ボトム・オブ・ザ・サン
世界は水の底で揺らめいている。これは決して比喩じゃなくて、紛れもない事実だ。そう遠くない昔、僕らの星は長年溜め込み続けてきた負荷に耐え切れなくなって、少しずつ世界を蝕んでいった。
少し目を外に向ければ、嫌でも目に入ってくるこの海は、人々が好き勝手出来た時代、もっと水位が低かったらしい。信じられないことだ。だって僕が生まれた時にはすでに上が見えない程の水量だったのだから。
けれど、もっと信じられない事もある。それは、海の上で太陽を浴びて生活が出来ていたって事だ。極限まで薄くなったオゾン層のせいで、僕らは海上に出ることは出来ない。太陽の光を浴びた瞬間に、身体は黒く焼け焦げ、目も潰れて死んでしまうらしいから。どちらにせよ、かつての地面は殆どが海に飲み込まれてしまっているので、地上での生活は出来る筈もないけれど。
そんな世界で僕らは死んだように生きている。地上の太陽の光を疑似的に作り出す仕組みを作り、植物や動物を育てられるようになっても、何処か空虚で薄暗い世界で。
僕はまだ二十歳にもなっていないけれど働いている。学校に行くには多額の借金をしなければならない程僕の家は貧乏で、そこまでして学ぶ意味を見いだせなかったからだ。
僕の仕事は、潜水艇で手紙を運ぶ仕事だ。僕らは海底にドームを作り、かつてあった国ごとの自治を守りながら暮らしている。昔はまだ気軽に電話やメールをやり取り出来ていたからそれでも良かった。けれど、今や電波は海中で分散し、正確な情報は伝わりづらい上に、その電波をジャックされる事も有りうる。個人間の他愛ない会話ならそれで良いのだけれど、国家間での話し合いや企業間での契約だとそうはいかない。そんな時に僕たちが運び屋として活躍する。
それでも、潜水艦を使う方法も決して確実ではない。水が世界のほぼ全てを覆い尽くした今、それに伴って海の生物の巨大化、凶暴化が進んでいるから。勿論、大抵の海獣の牙なら弾き返せる代物ではあるけれども、ごく少数の生物には敵わない事だってある。ドームとドームの距離が長い程それとの遭遇率は上がり、生還率はぐんと下がる。
どうしてそんな危ない仕事に就いているのか。それは第一に給金が多いからだ。危険が伴う分運び屋は法外な給料を受け取ることができる。それともう一つは、閉鎖されたドームを飛び出せば、あるがままに息が出来ると思ったから。一ヶ月もすれば場所が変わっただけで結局息苦しい事に変わりはないと気付いたけれど。
そんな事をいくら考えたところで、結局仕事は巡ってくる。今日の配達はこれだ、と上司に渡された書類を受け取り、届け先を確認する。幸いにも今回は近場に回されたようで、人知れず息を吐いた。
僕が就職してからずっと使い続けている海図でルートを確認し、潜水艦に乗り込む。オート潜水モードに切り替えてルートを設定すれば、少し重めの起動音を残して僕の船は発艦した。
海の中はとても静かだ。外の様子が見えるように大きく設置された窓からは黒々とした海とその中を悠々と泳ぎ回る巨大な魚影。ぼんやりそれを眺めているうち、僕は珍しく船を漕いでいたようで。大きく傾いた頭が操縦席のパネルにぶつかる頃には、既に目的のドームのすぐそばまでやってきていた。何事もなくて良かった、と少し自分の迂闊さに唇を噛みながらオートモードから手動モードに切り替える。
ドームの入り口に運び屋である旨の通信を送れば、ゆっくりとした動きで扉が開き、僕を迎え入れてくれた。
お疲れ様です、と門を閉めながら顔見知りのおじさんに労わられ軽く頭を下げる。その後手紙の受け取り手と合流し、受け渡しが完了したというサインをもらう。アナログな方法だが、これが規定なのだから仕方ない。互いに会釈をして別れた後、僕は街の中をゆっくりと歩き出した。
僕の暮らす所とこの場所ではどこか空気が違う気がする。実際に酸素濃度が違うだとかいうわけではなく、単純に気持ちの問題だ。ここの住民にとってはやはり息苦しいところなのかもしれない。それでも束の間の休息を、と店の並ぶ通りで気の向くまま店舗を冷やかして歩く。たまに料理を買い食いしたりしていると、ふときらびやかなビルに押しつぶされるようにして小ぢんまりとした古書店があるのが目に入った。本なんてどこでも買えるから、と行き過ぎようと思うのに僕の身体は自然とその古書店に向かっていく。木製の開き戸を押し開け、少し埃臭い店内に入る。
