マキシマム・クロードだ。よろしくな」
「「――――」」
二人は驚愕もしたが固まってしまう。
――歴史的な人物が二人も私たちと関わっていたなんて……。いやレンは伝説的、かな?
「――それに」
マキシマム、余裕の表情で。好戦的な薄笑みを浮かべて言う。
「過去ではなく、正確には――今も、だけどな」
「マキシマム・クロードって、ホテルフロント、あなただったの――!?」
「まあ、そうだな」
マキシマム、含み笑い。
「こんな近くに大物がいたなんて……」
シーナ、今までマックスにやってきたことを思い出す。
「――さて? 俺の正体も明かしたことだし、――レン」
何を言われるか察したレンは、冷たい目でマキシマムを見返す。
止めろ、とでも言わんばかりに。
「――お前はどうするんだ?」
だがマキシマム、譲れんと言わんばかりに押し通す。
「……」
レン、無言に陥る。
三人は、唯見守る。
「俺は――」
「シーナ・ギルドに入るっていうのはどうだ?」
レンが何かを言いかけると同時、マキシマム、提案。
「私たちは大歓迎よ」
「…………」
「――チッ」
「――簡単に言うな」
舌打ちを一つ、レンは吐き捨てるように言って、ホテルの中へ姿を消す。
「「……」」
二人の少女は、やはり早々上手く事は運ばない、と落ち込む。
「まあなんだ、あいつも色々あったからな。お前達はこれから忙しいだろう? 頑張れよ」
そう言い残し、マキシマムもその場から姿を消した。
二人は馬車と一緒にぽつん、と孤立する。
――頑張れって、何を?
シーナ、イーナ、共に同じ疑問を持つ。
「……まずは機関に行こうか」
「うん……、大丈夫かな……」
二人はレンの事といい、マキシマムの最後の言葉の真意といい、不安に苛まれるだけだった。
***
朝、五時三十分。
静寂な宿泊道りを抜け、機関施設へと繋がる大道りへと入ったそこからの景色は、まるで別世界だった。
道の両端には人がごった返し、シーナとイーナが操る馬車は、大喝采に挟まれていた。
早朝、なお首都アルバのこと。朝の競りや活気があるのは分かる。だが。
格段と、人の量の次元が違っていた。
原因は分かっていた。いくらシートで覆っているとはいえ、このタイミング、馬車の向かっている方向、そしてなによりキャビンの屋根からはみ出し鎮座している?これ?が原因だろう。
「ちょっとヤバくない!? これ!」
「うん――……とてつもないね!」
すぐ隣、真近にいる距離でも普通に話せば声が届かない。二人は顔を引き攣らせ、大声で会話を交わす。
如何に激しい歓声か分かるだろう。
「これってもしかして――」
「うん、いわゆるあれだよね」
「「――英雄の凱旋」」
止むことの無い激しい歓声と喝采。
街のあちこちの鐘が狂うように鳴り始め、国を救った二人の少女を称している。
もはや街の中心と化した二人。シーナ達の周りの人口密度が限界を超える。
「レン、逃げたわね……」
――引きずってでもレンをこの場に連れて来たかったわ。
この狂ったような状況を前に、シーナは内心呟いた。
***
「すごい騒ぎだな」
ホテルフロントは開け放たれた窓から外を覗き、呟いた。
視界に入るホテル前の通りには人一人いないが、遠方から聞こえてくる莫大な喧騒を、
耳で感じていた。
宿泊していた客も、従業員までもが、騒動に吸い込まれるように全員外に出て行ってしまった。
がらんと閑散としたエントランス。レンとマックス、二人。
「レン、あの二人を助けに行かなくてもいいのか?」
「ハッ――、助けるも何も――……」
――助けるって何をどうするんだか。
「だな」
レンはホテルに入ってから、ずっとエントランスの壁に寄り掛かっていた。
「マックス、食事は勿論用意できるんだろうな?」
レンは鋭い視線を飛ばす。
否と答えたら殺す――とでも言わんばかりの問いにホテルフロントは、
「ふ、勿論だ」
微笑み答える。
ホテルフロント、マックス。きっと、料理にはかなりの自信を持っているのだろう。
覚悟しとけ、とでも言わんばかりの表情。
「ならすぐに貰おう」
「分かった」
誰もいなくなった厨房へ向かうホテルフロント。
「……ちょっと寝る」
階段に向かいながらレンは言った。
「こんな騒ぎで寝れるのか?」
ホテルフロントはレンに振り返る。
「俺は愚問が嫌いだ」
「そうか。まあ久しぶりに動いたんだ、ゆっくり休め……」
「ああ、そうする」
――――……。
「ふぅ――――」
マキシマム、遠くから絶えない歓声、唯ひとしきり窓の外を眺め、厨房へ向かった。
***
シーナ・ギルドが機関に着いた時には、もう既に何人もの機関の人達が外で待機していた。街の騒ぎで察したのだろう。
一人の職員が二人に歩み寄る。ロングの髪、気立てのいい雰囲気を纏った、若い女性だった。
「シーナ・ギルドのお二方ですね」
二人は緊張しながら返事をする。
静かで慎ましい、大人の声だった。
「初めまして、ラウナ・リーチェと申します」
「確認ですが、リーダー、シーナ様はどちらになりますか?」
「私です」
シーナはフードを取る。それにつられ、イーナも慌ててフードを剥がした。
二人はレーゼン討伐後一度は着替えたが、まだちゃんと家に帰っていないのだ。
――どっかの職員とは違って懇切丁寧だわ……。
シーナはムスッと脹れる丸ぶちメガネのロイドを想像する。
職員は一つ頷くと、柔らかい笑みを携え、
「レーゼン討伐、お疲れ様でした。ここでは何でしょうし、どうぞ館内へ。応接室へ案内致します」
