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鉄道聯隊の町探訪録  作者: 不破 一色
第一章 < 西回り貨物線 >
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02

 そもそも西回り貨物線で、一般的にも知る事が出来る事柄としては、国鉄のB一〇形蒸気機関車四号機(以降はB一〇四で統一)にまつわる出来事ヒストリーであろう。逆に言えば、それ以外の情報を私は、確認する事が出来なかったとも言えるのだが。


 B一〇四蒸気機関車については、鉄道聯隊との関わりを持つ小湊鐵道にて、千葉県指定文化財となって保存され現存している事も含め、機関車その物に関する情報は多い。その中には本機関車が国鉄より、陸軍千葉兵器支廠へと譲渡されたというものがある。

 そもそもこの陸軍千葉兵器支廠を起源とするものなので、実質的には鉄道聯隊への配置転換であったと考えて良いと思う。蛇足ではあるが、この配置転換については、一九三六年と一九四三年の二説が確認出来たのだけれど、一九三九年には更に陸軍兵器補給廠へと改組されている為、おそらくではあるが一九三六年説が正解に近いものと思われる。

 この機関車の出来事として、千葉空襲の際に、此の西回り貨物線傍に用意された機関車用防空壕内で難を逃れたというものがある。

 その後防空壕から引き出され、千葉機関区まで移動されて保管されていたとされる事から、このB一〇四が西回り貨物線で運用されていた事は確実と言えるのだが、大日本帝國陸地測量部による一九〇九年の二万正式図、一九一七年の一万分の一地形図、一九二九年の五万地形図の他、おそらく民間発行であろう一九三七年の千葉市新地圖、その全ての地図に記載が無い路線でもあった。

 東回り貨物線と呼ばれる、習志野演習線に沿う形で陸軍兵器補給廠まで敷設されていた一〇四七ミリメートル軌間の路線を含め、完全な軍用線でもあった習志野演習線自体も地図での記載があった事を考えると、西回り貨物線それ自体が、あるいは軍事機密扱いであったのかも知れない。それは、B一〇四が難を逃れた機関車用防空壕の存在が理由なのかも知れないが。


 そんな事を考えつつ、松波陸橋を降り、西回り貨物線から分岐していた様な線の痕跡を探すも、予想通り何の痕跡も見当たらない。

 範囲としては松波一丁目と三丁目の範囲といったところになるが、事前に航空写真と照らし合わせた地図では、一部に道に転化されて残っている個所もある様だ。けれど周囲は完全に住宅地で、その道がおそらくは線路、あるいは線路用地であったにしろ、それを思わせるものさえ見る事は出来なかった。


 唯一それらしい、と言うよりも、事前情報が無ければ気が付いても、若干の違和感を抱く程度のものを見つける事は出来た。

 場所は千葉縣護國神社の正面、一の鳥居と道を挟んだところで、松波三丁目の端になるが、そこの一軒の家が、周囲と比べて斜めになっていたのだ。

 あくまでも航空写真との比較に依るものではあるが、そこは丁度、もし線路であれば引き込み線の最端部の一つに当たる為、もしかしたら宅地開発時の区画整理時に、その痕跡に合わせて土地区分けが成されたのかも知れない。

 どちらにしろ、その程度の痕跡のみしか確認は出来ず、加えて言えばこれまでの何処の場所でも、そこに鉄道聯隊に絡む何かが在った等の掲示物は存在しない為、一般の人にはその土地の過去を知る事すら難しく、それ以前に想像にさえ至らないと思う。


 ウロウロと住宅地内を歩き回ったものの、予想通りに何かしら、成果と呼べる様な特徴的なものを見る事は敵わず、私は来た道を半ば戻る様に、西回り貨物線の分岐場所へと移動した。


 当時の国鉄線との分岐場所は、これまでの場所とは異なり、その痕跡をはっきりと追う事が出来た。

 その場所は松波陸橋からそのまま、JR東日本の線路に沿って歩けば、道が線路を潜る様に立体交差となっている場所へと辿り着くが、そこが正に分岐場所だからだ。

 西千葉駅側から来ると分かり難いかも知れないが、千葉駅側からだと、曲線を描く様に線路から離れて行く形で道路へと転じている事が分かる。

 過去にはここは踏切があり、その踏切を封鎖して立体交差を造っている為、位置取り的にも大きく変化は起きていない様だ。立体交差化した為に、分岐点辺りは高低差も出来ているものの、ほぼ線路跡を想像する事が出来る。

 道自体は当時の国鉄(現在のJR東日本)線の下を潜った後、徐々にその高低差を埋めて地上へ。丁度その辺りが交差点となっており、信号を渡った先は道が二つに分かれていた。


 二つに分かれているとは言え、それは方向性を別にするというのでは無く、上下、と言えば分かり易いかも知れない。

 元西回り貨物線は、道路に転化されてそのまま進むが、若干下がる形でもう一本、自動車一台が通れる程度の細い道が、暫くの間平行にあるのだ。


 元西回り貨物線であった道は、二車線の道路となっているが、歩道部分は片側にしか無い。一車線程の幅の道側には、歩道は用意されていない事、また歩道自体もあまり幅が無い為、むしろ歩行者を含む生活道路としては下側の道が使われている様に感じた。

 この細い道は以前、何かの資料で農道だったと読んだ記憶が朧気にある。その道を進むが、元西回り貨物線との高低差は見上げる程とまでは行かないが、少なくとも車が無理すれば降りられる等とは、決して思わないだろう。

 それだけの高低差が、西回り貨物線が在った頃と同様で、下の道が農道として在ったのかについては疑問を持った。

 と言うのも航空写真では、上下二つに分かれて少し進んだ辺りで、逆行するかの様に弧を描いて分岐する線が見られたのだ。


 先述した様に、高低差は車が無理をすれば降りられる程度では済まないのだ。

 実際に線路も引かれていたのか、あるいは用地だけだったのか、それ以前に、写真上で疑わしい曲線こそ見られるものの何も無かったのかは分からないが、それでもこれだけの高低差があって、写真に見える線が生じる原因は考え付かない。しかもこの曲線はそのまま伸び、先述した千葉縣護國神社の手前まで繋がっているのだから、それだけの、しかも当時既に在った道を含めて見れば、その曲線や、そこに繋がる線は、当時道であったとするにはおかしい点が多すぎると感じた。

 まあ、だからこそ私は、それらが線路、あるいはそれ用の用地であったと推測した理由なのだけれども。

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