そこは天井まで届くほど大きな本棚に所狭しと様々な本が押し込まれていて、ちょっとした本の展示会のようにも思えた。何かに魅入られたかのようにのろのろと見て歩いていると、レジであろう台の奥からしわがれた声でいらっしゃい、という低い声が聞こえてくる。そちらに目をやると、皺に囲まれた目を鋭く光らせ、片手に新聞を持ったお爺さんがいつの間にか立っていた。少々尻込みしながら頭をかすかに下げるとお爺さんは台の奥に椅子か何かがあるのだろう。どかりと座って新聞を広げる。迫力のある方だ、とそちらに意識を持っていかれながらも、本棚の間を縫って歩いた。
その本は地味な本だった。注意深く見なければ見逃してしまいそうなそれは、おそらく自家製本だろう。紙が丁寧に織り込まれた、一応本の体裁を取ってあるもの。表紙に手書きで「太陽」と記されたそれを思わず手にとってページをめくると、それはどうやら日記かなにかのようだった。作者名はなく、何故こんな所にあるのかと首を傾げながら読み進める。
ページをめくるにつれ、この作者は題名の通り太陽を追い求めていたらしいと気付く。そして、妻と子がいたことも。後半は二人を放って行く事への懺悔とそれでも抑えきれない興奮とが延々と綴られていた。
結局その日記はドームを出る前日までで途切れていて、彼のその後の足取りは分からなかった。いや、そもそも古書店に置かれているのだから、そういう事なのだろう。僕は少しの間目を閉じてから、その日記を持って店主らしきお爺さんの元へ向かった。
「あの」
ためらいがちに声を掛けると、彼は新聞から顔をあげ、何か、とぶっきらぼうに返事を寄越す。
「この本いくらですか」
と、手に持っていた冊子を手渡すと、彼は怪訝そうな顔をしてそれをこちらに渡してくる。
「こんな本うちで扱ってないですよ。誰かが紛れ込ませたんじゃあないですか。売りものじゃあないんでどうぞ持っていって下さい」
「そうですか」
そんな事もあるんだな、と遠慮なくその本を受け取り、ありがとうございましたと言って古書店を出る。そしてもう一度手元にある日記を見下ろした。どこか懐かしいものを感じながら。
帰りは浅い眠りに落ちることもなく、順調に道を辿った。サインの入った紙を上司に提出し、その日分の給金を受け取って家に帰る。ベッドの上で死んだように眠る母の顔を一瞥し、僕自身もソファに身を投げる。最近、どうも眠りが浅い。ずっと同じ夢を見ている気がする。海とは違う青、その中で大きく輝く白い光。妙に目の裏に焼き付いて離れないそれが僕の眠りを妨げているのだと思う。夢の中の僕は手を伸ばすだけでその光には届かず、それでも僕は求め続けている。何かの暗示だろうか。良く分からない……。
は、と目を覚ます。どうやら僕はまた寝てしまっていたようだ。気が付けば人口太陽の光が家の中に差し込んできていて、僕はため息をつく。ソファで寝たせいもあってか、身体がとても重い。こんな状態で仕事に行くのか、と憂鬱な気分になりながらベッドの上の母を見やる。母は今もまだ眠っているようだ。最近母はめっきり起きている時間が短くなった。母が目を開けるところを見たのは一体いつだろう。息はしているから確かに生きているのは分かるけれど。
意識的に目を逸らし、手早く準備を済ませて家を出る。後ろ手にドアを閉め、灰色の大通りを急いで駆ける。仕事場について時間を確認すれば、どうやら始業時間にはついたようで、一安心だ。汗だくの僕を見て上司が少し怪訝そうな顔をしたけれど、いつもの通りに書類の束を渡される。
と、行き先を見て僕はつい顔をしかめる。それは、魔の海流があると恐れられている海域を通らねばならぬ位置にあるドームで、生還率の最も低い場所だったから。
しかし、それでも仕事は仕事だ。頭を掻きながら整備ドックから自分の潜水艦を出し、緩慢な動作で乗り込む。最初はオートモードでいいかと、艦が自動的に出るのに任せ、ドームを後にした。