館内に現れたシーナ・ギルドに、出発前のあの時とは比べものにならない程の喝采が木霊した。エントランスに元々いた人たちや、職員までもが職務を放棄し二人を称している。
フィーア国、いや世界の脅威であるレーゼンを討ったのだ。この程度の騒動、無理もない。
二人は恥ずかしそうに俯き、職員の人の後ろを歩いていると、ふと。
人混みの奥、こちらを見て小さく拍手をしいるロイドの姿が視界に映った。
入口の鐘もシーナ達を祝すように鳴る。
――ああ、ほんと、ここにレンを連れて来たかったわ。
大勢の前に引っ張り出して見世物にするのではなく、唯単に。この風景をレンに見せてあげたかった。それだけ。
シーナは少し残念な気持ちになった。
職員に案内されるがままにエントランスを横切り、普段は通らない通路へと進む。
そして豪華さが漂う黒光りするドアの前へ。
「こちらです」
ラウナがドアを開け、二人を部屋に入れる。
シーナは部屋に入る間際、エントランスの方を一瞥した。シーナ・ギルドが姿を消しても、賑わいは収まらずに盛り上がっていた。
二人は部屋に入ると第一声、感嘆の声が漏れた。
そこは、マキシマムのホテルの壮麗さ、とまではいかないが、無性に冒険心が湧き上がる空間だった。
窓がない代わりに、こじんまりと、だがはっきりと柔らかい光を零すシャンデリア。
赤茶の彫が美しい四角形のテーブル。それと似た色の、対なるソファー。
壁には立派で壮大な革の地図が張られていて、まだ全貌が解明されていない大陸の四方は未到達、【Unreached 】と記されている。
イーナはそれを見ていると、つい胸が熱く高鳴ってしまう。
流石は機関施設の客間。常ではない。
シーナとイーナにとってそこは初めての世界だった。
二人は着席するように促される。
思っていたよりも深く腰が涼み込んだため、二人はつい身体の力が抜けてしまった。
ラウナはテーブルを挟んで向かいに座った。
「今回の依頼は国からのものとなっており、さらに今回は異例になりますので、明日、ここ機関の大広間で報告会が行われます。報酬授与、祝杯のパーティー等も同日行われますので、シーナ・ギルドは勿論、今この場にはいないもう一人の者も是非いらしてください」
――バレてる。
――レーゼンを討伐したのは私達ではなく、レンだということが。
「レーゼンの頭部はこちらでお預かり、置物、観賞用に加工させて頂きます。装飾等の要望はございますか?」
イーナはシーナの方を向き、答えを委ねる。
――レンだったら何ていうかしら――……。
シーナは頭の中にレンを想像し、この場にいる風景を空想する。
――『装飾? ハッ、――結構だ』
想像のレンは吐き捨てるように言う。
「ふふっ、結構です」
シーナは小さく笑いながら言う。
ここでレンを想像したのはシーナにある確信があるからで。
「分かりました。頭部は明日、パーティの後お返しします」
「実を言うとですね、今回の件は珍しいんですよ」
「「――?」」
ラウナはいきなり職務口調から柔らかなものへと変える。
「ヴァイル・ギルドが大物を討伐して街に帰ってきた時は、そのまま街の人々とお祭り状態になるのですが、今回はそのようにはできません。討伐者がシーナ・ギルド、そして【生ける伝説】、レンだからです。お祭り騒ぎの前に、報告会を開きます。」
何せ、動く時が来たので。
それは、ラウナには分からない、報告会を実施すると決定した人物の、ある意図。
ようやく動くなら。本人にその意思があるのなら。
舞台を用意してやろう、と。
「では、表はごった返していますので、裏口までご案内します」
二人は案内され、物で狭くなった通路を歩いていく。
その突き当り、ラウナが鍵を使いドアを開けた。
そこには外が広がっていた。視界の奥には、壮大な丘が。
「ご自宅まで護衛はお付けましょうか? ご要望でしたら、しばらくご自宅付近にも置くことができますが」
「大丈夫です」
この時、二人はちゃんと深く考えていなかった。
「分かりました。報告会やパーティの詳細は明日の朝、ご自宅にお迎えに上がった時に。では、またお会いしましょう。それでは。失礼します」
そう言い、ドアの向こうに姿を消すラウナ。
「…………」
「…………」
耳に届く水のせせらぎ。巨大な機関施設、その裏、遠くに聞こえる人々の声。
「――大変なことになったわね」
「どうしよう、ね……」
二人は人目に触れないよう、こっそりと小屋に帰るのだった。
***
「あー体痛ぇ……」
レン、ベッドの上で悶えていた。
彼は今、筋肉痛に苛まれている真っ最中。
ましてや引きこもりがレーゼンを討伐したのだ、その痛みは計り知れない。
「クソッ……こうなるだろうと結構力は抑えたつもりだったんだがな」
即ち、酷い筋肉痛にならないように力を抑制してレーゼンと討伐した、と。
今のをシーナやイーナが聞いたら絶句するのは自明の極み。
力を出し惜しみしてレーゼンを討伐したなんて、と。
そして、苦痛は筋肉痛だけでは無かった。
悲鳴のような腹鳴り。――空腹。
――あああ腹減ったぁ痛い痛いもう死ぬ……。
「昼食はまだなのか――もう夕方だぞ――……」
現在、十八時。
あの後レンは部屋に戻って、マックス手料理の豪華な朝食を取り。そして少し考え事をして、熟睡。起きたら既に空は夕焼け。
つまり、昼食は何も口にしていないわけで。
「あ――レン、悪いが夕食はどこか外でとってくれ」
とか言い出すマックスはもはや――幻聴なのだろうか。
――二食抜く、だと?
