一章 来客
大陸の全貌は解明されていないが、現状、その約半分以上を領土とする、フィーア共和国。
モンスターの脅威と隣合わせのこの世界では〝防衛線〟というものが存在する。
その名の通り、モンスターの脅威、侵入を防ぐ、防衛ラインだ。
それはフィーア国も例外ではない。
北、東は陸に、西と南は海に囲まれていて、その各最果てにそれは存在する。
無論、防衛線には国が誇る戦力が投入される。
だが、それを以ってしても、モンスターが防衛線を超えたら?
――容易に想像できるだろう、国は滅ぶ。
最果ての防衛線が破壊されました、はい終了。……そんな馬鹿なことはしない。
フィーア共和国、最大モンスター討伐ギルド。その名は、【ヴァイル・ギルド】。
リーダー、ヴァイル・テイル率いるそれは、国の中心――首都アルバに拠点を置き、どの方角の最果てで〝最悪の出来事〟が起きてもすぐに出陣できるようになっている。
防衛線が敷かれている場所は、前線地域とも呼ばれ、モンスターを討伐、撃退するために必要な物資が運ばれる。ちょうどその場所に村があることは珍しくない。逆に、村がもとよりある場所に防衛線を置くことが多いだろう。
さて。遡ること約一か月前。〝最悪の出来事〟が起こってしまった。
北の最果て、その一辺が瞬間的に破壊されたのだ。
よって、如何に破壊されたのか、それを目撃したのは極僅か。
その者よると、上空に現れたのは、一体の、黒いモンスターだったという。
そして、光が空から降り注ぎ、防衛線全てを破壊した。
以上がこの〝最悪の出来事〟の全貌だ。
――全く以って情報が少ない。
現れた瞬間に光? ブレスの類か? しかしそれで国を挙げての戦力を葬ることはできるのか。
いずれにせよ、モンスターの行動とは思えない、不可解なことが一つある。
黒いモンスターはその後、南下せず東に移動、そして最後に観測されたのが東の霊峰に移動したとのことだ。
理解できない。本来モンスターならば、より人気のある南に移動するはずなのに。
よって、ヴァイル・ギルドはアルバから動くことはなかった。
その代わり、黒いモンスター、否。――命名、シュヴァルツ・レーゼン討伐のため、霊峰へ出発する準備を始めるのだった。
……事実、世界最高規模であるフィーア国、北の防衛線が瞬間的に破壊されたのだ。
――これがどいうことかは分かるだろう?
国――いや、世界滅亡の脅威。
そして、レーゼンが防衛線を破壊して数日後。
この街――アルバに、二人の少女が足を踏み入れる。
その二人は、前線地域に存在した二つの村の――生き残りだった。
***
フィーア共和国、首都――アルバ。
大陸の約半分以上の領土を持つが、その領域はモンスターとの戦闘によって刻一刻と変化している。
そしてここ、旅人たちがこの街に来たら最初に足を運ぶ場所――宿泊施設や酒場の密集区画。
この国でも最多の喧騒がある地域。
きっと相当な高値が必要になるだろう、白の大理石で作られた――いわば高級ホテル、高級宿舎。
部屋には埃臭いベッドしかなさそうな、木造格安宿舎。
それら個々と混在するように、大人数集団がいくつでも入れるようなどでかい酒場や、少々質素でこじんまりとした酒場がある。
四方八方、どこに視線を移しても活気が伺える、横幅の広い街道。それらに挟まれるように伸びる、馬車用の石畳の道。
人々の笑い声や話し声。ちょうど視界に入った酒場では、屈強な男が仲間らしい者と寛闊声を散らしながら酒を仰いでいた。
違う。こんなところにいるはずはない。
少女――フードを被り、速足の彼女は、思う。
そして、次々と人がすれ違い、錯綜する道上へと意識を移動した。
靴底が、石畳の舗装された歩道を蹴る音が耳に響く。
そしてそれとは別に、様々な金属音も混じっている。
剣、鎧。――モンスターを狩り生計を立てている者たちだろう。
刀身がむき出しのままの大剣を背負う大男。
双剣を腰の右と左に別々に帯刀し、モンスターの脅威が及ばないこの場では軽装を崩し露出、肌を晒しすれ違う男たちの視線を集め歩く女性剣士。
武器等は装備していないが、左腕だけを肩からむき出し、すらっと長い片腕を露わにし、堂々と歩く女性。おそらく、魔法を主に使い、左が利き腕なのだろう。
……と、様々な身なりの狩人。また――ハンター、受託者とも呼ばれる存在は、人間以外にも存在する。
彼らは亜人と呼ばれ、種の壁も存在するが、この国はそれが薄い。
種族は三つ。
〝エルフ〟――一番の特徴は真っすぐ尖った長い耳。そして他の種族とは根本的に身体の構造が違っており、現代で唯一魔法が使える種族。
〝獣人〟――彼らは他のどの種族よりも身体能力が優れている。目立つ動物の耳や尻尾にはいくつか種類があり、猫、狼、狐等。例に猫の獣人でもまた様々な種類が存在し、非常に外見が多種多様な種族。人と獣から生まれた、そう解釈するといい。
そして。
〝人間〟――魔法は使えず、獣人のような秀でた身体能力も持ち合わせていない。
単に、人とも呼ばれている。
この三種族をまとめて〝人類〟と呼ぶことがある。
この国――フィーアの東には霊峰が存在し、さらに東にはシノナという帝国がある。ちょうど霊峰が国境線のような役割を果たしている。が、実際の活用領域はモンスターの存在でかなり狭まれている。
シノナ帝国では、獣人が最高権威の座につき、独裁政治、絶対君主制であり。君主が獣人だからなのか、それ以外の種はその国では差別対象になっている。
フィーアとは真逆の形態。
「……ッ――」
「ぅおっと危ねェ! 気をつけなァ!」
ふと真横を、荷馬車がガラガラと音を立て通り過ぎて行った。
気づかないうちに歩道の端へと寄れていた。
少女は立ち止まり、呼吸を整え、思う。
四方八方の喧騒が遠くに感じる。……急がないと。
少女はボロボロの――さすらい、流浪を思わせるフードをつまんで軽く身を正し、再び脚を動かす。
その少女、シーナ・ドラシオンは、ある人物を探していた。
彼の居場所は、探す者からすれば都市伝説並みに不確定で。情報屋たちの間では最高相場となっている。
その人物こそ。
人の限界身体能力を遥かに凌ぐ獣人より俊敏に動き、より高く跳び。
原理的に故に、身体の構造が違うが故に、人や獣人には使用も理解も不可能な魔法を使用するエルフをも越す火力を二の腕だけで発揮し。
対モンスター討伐訓練学校、卒業最終評価。〝途中成績――〈暫定・最高評価授与〉〟の称号を取得した、人類の男。
――名を、レン。
もう一つの名を、【生ける伝説】。
ここで思うところは二つ。
どちらにしても人が身体の構造上、不可能なことが彼にはできてしまうこと。
訓練でモンスターの討伐を行えば、他の者が抜刀し終わる前に殲滅対象の首を刎ね。
三種族総合討伐訓練を実施すれば、周りの獣人が対象に触れる前には、もう既にモンスターへ致命傷を与え。
エルフが最初の魔法を発動する前に全対象の息の根を止める。
訓練に参加しているレン以外の者に、評価の場さえ与えることがない殲滅力。
ここまでくると、もうレンの身体の構造を疑いたくなるが、どこからどう見ても人間にしか見えない……らしい。
人間でありながらも、人外の力を持つ男。それはまさしく、――化け物。
【生ける伝説】。レンはそう呼ばれていた。
彼が現時点で最強。
いや、過去をいくら遡っても未来永劫いつまでも彼の身体能力を上回る者は存在しないだろう。何せ、化け物なのだから。
ここで二つ目。
なのになぜ成績が、〝途中成績〟となっているのか。評価が、〝暫定〟となっているのか。
その答えは、【生ける伝説】が彼の過去の呼び名である理由でもあるのだが。
この問題を解決するのは、一つの事実。
レンは宿を転々とし、行方を晦ませている、とのこと。
もちろん、姿を晦ませているのならば、訓練学校にも行っていないのだろう。
となれば。なぜ途中成績なのか、評価が暫定なのか。
もう明らかだろう。
それはレンが不登校になり、訓練を受けていないから評価ができない。だから表記できるのは最新のものではなく過去の成績。
――これで途中成績と記されている問題は解けた。
そして、暫定というのは、レン以外の者に最高能力者の称号を与えるわけにはいかないから。
訓練学校を卒業する際、卒業生はそれまでの訓練の成果として、最終成績が表記されるが、あいにく論外の力を持つ最強のレンは不登校。
しかしあの時の、訓練に参加していた頃(レンの殲滅力を前にして果たして訓練という言葉をあてられるかは不問)の彼を越えられるかという問いに肯定できる者はいない。
レンは休学扱いになっている。
卒業式、訓練修了勲章授与の場で、順位を読み上げる際、その場にいない者、卒業できない者が呼ばれ。長い間姿を見せず休学扱いになっている者が、最高能力者の位で読み上げられた。
これに不満を感じる者は多い。
『人には越えられない、獣人やエルフ以上の能力を人の身で見せつけておいて、後は学校に来ないだと? ふざけるな化け物め』と。
『卒業できないにも関わらず、順位に名を残すな。最高能力者の位を他の者に譲れ』と。
はっきり言って、これは勝ち逃げ――いや、それよりももっと惨い。
レンは絶対に超えることのできない種の限界を超えたのだから。
その通り。彼は人間でありながら、化け物でもあるのだから。
種を超える力の化け物。そんなもの――勝ちも負けも比較も何も無いではないか。
人間を越え、さらに亜人を越える人間。これはどう説明したものか。言えることは一つ。
――理解不可能。
人の身で獣人より高く飛び、魔法を有するエルフが誇る火力を越える。
【生ける伝説】。姿を晦まし、その力を目の当たりにすることがなくなった、レンの過去を指す名前。
姿を晦ませた理由、シーナが知るには、〝動けなくなるほどの傷を負った〟らしい。
そして傷が完治するまで休学なら納得がいくものの、分らないのは完治をしても姿を晦ませていること。
聞く話によると。宿を回り、マスターがいないと言っても終いには強制的に中を探し、レンを見つければ仕事、モンスターの討伐を依頼するも、即座に断られ、自分の居場所が知れ渡る前に宿を変える。その繰り返しだという。
何故そんなにレン――化け物に依頼を受けて貰おうとする人が殺到するのか。
それは如何なる相手でも必ず討伐するという、依頼を受けた瞬間から確定する結果からだ。
――そんな彼に、必ずこの依頼を受けてもらいたい。
シーナは胸を熱くして想う。
しかし見つけられたとしても、瞬間的に追い出されてしまい、話すら聞いてくれないだろう。
生ける、伝説。
そうとまで呼ばれた彼が、その名前が、過去の産物となり始めている。
そんなこと、炎を見るより明らか。――自明。
そう、何故なら彼は、〝引きこもっている〟から。
血の滲むような努力を成してようやく見つけたレンに悉く追い返され。
依頼の〝い〟の字も聞き入れず。
力があるのにそれを発揮しないから。
レンは昔――不登校になる以前は、モンスター討伐依頼を受託していたらしい。
らしいというのは、私がこの街の者ではないから。
……昔のことは、よく知らない。
【生ける伝説】と呼ばれた男、レンがこの街に居座っているとの情報は既に掴んでいる。
この街で、引きこもり――【生ける伝説】を探して一か月が経った。
おそらく、今この時を。自分と同じように、自分と同じ気持ちで、レンを探している者も多いだろう。
シーナは、今もレンを探している唯一の親友や、自分と同じように必死になってレンを探している者たちを想う。
――彼しかいない。あの男しか。この依頼を達成できるのは。
レンについて、他にも情報は存在する。
風の噂によると、理由は分からないが、レンは報酬金を受け取らないらしい。
それは、言ってしまえば〝タダ働き〟。
当然、こんな虫のいい話を見逃す依頼者がいないはずない。そう、無料で、報酬金ゼロで依頼を受け、必ず達成するなんて。
無論、守銭奴が跋扈するのは自明の極論。
これは余談だが、この国は一人の男のために、言ってしまえば一人の引きこもりのために、一つの法を可決した。
その内容は――。
――レン、別名【生ける伝説】において。一定難易度を上回らない依頼の直接依頼、捜索を禁ずる。
直接依頼というのは、国や個々が公共機関を介さず、直接討伐してほしい人物に依頼すること。
普通は、まず国や個人が依頼を作成し、公共機関を介して掲示板に張ってもらう。こうすることで、より多くの人たちの目に入り、依頼達成する確率が上がる。
法によって、少しは自らの利益のためにレンを探し回る奴らは減った。
が、しかし。彼の問題はそんなことではなかった。
少女は今、一つの宿屋の前に立っている。
この宿舎の名前は――看板の文字が擦れていて読めないではないか。
まあそれは問題じゃない。……この宿のマスターには悪いが、さしずめ、破格木造ぼろ宿舎、とでも名付けよう。
シーナは、魂までもがそのまま流れてしまいそうな深いため息を一つ、思う。
何度この宿屋に脚を運んだか、と。
――今日こそは、もしかしたらここにいるかもしれない。もしかしたら、この――目の前の宿に移動しているかもしれない。
なあに、今に始まったことではないわ、と。
自嘲すらし――
――この街全てのあらゆる宿舎という宿舎、それこそ大きなホテルも路地の迷路の先にある小さな小さな宿屋も。この一か月間で何回訪れたか……。
今日こそはいるであろう、きっと、もしかしたら――。
目の前の砂場から粒を一摘み、それがダイヤの原石であることを信じる気持ちで。
――今日こそは会ってみせる。見つけ出して見せる。そして、私の話を……レンに――。
――私が――いや、私たちがこの街に来た目的、それは――。
フードの彼女は、おんぼろぼろの宿舎の敷地を跨いだ。
今日も、少女の人探しは………続く――――。
***
場所、破格木造ぼろ宿舎。
その宿舎のドアの前に立つ、マントにフードの少女。
……そのボロボロなマントとフードは、彼女の心情を表しているようにも見える。
ドアノブにはオープンと彫られた木の板が吊るしている。
少女はドアを引き、中へと入る。同時に、チリリン……と乾いた鈴の音が鳴る。
この宿舎のマスターは入口を跨いですぐ、左手のカウンターに座り、煙草をふかしながら新聞を捲っていた。
白髪に、白い髭を蓄え、年季のこもった丸ぶち眼鏡をかけた初老の男。
内装は、外装より寂れていなかった。きっと毎日マスターが隅から隅へと掃除をしているのだろう。
マスターは入口に立つ少女に気付いていない。少女はカウンターに近づいた。
「――あの」
そう初老のマスターに声をかけ。
「こちらに――レンという人は宿泊されていますか?」
ドキドキと、もう慣れた緊張と共にそう尋ね、少女はフードをとった。
「――ぉお…………」
初老は、目を見開き、感嘆の声を小さく漏らす。
何度この少女の姿をこの視界に映したことか。
それでも、何度会っても。その度に、この目の前の少女に、感嘆を漏らさないことはなかった。漏らさずにはいられなかった。
蒼い、紺青色の瞳。
赤――洋紅色とも表現できる髪は、額の上を流れるように落ち、顎の辺りで揺れている。
表情からは、かなりの……限界の疲労が伺えた。
少女はフードを肩に落とし、軽く髪をかき上げる。
「シーナちゃん…………よく来たねえ……」
初老のマスターはにっこりと微笑む。シーナも、また微笑み返す。
「あの男……レンは、まだ……あれからここには来ていないよ。今頃……一体どこにいるんだろうねえ……」
「そうですか……」
もう、慣れていた。
内心、分かっていた。一か月、探し続けた。
同じ宿舎を何回、何十回と訪れ、同じ質問をし、いないと言われたことか。
もう――この街にはいないのでは――?