危険な場所とはいっても、最初はいつもの通り順調に進める。むしろ他のルートよりも静かなくらいだ。でもそれが嵐の前の静けさであることは一目瞭然で、僕はいつもより緊張するのを禁じえなかった。
その魔の海流の付近まで来て、僕はオートモードから手動モードに切り替える。ここから先は自分で細かく操縦をした方がはるかに安全だからだ。一度大きく深呼吸をし、僕はゆっくりと船体を動かし、海流へと突っ込んだ。
その海流は話に聞いていたよりも激しかった。突如渦を巻き、強い流れが船を押し流す。その度に僕は海図を頼りに脇をすり抜け下をくぐり、誤差を出来るだけ生まぬように慎重に、けれど素早く海流を超えていく。いくつ超えたか、いくら流されたか、数えるのをやめた辺りで、海流が穏やかなものに変わった。多少の傷はついてしまっただろうが、どうやら無事に抜けられたようで、僕は操縦席にへたり込んでしまった。
辺りを見回すと、そこはうっすらと明るく、水の透明度が少し高い場所のようだった。海の底に全てが沈んだ今、真っ暗でないところも存在するなんて僕は知らなくて、しばしの間そこに留まり、普段見るものとは違う種類の魚を目で追い、薄い色の水を眺めていた。
しかし、いつまでも同じ場所に留まっている訳にはいかない。僕は潜水艦の座標を確認し、目的までのルートを設定すると、オートモードでの潜水に身を委ね、再び暗い海中へと戻っていった。
その後、何事もなく目的のドームに到着すると、書類を依頼してきたであろう男にひどく驚かれ、感激したかのように肩を叩かれた。どうやらここまで辿りついてくれる人はそうそういないらしく、これで契約が結べるのだと、人好きのする笑みを浮かべてそう語られる。はあ、そうですか、と気の抜ける返事をするものの、褒められて嬉しくないわけもない。サインを受け取った後、僕は張り切り気味に潜水艦に乗り込み、元のドームへ向けて艦を発艦した。
それが、どうしてこうなっているのか。牙を剥いて襲い掛かってくる海獣を避けて、別の海流に流され、それでも尚諦めないそれを振り切るために無茶苦茶な操縦をした事までは覚えている。その後の記憶がごっそり抜け落ちているのはきっと気絶したせいだろう。そして、今僕は見知らぬベッドに横たえられて、包帯を巻かれている。動かせる範囲で頭を回すと、ベッドの傍らに置かれた椅子に座って首をもたげて寝息を立てている男が一人。先程から身体が大きく傾いていて、今に転げ落ちるなと思って見ていたら、案の定派手な音を立てて転がり落ちる。びっくりした、と呟きながら身を起こした彼は、僕が見ていることに気付いたのだろう、何処か気まずそうにしながら息を吐いた。
「ああ、良かった。起きたんだね」
「あの、ここは」
その男性に起こしてもらうのを手伝ってもらいながらベッドから身を起こす。小さく首を下げてからそう尋ねると、少し口角を上げた彼は、壁際にある机から海図を持ってきて指で示してくれた。
どうやら僕は、元々住んでいるドームのほぼ真下に来てしまったようだ。随分流されたなと思って見ていると、彼が、
「君はどこから来たんだい」
と尋ねる。僕も彼に倣って指で故郷の位置を指すと、大分遠いね、と神妙な顔で頷かれた。机の上にあった大きめの卓上カレンダーは、僕が手紙を届けてから三日も経っている事を示していて、つまりそんなに長い間お世話になっていたのかと、慌ててありがとうございます、と頭を下げる。
「いいよいいよ、あの海流に巻き込まれたんだろう。仕方ないさ。ところで君の名前はなんていうんだい、いつまでも君じゃああまりにも素っ気ないだろ」
「ヒクウです。ええと」
「ミカドだよ。宜しくね、ヒクウくん」
まるで本当に気にしていないかのように振る舞う彼に少しの罪悪感と安堵を覚えながら僕の名を答えれば、彼も同じように返してくれる。
その彼、ミカドさんは黒い髪を撫でつけ、同じく黒い眼鏡をかけた研究者然とした人だった。というのも、実際に彼は薄汚れた白衣を身に着けていたし、件の机の上には様々な実験用具がほんの少し乱雑に並べられていたから。