「はぁ!? 昼食を出さなかった挙句夕食もねぇとはどういうことだマックス!」
――この俺に、餓死しろ、だと!?
レン、空腹で疲弊しきったその眼にうっすらと深紅の光を宿らせ、叫ぶ。
「いやあほらお前やシーナ・ギルドのおかげでレーゼンは討伐、街はお祭り騒ぎ状態だろ?それで――」
「まだ従業員も料理人も全員お祭り騒ぎだっていうのか」
「まあそうなるな」
マックス、腕組をし、入口付近に寄り掛かり。
うんうん、よく分かっているじゃないか、と言いたげに。
「だからって何で一人もいねぇんだ! 他の宿泊者は!?」
「皆出て行った。問題ない」
「お前ふざけ――」
「あ。そうだレン、シーナ・ギルドに行けばいいじゃないか!」
「…………」
それは唐突な提案だった。
レン、固まる。
憤った思考、表情ごとフリーズする。
「ふ――ふざけんな! 何で俺が! マックス、何か買ってきてくれ!」
「俺はホテルから離れることはできない――シーナとイーナのことだ、何かご馳走してくれると思うぞ!? うん。そうだ、それがいい。かと言って俺がどうこうできることじゃないしブツブツ」
――この野郎……ッ。
わざとらしい。何ともわざとらしい。
「――チッ、明日の朝食は何としてもここで食うからな!」
これは無理だ、仕方がないと判断したレンは吐き捨てるように言うと、マントを引っ掴むとずかずかとホテルを出て行った。
「ふぅ――――やれやれ」
「明日は――荒れるな」
マキシマムは、やはり、と確信した。
***
ドゴォオン!
「「――――ッ!?」」
屋根に謎の衝撃音。
軋む我が家。
二人の心臓は跳ね返る。
シーナ、イーナ、カレーライスをスプーンですくい、今まさに口に運ぼうとしていた時、それはやって来た。
「なっ何ッ!?」
「敵襲!?」
二人は立ち上がり、身を寄せ合う。
――やっぱり護衛を付けてもらうんだった。
二人は心底後悔する。
一躍有名人となった今、シーナ・ギルドが危険な目にあう可能性も無くは無い。
トントン。
「――っ」
息が止まった。
ノックの音。二人は視線をドアへと飛ばす。
「――開ける?」
シーナ、身を低くして、聞く。
「留守のフリはできない。照明もついてるし」
「――分かった」
「シーナ、一応剣を」
「……ありがとう」
イーナは剣を渡し、自身はシーナの後ろで攻撃魔法の姿勢に入る。
まだ右腕は幾分痺れるが、危険は撃退しなければいけない。
「――行くよ」
「うん――」
ガチャッ
シーナは鍵を回すと即座に後方に跳び、剣を構える。
イーナ、右腕に力を込める。
ギィィ……
ドアが開く。
「「――――ッ!」」
そこには幽鬼の如く佇む、マントの人物が立っていた。
その人物は勝手に足を踏み入れ、ゆらゆらと揺れながらこちらに向かって歩いてくる。
シーナが斬りかかることを心に決めた時。
「夕食……俺の分も作ってくれないか?」
何だろう、酷く聞き慣れた声音。
「「ッて――レン!?」」
フードを払って現れたのは――生気を失ったレンだった。
シーナは剣を下ろし、イーナは右腕から意識を逃がす。
「何だお前ら……俺を襲撃者と勘違いしたのか……」
レンはぐったりと椅子に背中を預けた。
「……作るっていうか装うだけだからいいけれどホテルはどうしたの」
「宿泊者も従業員も料理人も全員お祭り騒ぎだと」
「ああ――……なるほど」
二人は納得する。
「それで食事を用意してもらえず、私たちのところに転がり込んできたと」
シーナ、いつぞやのレンの言葉を真似る。
「……ああ、何か頼む」
レンにとっては癇に障る言い方だったらしいが、今は何か言い返す気力など無い。
「私たちのと同じでいい? カレーライスとサラダ」
「ああ――……」
レンはテーブルに顔を埋める。霊峰出発前と同じで、相当消耗しているらしい。
イーナは台所へ移動し、急いでもう一人分を用意する。
「悪いわね――……何か出来ることはある?」
シーナも台所へ。
「ん――……じゃあ、できたの運んでくれる?」
「分かったわ」
カレーやご飯は作り置きしておこうと少し多めに作ったので、皿に盛りつけるだけですぐにテーブルへ運ばれた。サラダも単に野菜を刻んでドレッシングをかけるだけ。
「レン、できたわよ」
皿をレンの前に置いて、声をかける。
テーブルから顔を上げる。
照明が酷く眩しく感じ、木の壁やテーブルの風景は柔らかく見える。
その視界には二人の少女、シーナとイーナ。
「悪いな――……頂く」
短い言葉を言い、フラットウェアを受け取ると、レンはがつがつと食べ始めた。
「レン、明日のことなんだけど――……」
シーナは間を置かず凄い勢いで食べ続けるレンにおずおずと声をかける。
「……何だ?」
レンは答える。一応聞いているみたいだ。
――何を言うか予想はつくが、取りあえず聞いてやるか。
シーナは皿の上が無くなるまで手を止めそうにないレンに話し始める。
