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あるいは当時、此処までの急な高低差は無く、もっとなだらかに、距離を持ってその高低差を埋めていたのかも知れないが、さてどうなのだろうと考えても答えは出ない。
航空写真を見ても、解像度の問題もあり、また上空からという視点に依る為、当時の地形までは判別出来るものでは無いのだから。
下の道から見ると土手状となっているその側面は、特にコンクリート等で固められている訳でも無く土のまま。
昔祖父に、その道が線路で、今でも土手を掘れば石が出て来ると聞いた記憶が薄らとある。石とはつまり、路盤の上の道床に撒いたバラストの事だろう。
レールは撤去したであろうが、おそらくはバラスト自体はそのままに、その上から舗装するなり、更に土を被せるなりして、当時は線路跡を道路化したのだと思う。
そんな事を思いつつ、航空写真で曲線状に分岐していたかに見える場所辺りで、そんな石等では無く、古いコンクリートが顔を出しているのを見つけた。
そのコンクリート塊は、土~顔を出している僅かな部分だけではあるけれど、現在のコンクリートの様に目の細かな物では無く、不揃いな石が含まれた物だ。
最初は道路の地盤を締め固める目的の割栗石が露出したのかとも思ったのだが、よくよく見てもコンクリートに混ざった状態。これは千葉公園内に残るウインチ台のそれと、酷似している様に見えた。
性急な想定は誤りを生み易い。私は若干離れた周囲の土面を確認するが、他の場所ではコンクリート塊の露出は確認出来なかった。
流石に掘って確認する訳にも行かないのだが、航空写真と地図を照らし合わせた推定場所とは言え、分岐場所と思われるそこで見られたこのコンクリート塊という存在は、果たして偶然なのだろうか。あるいは、ここまでの高低差は当時無かったとしても、やはりそれなりの高低差があり、それを補う形でコンクリートによる路盤となるものが造られていた、その痕跡であるという考えも可能ではあろう。
勿論幾ら考えようとも、事実がどうであったのかは分からないのだが。
此処まで巡って来た場所は、はっきり言えば生活空間、住宅街であって、あえて訪ねて散策したりする様な場所でも無い。とは言え人が集まる繁華街や、あえて訪ねる観光地にしても、そこに意識が向く何かがあれば、それは人が訪ねる意味にもなる。
それは別に、観光地の様に人を集める場所で無くても同様だと考えるのは、例えば一寸散歩をするにしても、ただただ見慣れた風景の中を歩くのと、こうして色々な発見がある中で歩くのとでは、当然充実度は変わるのだから。
まあ、それが興味の対象かどうかでも、その効果が大きく変わるのは事実だが。
さて、答えの出ない場所で時間を幾ら消費しても、そこに意味は無いので、先に進む事にした。
少し進むと、上下の道の間に数本の桜が植えられている場所に出る。
残念ながら航空写真を見る限りでは、当時からある物では無さそうだが、西回り貨物線の痕跡としては、桜の咲く時期はそれなりに見応えのある光景となると思う。
そのまま進むと、上の道と合流する場所に出るのだが、そこまでの間は特筆すべき何かを見る様な事は無かった。
道が再合流した辺りでは、西回り貨物線を斜めに交わる線が一九四六年と一九四七年の航空写真で確認出来ていた。この航空写真ではその先にも、続けて更に二つ、西回り貨物線から分岐する様に離れる線も確認出来ている。
これらの線の内一つ、順番で言えば一番先になる線の先は、機関車用防空壕の跡地として分かっている場所だ。そして他線も含め、特に一九四六年の航空写真ではその全てが、木の密集帯(おそらくは松の林)に至っている事も確認出来ていた。
機関車用防空壕の跡地として明確な場所に至る線を除くと、他の全て(交わる様な状態の線を一とするか、それぞれ分けて二とするかで総数は変わるが)の線は、その先に道があるにも関わらず、道まで至っていない事も見て取れた為、それらの線が道による物では無くて、全て機関車(機関車に限定してはいなかったかも知れないが)用防空壕、あるいは木によって上空から隠す意図を持った引き込み線であった可能性が高いだろう。
上下の道が再合流する辺りでは、進行方向で言えば左斜め後方と、右斜め前へと線が分岐して、西回り貨物線と交わる様な状態に見えたが、残念ながら事前に地図等を調べてみたものの、その痕跡はおそらく残っていないと思われた。そして実際に現地に来てみても、やはりそこには痕跡らしき物は無かった。
一応を考えて、先ずは左斜め後ろへと伸びていたらしき線を追う。
とは言え区画整理等で、在ったであろう線通りには進めない事から、先ずは西回り貨物線であった道路を越えて、JR西千葉駅方向への小道(一車線程度の道)を行く。
歩いて間も無く、二車線程の幅の道と交差するのでそこを左折。そのまま道なりに進むと、千葉中央コミュニティセンター松波分室に辿り着く。
航空写真と照らし合わせた結果では、その松波分室横の道辺りへと線は至り、更にもう少し先まで伸びていた様なのだが、分室の正面まで進んでみても、道に対して斜めに残る様な痕跡は見られなかった。
仕方が無いので道を戻り、元の場所へと戻った段階で次は右斜め前の方、と目を向けると、そこは松波県営住宅の敷地となって、どう見てもその痕跡は完全に残っていない事が明らかだった。
仕方無いのでそのまま西回り貨物線跡でもある道を進むと、そこには信号付きの交差点が見える。この交差点を左折すれば、JR西千葉駅に至る道になっているのだが、その交差点に至る少し前辺りから線は分岐し、交差点の右側を掠める様に進んで、現在は自衛隊千葉地方協力本部となっている辺りへと至っていた様だ。
航空写真を見る限りではその交差点は、当時は丁字路で、JR西千葉駅からの道は此処で行き止まる状態だった様だけれど、現在では十字路になっている等、やはり区画整理によって、その痕跡は完全に消えてしまっていた。
進行方向で言うと交差点の左奥には、松林の残る一角がある。おそらくは東京大学西千葉職員宿舎の敷地内に当たるのだと思うが、正確なところは分からない、塀で道からは仕切られているのに、そこだけが放置された様な、違和感の残る場所だ。
その松林こそが、現状で(正確に何処で見た、あるいは読んだのかは失念したが)一応は情報が得られた機関車用防空壕の在った場所になる。