そう思いたくなる。しかしそれは現実に否定される。レンが見つかった、という知らせは今でもたまに聞く。会えないのは、その度に居場所を変えるから。誰にも見つからず、悟られず。
シーナは誘惑を断ち切るように頭を振り、自分に言い聞かせる。
諦めるな、と。
――この宿舎にも数え切れないほど足を運んだけど、その度におじいさんは私の話を聞いてくれる。私の故郷の話とか。勿論、おじいさんも色んなことを私に話してくれる。随分と昔に行ってしまった、愛する妻との生活。まだこの宿舎が新しい木の香りでいっぱいで、賑わっていた頃の話。モンスター討伐ギルドに所属していた若い日の話。たくさん話をした。
「これこれ。このお茶、子供の頃から好きなんだよねぇ……」
初老のマスターは味を堪能し、にこやかに言う。
「私もこの味……好きです」
シーナたちはカウンターがある廊下の奥にある、開けた広間に移動していた。
そこにあるのは幾つかのテーブルと椅子だけ。悲しげで、とても閑散とした空間だった。
二人はテーブルを挟み、お互い向き合う位置に座っていた。
「あの男を探し回って疲れてるだろう。好きなだけここにいていいよ。お茶もなくなったらまた入れてあげるよ」
「ありがとう……ございます」
しかしどうしても行かなければならない。それが言葉を少し遮る。
なだらかに、ゆったりと流れる、正午の時間。
「どれくらい、いれるんだい?」
お茶を啜っていると、唐突にマスターが口を開く。
「休んでいけって言っても、どうせまたすぐにあの男を探しに行くんだろう?」
「ぇ、ええ、まぁ……」
その返事にマスターは悲しそうに、けれどもどこか誇らしげに言う。
「そうかあ、行ってしまうのか……。レン……見つかるといいなぁ」
シーナが俯き、お茶に映る自分の顔を見ていると。
「頑張りな。どんな時でもどんな状況でも、諦めないことが、大切だよ」
「はい」
シーナは目を閉じ、新しく注いで貰ったお茶で、再び熱が感じられるカップを両手に包んで、思う。
身体の芯が、中心が温かく包まれる感覚……。
この感覚、シーナには身に覚えがあった。
「さ、今日はせっかく来てくれたんだから、とっておきの話をしようじゃないか」
おじいさんは楽しそうに言う。
「僕が若い時の話。シーナちゃん、ヴァイルは勿論知っているだろう?」
「はい。この国で最大規模のモンスター討伐ギルドのリーダー、ですね」
本名、ヴァイル・テイル。一刀両断の大剣の使い手。
――この国には他にも名高い戦士が存在している。例に、マキシマム・クロード。私はこの街に来てからあまり長くないから詳しいことは分からないけど、過去にはヴァイルと互角の腕だったらしい。噂では、今は剣を持たず、ひっそりとどこかで暮らしているという。
「おお、そうそう。ヴァイル率いる討伐ギルド、だがその規模は今よりはちょっとだけ小さい時、僕はそこに所属していた。あの時は……僕もそこそこ名を轟かせたもんさ」
「そ、そうなんですか!? すごいですね! 別名とかあったんですか!?」
正直、とても驚いた。目の前のおじいさんが、マスターが、あのヴァイル率いるギルドで名を挙げていたなんて。
「べ、べつめい?」
おじいさんは、目を輝かせるシーナの勢いに慌てた。
「はい! 名を轟かせたなんて凄いです! 別名とか二つ名とか、持っていたんでしょう!?」
〝別名〟――それは、能力があり活躍する者の中でも特に秀でていて。生涯が本に記録され、歴史に残る程の者が持つ。
あのヴァイル・ギルドで名を残したというのなら、それくらいはあっていいと思う。
「う、うーん……、なんか、忘れてしまったなぁ……」
「……もしかして、話盛ってます?」
シーナはジト目で返す。
「い――いやいや、ほんとだよ? 僕はあの頃ほんとに活躍したんだ。確か――べつめい、別名…………」
うぅ〜ん……と唸り、頭を抱える初老のおじいさん。
「え、あの……大丈夫です――」
「そぉう! 思い出した、思い出したぞ! 〝なんとか〟だ! 〝なんとか〟っていう別名を持っていた!」
まさに閃いた! という顔で言う。しかしその表情はシーナの目の前で固まっている。
「なんとかって…………」
シーナは落胆する。
「う〜ん、本当にあったんだよ。別名が。うぅ〜ん……」
おじいさんは唸り続ける。
「…………」
「えーい、まだ疑うのかシーナちゃん! いや、言えないのも悪いんだけど! なんなら、後で文献で調べてみなよ! 出てくるから! それか、直接ヴァイルの奴に聞くといい!」
「いえ別に疑っていませんし信じていますけど……ってヴァイルに直接聞けるわけないでしょぉお!?」
フィーア国最強ギルドのリーダーに聞くなんてあまりにも非現実的な……、とシーナは声を上げる。
しかしおじいさんは〝奴〟と言った。それだけでも、近い立場にいたことが伺える。
「はっはっは、いやぁ最後のは冗談だよ。でね? その時に、僕は一度北の霊峰を登山していたんだけど――」
――――――………。
おじいさんの声が止まった。
「マスター?」
そこには、今まで楽しそうに話をしていたおじいさんはいなかった。
代わりに、眼は鋭く、何かここにはないものを見据えるような視線の、初老のマスターに変っていた。
「え? あの、どうかしましたか?」
「シーナちゃん、そこに隠れていて。誰か、来るみたいだよ」
マスターは廊下――階段の下のスペースを指さし、ガーッと椅子を引いて急いでカウンターに戻っていく。
シーナは何が何だか分からないが、言われた通りに階段下へ腰を屈め、身をしまう。
やがて複数と思われる足音が聞こえてきた。
その足音はだんだん大きく、はっきりと聞こえてきて、ドアの前まで来てそして――。
ヴァァアアンッ!
木のドアが外れ、吹き飛び、入口を覗いていたシーナの顔を掠った。
ドアを蹴り飛ばしたのだ。
右頬がひりひりする。血が出た感覚。
――なッ――、なんてことするのッ!
ドアの無い入口に立っていたのは、カウボーイハットを頭に乗せた男三人組だった。真ん中が金髪の長身の男、右が長髪、左が小太り体系。
この時、シーナを支配したのは、怒り。
まるで逆流する川のような勢いで一気に頭に血が上った。
今すぐにでも飛び出してあの三人殴り飛ばしてやろうか――と思ったが、シーナは感情を抑えここのマスターを一瞥する。そこにいたのは、氷のような冷たさを宿した眼のマスターだった。
シーナは衝動をなんとか抑え込んだ。おじいさんが自分に、ここに隠れていろと言った意味。それを違えるわけにはいかない。
――きっとマスターも私と――いやそれ以上に怒りを感じているに違いない。ここは、我慢しなきゃ。
「おい老人。ここのマスターか? もしかしたらここにレンいるか?」
金髪がニヤニヤと。まるで、悲願が叶うかもしれない、という表情。
「…………」
マスター、口を開かず。
「おい、まさかレンを知らないってことはないだろうな。いくら老人でもあのレンくらい――」
「ああ、知っているとも。【生ける伝説】だろ? 知らないわけないだろう……」
このときシーナは、マスターの言葉に少し皮肉が含まれているのを感じた。
「ははっ、路地の迷路にこんな宿があったなんて盲点だった。なぁ、もしかしてここにレン、いるんじゃねぇの?」
三人組がにやける。このとき、シーナは思う。
――きっと、あの人たちも自分と同じようにレンを探し回った身なんだろう……。それで、たまたまこの宿舎を見つけて、人が知らなそうな場所だからレンがいると踏んだ。でも――ドアを吹き飛ばすなんて酷い! 毎日おじいさんが頑張って手入れしているのに!
「はあ……、君たちもか。悪いけどレンはここに来たこともないよ。きっと、こんなところにこんな宿舎があるなんて、知らないんじゃないのかなぁ……」
それを聞き、三人組の表情、一転。
「――チッ。なんだ的外れかよ。期待して損したぜ……」
金髪が地面に落ちていた札を拾い上げる。
――ドアノブに掛けてあった札だ……。
金髪はペンを取り出すと――何かをがりがりと書き始めた。
シーナは飛び出すことを決意。
「おい老人!」
それをマスターへ投げつけた。
――なっ……!