「ミカドさんは研究者なんですか」
「うん、そうだよ」
「なんの研究をしてらっしゃるんですか」
そう聞くと、彼は微妙な顔をして黙り込む。僕は何かまずい事を聞いたのか、それとも人に言えないような研究をしているのか、と彼の顔をまじまじと見つめる。と、彼はこれはあまり他の人に言わないで欲しいんだけど、という前置きをしてから、
「人間が地上に戻れるようになる研究をしているんだ」
と続けた。
「人間が地上にですか」
「そう。元々僕らは地上で太陽の光を浴びて暮らしていたはずなんだ。それがどうだ、今や海の底にちっぽけなドームを作って死んだように生きている始末。僕らの地上を取り戻したいじゃないか」
一つ音を発する度に熱を帯びる彼の言葉は、僕の心にどうしようもなく響く。それはこの間読んだ本のせいなのかもしれないし、実際に僕が思っていた事だったからかもしれない。なんにせよ、僕の運命はこの瞬間に大きく動いたのだと。そう確かに思った。
その後僕は、ミカドさんとぽつぽつと会話をしながら身体を治すことに専念した。僕は気を失っている間に左肩を強打していたらしく、その部分の治療のためもあって彼の家に居候し続けていたのだ。彼自身は僕を住まわせてくれることを苦に思わない様子だったけれど、僕はどうしても彼に何か恩返しがしたかった。それを一度言ったら、
「今はそんな事考えずに治療に集中してよ」
と笑われてしまったのである。それで、俺はこの怪我が治ったらずっと言おうと思っていたことがある。それは、僕の身体を研究に使ってほしいという事だった。
少し前に彼が漏らした言葉がある。
「実際に太陽に焼かれて死んだ人間の身体があればなあ」
という事。僕らの星はかつての温暖化現象によって水位が上がったのだけれど、それだけでなく、オゾン層も著しく破壊されていた。昔は分厚いオゾン層に阻まれて有害な紫外線は殆ど通らず、安全に地上で暮らすことが出来ていたのだけれど、今やその紫外線は多くが地表にダイレクトに注ぎ込まれている。人間が海底に沈んだことでオゾン層の破壊は食い止められ、かろうじて残っている状態らしいのだ。
つまり、僕らが水上に出て暮らすためには、肌を焼き人を死に至らしめるその紫外線を防ぐ術を編み出さねばならないというわけだ。そのためには、実際に死んだ人間の肌を調べるのが一番だし、目下それしか方法がない。けれど、だからこそ先人たちは水上で暮らすことを早々に諦めて海底に引きこもっているのだ。
ずっと考えていたけれど、僕は別に水上で暮らしたいとか、そういう事には興味がないのだ。僕はただ太陽をこの目に焼き付けて、そうして死にたかった。僕がずっと見続けている夢は、きっと太陽の夢だ。根拠はないけれど、きっとそうだと思う。太陽に手を伸ばした先に進めないのは、多分そう言う事なのだろう。あの夢は未来の僕が見たものだ。
そうしてそれから数日が経って、僕の怪我は全快した。ミカドさんは僕よりも喜んでくれて、なんだか照れ臭かったけれど、彼が嬉しそうにしたのもそれまでで。
「僕の身体を研究のために使って」
その言葉一つで、彼の表情は一気に険しさを増した。いっそ怒っているかのようだった。
「それは意味を分かって言っている? それともただの恩返しかな」
「分かって言っています。それに恩返しだけじゃない。僕は僕のために死ぬんだ」
真っすぐに視線を合わせる。何となく目を逸らしちゃいけない気がして、僕らはしばらくそうやって見つめ合っていた。そのうちミカドさんは大きくため息を吐いて、手で顔を覆い俯く。
「大人としては、そんな言葉を受けちゃいけないのに。僕は駄目な人間だな」
「それって」
「良いよ。君が死んだらその身体は僕が有効活用してあげる。絶対だ」
再び顔を上げた時、彼の顔は覚悟を決めたような、それでいて寂し気な複雑な表情を浮かべていた。僕にはその表情の意味は分からなかったけれど、それは確かに僕の言葉を受け入れた事に他ならなかった。
「ありがとうございます、ミカドさん」
「でも、君にも家族や友人はいるだろう、その人たちはどうするんだ」
「友人と呼べる人はあまり。家族は母が一人」