「明日、機関で報酬授与とその後にパーティがあるんだけど――勿論レンも行くわよね?」
「……、さぁ――どうかな」
一旦口の中の物を飲み込むと、曖昧に答えた。
――行かないと断言はしないのね……。
シーナの中にある確信は変わらない。
レン、再び食べ続ける。
「あと――レーゼン頭部の加工を機関がやってくれるみたいなんだけど、装飾はいらないって言っておいたわ」
「……何故それを俺に言う?」
「あ、いや別に――……」
シーナ、ある確信を誤魔化す。レンはそれに気付いているのだろうか。
――――。
――――……。
無言の時間が流れる。
シーナ、イーナは食事を口に運ばず、唯レンを見ていたが、本人レンはひたすら食べ続けている。
「レン、ちょっといい?」
シーナ、意を決した表情で、言う。
「――何だ?」
「私達からお願いがあって――」
「……聞くだけ聞いてやる」
――何を言い出すかなんて……分かり切っている。
レン、内心舌打ちをする。
「率直に言うわ。私たちのギルドに入ってほしい」
「……」
――率直の率直だな。…………。
レンは言葉を返さない。
何故なら、その答えは自分自身の中にさえまだ無いのだから。
「返事は今すぐじゃなくてもいい。待ってるから。それに――」
「――レン、私もイーナも、あなたのことを仲間として信じられるわ」
――――。
――――……。
〝仲間〟として信じる。その信じるとは、どういった意味なのか。
レンはそれを分かっているのか。
「――ハッ、達成不可能な依頼は無く、またその運用も無料――そんないい話を手放したくないってか?」
「違うッ、そうじゃない!」
シーナ、声を強く荒げる。……今の言葉が、レンの本心だと思わなかったから。
「私たちは唯――ッ」
――こいつは本気か?
レンはまるで、詐欺師かもしれない者を見透かし、真意を測ろうとする視線で、シーナの青い瞳を真正面から見抜く。
「……食事をご馳走してくれたことは感謝する。だが、俺がシーナ・ギルドに入るかどうかは別の話だ。――じゃあな」
レンは皿の上の料理を全て食べ、小屋を出て行った。
――――――。
――――――…………。
「……シーナ」
「ええ。簡単に入ってくれるとは思っていないわ」
シーナ、悲痛に暮れる。
二人は、唯、押し黙って夕食を続けた。
***
夜。アルバは首都であるように、フィーアで最も活気がある街だが、今夜はいつもと違って格段と盛り上がっていた。
シュヴァルツ・レーゼンが討伐されたことによって国、世界壊滅の危機が消えた。
街のあちこちで、まるで火の手が上がるようにお祭り騒ぎ状態となっていた。
アルバの中でも特に盛り上がっているのが機関施設へと繋がる大道り、そして宿泊施設、酒場が連なる区画。
……そこはマックスのホテルの裏側にある河原だった。
表側の明るさや喧騒は、高さのあるホテルによって上手く遮られ、端から光が漏れる程度。
辺りは暗く、フードを被る必要もない。
時間の流れを感じさせる、絶え間なく流れる川の音。
レンは川岸の大きな岩に一人座り、考えていた。
「――誰だ」
後ろに人の気配。単なる通りすがりや酔っ払い等は黙っていてもすぐに消えるが、感じるに、これは明らかに暗闇に紛れるレンに対する存在だった。
レンは瞬間的に前方へ飛び跳ね、フードで顔を隠す。
「俺だ。ヴァイルだ」
夜の闇――しかし表の光が少なからずともあってか、その正体、それは確かにヴァイルだった。
「何だお前、生きてたのか」
レン、皮肉を言う。
「ふん、おかげさまでな」
そう言い、ヴァイルはレンが先まで座っていた大石に腰を下ろす。
「珍しいな。お前が外にいるなんて」
「少し考え事をしていただけだ。気が済んだらホテルに戻るさ」
レンはヴァイルの隣に座り直す。
「そうか」
「霊峰からはいつ戻って来た」
「ついさっきだ」
「負傷者は」
「動ける者を除けば五割、含めれば八割ってとこだな」
「大損害だな」
「フン、俺のギルドだ。すぐに立て直してやる」
――――。
――――……。
「シーナ」
「…………」
ヴァイル、いきなりその名を口にする。
「聞いたぞ? お前を焚き付けたんだってな」
「わざとらしいな。最初から目を付けていたんだろうが。ホテルで会った時か?」
「――さあな。ところで、どうだった。久しぶりの剣は」
ヴァイルははぐらかす。そして、聞く。動いた感想を。
「ハッ――かなり力は抑えたがつもりだが、体中痛くて仕方がない」
それを聞いたヴァイル、大笑い。
「――ククク、力加減してレーゼンを討伐か。そうかそうか。――ハハッ」
「……笑いすぎだ」
「ああ、すまんな。何だか嬉しくてな」
「――何?」
レン、ヴァイルの方を見る。
「力を持っていてもそれを発揮しなければ力が無いと同じ――か。よく言ったもんだな」
――――ッ!