その衝撃でシーナの身体は飛び出さずに固まる。
しかし投げつけられた札を、初老のマスターは人差し指と中指で――横目で掴みとった。
――――……。
その動作に三人組は動揺し、頬に汗筋一つ。――しかしそれを隠し。
「も、もしもレンがここに来たら真っ先にその連絡先に伝えろ――俺たちのギルドの番号だ――」
――本物だ。今の反射神経といい、こいつらが来る前の察しといい……。
シーナはこのおじいさんの過去、名を上げ活躍する姿を確実に彷彿した。
「…………ふん……」
マスターは指先の板を見つめ、鼻で返事をした。
「いいか!? 絶ッ対に連絡しろよッ!?」
最後に何かをごまかすかのように喚き、三人組は去っていった。……ドアを壊したまま。
「ふぅ……、やれやれ」
再び、閑散な、物静かな空気になった。宿舎は傷を残して。
宿舎の外見――正面は酷い有様だった。
まずドアはあるべき場所から外れ――今や廊下の端まで飛ばされて倒れていて。
ドアを固定していた金具――その金具を付けていた木の壁ごと木っ端みじんに破壊されていた。
視界の床には、鋭く痛々しい木の破片が散らばっている。入口、玄関は宿舎の顔と言っても差し支えのない程のものなのに…………。
「……まったく、これで何度目かなぁ……」
「――え」
おじいさんが呟く。
シーナは血の気が引くのを感じた。
「直しても直しても壊される。ほんと、あの男は今頃どこにいるのかねえ…………」
シーナは言葉が出なかった。
「あーあぁ、金具まで……壁まで壊れてるよ……。ほんと、レンを探す連中はああいう奴らばっかりだ……」
「あっ、あのマスター、これ……」
シーナは何かに駆られるように廊下の端まで走り、ドアを持ち上げ、入口でしゃがみ込むおじいさんにおずおずと差し出す。
「……シーナちゃん――君はほんとにいい子だねぇ……。シーナちゃん、何だか妻を思い出したよ…………」
おじいさんは続ける。
「でも、いいんだよ。シーナちゃんは、きっとレンに会える……きっと会えるよ。だから、ここは大丈夫。壊れたら、……また直せばいいさ。――さ、行きな」
「……はい。また、遊びに来ますね」
……そう言うしかなかった。
シーナは礼儀正しくお辞儀をし、宿舎を後にした――。
***
そこは、先程シーナが訪れた宿舎とは外装も内装も正反対で、品で溢れた空間だった。
建築には白い大理石を使用しており、床は鏡のように来客者の姿を映す程のもの。
エントランスの高い天井には、星も羨む輝きのシャンデリア。
壁には半円アーチ状の窓が連なり、陽光を館内に注いでいた。
違うところは他にも見て取れる。宿舎専属の一流料理人や、業務正装なのだろう、メイド服やタキシードに身を包む、様々な種族の者たち。
ここは、この街――いやこの国でも屈指の豪華高級宿舎。
埃や床――土汚れが一つたりとも見当たらない。――メイドや執事による掃除が行き届き、常に輝きを放ち、来客をもてなす空間。
宿舎というより、ホテルと言った方が妥当だろうか。
だが、何やらブルーシートで包まれた何かがいくつか置いてある。
――ここも何回この足で訪れたか……。数えることは、――もう止めた。
今、このホテルに。
見れば一目、フードの下で妖魔の笑みを浮かべた少女が足を踏み入れた。
彼女はゆらりゆらりと歩み、フロントを目指す。
声をかけようとしたタキシードの獣人はフードの下を見、思わず後ずさり――何か危険を感じて身を引く。
メイドの者も次々とシーナの周りから逃げ、柱に隠れうずくまる者も。
そして。
眼前はシーナより身長が高く細身、紺色の髪、執事のタキシードとは違う制服を着こんでいる男。
フロントの前まで来たシーナはフードをとる。
ホテルフロントの男性は若干顔を引き攣らせ、しかしお客様に失礼の無いよう――平常心を装い、対応する。
「お――お客様、ご用件は何でしょうか」
――やっと、辿り着いたわ……。
赤毛の少女は、このまま昇天してしまいそうな感覚に襲われた。
――まだ。ここからよ……。
しかし。まだ目的は達成していないと、力の抜けそうになる自分の身体に内心瘤を入れ
る。
「こちらにッ――レンという人は、宿泊していますかッ!? いえもういいわ――どこにいるの今すぐ会わせなさいッッ!」
正午が過ぎ。昼食を終えて、紅茶を手元に一休み――そんな優雅な雰囲気が漂う広闊なエントランスに、シーナの――怒号にも聞こえる大音声が轟いた。
ホテルフロントは少女の大声での問いに、冷静を装ったやや控えめな声で対応し続けていた。
しかし、一向に鎮まりそうにない少女。
「なんだなんだ?」「ねぇ、何の騒ぎ?」「何やってんだあの女の子、フロントで喚き散らして」
なにやらさっきから同じことを叫んでいる少女がいる、と怪訝に思った人たちはぞろぞろとエントランスに出てくる。
シーナの大声に対してホテルフロントは冷静に対処しようとしているので、無論、遠くから聞いている人は女の子が連続で同じことを叫んでいるようにしか聞こえない。
――ちッ……。早くコイツを何とかしなければ。
ホテルフロントは内心舌打ちをし、何とか対応を続ける。
「は、や、くッ! レンの部屋はどこか教えなさいッ!」
少女の大きい声にびくびくした様子で、ホテルフロントは、来客名簿に眼を通すフリをし――
「……いえ、レンはここにはいません」
しかし青い双眸の少女――、シーナはホテルフロントを睨み付け。
「本当はここにいるんでしょう!?」
と、同じ事を叫ぶシーナに竦むように顔がこわばる。ホテルフロントはそれを隠したつもりだが、しかしシーナは見逃さず。
「本当はッ! ここにいるんですよね!?」
「いっいえ! お客様の勘違いではッ!? レンはこのホテルには宿泊していません!?」
「ええ!? よく聞こえないですわね!? 今ッ! すぐ! レンの部屋を教えて頂けます!?」
狂ったように同じ質問を繰り返す少女、そしてそれに繰り返し対応するホテルフロント。
ここまでシーナがこのホテルにレンがいると確信したのは、エントランスに入る前。
それは、初老のマスターの宿舎を荒らしたあの三人組とすれ違った時だった。
――すれ違い際に一発殴り飛ばしてやろうかしら……。
だが実行の直前、その瞬間に聞いた、小さな話声。
『――チッ……。【生ける伝説】もあのザマか』
『ああ。探して損したぜ』
『全くだ。あそこまで落ち潰れていたとはな』
――好機ッッ!
その時シーナは内心全力で叫ぶ。
よって確信した。レンは、ここにいると。
そしていくら探しても見つからないのは、宿泊施設側がレンの存在を消していたから。 目の前のホテルフロントも、メイドたちも料理人も、皆、レンがここにいるということを隠そうとしている。
きっと、今までも私が訪れた宿舎にレンはいたのかも知れない。本当はいるのに、その存在を隠されていたのかもしれない。
そう思うと、段々腹が立ち、同時に悔しさも感じる。
シーナはそれを、目の前のホテルフロントにぶつける。
「で! ここのどこの部屋にレンはいるのです!?」
「で、ですからお客様!? 先ほどから申しています通り、レンはここには――」
「寝言は寝てから言いなさいな!? ええ!?」
ヒステリック。少女のヒステリックの連続。
それは、一か月の常人には計り知れない努力が、今解き放たれている。
――もういいわ。
――やっと……、やっとレンの居場所にたどり着いたんだから。ここで引くわけにはいかない。
「…………ふぅ――」
シーナは激しい口調を止め、穏やかに息き、身体の力を一旦抜く。
静かになった彼女を見、ホテルフロントはよかった、諦めてくれたと安堵、肩の力を抜いた。
それに伴い、メイドたちも安心したように息を吐き、各々の仕事に戻る。
さっきからずっとこっちを見ている従業員は、ブルーシートで包んだ何かを持ち直し、そろりそろりと慎重そうに歩き出す。
「お客様、お疲れだしたら、あちらのソファーにてお寛ぎください。ご希望なら、お茶をお出ししますよ?」
ホテルフロントが愛想よく笑いかける。
――私が落ち着いたと勝ってに勘違いして安心して、媚売りな感じにイライラするわね……。
「あら、結構です♪」
シーナはにこやかに、口角を釣り上げて遠慮する。
「……?」
ホテルフロントはシーナの若干不気味な微笑みに何か違和感を感じる。
――冗談じゃないわ。
シーナは内心せせら笑う。本当に諦めたと思っているのかしら……。
「そ、そうですか。それは大変失礼しまし――」
――――――すぅッ、と息を吸い。――そして。
「本当にいないなら中を探してもいいわね?」
挑発的な声で確認の言葉を発した瞬間――。
「ぶッふうぅぅッ!?」
ホテルフロントが目の前で大きく吹き出し。それは彼が極度の緊張状態だったことを示し。
ガタァンッ!
とブルーシートの中身、すなわち脚がとれ壊れた椅子が大きな音を響かせて床に転がり。
「にゃッ!?」
いきなりのシーナの発言に驚き、垂れていた尻尾を垂直に逆立て、パリィィンッと運んでいたお皿を割るメイド。
イライラを断ち切り、緩やかになった空気を凍らせた。
周りにいる各々が驚きを隠せず動揺するなか。
「そ、それは困ります!」
必死でシーナの侵入を阻止しようと説得を試みるホテルフロント。
――それだけは駄目だ! レンを探しに三人の男が暴れたことを、これ以上大事にならいように取り計っているのに!
――ふざけるなあッ!?
ホテルフロント、内心叫ぶ。だがその焦燥を全力で隠し――
「か、勝手な捜索は、宿泊しているお客様に迷惑をおかけしますので……」
できるだけ冷静に振る舞おうとするが――
「あらどうして? 私はさっきの男三人みたいに暴れたりしないわよ? それに、ここにレンがいることは既に知っているわよ?」
「なッ、あぁッーー!?」
ホテルフロント、よろける。
シーナが来る直前にレンを探しにホテルを荒らし――いや、もう襲撃に近くなっているそれを既に知っているとの発言に、ホテルフロントは仰天。
「では、失礼します」
シーナは礼儀正しくお辞儀をし、ホテルフロントが手に持っている来客名簿をひったくりレンの部屋を探し始める。
「あ、あぁ……」
ホテルフロントは手を伸ばすがもう何もできなかった。
「……ニ○五、ね?」
「…………」
何も言い返せない。
階段に向かうシーナ。
だがそれを一人のメイドが遮る。その人物は食事がのったトレイを持っていた。
「どうせ行かれるのでしたら……、これをお願いできますでしょうか。レンの部屋の前に棚があります。そこに置いて頂くだけで結構ですので」
彼女は大変かしこまっていた。
シーナは差し出されたトレイをしっかりと受け取った。
「……押し付けて申し訳ありません」
「いえ……」
シーナは会釈をし、スープ料理をこぼさないように注意をしながら、レンのいる二○五に向かった。
どうやら、そうとうレンに手を焼いているらしい。メイドの様子からシーナは考える。
あることを依頼するため、ここ数週間、睡眠の時間をさいてまで探してきた人物。
――やっと会える。
そう思うと、ため込んできた疲労がどっと来て、手元のトレイを落としそうになる。
――やっと会えるッッ! 遂にこの時が来たッ!