確かに彼の言う事は正しい。僕は太陽に向かう事を厭わないけれど、母は。病気を抱えた母を置いていっても良いのだろうか。僕がつい俯くと、ミカドさんは僕の頭に手を置き、
「なんだ、迷ってるのか。なら君の故郷に行ってみよう。そこで改めてどうするのか決めるといいさ。今更急くつもりはないよ、時間はまだ沢山あるから」
と言って笑う。僕はその言葉に力なく笑みを返しながら、僕自身の覚悟の弱さが透けて見えたようで、なんだかとても泣きたくなった。
次の日になって、僕らは僕が乗ってきた潜水艦で、僕の住んでいたドームに向かった。最初の日は潮の流れが比較的緩やかな場所を選んで潜水をする。もう少し時間を短縮するルートもあったのだが、あの魔の海流を抜ける事を考えると、焦りは禁物のように思われたのだ。
一夜を明かした僕らは最大の難関であった海域に突入したけれど、今回は海獣に襲われる事もなく、順調に海流を抜けられた。順調と言っても勿論気は抜けなかったし、そこを通るだけで僕は疲れ果ててしまったのだけれど。
その先は手動をオートに切り替え、艦が運航するのに任せる。僕らはその間に色々な会話を交わした。家族のことや学校のこと、勉強のこと。それに太陽に関することも。僕の持っていた日記は、ミカドさんに取ってすごく興味深い内容だったらしい。紙の劣化から察するに、約十年程前のそれは、どうやら今まで発見されている中で、最も綺麗な状態の焼死体の持ち主だったのではないかという事らしい。どうして分かるのかと聞いてみれば、彼は笑いながら、それが今のところ最後の焼死体だからだそうだ。この十数年で、太陽を求める人が減ったという事なのだろうか。それは良く分からないけれど、ミカドさんは大発見だと言って喜んでいる。何気ないものでも貴重だったりするんだなあ、と少々見当違いな事を考えていれば、僕らの目の前に大きなドームが現れる。僕は見覚えのあるそれを見て、柄にもなく目頭が熱くなるのを感じた。いやいや感動するには早いだろうと、門の管理に電信を送る。ほどなくして門が開き、僕らの船はゆっくりとドーム内へ帰還を果たした。
取りあえず先に書類を届けようと、僕は一人勤務先へ身を滑り込ませる。慣れ親しんだ廊下を歩き、件の上司の所に行くと、その人は一瞬恐ろしいものでも見たかのような顔をし、その直後に生きてたのか、と間の抜けた声を漏らした。
「生きてちゃいけませんか。これ受け取りサインです」
「あ、ああ。ありがとう。いや嬉しいよ。心配してたんだ」
まだどこか夢でも見ているかのような顔の上司に苦笑を漏らしつつ、ずっと持っていた書類の束を手渡す。機械的な動きでそれらに了承の印鑑を押した彼は、明日から復帰するのかと聞いてきた。
「ああ、いや。辞職します」
「はっ、辞職」
「はい、ほかにやりたい事が見つかったので」
てっきりこのまま続けるのかと思った、と呆然と呟いた上司の顔は、僕の短い人生の中でも一、二を争うくらい面白い顔だった。それでも、
「そうか、頑張りなさい」
と言ってくれて、今更ながら、良い上司だったんだなあと実感した。
その後、今までと同じように給金を受け取り、社外へ出る。ミカドさんはどこにいるのだろう、と僕が周囲を見渡すと、少し離れた煉瓦造りの、レトリックな建物にもたれ掛かってこちらに少し手を挙げているのを発見した。
僕が近寄ると、彼は身を起こし、どうだった、と聞いてくる。辞めてきました。僕がそう答えると、彼はそっか、とだけ返し、静かに僕の横に立つ。彼に無言で促されて、僕は僕の家に向かって歩き出した。
「ただいま」
「お邪魔します」
道中は特に会話もなく、僕らは僕の家に到着した。服のポケットに入れてあった鍵を取り出して扉を開け、中に入る。数日間いなかったとはいえ、僕は何かあった時のためにお手伝いさんを雇っていたので、家の中は最後に見た時と変わらず、整理されていた。
物珍し気に辺りを見回すミカドさんを傍目に、僕は母の眠る部屋の扉を開ける。小さくただいま、と声を掛けベッドに目をやると、そこには珍しく身体を起こし、おかえりなさい、と笑む母の姿があった。