「それどこで知った?」
「フッ、さあな」
ヴァイル、またはぐらかす。
「シーナ、……か。不思議な子だな」
「……」
レン、黙る。
「お前、これからどうするつもりだ?」
ヴァイルの声音が変わった。
「ハッ……どうもこうも……」
まだ答えは形を成していない。
「言っておくが、街の奴らも機関もお前の存在に薄々感づいているぞ?」
「……だろうな」
――そんなことはとっくに分かっている……。
「――レン、そろそろ腹を決めろ。さもないと本当に虚空の人物となるぞ!」
お前はそれでいいのか、と言うように。
「――ああ、分かっている……」
いずれ……、いずれ。
決めなくてはならない時が来る。
今レンは、それを痛い程感じていた。
「知ってるか? 皆お前に期待しているんだぞ? 恐怖もあるがな」
「…………」
「お前を神格化――宗教の対象としている集団もいる。神のように実在しない存在として」
「お前は神となりたいか? それとも伝説でいたいか?」
レン、それにも答えず、無言。
「いずれにせよ、お前はまだ若い」
ヴァイルは立ち上がり、言う。
「明日、荒らしてくれることを――期待しているぞ」
それを最後に、立ち去っていった。
「…………」
――チッ、どいつもこいつも……。
――同じことしか言わん……。
レン、耳は川の音を、そして唯星空を眺めていた。
***
朝、マックス・ホテル。
その食堂にはあまり人は見られなかった。稀な光景。昨夜のお祭り騒ぎの後でまだ寝ているのだろう。
二〇五号室。その部屋にノックの音が響く。
「入るぞ」
「……ああ」
レン、ベッドの上で返事をする。
「――起きていたか」
ホテルフロントは片手に朝食を持ち、ドアを開ける。
そこは朝日が部屋を駆け巡り、冷たく透き通った空気が漂っていた。
カーテンは開け放たれ、窓は両開き全開だった。
マックスは、〝別世界〟を見た。
壊されたテーブルや椅子、ドアは、レンが昨日この部屋に帰って来た時には既に新しい物に変っていた。
「今日はちゃんと働くんだな」
「当たり前だ。三日連続はない」
レンはテーブルに移動し、朝食に口を付け始める。
「――レン」
「――?」
「午前十時だ。シーナ・ギルドとお前の報酬授与」
「……」
レン、その手を止め、身動きせず。
「昨日は散々考えたんだろう?」
「……」
そしてホテルフロント、笑いながら。
「フッ、精々、荒らしてくれよ?」
それだけを言い残し、部屋を出て行った。
――――。
――――……。
「…………」
レンは無言のまま、唯朝食を続けた。
***
トントントン。
ドアを開けると、そこには昨日の機関職員、ラウナが立っていた。
「シーナ様、イーナ様、おはようございます。ご迎えにあがりました」
相変わらずラウナは、静かで落ちつた雰囲気を纏っていた。
二人も挨拶を返す。
家の前には馬車が止まっていた。それは霊峰へ行き来した高速馬車とは違い、様々な装飾が施され豪華に溢れていた。
――流石機関ね……。
シーナはそれを見ただけで鼓動が速くなる。緊張。
「シーナ様、イーナ様なら大丈夫でしょうが、機関長の前ではくれぐれも荒らさないで下さいね」
「は、はぁ……」
二人はその言葉の意味を汲み取れず、曖昧な返事をする。
――荒らす? 失礼のないようにではなくて?
