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鉄道聯隊の町探訪録  作者: 不破 一色
第二章 < 材料廠 >
8/9

02-03

 進行方向的には、千葉都市モノレールの天台駅を背にする形で進む事になる。

 中央線センターラインの無い二車線という体のその道を暫く進むと、第二グラウンド側へと入る、一車線程の道路へと行き着く。鉄道聯隊関連施設の敷地内である事から、右折してその道路へと進んでみるが、周囲はそれなりに新しい住宅が並ぶのみで、道自体は私道の可能性もある状態であり、当然痕跡等は一切残ってはいない様だ。

 道自体も途中で分岐等がある訳でも無く、少し進めば左折、また左折となり、元来た道へと出るだけであり、単に歩く距離が若干伸びただけとなった。


 一区画分抜けると十字路に当たる。

 道幅こそほぼ変わらないものの、此処から先は学校が寄り集まっている為か、車道部分は一車線へと変わり、道の両側には歩道が用意される状態へと変わる。

 この十字路の、進行方向に対して右斜め前方は市立第二養護学校となる。この第二養護学校に沿う様に十字路を右折し進むと、右手に見えて来るのが件の第二グラウンドだ。

 道はやがて左に直角に折れる形となる。当時此処は丁字路どころか、十字路であった様だが、現在ではその二方向が無くなっている形となる訳だ。

 元在った道をあえて無くした理由に関しては分からないが、終戦後間も無くの動きであった事は航空写真から読めたので、土地利用上、何らかの明確な理由があったのだとは思う。


 道なりに左折する形で進むと、市立轟町中学校へと至るのだが、其処に至ると道が若干右側に、斜めに進む形となる。

 この斜めに若干膨らむ様に進むのは、当時からそのままであるらしい事が航空写真でも見られ、現在の地図を見ても、当時の鉄道聯隊関連敷地範囲が明確に分かる状態となっている事は興味深い。

 そのまま進むとループ上の道、そのスタート地点として今日進んだ場所へと至る事になる為、今日の探訪行としては此処で左折し、轟町中学校を抜けた道、つまりは位置的に、天台駅から真っ直ぐの道へと至って終わりとなるのだが、折角なのでループ上の道方向へと寄り道を行う。と言うのも、航空写真で見ると現在の轟町中学校等の、鉄道聯隊(材料廠)の敷地とループ状の鉄道用地との間にも何らかの、施設らしきものが見られる為だ。


 先述の通り、轟町中学校等の裏手(轟町と穴川の教会となる道)迄が鉄道聯隊の敷地として知られている為、其処とループ状の鉄道用地との間に造られたものが何の施設であったのかは、調べてはみたものの現在まで分からなかった。

 今日巡った範囲では、当時道であったり、軌道跡であったもので、現在でも道として痕跡を残しているものこそ見られたものの、それ以外には見る事が出来なかった。その為、もしループ状の道迄の間の、致命的に穴川となるその範囲に当時在った施設が鉄道聯隊絡みである可能性と、そして何かしら痕跡が残る可能性を考えたのだ。

 とは言え、鉄道聯隊絡みであった事を確定する資料等は確認出来ていない現状では、あくまでも寄り道でしか無いのだが。


 ふらふらと巡る範囲は弁天一丁目と二丁目の、ループ状の道の内側。とは言え航空写真を見ても、全域に何らかの施設があった様ではない為、当時からのものらしき道周りのみ見て行く事としたのだが。

 道としては、轟町中学校裏手の、先述した斜めとなる道が再度(地図上で言えば)角度を戻すその辺りで分岐する道を入り、一つ目の(進行方向的に)左折出来る道となる。そのままループ状の道迄は、地図との比較なので確実とは言えないものの、当時からのものだと思われる。

 左折するそこ迄の周囲には、比較的新しい住宅が並ぶ住宅地となっているのだが、左折して直ぐ、現在となってはむしろ珍しい、鋼板製波トタン板の塀や壁を用いた住宅が見られた。また、更に少し進むと木像の住宅が並ぶ一帯が目に入る。

 どちらもそれなりに古い物である事は間違い無いのだが、ただ大きさや造り的に個人宅と言った感じであり、流石に鉄道聯隊が在った当時からの物という事は無さそうなので、おそらくは戦後直後、それこそ高度成長第一期の最初期辺りか、あるいはそれ以前の物ではないかと思われる。

 轟町四丁目や五丁目辺り、特に習志野演習線跡地周りは戦後、引き揚げ者住宅が建ち並んだと聞くが、あるいは此処もその頃の物なのかも知れない。とは言え所詮は素人目での推測なので、何の確証も無いのだが。


 こうした建物を、ただ古いと捉えるか、おもむき等を感じるかは、それこそ個々の感覚や興味等によって大きく変わるのだろうが、少なくとも私という個人には、その地の歴史を示す物は、単に古いのでは無く、関心を引くに値する物だと感じた。

 ましてや、こうして回ってみても、多くの痕跡が失われている中、それに近い時代背景を負う物、つまりは只其処に機能的、あるいは目的を持って在るだけの代物では無く、その地域全体の積み重ねて来た事を示す物という事になるのだから、やはり其れを見、其処に趣を感じてしまうのは、仕方が無い事だと思うのだ。


 更に進んでみるものの、それら古い住宅以外には特にこれという物も無く、道を引き返して轟中学校へ。そして第二養護学校との間の道を進むと、市立轟町小学校へと突き当たる。

 航空写真等を見ると、鉄道聯隊の敷地であった当時は、そのまま真っ直ぐに道は進んでいた様だが、現在では其処から進む道は進行方向左側へとずれている。それは、当時の敷地内構成を見た時、轟町小学校が在るブロックが若干小さい為、その分横へと小学校の敷地を拡張した為だと推測する。

 つまりは此処から先、当時の道の痕跡が、小学校の敷地内に埋もれて消えた事を示している訳だ。


 こうして巡ってみると、当時の敷地構成等はかなり残っているものの、所々ではやはり当時とは異なっている事も分かった。

 というところで今回の探訪を終え、帰宅の途となるのだが、一番近い公共交通機関の駅は千葉モノレールの天台駅となる。しかし先述の通り、此処から道を真っ直ぐ戻っても、駅の手前迄しか道は通じていない為に、大きく回り込む必要がある。


「はっきり言って、めんどくさい」


 勿論距離的には、回り込んでも近いのだろうが、そこは気分的なものも含まれる訳で、私は逆側、市営轟町第一団地側へと進み、千葉大学の裏門から入って敷地を抜け、JR西千葉駅に至るルートを選択したのだった。

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