シーナ、その現実に歓喜を噛みしめる。嬉しすぎてレンの食事が乗ったトレイを真上に投げたくなってしまう程、今のシーナの身体には力が漲っていた。
――【生ける伝説】、レン。どんな人なんだろう。怖い人なのかな。訓練学校に在学しているのにも関わらず訓練を受けていないということは、不登校。
そしてずっと宿舎から出てこないとなれば、引きこもり、だよね……。
レンの人物像を思い浮かべながら歩いていると。
「――うわ」
シーナ、思わず声を漏らす。
そこには――レンがいる二○五号室の入口の横には、外れたドアが立てかけてあった。
どっしりと大きく、荘厳で重そうなドアが。
きっと、あの三人組がつき飛ばしたのだろう。ドアの無い入口は、暗い口を開けている。
手に持ったトレイを棚に置く。
「レン、さん? 食事を持ってきましたわよ?」
――今から会う人物は過去形でも【生ける伝説】と呼ばれた男。それに私はレンがどんな人なのか一切のことを知らない。初対面。知っているのはのはほんの少しの経緯だけ――。くれぐれも失礼のないように接しなければ。
そして本当の緊張を伴いながら部屋の前に立ったシーナは。
「――ッッ、何――これ……」
思考を停止させられた。部屋を部屋と言わせない、その残虐的な空間を前にして。
それは部屋と呼べるものなのか。
まるで何かが暴れまわり、それを沈めるために闘った後のような。
眼を見開いたまま固まったシーナの瞳に映るのは。
壁や床、それに家具、あちこちに突き刺さっているいくつもの剣、剣、剣。
無数の切り傷で埋まっている壁。
破壊された椅子やテーブル。
割れた鏡、その破片が散らばっている床……。
その空間の中。
唯一、形がある家具、ベットの上に、その人はいた。
シーナは部屋に足を踏み入れる。
ベッドは入口正面の壁に接するように置いてあり、レンは壁にもたれ掛かって寝ていた。
顔は――俯き加減でよく見えない。
レンの背後にある窓は完全に遮光カーテンで閉ざされていて、あるのは僅かな隙間から漏れる陽光のみ。
――やっと、やっとレンに会えたのに、食事だけ置いて終わりなんて。せめて、レンに話を聞いてもらわなくては。て、ていうかそのつもりだったし? そ、その前に、せっかく食事を持ってきたんだから、冷める前に食べてもらいたい。
と、シーナは寝ているレンを見つめて考え。
床に突き刺さった刀身に気を付け、レンに近づく。
――キイィィイン……。
「――ッ!」
その時。シーナは出所が分からない、耳鳴りのような鋭い鉄のような音を幻聴、そして深紅の二つの光を目視した。
「誰だ」
我に返ると、レンが目覚め、顔を上げていた。そこにあるのは深紅と金髪の男だった。
「――あっ、あのレンさん。食事を持ってきたので冷める前に食べてくだ――」
「ホテルの者じゃないな……誰だ」
シーナの気遣いは無用らしく、再びレンは正体を問う。
た、確かに名乗る方が先ね、とシーナは詫びる。
「し、失礼しました。わ、私はシーナ。シーナ・ドラシオンといいます」
「……なんだと」
「え?」
小さな呟きに聞き返すシーナはどうでもいいらしく、レンは思考に入る。
――ドラシオン……。何処かで聞いたことのある言葉。
――ドラシオン。何を指す言葉だったか。
考えるも思い出せそうな気がせず。
「何しに来た?」
シーナは初めてレンの声の抑揚を聞いた。
「食事をホテルの者の代わりに持ってきた、だけじゃねえんだろ、何の用だ」
お前の目的は分かり切っていると言いたげに、と暗い微笑を浮かべ冷たく言い放つ。
「……本当は分かっているくせに」
「何?」
シーナは拳を握りしめ、歯噛みする。
「体の傷は治って! たくさんの人から求められる力は失っていない!」
レンの胸倉を片手で掴んでいた。
「なのにどうして! その力を発揮しないの!」
――――。
――――……。
時間が流れた。
レン、自身の胸倉を掴み上げられるとは予想もせず、唯黙っているだけ。
シーナの青い双眸は、鋭い深紅の瞳を見つめ。
レンの目には深い、深い青が映っていた。
それらは暗いこの部屋の中でもはっきりと。
「……ああ。確かに身体の傷は治った」
レンが口を開いた。
「――だがな」
レンは胸倉を掴まれたまま、呟く。
「俺に傷を与えたのは、モンスターでも何でもない」
「――?」
そして最後に、【生ける伝説】と呼ばれた男が見せた表情は、深い悲しみが満ちていた。
「人類だ。その中にはエルフや獣人もいた。……あいつらが俺に傷を与えた」
――――――――…………。
「……」
シーナはショックで言葉が出なかった。いや、何を言っているのか分からなかった、というべきなのか。
「モンスターに向けられるはずの武器が俺に向けられ、斬られ、魔法で焼かれた」
「……ッ」
シーナは信じられなかった。
確かにレンの力を恨む者がいることは知っていた。でも――。
まさかレンが報復で攻撃されるなんて。
「あいつらというのは訓練学校の生徒だ。傷はもう治ったんだがな、外に出たら出たでこの国の依頼のほとんどが俺に殺到した。俺が寝ている間に依頼が溜まりに溜まったんだな。そしてこう言われた。お前がいるせいで依頼が回らない、金が入らない、食っていけない、消えろってな。……分かったか?」
「…………だから、依頼を受けないの? 剣を……振るわないの?」
「ああ。力を出して憎まれるのはもう散々だ。訓練学校での話だけじゃない。中でも 外でも邪魔者扱いだ」
レンは自身の過去を一気に言い連ねる。誰かに話してしまいたかったのだろうか。
……しかし本当に誰でもいいというわけではない。シーナは理由を求めた。
そしてレンは感じた。目の前の少女が、圧倒的に強い想いをもっていることが。
それらが要因だろう。
今までの自身への来客者で、持っていないものをもっている。
「――それでもッ! 依頼をレンに受託して欲しい、レンの力を求めている人たちは確実にいるわ!」
「……俺が外に出ればたちまち金の流れや均衡が崩れる。そうすれば依頼を受託し、達成して金を貰っている奴らは食べ物が買えなくなって貧困状態だ」
「――だけどッ!」
レンの正論に反論できずやるせない気持ちが募る。
「だけど! レンに助けてもらいたい人が――……」
それは、今この時自身を含め、他の依頼者たち。
「おい、今の話聞いてなかった……、のか?」
レンは呆れ顔で薄く笑う。
「別に依頼なんか受けないでひたすらモンスターを殺しまくるのもいいと思ったんだけどな。そうすると依頼対象がどこにもいないだとか訓練で討伐するモンスターがどこにもいないだとか――だから俺は、もう……、力を出さない。俺が姿を現しただけで均衡が崩れ、生活が出来なくなる人が生まれ。俺を憎む者が生まれるのなら……」
「――俺は、もうずっとこのままでいい…………」
レンは振り絞るように言うと、視線を下げ、やがて背中を丸めて俯いた。
――――――――――…………。
時間が過ぎていく。
レンは微塵も動かない。壊れた時計のように。
シーナもまた、動けずにいた。
――死んでいるわ。
シーナ、目の前の男を見下げる。
――レンは、まるで時間を刻むことができない壊れた時計……。
「……」
シーナは何て声をかけてあげればいいか分からなかった。
レンは、自分がどれだけたくさんの人に必要とされて……。レンは依頼を受けたいのに、助けたいのに剣を振るえないのか? 一つでも依頼を受ければそのことがたちまち広がり、均衡が崩れるから。
――だけど……。
シーナはレンの身体に装着されている金属製の物を見る。
――いいえ、前言撤回するわ。
――レンはまだ完全に死んでいない《・・・・・》。まだ、闘志は残っている。
「じゃあ……」
シーナはこの部屋に入った時、初めてレンの姿を見た時、最初に思った疑問を訪ねる。
「じゃあ何で、今レンは防具を付けているの?」
ギリィッ……。
疑問を口に出した瞬間。
「ひっ……」
激しい歯噛みが聞こえ。
心臓を貫く鋭い視線がシーナを襲った。
シーナは恐怖で、いや本能で後ずさりする。
「出て……行け」
レンがゆらりと立ち上がる。その拍子でベッドが軋む。
「まッ、待って!? わ、私はただッ――!?」
今、レンの感情が怒り一色なのは見て取れる。
今の質問でどうして感情の糸が切れたか大体考えはつくが、悪気があったわけでは、と弁解しようとするが――。
レンはゆっくりとシーナに近づき、物凄い剣幕で。
「――出て行けッ!!」
「――ッ!?」
目と鼻の先で叫ばれ、シーナは肩を跳ね上げる。
このとき、ほとんどシーナの意識はなかった。とんでいた。
身体は全力疾走で部屋の入口を跨ぎ。空気を裂く勢いで廊下を駆ける。
――逃げろ。
――さもなければ命が危ない、逃げろ。
本能が身体を動かし、手すりに手をかけ遠心力を殺し、階段を一気に下る。
――そして頭には。何とも言えない、あの鉄の音のようなものが残っていた。
…………。
そしてシーナ、エントランスに飛び込び、少し進んだところで倒れる。
「――!? ど、どうしましたか!?」
「にゃあ!? まさか、隠居野郎になにかされたのかにゃっ!?」
帰ってくるなりいきなり倒れたシーナに驚き、心配して駆け寄るメイドたち。
「み、水を……」
生きた心地がしなかった。
何かしらを体を入れたい。
さもないと気が狂いそう。
瞼を閉じればあの深紅の眼光が蘇ってくる。
全身震え、何も考えられない。
メイドたちはシーナをとりあえず壁に寄り掛からせた。
「――みッ、水をッ……」
「にゃ、はいにゃ……」
たった今取ってきた獣人のメイドはトレイを差し出す。
しかしシーナの手はグラスが見えていないように宙を彷徨い。
腕は唯伸ばされただけで、今にも折れてしまいそうな程震えていた。
獣人のメイドはトレイを床に置いてグラスを持ち、それをシーナの口へと運ぶ。
そして若干溢しながらもシーナは水を飲み干した。
「――ハァ……ハァ……ハァッ――――」
いよいよシーナが尋常ではないと理解したメイドたちは、だがあたふたするばかりで何もできない。
「何があったの!?」
「何があったにゃッ!?」
二人の状況説明を催促する言葉は同時に発せられた。
「……い、……た、い……」
「ど、どこが痛いの!?」
「まさかッ、隠居野郎に暴力されたにゃッ!?」
震える小さな声と震える瞳で、痛みを訴えるシーナは自分の心臓のあたりに手を当てる。
「……心、臓……が、痛、い……」
「し、心臓!?」
「心臓が痛いってにゃんにゃんにゃいッ!?」
混乱する二人のメイド。
先程シーナに打ちのめされたホテルフロントも心配を隠しきれずちらちらと壁際の彼女を見る。
「あの赤毛の子どうしたんだろう」「気分でも悪いのかしら」「ちょっとやばくない?」 さすがに少女の異常に気づき、あちこちから聞こえてくる人々の動揺の声。
その時。
バアァァアアン――――ッッ
突然、勢いよく開かれるホテル入口。
エントランスにいる者全てがそこを注視する。それはシーナも例外では無かった。
「――ヴァイル・ギルドだ!」
誰かが叫ぶ。
シーナは瞼にあらん限り力を入れ、ヴァイル・ギルドと呼ばれた集団を見ようとした。
ぞろぞろと多数の人数がエントランスに入って来る。
――フィーア共和国最大勢力、ヴァイル・ギルド……。
そしてその先頭。フロント全体を見まわし、そして自分に向かって歩いてくる人物。
――…………レンのあの深紅の眼よりは濃くない、赤い眼…………、黒い髪…………。
こっ……、この人は――。
リーダー、ヴァイル・テイル。
朦朧とした意識の中で彼の正体に辿り着く。
彼は複数の者を従えて、シーナに近づいて来た。赤黒い甲冑は普段着のように着込んでいるが、武器は携えていない。
「容態が悪いところすまないが、ちょっといいか?」
低くて太く、威厳のある声。
「ちょっと! 容態が大変なのは見てわかるでしょ!」
「途中から出てきておいてにゃんだこいつ……」
「――お前たちには聞いていない」
その言葉一つで、二人は黙ってしまう。
「――フンッ」
ヴァイルは鼻を鳴らすと、膝を床につきシーナの顔を覗き込む。
「……見たところ、物理的にではなく、間接的に身体にダメージが与えられているようだが、誰にやられた?」
ヴァイルは薄く笑う。
自分で聞いた質問の答えが誰か、既に知っているというように。
こんなことできるのは、あの人物しかいないというように。
「にゃ!? 隠居野郎に暴力されたのではにゃいにゃ!?」
「――それ言っちゃ駄目っ!」
「――にゃッ! しまったにゃぁ……」
や、やってしまった。もうどうしようもない……。
決定的ミスに猫の獣人メイドは深く深くうな垂れる。
ヴァイルの赤目は光り、思考が確信の上を行く。
「そうか。やはり噂どうり……」
そう呟いてヴァイルは立ち上がる。
そしてずんずんずんとホテルフロントに向かって歩いていく。
「ヴァ――お、お客……様?」
ヴァイルに睨まれ顔を引き攣らせ、半笑いの様子。
「隠居野郎、レンの部屋はどこだ? 即答願いたい」
「い、隠居野郎? 野郎と言うからして男性でしょうか――、ホテルフロントである私、レンという人物には身に覚えがありませ――」
――ダアァァンッッ!!