「ッ!? ――機関長ッッ!?」
「はい。そうですよ」
シーナ、イーナ、一瞬脳ごとふらつく。
機関長といえば、隣国の帝国に例えると、最高権威と言っていい存在だ。
フィーアは共和国であり、世襲によって継承される君主は存在しない。
モンスターという存在でこの国、この世界は回っている。事実、モンスター討伐の生業が最も盛ん。
それを管理する機関施設、その長が帝国で例える帝王で、国王ともいえる。
つまり? この国で最も偉い人なわけで。
「わ、私たち、機関長の顔も知らないし、え、謁見? の仕方なんて微塵も分かりません!」
二人の少女は震えだす。
アルバに来たのはほんの一か月前。
それまでは互い別々の村、北の前線地域――辺境で暮らしていたのだ。
レーゼン討伐の旨を報告するのだ、幾分は偉い人だとは覚悟していたが、よりによって機関長だなんて――。
「大丈夫ですよ」
ラウナは緊張を解すように朗らかに言う。
「この国は隣国、シノナ帝国程お固くはありません。唯立っているだけでいいですし、特別膝を折ったり何か動作が必要なわけでもありません。最低限、敬語を使って頂ければ」
「そ、それぐらいなら」
シーナ、胸を撫で下ろすが、鼓動は一向に収まらず、速くなるばかりで。
「では、報告会は十時からですが、早めに行きましょう」
「は、はい」
――ああ、大変なことになったわ。
頭真っ白。
「準備は済みましたか?」
「あ、あの、何か持っていく物とかは」
イーナは慌てて質問を飛ばす。
「特別にはありませんよ。レーゼンの頭部はこちらでここにお運び致しますし、報酬は授与の後銀行口座の方へ送りますので」
シーナ・ギルドはこの街に来て、未だ口座を作っていなかった。……口座を作る必要性が無かったかもしれないが……。だが今はそれどころではないらしく。
「こ、この服装で問題ありませんか?」
「はい、大丈夫ですよ。――しかし」
ラウナは微笑むが、一転。神妙な面持ちになり、
「レン様はどこにおられるのでしょう? 現地集合の予定ですか?」
「「…………」」
二人、言葉出ず。
「シーナ様、イーナ様。機関長はレン様とお会いすることを強く望んでいます。お二人は彼がどこにいるのか、ご存じないでしょうか」
――――。
――――……。
二人はこの問いに答えられる。何せ居場所を知っているのだから。
しかしイーナ、これは自分が答えてはいけないような気がして。
答えをシーナに託す。
「はい。――予想はつきます」
シーナは眼を細め、冷たい声音で。
「――! でしたら、その場所をお教え――」
――居場所さえ分かれば後は連れて行くだけ――
ラウナ、心中ではレンを強制的に機関へ連行することを考えていた。
それも、機関長の名を出し、レンが動こうとしなかったらの場合。
レンに会いたい、その機関長の意思。
しかし、この時一瞬。ラウナ、自身の思考とは違うものが過った。
――機関長は、彼の強制連行を望んでいないのでは――?
ラウナ、機関長の何かを含むような、企むような意地の悪い表情を思い出す。
――機関長は、何かを望んでいる。何かを待っている……。
それに呼応するように、シーナは次の言葉を発する。
「断るわ」
「…………」
「――っ!?」
ラウナはその時、何かが繋がったような感じがした。
イーナはシーナの言葉に耳を疑う。
断ったことではない。その言い方に。
「レンが機関に行くかどうかはレン自身の問題。現れなかったらそれはそれでレンが選んだ道で、その程度の者だったということ。そこに機関長の意思は関係ありません」
そう、動くかどうかはレン本人が決めること――。他人がその選択に関わることではない。
「……分かりました。では、現れてくれることを願いましょう」
――びっくりしたわ。いきなり人が変わるんですもの。この子、何かを考えている……。
ラウナは内心の驚きを隠し平常を繕い、二人を連れて馬車へと向かった。
***
機関施設、館内二階、控室。
現在九時五十分。レン、未だ現れず。
ラウナは沈んだ口調で言う。
「一応職員には、レン様らしき人物が現れたらここにお連れするよう伝えられているのですが、まだ来ないということは……」
――来る気が無い、ということ……。
ラウナ、レンを諦める。
やはりラウナは気付いていない。――真意に。
「もう既に席は埋まっています。十時になりましたら、まず機関長が来場します。私たちが会場に入るのは、その後です」
「は、はぃ」
シーナは極度の緊張で頭がくらくらになっていた。
「そして私が機関長の前に案内しますのでついてきて来てください」
――――。
――――……。
「レン様は――来ませんでしたね。諦めましょう……」
シーナ、イーナ、共に俯く。
………………。
イーナ、ラウナはこの時、本気で諦めただろう。
しかし、シーナ。
彼女だけは、まだ完全に諦めていなかった。緊張が思考を描き回す中、青い瞳に熱が宿る。
「これを耳につけて下さい。音声拡張機です」
それは棒状の物で、耳に掛けるフックが付いていた。
イーナはそれを受け取ると耳に装着する。棒の先が淡く光る。
「シーナ様?」
差し出した手に反応しないシーナに、再度名前を呼ぶ。
「あっはい、耳につけるのね――」
シーナは慌ててそれを受け取り、装着。
……いよいよ思考や緊張でダメになってきていた。
「それは念じれば声が拡張されます。簡単に言えば――声が大きくなるということですね。魔法を扱うことができなくても使えるように高度な魔法でプログラムされています。機関長と話すときは、意図的に意識して下さい」
ラウナは懐中時計を取り出し、見続け――、
「――時間になりました。行きましょう」
ズンッ。そんな衝撃がシーナの身体に落ちる。心臓がうねる。
「大丈夫?」
「へ? ええ?」
――シーナが緊張で壊れた?
