02-02
昨日は何だかんだとあってアップ出来ず(><;
という事で、残りを一気に連続投稿します。
松並木が一部残る分離帯状の一帯を抜け、交差する道から出た其処は、この辺りの商店街的な位置付けになりそうだ。ただ、商店街と言う程には店も無く、単にその道沿いに、ちょこちょこと店が見られるというだけだったが。
二車線のその道を、来た方向に眺めてみても、完全に区画整理や宅地開発が行われた状態である事が分かった。つまりは、痕跡を期待しても意味が無いだろうという事になる。
その為、戻って散策する事はせず、進む事とした。
進行方向に向かって左手は、来迎寺というお寺になる様だが、そちら側は前回回った西回り貨物線の範囲内となる事、そして右手は後日とする事にしている為、今回はそのまま進む事にしていた。
暫く進むと信号があり、其処を渡るとその道は、丁度轟町二丁目と三丁目の境となり、進行方向に向かって左手は大日寺の敷地、右手は轟住宅という団地となる。
航空写真等と比較すると、この道は当時、鉄道聯隊敷地内で既に道として在った様なので、既に遺構の上に居る事になるが、当然ながら当時を感じさせる物は無い。
更に進むと左手は、前回の終点とした千葉市営轟町第一団地、右手には市立轟町小学校から同中学校と変わって行く。この小・中学校の敷地を取り囲む道もまた、当時から道であった様なので遺構ではあるが、同様にその痕跡を感じさせる物は一切無くなっていた。
轟町中学校を越えると、道は丁字路となるが、これも当時のままであり、そして鉄道聯隊の敷地、その末端となる。
丁字路を左に折れ、再度丁字路に至る手前で、右に分岐する道が現れる。轟町第一団地の造成によって、当然ではあるがその痕跡など一切望めない状態の為、此処が前回の西回り貨物線からの続きとなる訳だ。
なお番地的には、轟町第一団地が轟町二丁目になるのに対し、続きとなるこの道は穴川一丁目となる様だ。
道は二車線で、大きくループを描いて進むが、その周辺は完全に宅地造成されており、やはり何の痕跡も見る事は出来ない。
そもそもこの道自体が遺構で、鉄道用地として確保されたものの、実際には線路は敷かれずに終わったとされているのだが、鉄道聯隊の性質上、演習名目で一度でも、線路が敷かれた事があったとしても、個人的には何らおかしいとは思わない。
まあ、あくまでも鉄道用地でしか無く、材料敞の敷地外でもあった事から考えれば、そもそも遺構等として残る物も無かったのかも知れないが。
その道を進んで行くと、小さな十字路を挟んで道幅が狭まり、また元の二車線程の幅に戻ったりと、道幅が安定しない状態となる。あるいは元々の用地自体、単線の線路分程度の狭いものだったのかも知れない。
やがて道はY字路となるのだが、実際には道なりにもう少し進んだ場所で、習志野演習線--習志野にあった鉄道第二聯隊と繋がっていた演習線--と接続していた様だ。
このY字路は丁度、穴川二丁目と轟町五丁目との境となる様で、此処でループ状の鉄道用地、その痕跡が途切れた事になる。地図等で確認してみたところ、どうやら習志野演習線と繋がっていた辺りは、住宅の敷地と化してしまった様だ。また航空写真等を参照すると、当時はこの辺りから轟町第一団地の端、今来たループ状の道の最初の処へと続く道が、進行方向で右側に在った様なのだが、現在その道も無くなっていた。
ここで一旦、旧材料敞敷地から外れ、道なりに進行方向左へと進む、一車線の小道へと入る。それは本来、この辺りで習志野方向へとすすんでいた筈の習志野演習線跡、その行く先を確認する為だ。
小道は直ぐに二車線の道(国道一二六号線)に出るので、そこを左折。暫く進むと二股に分かれるのだが、その内の右へと分岐する道が、習志野演習線の跡地となるらしい。
道は真っ直ぐに進み、見通しも良い反面、周囲の様子から遺構や、当時の雰囲気が残っていう事は無いだろうという事も分かってしまう。
どちらにしろ、今回の目的は習志野演習線跡では無いので、此処で引き返して続きを巡る事にするのだが。
振り返ると、演習線跡から先に繋がる線路跡には建物が建ち、一切痕跡を残していない事が分かる。が、そこには蔦が絡まった塔の様な物が在った。
場所的に、あるいは軌道脇に造られた、演習用の遺構かとも思ったが、どうやら軌道跡に建つ建物は消防局の倉庫らしいので、その関係施設であったのだろう。蔦が絡まった、と言うよりも蔦に覆われたその姿からは、下根機で使用されずにそれなりに長い年月を経た物だろう、という事しか分からなかった。
道を戻り、穴川二丁目と轟町五丁目との境へと戻る。
先述した通り、当時あった道が残っていれば、その道を使い、現在の轟町中学校方向へと巡るのが都合良いのだが、そこは現在では千葉経済学園(千葉経済大学や同短期大学、同附属高校等を展開)第二グラウンド等へと変わっており、道であったという痕跡については、グラウンド等の敷地に入っての確認も出来ない為に未確認ではあるものの、確認するまでも無く一切残っていないだろう。
実のところ、一九四六(昭和二十一)年時の航空写真では、道は未だ在る事が確認出来るのだが、翌一九四七(昭和二十二)年時では、既に現在地側からの半分程の道が確認出来なくなっている事から、かなり早い内にこの辺りの開発が行われた事が分かる。逆に言えば、当時の道等の痕跡が残っていないのも、むしろ当然と言える訳だ。
「つまりは、回り込まなければいけないという事になる訳だ」
道が無いなら、回らなければ進めないのは当然の事で、そうなると、一旦途中までループ状の道を戻って脇道へと逸れるか、あるいはこのまま暫く進むかという二択となる。
とは言え、目的は鉄道聯隊跡地の探訪なのだから、当然ここは暫く進む一択だろう。という事で、ここまで通って来たループ状の道と、国道一二六号線に出る道を除く、Y字路の残るもう一本を進む。一車線程の細い道だが、この道が当時から在ったかについては、残念ながら地図や航空写真からは確認出来なかったが、それでも少なくとも、当時の施設敷地内であることには変わらないのだから、些細な事かも知れない。
暫く進むと、丁度左手が千葉都市モノレールの天台駅という位置に至る。その事は、丁字路に差し掛かった時、左手を見ると駅舎が目に映った事で、特に事前情報が無くても容易に理解出来るのだが、その見えている天台駅(国道一二六号線)には道が続いていない為、駅に出るには大きく回らなければならない。
この丁字路から先は、左右に若干離れた場所で、一車線程の道が二本平行で進む形となる。その内の天台駅側、つまりは進行方向で左側の道辺りが、習志野演習線の軌道跡とされるのだが、今回の探訪では範囲外としているので、其処についてはまた、次の機会としたいと思う。
という事で、辿り着いた丁字路を天台駅とは逆、右折して、第二グラウンドを越える事にしたのだった。