突然の爆砕音。それに伴い悲鳴や驚きの声があちこちで上がる。
物凄い破壊音に動揺する者はエントランス内にとどまらず、ぞろぞろと何があったのかと各客室や食堂から出てくる者たち。
「――ぇ……」
「にゃ……ぁ……」
シーナの身体を支えている二人も愕然としている。
「――は、……ぁあ、ぁ……」
ホテルフロントが最後に確認したのは、ヴァイルの振り上げた腕。そして次の瞬間起こったことは、体感、目視できないほどの拳の振り下げ。
チェックインカウンターは、真っ二つに砕け割れていた。
とても豪華な、床まで厚みのあるカウンターが拳で破壊された。
ホテルフロントは顔を引き攣らせたまま固まり、眼には粉砕したカウンターの景色が張り付いていた。
…………破壊されたそれは、ホテルの顔、ホテルフロントの命といっても差し支えのないものだった。
「レンの部屋はどこだ?」
ヴァイルは壊したカウンターに足を乗せ、ホテルフロントに近づく。
「にっ……」
「ん?」
「にーまる……ご……」
「二○五だな。よし、お前たちはここで待て。彼には俺一人で会う。ああそれと――」
ヴァイルは自身のギルドメンバーたちに指示、そしてホテルフロントに向き直り、決定事項を言い放つ。
「壊したカウンター代は後日ギルドから直接払う。いいな?」
異論を認めない確認にホテルフロントは――放心状態で聞こえていない様子。
ヴァイルはうんともすんとも言わないホテルフロントはどうでもいいらしく、階段に向かって歩き出す。
「待って……」
既に階段を上り始めたヴァイルの足が止まる。
「……何だ?」
「にゃ! しっかりにゃ!」
今すぐに意識が飛びそうなシーナは震える声で言った。
「絶対……怒らせることだけは、しない……で……」
レンを怒らせてはいけない。怒らせれば、間接的に。視線で。感情で殺られる。
レンの視線の力を知っているヴァイルは、シーナを安心させる言葉を放つ。
「……分かった」
ヴァイルは大股で階段を上っていく。
その最後の言葉を聞き取ったシーナは、あることを確信して意識を手放した。
――必ず。間違いなく。ヴァイルは追い返される。今のレンはどんな要望も受け入れない。
そして偏に思う。
――必ず、私が。レンを再び、剣士として――【生ける伝説】として。……蘇らせる。
***
「……ぅぅ…………」
――胸が……心臓が痛い…………。
目を覚ますと、とても見慣れた、懐かしい天井が視界にあった。
装飾も何もされていない、豪華とも立派とも言えない木の天井。
まだはっきりとしない意識の中、ここは自分たちの寝室だと理解する。
やたら照明が眩しい。目の奥がズキズキする。
「シーナ?」
自分の名を呼ぶ、懐かしい声。
ギルドメンバーは自分を含めたった二人しかいない、超小規模なギルド。
ここは私たちのギルドのホームであり、私たちの家。
そして、隣にいるのは、この家で共に暮らしている親友であり、家族。
種族、エルフ。名を、イーナ。
容姿は、エルフの特徴である真っすぐ尖った耳。
緑色の髪を後ろで束ね、それでも腰までは垂れる程の長さ。
眼は柔らかい橙色。
イーナはシーナがギルドを設立したきっかけの人物。
唯一、シーナを知る者。
「イーナ、――何が……」
まだ状況判断できていないシーナ。
「家に帰っても誰もいなくて。その時が夕方頃」
イーナは一度ここに帰ってきたことを伝える。
「日没には家に帰るって約束したのに、なかなか帰ってこないから、シーナが探す宿舎の範囲を探し回ったの。それで……」
イーナは今までのことを説明していった。
「そしてあのホテルに入って、シーナのことを聞いたら、気絶したから空室の客室に運んだって言うじゃないっ!? 私もうびっくりして……。あとは背負って帰ってきた」
ここ最近、二人は早朝から深夜までぶっ通しでレンを探し続けていた。
レンの居場所についてある程度の情報はあったし、この国全部の宿舎を探すのは無理だけど、この街だけなら何とかなるんじゃないか。
そう決めて、街を半分に分け二人で探していた。
それでもここは首都。時には向こうの宿舎に泊りがけで探すことも。
アルバはフィーアの約四分の一の面積をとる。いくら中心部の宿舎酒場区画に密集しているからって、他に散らばる宿舎にいない、という保証は無い。……半分に分けるといっても、それはとてつもない広さになる。
その上イーナは、自分と同じようにくたくたなのに、意識が飛んだ私を背負ってここに連れ帰ってくれた。自分をもう一人背負うようなものだ。かなりの苦痛だっただろう。
そしてずっと見守っていてくれた。
「イーナ……」
「ん? なぁに?」
シーナが何かを言おうとするとイーナはひざを折り、顔のすぐ側まで来てくれる。
「ええと……その、ありがとう」
「――それと、ごめん。イーナだって疲れているのに……」
自分を想ってくれる彼女に、精一杯感謝して、あやまった。
「いいよ。……実を言うとね、シーナと一緒に住んでいる者ですって言ったら、シーナがいる個室に私もいていい、夕方だし泊まっていいって言われたんだ、ホテルフロントに」
「――え?」
イーナはベッドに肘を立て、心底楽しそうに話す。
シーナの反応を見て、嬉しそうに小さく笑った。
「むすっとしていたけれど……、いい人なのね。あの人」
「そうだったの……」
散々レンはいないと誤魔化していたホテルフロントしか知らないシーナは、複雑な気持ちになる。
「でもね、連れて帰りますって言ったの。やっぱりここがいいから」
「うん……」
その想いはシーナも一緒だった。
自分のことは自分以外誰も知らない。
繋がりを失った者同士が出会い、共に進もうと誓い合い。
ギルドを建て、二人で買ったこの家……。
シーナはイーナと出会った時のことを思い出していた。
「でね? シーナを背負ってホテルを出るとき、さらにこんなことがあったの」
イーナは眼を瞑り、おどおどしていて、ちょっと不器用だけど、隠れて心配してくれていたホテルフロントを思い出す。
***
「んんっドアが……」
シーナを背負ったはいいが、両開きのドアを開けれなくてイーナは立ち往生していた。
――身体の横で押そうにもシーナの脚が当たっちゃうし……。
――かと言って自分の頭ではドアが重くて開かない。
――魔法はシーナを背負っているから使えないし……いや、頑張れば何とかいけるかも。利き腕だけなら。……そんなことしたらカウンターだけではなくこのドアまで吹っ飛んでしまう。
イーナはさすがに泣き崩れるホテルフロントを想像し、最後の案は却下する。
どうしようかと悩み、最終的に一旦シーナをフロントのソファーに寝かせ、ドアを開けてからシーナを背負おうと考えについて、身体を反転させた時。
顔の横を誰かの腕が通った。
ギィィィ……。
ホテルフロントの片腕がドアを押したのだ。
「あっ、ありがとうございます」
イーナは小さく頭を下げ、ドアをくぐる。
「……最高記録だ」
「え?」
片側だけ開けたドアに手を置き、腰にもう片方の手を当て、夜空を見るホテルフロントの姿があった。
「他の来客者は依頼の?い?を言うと同時に追い返されるんだがな」
「――しかしその子は違った。今までの誰よりも長くレンといた。最高記録だ」
「……、はぁ」
何て答えればいいか分からず、曖昧に返事をするとホテルフロントはこんな事を言った。
「またここに来い」
「え?」
イーナはホテルフロントの顔を見上げた。その顔は、夜空を見上げていた。
……何か嬉しそうな表情。
「俺は思うんだ。その子――」
「シーナです。私はイーナと言います」
イーナは反射的に自分たちの名前を言った。
「おっ、そ、そうかっ」
ホテルフロントは少し驚いた感じだが、より高く夜空を見上げ……、そしてイーナの眼を見つめた。
「俺は思うんだ。彼女――、……シーナならば、レンを連れ出してくれるのではないか、と」
「シーナが、……レンを?」
そう。それは見つけ出すことではなく、外に連れ出すこと。光の下へ。新しい目標。
「ああ。シーナならレンを――。本当の意味であの部屋から外の世界へ引きずり出してくれる」
予想から確信に口調を変化させたホテルフロントはイーナとシーナに笑いかけた。
「――シーナがフロントに降りてきてから、あのヴァイルが来てな」
「えっ? ヴァイルって、ヴァイル・ギルドのヴァイルですか?」
「そうだ。そのヴァイルだ」
イーナ、あまりの大物の名前に思わず聞き返す。
「とんでもない奴が来たもんだ、俺はそう思ったんだがな。階段上がったと思ったら血相変えて降りてきやがった。しかも物凄い速さでな……。冷静さを欠いてなお平然を装うとするヴァイル……。俺、笑いそうになってさ。最高記録のシーナを誇ってしまったよ」
くっくっくっと声を漏らして笑うホテルフロント。
「ま、まあなんだ。次来たときはすぐ通してやる。だから、また――行ってやってくれ。レンのところに」
「は――はあ……」
「それだけだ。呼び止めて悪かったな。気を付けて帰れよ、じゃあな」
最後に一気に言うと、すごすごとホテルに戻っていったホテルフロント。
バタァン……、と片側のドアが閉められ、エントランスから漏れていた光が閉ざされる。
「…………」
最初っから最後まで驚きっぱなしだったイーナ。
「……帰ろうね」
小さくシーナに呟いて歩き出した。夜の街の喧騒を聞きながら、輝く月を眺めながら。
***
ぽか――――――ん…………。シーナはまさしくそんな顔をしていた。
「ふふっ。意外過ぎた?」
「う、うん……。驚いた。とても驚いたわ……」
シーナはだんだん重くなってきた瞼に逆らうことなく眼を瞑る。
「身体はもう痛くないから――、明日、二人で行こう」
「うん、分かった。……寝る?」
「――――――ん」
「……おやすみ」
シーナからはおやすみ、が返ってこなかった。
今の返事で限界だったとイーナは悟ると、部屋の照明を消して自分のベッドに入った。
今日、レンを見つけた。宿舎を変えていなければあのホテルにいる。きっと私たちと同じようにベッドに身体を預けているのだろう……。
――もし場所を変えていても、二人で――、シーナと私で必ず見つける。
――そして、レンを外に連れ出せた時には、依頼をする。
モンスター討伐依頼。
イーナはシーナと出会った日のことを思い出していた。
――約束したんだから、シーナと。私たちで――いや、レンの力を借りて必ず倒す、と。
布団の中で強く拳を握る。
シュヴァルツ・レーゼン。
私とシーナの村を攻撃し、破壊した黒いモンスター。
イーナはそれを思い出しただけで身体全てが熱くなるのを感じる。
――うずうずする。
できることならば今すぐにでもレンを叩き起こし――レーゼンを討伐に――――。
「…………」
駄目、眠れない。
眼はカッと開き、殺意で頭が覚めてしまっている。
――明日、行くんだから。シーナと。二人で。
――どうかレンが場所を変えていませんように。
イーナは強く願った。
――――決着は、明日…………。
***
――朝。
二人が住む小屋は、張りつめた空気が満ちていた。いや、実際は、片や料理でそれを誤魔化し、片や極度の――死直前程のそれ。
台所ではイーナが野菜を切り、シーナは今朝届けられたばかりの新聞を木のテーブルに広げて、今まさにそこに記されている文字を目で追っていた。
朝刊の。最初で、最も大きな記事。
『【生ける伝説】と呼ばれた男――レン、居場所発見!!
それはあの名高い〝マックス・ホテル〟!
ヴァイル・ギルド、リーダー、ヴァイル・テイル、血相変えてホテルから飛び出す』
「……だって。――――――――最悪」
シーナは即座にばたんっと新聞の上に突っ伏した。心境は……絶望一色。
新聞の第一面にはでかでかと……ヴァイルがホテルから飛び出した瞬間を捉えた写真が。
そんなシーナとは裏腹に。
「ふーんふんふんふーんふーん♪」
鼻歌まじりに野菜を刻むイーナ。
この家では、毎日三食作るのがイーナの役割。シーナは調達係。食材とか、照明とか。 ……まあほとんど二人で買い物にいくのだが。シーナは余り料理をしない。
「よぉ〜しっ」
「……………………」
野菜を切り終え盛り付けたのか、イーナは明るく声をあげる。――一方シーナは、自棄になっていた。
「私が昨日のうちにレンを連れ出していればこんなことには――いや元はといえば私がレンを怒らせたのが一番の原因だし怒らせたから私が気絶したわけだし何をとっても私が元凶――――あぁ私がもっと細心の注意を払って接していれば……そうすれば昨日のうちに少しは依頼の話私の話聞いてくれていたかもしれないのに――こうなった元凶は全て私――――」
「シーナ〜。朝ご飯ができましたよ〜早く食べてホテルへ出発しよぉおお――!?」
「どうしたのシーナ!? まさかッ、心臓が痛むの!?」
穏やかな呼びかけが驚きと心配と焦りの声に変る。
朝食がのった食器を叩きつけるようにテーブルに置き、すぐさまシーナの隣に駆け寄るイーナ。
――こんなふうに心配してくれるイーナは、まさに私の光。
――だけど、そんなイーナも、この新聞を見れば絶望してしまう。朝食を作っていたから新聞を読む時間なんて無いはず……。
「ち、違うの……。こっ、これを――見て……」
シーナは新聞を自分の顔の下からずらし、イーナに見せる。
――今だけは、今だけは。イーナの顔を見たくない。
顔から表情が消え愕然し、絶望するイーナの顔が、強く瞑る瞼の裏に嫌でも浮かんでくる。
「新聞……、今朝の? よかった、心臓じゃないのね……。――――――――ぁ」
「…………ッッ」
シーナ、イーナの顔を見ることができない!
――――レンの居場所が公開っっ!? な、なッ! 何てことぉおおっ!?