「母さん、起きてたの」
きっとまた寝ているだろう、と思っていた僕は、こちらを見やる母に思いのほか驚いてしまって、少しもたつきながら母の元へ小走りに駆け寄る。その後ろからミカドさんが顔を覗かせて、母はそれを珍しい、とでも言いたげな表情で招き入れた。
「うん、なんだか目が覚めて。それにしても、ヒクウが友達を連れてくるなんてびっくりした」
「この人はそんな、友達じゃないよ」
「あら、そうなの」
「ミカドです、初めまして」
ご丁寧にどうも、と言って笑う母は本当に楽しそうで、僕はこれなら大丈夫かもしれないと思えた。けれど、それと同時にこの人は僕がいなくなっても、僕の愛した笑顔を浮かべていられるのだろうか。ある日目を覚ました彼女は僕がいなくなったとして、その事をどう思うのだろう。
そんな事を考えていたせいだろうか。僕の顔は、傍目にも分かるくらい険しくなっていたようで。母に心配そうな声を掛けられてしまった。
「ヒクウ、どうしたの、大丈夫」
「ああ、うん。大丈夫」
大丈夫。まるで自分に言い聞かせるようなそれに、母はあまり納得していないようだったけれど、ちゃんと休むのよと言ってミカドさんと談笑を再開した。
いけない、母に心配をかけてしまった。けれど、僕がやろうとしていることは、母に心配をかけるどころじゃない、深く悲しませる行為だ。母と会って、僕はそれでも手を伸ばす事を諦められそうになくて、それはそれで別に良い。けれど、いつ伝えればいいのかが分からない。いや、いっそ伝えない方が。
僕が頭の中で悶々と答えの見つからない問答を繰り返していると、不意に腕を引かれる。その方向に目をやると、いやに真剣な顔をしたミカドさん。ごちゃごちゃ悩んでないで言ってしまえと言わんばかりのその目を見て、僕は決心を固めた。
「母さん、言わなきゃいけない事があるんだ」
一つ大きく深呼吸。そうして母に向き直ると、母はそれでも柔和な笑みを浮かべてこちらを見つめてくる。無言で先を促してくれているのを感じて、僕はさらに言葉を紡いだ。
「太陽をこの目で見てこようと思います。だから、これで母さんとはお別れだ。今まで育ててくれてありがとう、すごく感謝してる。こんな、親不孝でごめん」
僕は、母の顔を見ない様に深く頭を下げる。母がどんな顔をしているのか見たくなかった。それに、何を言われても仕方ないと思ったし、僕は実際にそれに備えて酷い顔をしていたと思う。けれど、母は想像していたよりもずっと落ち着いた声で、ぽつりとこぼした。
「やっぱりお父さんと同じ血を引いてるわね。まさかまた置いていかれる事になるなんて」
「父さんと同じって、どういう」
「あなたのお父さんも同じ事を言って出ていったわ。あの人も太陽をこの目で見たいんだ、なんて言ってた。そういうところばっかり似るんだから」
これは僕も初耳だった。十二年前に突然いなくなった父。僕は父について、父も運び屋をやっていた事しか知らなかったから、海獣に食われたか、激流に巻き込まれてバラバラになったかのどちらかだと思っていた。母に聞いてみた事もあったけれど、その度に泣きそうな顔をするから、幼いながらにこの話題はいけないのだと察していた。
さらに母は続ける。
「お父さんは地上を目指す人たちの、ええと何て言ったかしら。太陽の会だったかな。を取りまとめる役もやってたみたい。その人達のためにも死ぬんだって。いつか技術が確立されるまで無謀な真似をする人間が現れない様にように、自分が見せしめになるんだって言ってたわ。けど、それだけじゃなくて、あの人病気だったの。私と同じ病気。段々起きていられる時間が短くなって、あの人焦ってた。やりたい事をやらずに死ぬのはご免だって言ってた。酷い人よね。そこまで言われて、引き止められる訳ないのにね」
そこまで話して、母が口を噤む。まるで何かを思い出すかのような仕草に、僕もミカドさんも何も言えなかった。母が僕を引き止めたがっているのか、それとも。
「本音を言えばね、行ってほしくないのよ。貴方の母親だもの。けれど、引き止めても無駄な事、分かってる。母親だから。だからヒクウ、後悔のないように生きなさい。私に遠慮することなんかないの、自由にしていいのよ。あなたのお父さんがそうだったように、あなたが大切だと思う事を貫いて」
