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鉄道聯隊の町探訪録  作者: 不破 一色
第一章 < 西回り貨物線 >
1/9

01

※初回が鉄道ジャンル、鉄道聯隊、西回り貨物線なのは、小さい頃祖父に話しをちらっと聞いた記憶があった為で、特に何かを意図したものではありません。

 簡単に言えば思い付き? 的な、そんな感じです。

 JR東日本の千葉駅は、幾本もの線が分岐収束する、所謂その地域のターミナル駅だ。

 駅正面(正確には東口となる様だ)から駅を出れば、関東近郊の都市なりの風景も現れるのであろうが、今回の目的はそちら側では無いので、東京側にある高架橋上に設置された改札を抜け、右へと進む。こちら側は千葉県内陸側となり、駅としては北口となるらしい。逆に海側は西口? この辺りの区分理由はよく分からないが、そういう表記なのでそういう事なのだろう。


 改札を出て、高架橋上を進むと、既にそこは過去、鉄道聯隊の線路上という事になる。と言うのも、成田方面に向かう総武本線辺りは元々、当時の国鉄と接続した一〇六七ミリメートル軌間の引き込み線である、通称(正式名称かは不明)西回り貨物線があった場所となる為だ。

 千葉駅の隣駅である西千葉駅との間辺りで内陸側に分岐していたその路盤跡は、現在の総武快速線複々線化の時に、そのまま利用されたと言われている。つまりは国内標準軌ではあるが、既に千葉駅構内でさえ、鉄道聯隊の遺構の地となる訳だ。


 今回の目的は、この西回り貨物線周りなので、私は北口の階段を降りると東京駅側へと進路を取る。

 それにしても北口前には、それなりに広さがあるロータリーも用意されているものの、交通量もそれ程でも無く、バスやタクシーも数は多くない様で、はっきり言えばただ整備されているだけ、むしろ整備されている分もの悲しさ、寂しささえ感じる気がする。

 それは、駅前ロータリーの利用状況だけで無く、おそらくは周辺環境もあるのだろう。


 北口に降りて見回すと、目に付くのはビルであって、目立つ店舗等が並んでいる訳でも無い。はっきり言えば、人が集い集まる様には出来ていない事を感じさせた。

 そうした機能は、駅正面となる東口や、逆側にある西口が受け持っているのかも知れないが、そうであるならば、これだけのロータリーが必要なのかと疑問も生じるし、いくら自動車大衆化モータリゼーションの結果、今や駅がその町の顔、玄関口としての機能を薄れさせているとは言え、この規模の駅であればこそ、各出入り口でそれぞれの特徴があり、当然それに伴う姿もあると思うのだが、どうもこの北口周辺を見る限りでは、どういう特徴を持つ地域なのかが分からない。

 とは言えこうした駅周辺の姿は、別段珍しいという訳でも無いのだが。


 ともあれ、そうした北口周辺で、特に見るべき場所となると、この北口ロータリーから千葉駅正面(東口)側に、若干駅から離れる様な曲線が一九四七年の航空写真からは見て取れた。そこはもしかすると、当時の国鉄との荷役作業を行う場所であったかも知れないが、遠目ながら眺めてみても、最早その痕跡は完全に消え失せている様であり、またその辺りの歴史を示す掲示等があるとも聞かない為、私は西千葉駅に向けて、線路に沿う形で進む事としたのだった。


 線路沿いの道は、特に目を引く物も無く、暫くすると土手の様な場所へとぶつかる。そこは松波陸橋の下部工がおそらく盛土により成された結果、土手の様に見えるのだろう。

 線路脇には地蔵が供えられているのだが、これがどの様な意図を持っているのかは分からなかった。道祖神的なものだとするとあるいは、西回り貨物線が未だ運用されていた時代から在ったのかも知れない。

 等と思いながら、傍らにあるコンクリート製の階段で土手上の部分を上る。

 上った処には、陸橋でJR線を越える道路があるのだが、そこに信号も無ければ横断歩道も無い。

 交通量はそこそこ、決して渡れない程では無いものの、線路側の陸橋は未だ登り途中であり、見通しは決して良いとも言い切れない状態だ。

 ある程度警戒しつつ道を渡ると、反対側にも同じ様にコンクリート製の階段があった。この階段はどちらも結構急で、断の幅も狭い為、少々厳しい印象を持った。

 階段を下る前に総武複々線上辺りに移動して行く先を望むが、此処から先は線路の方が低い位置となっている為、千葉駅北口前周辺同様、当時の痕跡は残っていないであろう事は容易に想像出来た。


 元々期待していた訳でも無いが、一九四六年と一九四七年の航空写真を見ると、この松波陸橋から、西回り貨物線が当時の国鉄線から分岐していた場所迄の間で、道路とは異なる様相の線を見る事が出来たのだ。

 無論細かく見て行けば、おそらくは道路であろうと思われるそれは、しかしその様相から、元は線路、あるいは線路用地であったものと見て違和感を抱かず、むしろそれが道路であった方が違和感を抱く様なものだった。

 単純に言えば、曲線を描いて分岐する線、という事になる。

 元々道路であれば、緩やかに曲線を描く必要性がある場合を考察すると、それはそこに丘や林等、何らかの土地に関する理由や条件があっての事となるだろう。しかし航空写真からは、直角や鋭角に交わったり分岐する線も見られる事もあり、おそらくはそうした曲線を描く必要があった事が推測出来たのだ。


 この航空写真を見て、この地に興味を持った訳だけれど、残念ながら、この西回り貨物線に関する資料や情報は限定的だった。

 無論郷土史や近代史、あるいは鉄道を趣味や専門に持つ人達の中には、そうした情報を持つのかも知れないが、少なくとも一般的には極めて限定的な状況である事は間違いが無い。


 こうした引き込み線、あるいはその用地であった可能性が高い場所は、此処松波陸橋を越えて直ぐの辺りから一本、その後更に二本が西回り貨物線より分岐し、やがて当時の国鉄線との分岐場所へと至っている様に、航空写真からは見る事が出来た。

 しかし現在では、先に記述した様に当時の国鉄(現JR東日本)線は周辺よりも低い場所となっていて、分岐の痕跡等はその委細を失っているだろう事は、これから進んで実際に目にするまでも無く容易に推測が出来た。まあそれ以前に、九年後となる一九五六年の航空写真は高度が高かったのか、詳細は分からないものの、その曲線らしきものを見る事は出来ていなかったし、一九六一年時の航空写真では、完全にその痕跡が消失している事を確認出来ていたのだが。


 どちらにしろ、そうした引き込み線、あるいはその用地であった可能性が高いものとは別に、西回り貨物線そのものは、千葉駅から当時の国鉄線からの分岐場所までは、現在でも総武複々線として、また分岐して以降暫くの間は道路として、その痕跡をしっかりと残している事は、過去を追う上では救いと言えるのだろう。

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