シーナの辛い予想通り、イーナは愕然とした。しかし、先人のように崩れ落ちることだけは何とか耐えた。
気丈に振る舞う。
「……うぅ、ひぅっ……う、うぅ……」
――一方、シーナの状況はこのあり様。悔しさと自分の力不足に対しての涙が、木のテーブルを濡らしていた。
「――だ、大丈夫だよシーナっ!? まだ宿を変えたって決まったわけじゃなな、ないんだしッ!?」
ゆっさゆっさと動かない身体を元気づけるように揺らす。
「――イーナ」
「シーナ! 元気出して朝ご飯食べるのよ〜っ! それにさっきも言ったけどまだ完全に決まったわけじゃ――」
「私、もう――――――ダメ」
「シーナぁぁあああっ!?」
ぷるぷると首をもたげ、イーナの顔を光のように見ていたシーナは――落ちた。
***
「シーナ。昨日のこと詳しく教えて? 最高記録って聞いたけど……」
イーナはサラダに特製ドレッシングをかけながら質問した。
「――――――んむっ」
一方質問を受けたシーナは。収まる勢いが見受けられない程の勢いで口にパンを詰め込んでいた。
――シーナが二度目の気絶を起こした。
イーナは力の抜けたシーナの身体をベッドに運び、作った朝食をほったらかしにしてずっとベッドの脇で見守っていた。
あれから約一時間でシーナは意識を戻した。普通は数分で目覚めるが、これはかなりの重症。まあ、昨日は三時間ほど気絶していたが。
食器の上のパンはなくなり、口の中も空っぽになったところでシーナは昨日のことをひとつひとつ思い出すように話し始めた。
「レン……の部屋は二○五」
「剣が……床にいっぱい刺さってた」
「剣?」
「うん。それに床のカーペッドは引き裂かれてて、壁は――多分斬ったんだと思う。大きな傷や小さな傷でいっぱいで、壁紙はボロボロ」
「イーナは――、レンがだいぶ前に怪我を負ったこと、知ってるわよね?」
「うん……」
「レンは言ったの。――俺に傷を与えたのは、モンスターでも何でもない」
シーナはレンがしゃべったことを一字一句違えずに思い出していく。
「人類だ。その中にはエルフや獣人もいた。……あいつらが俺に傷を与えた」
「人がレンを攻撃した……?」
シーナは頷き話を続けた。
「やったのはレンさんが当時通っていた訓練学校の生徒だって。――レンさんの力を憎んだんだと思う」
イーナの表情が曇る。
「その怪我は治った。だけど……剣を握らなくなった。それだけじゃない。本当の意味で外に出なくなった」
「何で?」
イーナはその理由が分からなく、即座に聞いた。
「レンさんに聞いた話だと、怪我が治って外に出たとき、この国のほとんどの依頼がレンさんに殺到したんだって。そして依頼を受諾して生活している者達に仕事がいかなくなった。お金が稼げないわけだから、食べ物も何も買えず、貧困状態になった。そしてお前がいるから依頼が回らない、消えろって……」
「でもそれは――、たくさんの人に求められているってことじゃないの?」
最もな意見、シーナは思う。
「だけどレンは、力を出して誰かに恨まれるのは散々だって……。依頼を受ける、姿を現すだけでお金の流れや均衡が崩れ、困る人たちが出てくるって……」
「……」
イーナもまた、シーナがレンの口から直接事実を聞いた時のように言葉を失った。
それでは何もできないじゃないか、レンの存在自体そのものが何をするにもどこかで必ず人を不幸にしてしまう。
「傷が治っても……引きこもっている理由が分かった。そして私はレンさんを怒らせてしまった」
「怒らせた? シーナが?」
イーナは信じられない、という様子だった。
「その時こう言ったの。何でレンは防具を付けているの、って」
「出てけって言われた。私は……怖くて後ずさりしてしまって。悪気があったわけじゃないって言おうとしたんだけど二回目に叫ばれた時、レンの視線が痛かった。視線が心臓に突き刺さっているような気がした」
「その後は――とにかくその場から離れることしか考えていなかった、と思う。……あんまり覚えていない。フロントに戻った時、力が抜けた。全部。もう恐怖で何も考えられなかった」
「多分――、レンさんが防具を付けていたことは、レンさんにとって一番触れてほしくなかったことだったんだと思う」
「うん……」
それはシーナも分かっている。
「まだレンは完全に諦めているわけじゃないのね……」
イーナは少し安心する。
……生ける伝説でも以前は防具をつけていたのね…………。
「とりあえず、行ってみよう?」
「うん……」
シーナを元気づけようと明るく笑うイーナ。
――この笑顔にどれだけ自分は助けられたか――。
――そしてそのお返しに何をしてあげれるだろうか――。
その答えは――決まっている。
シーナとイーナが出会ったきっかけ、たった二人だけでギルドを建てる理由を作った、モンスターを討伐すること。
そのためにはレンの力がいる。
必ず、レンを再び――………………。
しかし今やその意気込みも、晴れることのない不安と焦りで叫ぶことができなかった。
***
「「…………」」
二人は無言のまま、ホテルに向かって歩き続けていた。
そして――今。目の前にはホテルが聳え立っている。
入口――大きくて分厚い木のドアは傷が付いていたりへこんでいる等は無く、昨日と大きく変わったところはないし、人の声が中から漏れているということもない。
まだレン居場所発見騒動は起きていないらしい。
もし――いや騒動が勃発するのは時間の問題。起これば、この立派で重い両開きのドアは簡単に吹っ飛んでしまうだろう。
昨日ヴァイルにフロントカウンターを粉砕された挙句、今日はホテルの第一印象ともなる入口ドア破壊され、絶望するホテルフロントの顔が目に浮かぶ。
「シーナ、準備はいい?」
沈黙は破られ二人の間に再び緊迫した空気が漂う。
「うん。行こう」
二人は両開きドアの前に立ち、シーナは左、イーナは右のドアに手をつく。
――二人は同時に力を込め、ホテルの入り口を開けた。
***
「――あ、れ?」
――ホテルを、間違えた?
二人はドアを開けてすぐにそう思った。
しかしそれはあり得ないこと。
だって、人がいないのだから。全く。
……木のテーブルをカウンターにしているホテルフロント以外。
「おお、来たか」
二人が信じられない、驚愕ながらもカウンターに近づくとホテルフロントは顔を上げぬまま――せわしなく書類か何かにペンを走せていた。
……被害報告や修理費用の書類だろうか。
「……シーナ」
「――!?」
いきなりホテルフロントに自分の名を呼ばれ、耳を疑った。
「名前はイーナから聞いた。身体は大丈夫か?」
「え? は、はい」
シーナは瞠目した。
ならよかった、とホテルフロントは笑う。
昨日の態度とは打って変わって違い、馴れ馴れしい態度に驚くシーナ。
「ホテルフロントさん、昨日はありがとうございます」
「はは、ホテルフロントか。自慢のカウンターは唯の木のテーブルになってしまったがな」
ホテルフロントはとんとんと手の甲でテーブルを叩いた。
二人は変わり果てたカウンターに視線を落とす。
昨日、例のヴァイルが来るまでは荘厳と居座っていた光沢のあるカウンターはなくなり、シーナたちの家にある木のテーブルに似ている物が置いてある。
広大なエントランス。見上げる程に高い天井に煌めくシャンデリア。
鏡のような床。
砕けた石は綺麗に片づけられ、……代わりに置かれている、ぼろいテーブル。
なんとも違和感を感じる光景。
「これはヴァイルのおかげだな」
ホテルフロントが作業をしながら唐突にしゃべり始める。
「皆今朝の新聞を見てビビってやがる。ヴァイルの半泣き逃走が相当効いているらしい」
「最大勢力ギルドのリーダー、ヴァイルが逃げ出したということで皆レンに怖気付いたのね」
「宿泊していたお客様も、レン居場所公開になったことを知って襲撃を予想して皆出て行ってしまった。――――はぁ……」
ホテルフロントは溜息をついた。
――――――――…………。
沈黙が続いた。
シーナはレンがまだこのホテルにいるかどうかという質問を聞けずにいた。
怖くて聞けない。聞けるはずがない。
そりゃあ今すぐ階段を駆け上がり二階に行き、二○五に本人がいるかどうか確かめればいい話だが、もしいなければその場で崩れ落ち意識が飛んでしまうだろう。
だったらここでホテルフロントに事実を聞くほうがいい。
いや、もし聞いたところで、返ってくるのはいい答えか悪い答えかなんて内心分かっている。分かっているのだ。答えは火を見るより明らかなのだ。
レンの居場所が都市伝説並みに不確定な理由――それは宿泊施設側がレンがいるということを来客者に伏せていることもあるが、本人が自分の居場所が知れ渡る前に宿を移動するのもある。
――このホテルは毎日朝刊を客室に配っている。レンが昨日の騒動を知らないわけがない。
――いくらヴァイルの影響でレンを訪ねてくる人が少なくても、居場所が公式発表された。まだここにいる方がありえないわ。
一方、沈黙の中でイーナもシーナと同じことを考えていた。
――このホテルにいると新聞で公開されて、たくさんの人がレンの居場所を知ったけどあのヴァイルが逃げ飛び出してくれたおかげでさほど人は集まっていない。だけど居場所が公開されたんだ。私たちが今日ここに来る前――いや、昨日のうちにここを出て行ったに決まっている。そうとしか考えられない。――レンがここに残っているはずが……。
……二人の視界は潤んだ。
***
同時刻。場所、ヴァイル・ギルド本拠地。
シュヴァルツ・レーゼン討伐、出発直前の最終作戦会議。
「レーゼンと遭遇するために我々は、霊峰に二週間滞在し機を待つ! そのためのここまで大規模な準備だ!」
本来、ヴァイル・ギルドが動くとなれば、国の物資が最優先でヴァイル・ギルドに送られる。しかし、一か月も時間が掛かってしまった。それは北の防衛線修復と被ったからだ。
「霊峰の厳しさは分かっていると思うが、標高四千以上、地形は悪いし天候も崩れやすい!いいか、霊峰では何があるか分からない!」
リーダーの言葉に、誰もが息を飲む。
ヴァイル・ギルドの慣れない山地での行動もあるが、一番の不安はレーゼンだろう。北の防衛線を瞬間的に破壊する程の相手なのだから。
帰ってこれるかどうか分からない。もしかしたらフィーア最強ギルドが全滅するかもしれない。
いや、命を擲ってでもレーゼンを葬れ、そう捨て身の作戦にも聞こえる。
緊張の糸が張り巡らされ、厳粛な空気の中。
リーダー、ヴァイルがメンバー総勢の前で説明をしている真っ最中。
「いいか、何としてでもレーゼンの脅威を我々で食い止めなくてはならない! もはやその脅威はこの国だけではない、世界滅亡のきょう――いぃ――――」
ヴァイルの言葉が止まった。
――――?
「へぁっへぇっくしょおおいッ」
――――ッ!?
冷徹で緊迫した空気を吹っ飛ばし、ヴァイルの盛大なくしゃみが響いた。
「「「…………」」」
「……ん、うう……。誰かが俺の噂をしていやがる……」
(「我がギルドリーダーが大勢の前で、しかも討伐会議中にくしゃみッッ!?」)
……メンバー各々が内心でこの状況を苦笑する。
そう。緊張を返せ、とでもいいたげに口元を歪める。
それらはこの国でも精鋭たちの。
――命が飛ぶかもしれない作戦直前の笑み。
ヴァイルのくしゃみが極限の緊張を解したのだ。
「んん……、ようしッ! 行くぞォッッ!」
その叫びと同時に、椅子を蹴り飛ばす勢いで一斉に立ち上がる。
そして何十という馬車の数が、アルバを出発、東の霊峰へと向かった……。
***
――シーナとイーナが思考する中、未だに沈黙は続いていた。
ホテルマスターでありホテルフロントの彼は、黙々と書類に眼を通したりガリガリと何かを書き込んでいる。
……このぼろい気のテーブルでは表面がぼこぼこしていて書きずらいのだ。
時々ペンが紙に穴を開けた音が聞こえる。
「――っっ、…………」
その度にホテルフロントはしかめっ面をし、書く位置を変える。
シーナは時間をかけて、ようやく目の前のホテルフロントに事実を聞こうと決心するが、結果は口を開いただけで声は出てこなかった。
――くぅぅ…………。
一方イーナは事実を知ったシーナを見たくないという想いがあった。
しかしなかなか声を出せずにいるシーナを横目で見。
――シーナも私と同じで、怖いけど事実を確かめたいはず――。
やっぱり私からきりだそうと決心した時。
「いつまでそこに立っているつもりだ? 今はいないが――いずれ来る来客の方の迷惑になる。椅子なりソファーなり座ったらどうだ?」
今は〝いない〟。
いないという言葉に二人の少女は酷く反応し、心臓が止まる思いをする。
しかしそれはすぐにレンではなく他の客のことを言っていると知り、精神的に疲れる。
「――あっ、すいません!」
今まさに話しかけようとしていたイーナの口からは事実を確かめる言葉ではなく、謝罪の言葉になってしまった。
「ごめんなさい」
シーナはイーナに遅れ、礼儀正しくお辞儀をし、謝る。……どう見ても沈んでいた。
礼こそはしっかりとしていたがソファーに向かう姿は弱々しくてホテルフロントは目も当てあれない。
――そろそろ可哀想になってきたな……。……教えてあげるか。
後姿の二人に、続けて声を投げかける。
「言っておくが、レンならいるぞ?」
――――――――、
「ッ――――!?」
「――――――はあぁぁぁぁあああッ!?