イーナは心配、危惧する。
拍手や喝采の声が既にあがっている。壁越しに籠るように聞こえてくる。シーナ・ギルド来場のアナウンスが流れたのだろう。
二人が控室から出て、最後にラウナが出、ドアを閉める。
シーナ、イーナは直線な通路を行き、巨大な両開きのドアの前へ。
それは自身の三倍の高さはあった。
大きさが大きさなので、手動ではなく魔法で自動に、ゆっくりと開き始めるドア。
開き始めた左右二つのドアの間。薄暗いここから見れば光の線が縦に、そして太くなっていく。
扉の向こうで籠っていた拍手や歓声等の音が直で耳に届き。
会場の光景が、光が、シーナの眼に映ろうとした時。
――その時、シーナは幻視した。白を背景に、白髪の揺れる女性が、自分に微笑む姿を。
シーナは、再び〝白い世界〟に立っていた。
「――え?」
一瞬だった。一瞬だけ、シーナは会場ではない、別の景色を見ていた。
今、私はイーナと一緒に、肩を並べて歩いている。
シーナは酷く困惑しながらも、現状を把握しようとする。
耳には沢山の人の歓声が。
左右には、この国の主要人がずらりと並んで立っていた。皆、私たちに拍手を呈している。
その中にはマックスやヴァイルもいた。
マックスはいつもの格好で、この日を待ち侘びていたかのように微笑を湛え。
ヴァイルは大仰に拍手を。
……ヴァイルの方がマックスより身長高かったんだ。
シーナは、僅かの差だがヴァイルに見降ろされ悔しそうにするマックスの姿を連想してしまい、思わず吹き出しそうになってしまった。
……腕組し鼻で笑うヴァイル、それだけは勝てない、というように歯ぎしりし悔しがるマックス。
左右の主要人たちのさらに後方、会場の入り口の後方に伸びる二階席、三階席。そこにフィーアの国民がぎっしりと詰めかけている。
ここにいる全ての人が、シュヴァルツ・レーゼン討伐の事後報告、二人の少女と。
そして、今は消えかかっている名、生ける伝説というの名の人物がここに来ることを望んで――集まっている。
シーナ、ふと、自身の変化に意識が向く。
……その変化には、身に覚えがあった。初めてではなかった。
シーナは二度も自分の前に現れた、白い女性のことを考える。
まず、シーナの中から緊張というものが無くなっていた。
――あの時はレンに対する恐怖が消えた。
そして、幻視。しかし先程のは走馬燈ではない。
二人は椅子が置かれている場所まで歩き、ラウナは右の主要人側に逸れる。
……次にシーナは、目の前の光景、そこにいる人物の姿を見て、とうとう全力で自身の目を、いや脳を疑った。
遂に狂ったか、と。
しかし、何度自分の正常を確かめても、見直しても。それは幻視などではく。現実で。
その人物は、鷹揚に口を開いた。
「少し見ない間に成長したね、シーナ」
目の前に座る人物は、紛れも無く、あの――初老のマスターだった。
白髪に白い髭を蓄えた、初老の男。
会場がどよめく。
それは左右に並ぶ主要人たちも同じで、一応シーナのことを知っているマックスやヴァイルも驚きを表していた。まさか機関長と繋がりがあったとは思っていなかっただろう。
それはシーナ本人も同じわけで。
「あなたが……? 機関長だったの……?」
狼狽え、現実を受け入れようとするシーナ。
初老のおじいさんは笑みを湛えて頷く。
「あの人が前に言っていた?」
「……うん」
イーナは、そこに訪れてはよく話をするという初老のマスターのことをシーナの口からよく聞いていた。まさにその人物が目の前にいる。それがまさか機関長だったなんて、と唖然としている。
――何が〝そこそこ〟よ……。
シーナは初老のマスターの宿舎を訪れた時のことを思い出して、内心零す。
別名〝なんとか〟は、話を盛ったのでもなく思い出せなかったのでもなく、言えなかったのだ。
――私に本当の正体が機関長だと知られてしまうから……。
そうすれば、今までのように会話しづらくなるだろう、と。
二人は座るように促される。
「あの者は来ないのか?」
機関長は低い声で平然と言い放ち。突きつける。
もはや誰のことを指して言っているのか、この場にいる者は分かっていることだろう。
会場は潮が引くようにざわめきが消え、二人の言葉を待っている。
シーナ、イーナ、唯押し黙った。
この時イーナは直感していた。
――これは来ないとも分からないとも、私が答えていいものじゃない。
ラウナの時にも同じことがあった。
――レンが選ぶ結果は、私がどうこう言えることじゃない……かな。これは、ホテルフロントでもヴァイルでも同じこと。だけど――、
イーナは横を見る。
そこには、何かを確信して熱をもつシーナ。……機を待っているようにも見えた。
――そう、もし。
――もし、唯一。レンの道を、その先を。私では関われない、それを導ける者がいるとすれば――……。
それは二人が同じ境遇で、同じ夢を持ち。約一か月間共に暮らし。互いを理解し。二人は運命的な何かがありそして繋がっているからこそ直感できたことなのか。
それに対し、シーナは何て答えたらいいか分からなかった。そこで止まっていた。
そう、それえは以前まで。
今は違う。
そう、言い方を変え、真意のとおりにするならば。
――来るのか? ではなく、――動くのか? という問いに。
さらに言い変え、史実に、伝説に基づくならば。
確かに存在し、過去に生きた伝説に基づくならば。
――再び、動くのか? という問いに。
答えてみせるわ。
シーナ、勢いよく立ち上がる。
隣で座ったままのイーナは、驚かない。その顔は、微笑を浮かべていた。
この時、シーナはレンに確信以上のものを抱いていた。
レンは必ずこの場に来る。そして、動く、と。
必然的に、歴史的に。そうなるべくしてなる。
運命という名の必然、そう想っていた。
しかし、まだ来ない。……無論、来なければ動きなどしない。
――レン、まだ、足りない?
