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鉄道聯隊の町探訪録  作者: 不破 一色
第二章 < 材料廠 >
6/9

02-01

 第二章『材料廠』第一弾の投稿を開始します。

 既投稿済みの第一章『西回り貨物線』同様、連日投稿予定。この第一弾は本編3、おまけ的補足情報1なので、三日連続投稿予定となります。

 この第二章より、少ないながらも台詞的文章を入れ、地文のみを回避して小説らしき体裁を試みてみました。近日中に第一章も、同様の形態に修正を予定しています。ただし、この書き方も試行段階なので、今後更に変えるかも知れませんが、内容的な変更を行う予定はありません(追加等は生じるかも知れませんが)。

 前回は西回り貨物線の終着点であった、千葉市営轟町第一団地迄の範囲を探索してみた訳だが、今回はその続きとなる。

 千葉市営轟町第一団地は、場所的には市立轟町小学校、同轟町中学校と、道を挟んだ場所となる。

 一九四六(昭和二十一)年時の航空写真を見ると、其処は複数の線路が張り巡らされた荷役ヤード、要は貨物駅の様な施設となっていた様に見えるが、当然の事ながら現状ではその痕跡は、一切残っていない様だ。


 この地への近隣となる公共交通機関の駅としては、JR東日本の西千葉駅、京成電鉄のみどり台駅(千葉大学敷地内を通った場合。大学の敷地を回避した場合は、近隣とは言えない移動距離となる)、千葉都市モノレールの天台駅があるが、今回はJR西千葉駅をスタートとした。

 理由は単純で、前回の西回り貨物線から少しずれた地域を見て回ろうという事からだ。


 駅を降りた第一印象としては、


「雑多に騒がしいなあ」


 というものだった。

 と言うのもこの西千葉駅周りには県立千葉東高校、県立千葉商業高校、私立千葉経済大学付属高校、敬愛学園高校、千葉大学、千葉経済大学(短期大学含)、敬愛大学、そして幾つかの専門学校と在り、学生利用率の多い駅でもある為だ。

 だがその割には、店舗等の数はさほど多いという印象は無く、むしろ必要最小限に近いのではないかというものだった。

 学生街であり住宅地でもあるのだが、経済的にはあまり発展性を持たなかったのかも知れない。


 さて駅の北口を出て、駅前の信号を直進、一つ目の信号で交差するその道が、前回の西回り貨物線であり、進行方向左手角には、鉄道)機関車)用防空壕跡地である松林を見つつ直進、信号をそのまま渡り、暫く進むと左手に松の並木が現れる。

 見た感じは、片側斜線事の道を真ん中で分離している緑地帯、中央分離帯の様にも見えるが、その実それぞれの道は一車線程度の道路幅で、西千葉駅側の道は今来たその道と繋がっているが、松並木を挟んだもう一本の道は、歩道手前の処で途切れている状態となっている。

 また、西千葉側の道は暫く先で左へと折れて、西回り貨物線であった道と繋がっているのだが、もう一本の方はそのまま直進しているといった具合で、半分程平行に進む別の道となっているのだ。

 この中央分離帯に松並木を設けた様なそれは、一九四六年時の航空写真を見るとそのまま、鉄道聯隊施設の敷地端を囲んでいた松並木(おそらくではあるが、この辺りの地域が元々松山であり、それを開いた際に並木状に残された物)であった事が分かる。


 航空写真を見る限りにおいては、当時はこの並木に沿う形で外側、つまりは西千葉側の道があった様なのだが、現在では先述の通りその道は、途中で折れて途切れており、逆に当時の施設内側、つまりもう一本の道の方が新たに造られた上で、先へと伸びている形になっている訳だ。

 何故この様な造りとなったのか、またこの町並み木が残された理由に関しては、一切分からなかったが、逆に言えば鉄道聯隊施設の明確な痕跡が未だ残った形となったのは、その地の過去を知る特色として、貴重であると考える事が出来るだろう。

 とは言え、そうした事実は現地では、一切掲示等もされておらず、知る機会はほぼ無いのだが。


 この松並木は、西千葉駅から歩んできた道に沿う(あるいは道路整備と拡張で歩道の辺りであったかも知れないが)様に、現千葉東高校の、正門辺りまでも続いていた様だが、念の為そのまま道を進み確認してみても、残念ながら松の木は、一本も残ってはいない様だった。


 松並木として残る分離帯状の処まで戻り、今度は松並木に沿う様に探索して行く。

 一ブロック程事に閉校する隣の道と繋がっており、二つ目までは松並木然とした姿を示しているが、その先三つ目では、両端に数本ずつ残るのみで中央は芝地となり、四つ目五つ目ではもはや芝地の緑地帯に数本の松があるといった状態へと変わっている(五つ目は遊具も設けられて公園となっている)。

 表層の土砂が経年で削られたのか、根が露出している松も多く見られる事もあり、いずれは松並木では無く、単なる緑地帯へとその姿が変わり、明確な遺構としての姿を失って行くのかも知れないと感じた。

 だが言える事は一つだけ。


「この分離帯から向こう、千葉東高校側は全部、鉄道聯隊の敷地内になるのか」


 という事だ。


 正確には西千葉駅から進んで来た道の、向かって左側、分離帯より先千葉都市モノレールが在る道(国道百二十六号線)手前迄は、これから巡る現轟町中学校を含むその地迄、全て鉄道聯隊の跡地という事となる。

 一日で回り切れないという程では無いが、何らかの痕跡が残っていないか等を細かく見て行くには、広過ぎると言えるだろう。

 とは言え、当時とは異なりこの地は、西回り貨物線の時同様住宅地へと転じている事、つまりは開発されている事を考えれば、痕跡はほぼ絶望的と思われるが。


 さて、分離帯状の五つ目部分より先は、道が坂となり下がっている。

 航空写真を参照すると、この辺りから松並木は右側に斜めに方向を転じており、坂道を降りたところで交差する道もまた、若干斜めに交差する形だと分かった。

 交差する道が低い場所を進んでいる事を考えると、おそらくはこの道に沿う様に、高い位置に松並木があったのではないかと考えるが、そこにも松の木は一本も残ってはいない様だ。

 ただし、この道や、これまで辿って来た分離帯状に残る松並木(西千葉駅側の道となるので途中までだが)、そしてそこから千葉東高校の正門辺りまでは、航空写真から当時も道であったと見る事が出来る為、これらも鉄道聯隊関連の遺構と言う事も出来るだろう。


 交差した道を進むと直ぐに、二車線の道に至る。

 この道を越えて未だ、当時は松並木が続いていた様ではあるが、現在ではその延長線上辺りが道となっている為、確認するまでも無く、やはりその先も松の木は残っていない。


「とは言え一辺だけでも、その痕跡が未だに残っているというのは、奇跡的な事と言えるだろうし、むしろ残っていない方が通常なんだろうなあ」


 逆に言えば、明確な形で残っているからこそ、他に残っていない事が残念に感じるのかも知れない。

 ちなみに、この辺りは轟町一丁目に当たる様だ。

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