二人は背後からの予期せぬ事実を告げる言葉に衝撃を受けた。それはそれは強すぎる衝撃を。
「嘘ッ! 本気!?」
「……本当だ。事実だ」
二人はまるで目の前に翼を生やした人間が現れた事実を受け止めるような、そんな信じられないことを事実だといわれた顔をしていた。
ホテルフロントはその驚きっぷりに言葉を失いそうになりながらも、事実を強調する。
「さぁッ、他の来客の方が来る前に早くレンのところに行ってこい!」
レンはもうここにはいない。そんな確信的で現実的、必然的な予想は既に頭の中から吹っ飛び、新たに非現実的で信じられない真実が頭に流れ込んできては激しく反動を起こす。
その反動は思考を司る歯車さえ破壊しそうだが何とかそれを抑え込み、二人同時に歓喜にあふれた声で互いの名を呼び合う。
「シーナ!」
「イーナ!」
「信じられない! レンがまだこのホテルにいるなんて! まだここにいるレンの気が正気じゃないわ!」
「ほんとにそうね! 場所を変えたくても変えれない――両足の骨でも折ったのかしら!」「――――早くいけってお前ら……」
呆れて、呆れすぎて力が抜けていくホテルフロント。
「シーナ。私はここで待ってる」
感動の波はまだ収まっておらず、二人の気持ちは最高に高まっているが、それは唐突に。
「え――でも」
――イーナだってレンに会いたいんじゃ――――
「いいの。レンもシーナだけの方が話しやすいでしょ? だから、行ってきて」
「……ありがとう。――――行ってくる」
シーナはイーナの最大の気遣いに感謝する。
話を終えるとホテルフロントのすぐ前まで歩いていく。
「失礼します!」
「――――――幸運を」
何を言うかと思えば昨日と同じことを言われホテルフロントは呆気に取られていたが、昨日二階から降りてきたシーナを知っているホテルフロントは――――本心を伝えた。頑張ってこい、恐怖に打ち勝て、と。しかし不器用な性格の彼はその一言だけを伝えた。
ホテルフロントはくすくす小さく笑うイーナに気付いたが、知らないふりをして何も言わず作業に戻った。
「シーナ!」
イーナがカウンターから離れていくシーナに声をかける。
「押してダメだったら引いてみて!」
――引く? 生ける伝説と呼ばれていていたレンを私が引く、の? 引けるかな、いや私なんかが引いて効果があるのかな……。
「頑張って、シーナ!」
シーナは自分を応援してくれるイーナに精一杯感謝し、軽く手を振り階段を上がっていった。
シーナが階段の上に消えた頃。
「実はな、昨日の夜――一度レンはここを出かけたんだ」
「――えっ」
突然の告白にイーナは目を見開いた。
「しかしアイツは引き戻した。なぜだと思う?」
「え、えぇ?」
いきなりすぎる自分たちが現実とまで予想していた最悪の事態が起こりかけたとの告白、答えを想像もできない、難解すぎる問いかけ。イーナの思考はぐじゃぐじゃになっていく。
「シーナだ」
「――――?」
自分と同じ境遇に遭ってこの街で出会い、一緒に暮らしている女の子。そしてお互い同じことを望み、願い、そのために力を尽くすかけがえのない存在。たった二人しかいないギルドのメンバーであり、唯一自分を知っていて、想ってくれる存在。そんな彼女の名前が出てきてイーナはますます混乱する。
「シーナがどうかしたんですか?」
「ああ。あれは俺がうとうとしていた時のこと――――」
そしてホテルフロントは昨日の出来事を話し始めた。
「イーナがシーナを連れて帰り、――さらに時間が経ってもう日付が変わりそうな時。俺はヴァイルに壊されたカウンターを片付けて倉庫からこのテーブルを引っ張り出してきて、正子の音を待っていた。ほらあそこにある時計」
ホテルフロントはフロントの奥を指さした。
それはかなり古そうなもので、荘厳で大きい置時計だった。
「で、今鳴るか今鳴るかと意識が朦朧として眠りかけたとき、足音が聞こえてきた」
「――――え」
イーナは〝足音〟という言葉に反応し背中にさぁぁっと冷や汗をかく。まだ日が出てる真昼間だというのに。瞬間的に霊的で怖いものを連想してしまった。
「こんな時間に誰が一体何の用で降りてくるのかと足音を聞きながら考えていたら――」
――ああ、なんだそういうこと……。
イーナは胸を撫で下ろす気持ちで安堵した。足音というのは真夜中の怖い幽霊などではなく宿泊しているお客さんの足音の事だったようだ。
「どこからか妙な音が聞こえてきたんだ」
「妙な音!?」
音――特に〝妙な〟というところに反応して再び怖いことを連想するイーナ。その身体は緊張していた。
「ああ。鉄と鉄を擦り合わせたような――とにかく体が竦む鋭い音だ。いよいよ怖くなって身構えたさ」
「でっ、出たんですか!? このホテルに!?」
「――? ああ、出てきたぞ? 遂に――」
「ひゃぁあッ! 私もう二度とここには来――」
瞬間的にこの場所から――このホテルから逃げ出したくなるがそんなことシーナを置いてなんてできな――
「――? レンが出てきた。鐘の音と一緒にな」
――――――…………、?
「あ、ああ! そういうこと、そういうことね! あ〜私てっきり……」
「ん、てっきりどうしたんだ?」
いきなり大きな声を出しいきなり一人で納得するイーナに疑問を持つが、ホテルフロントは早く話を進めたい様子。
「あ、え――いえっ!? 何でもないです! で、レンはどうしたんですか?」
「ああ。まさか一番予想していなかった隠居野郎が出てきたもんでびっくりしてな。あいつは金が入った袋をカウンターに置いてこう言ったんだ……」
そしてホテルフロントは、イーナと自分以外誰もいないフロントを眺めながら、昨日起こったことを語り始めた。
***
「世話になった。これで足りるか?」
ドシャアッと音をたて乱暴に置かれる袋。一発で中身が大量の金銭だと分かった。
目の前の人物――レンは視線で早くしろと催促してくる。
剣は――一本も所持していない。全部部屋に置いてきたのか……。
――それは光の下に出るとは違うのではないか?
ホテルフロントは本当に何もかも捨てるのか、とレンを想う。
「やっとここを出ていく気になったのか? ――隠居野郎」
ホテルフロントは口元を釣り上げて――人から見れば冷笑にも見える彼の表情にレンは何も反応を示さずしゃべり続ける。
「聞こえなかったのか? 被害総額と今までの宿泊代をいくらかさっさと言え隠居野郎」
レンもまた――薄く笑っていた。
レンは随分と長くこのホテルにいた。……そういう仲なのだ。
「そうだな、ヴァイルに無意味に壊された俺の大事なカウンターも含めて……いや。言う必要はないな」
……もとよりホテルフロント、その袋を受け取るつもりは無かった。
「――何?」
レンの表情が鋭くなる。濃くて暗く、深すぎる深紅の瞳からの視線からは痛みを感じる。「その前にだな、お前は人を睨むときは目隠しをしろ。でないと眼や心臓が痛い俺の寿命が縮む」
「――ハッ、お前がさっさと代金を言えばいい話だろう、自分の仕事ぐらい真夜中でもこなせ堕ちてから何年経つんだ? あぁ?」
「――その話はいい。本題に戻るが――本当にここを出ていくんだな?」
〝堕ちてから〟、という言葉に反応し表情を変えるホテルフロント。そして自分自身でも分かり切った問いをなげかける。
「愚問だな。俺はそのために降りてきたんだ」
レンは心底呆れた顔で言う。
「そうか? じゃあここにはもう未練がないんだな?」
ホテルフロントは試すように――楽しそうに言う。……鋭い目つきでニヤニヤと。
「俺は愚問が嫌いだ――言いたいことは何ださっさと言え」
態度が気に入らないのかさらに表情を険しくする。
「いやぁ……な? いくら引きこもりでもお前の年頃にもなれば気になる女の子の一人ぐらいいるんじゃないのか?」
「……俺はそういうのは本気で真面目に興味ないんだが」
レンはとことん自分の機嫌を損ねようとしてくるホテルフロントを睨みつける。
「そうか? お前に会いに来た女の子で気になる奴はいないのか?」
……何か、もう既にその人物を限定しているようにも聞こえるが。
今にでもあの痛みを持つ視線が来るかと内心ビクビクしながらさらに探りを入れる。
「――何が言いたい」
――内心分かっているくせに。
ホテルフロントは薄く笑う。
「――シーナ。そう名乗る女の子が、お前の所に来なかったか?」」
「…………」
レンは黙った。何か考えているようだが、その表情は険しいまま変わらない。
「本当に今出て行っていいのか? そうしたらシーナとは会えないぞ? それに――悲しむぞ。シーナは」
「…………」
「あいつが俺にまた会いに来るなんて思わない。もし来たら――正気か疑うぜ」
レンは嗤う。
「――いや、シーナは必ずここへ来る。お前のもとへ。それでも――行くのか」
ホテルフロント、断言。レンは何故そう言える、と問わない。
……レンは愚問が嫌いなのだ。
――――――――――…………。
「…………チッ、――部屋に戻る」
「分かった。ちゃんとシーナの話聞いてやれよ?」
レンは無言で袋を引っ掴み、階段を上って行った。
***
「そんなことが……」
イーナはホテルフロントの話に夢中になっていた。
――私は本人を見たことがないけど――、レンがシーナの名を聞いて引き返した?
――レンはここを出て行かない――シーナと再び会う理由があるというの?
――それは一体何――――――?
「分かるか?」
「――――?」
ホテルフロントが唐突に問う。
「シーナは……必ずレンに――――何かを与える。そんな気がする」
ホテルフロントの表情が変わる。
「与えるって、何を?」
「――物とかそういうのじゃない。今のレンを変える何かをシーナはする、そんな気がしてたまらないんだ。イーナはどうだ? 何か起きると思わないか?」
「何かって……」
イーナは言葉を詰まらせる。何も浮かばない。
「歴史的瞬間を見ることができるなんて滅多にない。俺は楽しみでしょうがないんだ」
「は、はぁ……」
――……一体何を確信しているんだろう。
イーナには予想すら浮かばない。
唯――ホテルフロントは、心底楽しそうに微笑していた――――。
***
今、シーナの頭の中は、恐怖以外何もなかった。
イーナと別れ階段を上がっている時から、募るのはレンに対する恐怖のみ。
床を踏みしめる脚は震え、いつ座り込んでしまうかもわからない。
別れた直後、頭には昨日の出来事が蘇っていた。
――怖くない、怖くない怖くない怖くない…………。
――相手、レンは私と同じ人間。モンスターでも何でもない。
恐れる必要なんてどこにもない――そう、存在しない。
シーナは必死で自己暗示を唱え続ける。
瞼を瞑れば嫌でも浮かび上がる、二つの深紅の眼光。
――あの痛みは一日たっても忘れていない。一生忘れることができないかもしれない。
シーナは激しく身を竦ませ、立ち止まる。
目の前には、二○五号室の――入口。ドアは昨日と同じように壁に立てかけてあり、位置も変わっていない。壊れたまま。
部屋は暗い口を開けている。
「――――ッ!」
あの部屋に入れば…………レンがいる。
――恐怖なんて感じない恐怖なんて感じない恐怖なんて恐怖なんて――――ッ……。
まるで幽霊を怖がる子供のように頭の中を否定の言葉で埋め尽くす。
『押してダメなら引いてみて』、イーナはそう言った。つまり最低レンを押さなければいけない。こんな状態で……いや、レンにたいして恐怖を感じていなくても押すことなんてできるのか、できる気がしない。
しかし。
――行こう。
シーナは限界状態で恐怖に耐え、戦慄を押し殺し、覚悟を決める。
――イーナのため、私のため。レンは私たちに無くてはならない存在。
ホテルフロントは言った――私ならできる、と。
イーナは言った――頑張って、と。
シーナは歩き始める。
そして…………二○五号室の入口を――跨いだ。
***
「あいつの言っていた通りになったな」
レンは自身の目の前に現れた人物を見、薄く笑った。
「…………」
一方、シーナは無言のまま。
レンの言っていることは分からない。
恐怖で言葉が出ないといってもいい。
部屋は薄暗く、その有様は昨日と変わっていなかった。
「何の用だって聞けばまた胸倉つかまれるから言わないが、今日は俺もお前に用件がある」
「私たちだって、あなたに用があるわ」
レンはシーナの言い方は特に気にせず、己が持つ第一の疑問を口にした。
「どうしてまたここに来た? 俺はお前が正気の沙汰とは思えない、」
……そして、シーナの精神を崩す、決定的な一言を言い放った。
「昨日、俺はお前を殺しかけたというのにな」
「――――ッッ!?」
衝撃が頭からつま先まで落雷のように走った。
……人は本当の恐怖に出会った時、身体は固まるという。
しかしシーナは身体をふらつかせ、狼狽する。……まだシーナの精神は、恐怖に対抗できている。完全に押し潰されてはいない。
「――殺し、かけた……?」
昨日、シーナはレンの逆鱗に触れた。その直後、今まで感じたことのない恐怖や激しい心臓の痛みに襲われ、意識を失った。
シーナの身体に起きたことは、レンを怒らせたことで彼に殺されかけたのだと本人の口から聞く。
――殺しかけられた。自分が。目の前の男に。……目の前の男に!
自分を殺そうとしたものが、今目の前に――――ッ!
レンのその言葉はシーナの意識を抉りとるには十分だった。
――逃げたい! 今すぐこの場から逃れ、イーナのいるエントランスに飛び込みたい!
しかし、その場で気を失うことを避け、まだ自我が残っていた。
その時。
睡魔のように意識が離れていく感覚の中に、様々な風景――走馬燈が浮かび上がった。
この街に来る前の――故郷の景色、そこでの出来事。
そしてイーナとこの街で出会い、二人での生活。
――ッ、走馬燈!? これが――――ッ!?
走馬燈。シーナ、生まれて初めて体験する。それはまるで自分は川の真ん中に立っていて、その川の水は自身の記憶であるかのように。
――この意識を手放せば、目の前の恐怖から逃れられる。
もはやぼやける視界では、レンが眼光を浮かばせ自分を見据えている。
――ッッ。
シーナが身体の力を抜いてしまおうと、楽な道を辿る考えが頭を過った時。
走馬燈すら消えかかりいよいよ完全に意識を持っていかれそうになりながらも、うっすらと浮かんでくる景色。
『シーナ……、がんばって……』
それは唯一自分を知っていて、互い同じ道を進もうと決めた、かけがえのない存在が祈っている姿。
シーナは見た。
今もエントランスで自分の成功を祈ってくれているイーナを。
まさか、見えるはずがない。シーナは一瞬そう思う。――いや、これは想いが繋がったのか。
そしてシーナは予想してしまった。自分が恐怖に打ち負けこの場から逃げ出し、或いは楽な道を選んだ結果――二人の目的が失敗に終わり、悲しい気持ちながらもシーナを慰めるイーナの姿を。
――終われないッ。
シーナは自身に喝を叩きこむ。
――私たちは、必ず目的を成し遂げるッッ!
その瞬間。
シーナの視界は走馬燈でもイーナの姿でもレンでもない、そこには。
眩しすぎる光が差し、白い羽根が降りしきる中――自分に微笑む〝誰か〟が立っていた。
…………。
私は……? ここは……何――――?