シーナ、微笑する。
この場にいない者と意思疎通するかのように。
シーナ、自身の中にレンを思い描く。
レンなら、きっとこう考え。
必ず、こうする。と信じ。
レンの全てを想い、思考を理解しようとする。
レンは何を考えているのか。何をしようとしているのか。何を叶えたいのか。
そうして行き着いた思考。……いや、それは随分前に定まっていたようにも感じる。
そして、シーナは。――口を開く。
「……いえ、来るわ」
――――言い切った。
決定的一打。
今この瞬間さえも、歴史に記され、残るだろう。
会場、緊張の糸が切れる。その場に再びざわめきが湧いた。
……この時ラウナ。僅かに目を細め、微笑していた。
ラウナ、機関長の表情を見て、やっと真意を理解した。だから、笑ったのだ。
――さあ。きっかけは、あなたの舞台は、用意した。全てが揃ったわよ、レン。
そう、最大の伏線を。即ち、最大のフラグを。シーナは残した。
あとは、流れに身を任せればいい、と。
シーナ、その表情は柔らかい笑み。
まるで。この後に起きることは、既に分かっている、とでもいうように。
シーナは、未来予知をしたわけでもなく、この後――未来を見てきたわけでもない。
それでも踏み切れたのは。
シーナ、レンを完全に信じているから。
――フッ、レン、俺はちゃんと、期待しているぞ?
――ハハ、これを逃したらレン、お前はもう死人だな。伝説は代わりにこの俺が紡いでやる。
……誰が渡すか馬鹿が、と吐き捨てるレンを頭の隅で想像しながら。
隣同士のマックスとヴァイル。二人して密かに笑う。
斯くしてシーナは断言した。
機関長はそれには何も言わず、唯、変わらない微笑を浮かべている。
そう、今か今かと、〝それ〟が動く瞬間を心底楽しみにしている微笑を。
必然を、運命を、待つ表情。
自身の目の前で、〝それ〟が。歴史が、動く瞬間を待つ、表情。
……シーナと機関長は、全く同じことを考えていた。
そして、事は起きる。
まるでシーナの言葉を、機を、待っていたかのように。
「なっ何だお前はッ! 正体を明か――」
――閉ざされたドアの向こうで騒ぎ声がした。
……そして、その時はやって来た。
バガアァンッッッ!!
ドアが信じられない力で開け放たれた。あの巨大なドアが。
もはや魔法は作動しなかった。……その勢いは、ドアが壁にめり込む程に。
果たしてそこに立っていたのは。
マントを羽織り、顔をフードで覆う人物。
――――――来た。
機関長、その機の訪れに、微笑を深める。
会場、騒然!
シーナの未来予知にも迫るレンへの信頼。
しかし、まだ〝それ〟は動かない。
その者が姿を現しただけでは。
伏線は、フラグは回収された。先述のように、レンへの信頼によって。
だが。その伏線の真の意図は、まだ叶っていない。
マントの人物へ注視されるありとあらゆる者の視線。
その人物はこちらに向かって歩みを始める。
会場の誰もが、息をのみ、それに集中する。
これから、何が起きるのか、何が始まるのか、と。
だがマキシマムとヴァイル、平然と。壁に寄りかかり、腕を組み。目を閉じ。微笑を浮かべて。
「――何者よ」
機関長、緩慢に。したり顔で、言う。
低い声が拡散機によって会場に響き渡る。
その時ヴァイル、何かを懐から取り出し、マントの人物に投げた。
その人物は投げられたそれを脇目も触れず掴み、フードの下、見えない耳元に装着。
次にマントを翻し、剥がす。
露わになった金髪深紅の眼の人物は、手に掴むそれを大仰に後方へと投げ、言う。
「――――【生ける伝説】だ」
……針は、再び動き出した。
――伝説は再び、始まった。
『おおおおおおおおおおおおおおおおッッ!』
一気に弾ける会場。
この時、この瞬間。会場にいる者全てが。
歴史が。
伝説が。再び、動き出す瞬間を。
目視したこととなる。
――俺が取る!
――いいやお前には渡さん!
……レンが剥がし投げたマントを我先にかっこよく掴み取ろうと、ヴァイルとマックスは絡まり合う。
「ふふんッ!」
「くぅ……ッ!」
僅かに手足身長マックスより長いヴァイル、レンのマントを掴み取りどや顔をする。
悔しそうに地団駄を踏むマックス。
「はぁ……」
ヴァイルの隣にいたその嫁、リヴェリーは苦笑混じりに溜息する。
「ようやく来たか、主役よ」
機関長は低く重く響く声で、しかし確かに喜色をその顔に浮かべ。
――あなたはやっぱり、この道を選ぶのね。遅刻にも程があるわ、レン。
――シーナ、嬉しそう。……よかった。
二人の少女の顔にも、喜色が灯っていた。
そして。レン、次の一声で。
今しがた再起した伝説に、ひとつ、綴ることを付け加えることとなる。
――叫ぶ。
「――我【生ける伝説】はッ!」
ヴァイルマックス、格好つけて腕を組み、静かに微笑を浮かべ聞き届ける!
シーナイーナ、会場が震い慄くッ!
「――――シーナ・ギルドに加わる意思をここに表明するッッ!!」
『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――――――ッッッッッ!!!!!!』
飽和状態となる圧倒的絶大な歓声。
止むことを知らない、それは永遠の歓声。
……果たして会場にいる者は。
歴史が、伝説が、再び動きだすのを目の当たりにした。
今日、この日。
生ける伝説が復活した日と。歴史に刻まれ、伝説となる。
それはフィーア国だけではなく世界を震撼させ、動き始めることとなる――。