呆気に取れながら、シーナはそれが走馬燈なのか自分が無意識に浮かべた幻想なのか判断することはできない。
〝誰か〟は自分に微笑み続けている。
その目元は、眩しすぎる光や絶え間なく宙を舞う羽によって見えない。
シーナは〝白い世界〟に立っていた。
「――――」
〝誰か〟は口を動かした。
耳に届くのは微かな風の音だけ。羽根が舞う。声は聞こえない。
「え? 何?」
シーナは聞き返す。
あなたは何、誰。その問いよりも先に何を言ったのか追及する。
〝誰か〟に自分の声が届いたのかも分からない。
そしてそのまま何も言わず、自分から遠ざかっていく。
「まっ――待って!?」
シーナは叫んだ。精一杯手を伸ばして。
すると?誰か?はこちらを振り向いて囁いた。
〝誰か〟は遠くにいるのに、浮かべている微笑だけは鮮明に目に焼き付く。
「貴方に任せるわ」
「――――?」
シーナ、瞬時にその言葉を理解できず。声はまるでこの?白い世界?そのものであるかのように、耳に届いていた。
「レンのこと……、お願いね?」
それを言い残すと、〝誰か〟は光の中に消えてゆく。
「――ッ!」
気が付くと視界が変わっていた。二○五号室――レンの部屋。
辺りは薄暗く、そして目の前にはレンがいる。
ここへ来た目的は忘れていない。フロントにいるイーナは朗報を待っているだろう。
――――――? あれ?
シーナは自身に違和感を感じ、目を見開く。
変わっていたのは、視界だけではなかった。
シーナの中から、さっぱり消えているものがあった。まるで、根こそぎ抜き取ったかのように。
そう、頭や身体から、恐怖という感情が綺麗に消えていた。
震えていた足はしっかりと床を踏みしめ、それどころか身体中の震えという震えが収まっている。
あるのは全てから強張りが消え、披露した自分の身体と意識。
ついさっきまであんなにも怖いと思っていたことが、まるで夢だったかのように。
――目の前には、昨日私を殺しかけたレンがいる。――それが何?
まるで恐怖という概念を忘れたかのようだった。
「レ、レンさん!? 今私何をしていました!?」
シーナは声をあげる。
「――? 知るかお前今来たばかりだろうが」
「ええええ!? そんなはず――」
シーナはうまく頭が回らず混乱、レンもまた表情に出さないが、瞬間的に豹変したシーナに唖然としていた。
だがそんな男は関係なく、シーナは頭を抱え苦悩し始める。
――恐怖で意識が持っていかれそうになったのは覚えている。走馬燈も体験した。それほど状況が緊迫していて、相当危険な状態だったということは把握している。
――では何故ッ! 目の前の男――レンに対しての恐怖が消えてしまったの!?
何故体中からこんなにも力が湧いてくるのか。
――分からない。分からない分からない分からない――…………。
「お前は……他の奴らのように強制しないんだな」
レン、唐突に。
「――え?」
思考の、混乱の螺旋から現実に引き戻されるシーナ。
「今までの俺を探して来た奴らは唯依頼を押し付けるだけだった。そして俺が使い物にならないと分かると散々悪態ついてどっかに行ってしまう。俺を見つけ出すために宿を荒らす奴らもいたそうだが……。お前は、奴らみたいに依頼を持って来たんじゃないのか?」
「そりゃあ私だってレンのことを探し回った身ですけど……」
シーナは最後の方、口ごもっていたが、だがはっきりと自分の思いを言葉にする。
……この時、シーナは変わる。
「――だけど、今のあなたには依頼はできないわ」
はっきりと、そして強い声が部屋に響く。
「何故だ?」
レンは聞き返す。微笑は変わらず。
「今の力の無いあなたに力を求めたって」
レンの表情が固る。
「――あなたが苦しむだけだから」
「――――……」
レン、何も言い返さず。……それとも何も言い返せなかったのか。
シーナはそれを言うと、踵を返し真っすぐ部屋の入口に向かい、そのまま姿を消した。
―――――――――…………。
「……」
レンはシーナの後ろ姿を見ているだけだった。
***
「――っ! 戻ってきた!」
「……思ったより早かったな」
二人は階段を下りてきたシーナに気が付く。
イーナは笑顔を灯らせている。無事に帰ってきてくれて本当に嬉しく、喜んでいるのだ。 ホテルフロントは無事に生還したシーナに安堵し僅かに表情を緩ませ、二人は駆け寄ろうとするが――
「……シーナ?」
イーナは違和感を感じると同時に頭痛を感じ、顔をしかめた。そこに先までの笑顔は無い。……何かを感じたのだ。
――何、これ……。魔法? そんな――まさか……。
イーナ、その時自分の身体をぐじゃぐじゃに捏ねり回すような、とんでもない畏怖を感じ、固まる。
エルフではないホテルフロントは、イーナが感じた得体の知れない何か――魔法を同じように感じることはできないが、明らかに様子――雰囲気が違う、と違和感、異変を覚える。
人が変わる? そんな生ぬるいものではない。何か――〝質〟が変わったかのような。
全く新しい何かがシーナに介入したような――そう、例えるならば、幽霊がシーナの身体を操っていたかのような。
二人は立ち止まり、自分たち方へ歩いてくるシーナの姿に、ただ漠然としていた。
一方、シーナは自分をみて何故か固まっている二人に変な感じがするが、今はそれどころじゃないと歩みを早める。
「イーナ、ただいま」
「――? あ、うん――おかえり。どうだった?」
――おかしい。今のシーナを見ていて、違和感しか感じない。明らかに今までのシーナじゃない。まるで、今までのシーナの身体を、姿形全く同じの別の身体に入れ替えたよう。
これは――魔法……なの? でもどうしてシーナに? レンと会って何が起こったの!?
イーナは自分に纏わりついてくる煙を嫌がるような気持ちになった。
シーナの言葉に驚いたのは、自分の知らない、別のシーナが自分に話しかけたように思えたからだ。
「結果は……分からない。レンを再び動かすきっかけは蒔けたとと思う。後は、本人次第……かな」
「――?」
イーナにはシーナの言ったことがよく分からなかった。
言葉の意味は分かる。だけどそれが自分の知るシーナの言葉とは思えなかった。まるで何かがシーナの身体を乗っ取って操り、レンとの話を終えてきたような……。あくまでも例え、だが。そんな感じがした。
とにかく。目の前のシーナが私の知っているシーナじゃない気がしてしょうがない。
――何、シーナのこの雰囲気。ちょっと怖い……かもしれない。シーナを怖いなんて思いたくないけど……。姿を除けば、雰囲気だけなら全くの別人。
――シーナ、どうしたの? 一体何があったの?
イーナはひたすら困惑するだけだった。
ホテルフロントはイーナ程シーナと深く繋がっているわけでもないので、そこまで畏怖は感じなかったが、突然別人のように豹変したようには感じ、身を竦ませる。
「……イーナ、帰る前に少しいい?」
「な、なに?」
シーナはこれ以上にない怪訝な眼差しで自分を見ているホテルフロントに歩み寄る。
「ど、どうした」
若干後ずさりながらも、冷静を保った低い声で、言う。
「大事な話があるんだけど、場所を――変えてくれない?」
ホテルの外では、何やらがやがやと人気がする。
「……わ、分かった。マスターであるこの俺専用の執務室ならどうだ、ん?」
――断れない。断ろうと思う余地さえ無い……。
そして二人は――ホテルフロントに案内され、エントランスを後にした。
***
エントランスは窓から射す夕日の光によってオレンジ色に染まっていた。
……シャンデリアは、灯っていない。
「……本当に、それで上手くいくのか?」
話を終え、再びエントランスに戻ってきたホテルフロントは、自信なく問う。
それに対し、シーナ、はっきりと。確信的に。
「大丈夫。明日、必ず上手くいく。」
そう言い残し、シーナはイーナを促してホテルを後にする。
「…………」
ホテルフロントは、唯々立ち尽くす他なかった。
「どうしたの?」
イーナは振り返った。
石造りの階段を下りてすぐ。シーナは立ち止まり、ホテルを見上げていた。
「…………」
……正しくは、二○五号室の、窓。
「シーナ?」
イーナ、再び声をかけるが、シーナは応じず。
「何を見ているの?」
「…………なんでもないわ」
そう言い――イーナと二人、歩き出す。
「今日のシーナ、レンと会ってから変だよ?」
「変って……。別にいつもと変わらないわよ?」
――そんなはずは……。
イーナ、不安で顔をしかめる。
――シーナは隠しているのか、それとも本当に自覚がないのか。
「……まだ、死んでいない。あなたは……、まだ力を失っていない」
シーナはぶつぶつと呪文のように。少なくともイーナにはそう聞こえた。
「あなたが、再び。生ける伝説と呼ばれる日を、私は待っている……」
シーナは言った。深紅の光を瞼の裏に浮かべながら。
「…………」
イーナはその言葉を聞き、さらに顔を曇らせた。今の彼女は、明らかにいつもと違っていた。その豹変は。計り知れない、計算外で不可解な魔法の痕跡と、自分の知らないシーナへの違和感、そして恐怖をイーナに与える。
……部屋を出る時、シーナは刹那レンを一瞥した。
そして、確実に確信した。薄れてはいるものの、完全には消えていない、確かな深紅の光と共に。闘志を。
「あなたは……、必ず復活する」
「あなたは……、必ず私たちの前を走り、そして」
「再び――伝説を紡ぐ」
夕焼け。緋色の陽光が、街並みを、人々を、石畳を染める。
シーナは明日に確信を。イーナは唯ひたすら不安要素を抱え。二人は帰路を歩み続けた。
***
太陽が地平線に沈み、残照が空を覆う頃。
レンは、暗い部屋の中――唯、外を眺めていた。
――先程俺の視線に気が付いたのか、アイツは俺をじっと見ていた。
――シーナ・ドラシオン……アイツは一体何者なんだ?
「ハッ……」
――傍からすれば俺の正体もそう思われるけどな……。
レンは窓から視線を逸らし、部屋の入口を見やり――
「チッ――まだドアは直さないのかホテルフロントよ……」
当てつけのように皮肉を呟く。
照明が迸る廊下からは人々の声が聞こえた。
――さすが屈指の高級ホテル、多少騒動を起こしても客は来る――か。
「ヴァイルの野郎……チッ、面倒臭ぇ」
レンはその多少の騒動を起こした張本人に苛立ちを覚える。
――俺は唯睨んだだけなんだがな。
そしてベッドから身を起こし、廊下に出、外れたドアを入口にはめた。ただ、押し込んだだけ。
廊下からの光は完全に遮断され、部屋にあるのは眼下の街の光のみ。
それのおかげで辛うじて彼の輪郭は暗闇に浮かぶ、が――さらに深紅の眼光が生まれる。
「……今のままでいいのか?」
暗闇の部屋で一人、ベッドに横になったレンの声が響く。
――いいはずがない。
レンは自身への問に答える。
――今の俺は力を出していないがそれを力の無い者と勝手に解釈したようにみせてシーナは俺を煽りまくって? ……口には出していないがあいつが言いたいことは分かる。
「悔しかったら依頼を受諾して力だしてみろ…………ってか?」
――この俺も随分なめられたものだ。【生ける伝説】と呼ばれたこの俺が。
レン、自嘲する。
【生ける伝説】が自身の過去の呼び名だとは自覚している。
――なるほど。シーナの言葉には道理が通っている。
――力はあるがそれを発揮しなければ力は無いに等しい、とでも言いたいのか。
「――ハッ」
レン、思わず笑う。
――随分と安い挑発に乗らされたもんだな。まさか言葉で俺を強制的に動かそうとは。
――このままここで老いぼれるわけにはいかない。
「分かった。依頼を受けよう」
自分以外、誰もいない部屋。その暗闇の中で、レンはうっすらと笑みを浮かべる。
――楽しくなったきた。
レン、自身に自覚がなくとも――無意識のうちにそう思ってしまう。
レンの顔は笑みに歪んでいた。
――『昔は俺にだって夢があった!』
それは過去に自身が涙して叫んだ言葉。
レンは真上に――天井に向かって片手を突き出す。
――そう、この力でモンスターを討伐し、沢山の人々を救う。そんな夢は、もう――叶えられなくなってしまった。
しかし。
――過去に心に決め、そして諦めた夢――……明日、一つ叶えるとする、か。
暗闇、そこにある深紅は――さらに濃く、強く、鮮やかに。
――これで、アイツの思惑道理になってしまうな……。
アイツとは、ホテルフロントのことをいっているのか、それともシーナのことをいっているのか、それとも両方のことか。いや、もしかしたら他の誰かなのか。
「ただし――」
レンは挑戦するような不敵な笑みを浮かべて。
「――俺が依頼を受けるには、一つ条件がある――――」
――ま、この条件を成せる人間なんて、存在しないだろうな……。
――――。
――――……。
…………空腹で腹が痛い。
「それにしても――夕餉の時間はとっくに過ぎている筈だが――」
壁に掛けてあった高そうな時計は――かなり前に壊した。
「――夕食……まだかな…………」
その夜、レンは空腹に死ぬ程苦しんだ。