床に座ったまま動けずにいる僕の手を取って、母が微笑んで言う。母の言葉が痛い程身に沁みて、母の顔が歪んで見えた。きっと母は大丈夫だろう。それに安心すると同時に、僕はどこか寂しさも感じていて、胸のどこかが鈍く痛む音が耳の奥で響いた気がした。
「じゃあ、行ってきます」
あの後、糸が切れるように眠りについた母をベッドに横たえ、僕とミカドさんは、出発を次の日にすることを決めた。長い間ここにいては決心が揺らぐからと、僕の希望だった。ミカドさんは何かを言おうと口を開いたけれど、結局音になるはずの言葉は空気を揺らさず、ただ静かに首を縦に振った。
明朝、穏やかに寝息を立てる母に一言声を掛け、僕らは静かに家を出る。まだ誰も起きだしてこない通りを二人で並んで歩いていると、これで最後なんだと言う事が今更に意識に昇って来て。息が詰まるほど嫌いだった故郷だけれど、良いところもあったのだとやっと思えた。
見慣れた格納庫から潜水艦を出し、出入りの扉を開ける。やっぱり僕らはそれに無言で乗り込んで、他の誰にも知られる事のない旅に静かに滑り出した。
道中は驚く程に順調だった。僕らは海図や実際の海流を確かめながら、水上に浮かび上がれるポイントを探して、浮き沈みを繰り返した。時には海獣と出くわすこともあったけれど、明確な目的地がある訳でもない僕らは彼らと正面から当たらないように運航して事なきを得ていた。ついでに、潜水艦の操縦をミカドさんに教えることも忘れなかった。僕がいなければ艦を動かせないなんてそんな間抜けな事があってたまるものか。ミカドさんは何か言いたげな素振りを何度も見せていたけれど、結局僕はそれを聞くことはなかったし、彼も口に出すことはついぞなかった。
ルートの決まっていないこの旅は、今まで感じた事のない開放感や充足感に満たされていたように思う。自由に海を泳ぎ、何かに縛られることがなかったからだろうか。なんにせよ、ずっと知りたかった気持ちが最後の最後にやってくるなんて皮肉なものだ。そして、僕は無意識にこの旅に終わりが来なければいいと、そう思いもしていた。
けれど、旅は終わりがあるからこそ旅なのだ。ついに僕らは水面の近くまで浮上してきていて、潜水艦の窓はすべて閉じ切った状態にあった。つまり、僕が太陽を目に焼き付けるための準備は全部整っている。どことなく緊張した様子のミカドさんは、僕の顔を見て、口を開いた。
「本当に良いのかい」
「はい。覚悟はできてます」
「そう……。ねえヒクウくん。正直に言って、僕は君が故郷に残りますと言ってくれることを望んでいたんだよ。途中でやっぱり帰りたい、って言い出すのもずっと待ってた。僕が一番臆病だったんだ。君が死ぬ事を看過することもだけど、何より君が死んでも何も変わらないんじゃないかって思ってしまっている自分がいるんだ。ねえ、ヒクウくん、もし僕が失敗して、君の死を無駄にしてしまったらどうしよう。どうすればいいんだろう」
半ば叫ぶように、しかし絞り出すように告げられたそれは、ミカドさんの数少ない本心だった。言いながら徐々にうずくまっていく彼が小さく見えて、ぼくはその肩に手をかける。
「前も言いました、僕は僕のために死ぬんです。誰のためでもありません。けれど、ミカドさん。きっとミカドさんの研究は成功します。僕の身体はちゃんと貴方を助けます。心配しないでください、きっと大丈夫。ねえ、ここまで来れたのはミカドさんがいたからです。ミカドさん以外の誰かじゃいけなかった。ありがとうございます。本当に感謝してるんです」
言いながら僕は、潜水艦をゆっくりと浮上させる。艦体が水上に上がるのを感知し、潜水艦が鈍い警戒音を発す。ミカドさんが顔をあげて、こちらを見上げるのを感じたけれど、僕は彼を見ることもなく、ハッチをゆっくりと開けた。
一面の青だった。海の色とは違う青、澄んだ青。その中で大きく輝く、白い光。帯状の光を水面に落とすそれは、本当に夢に出てきた光景と全く一緒だった。肌が焼けて、視界が朱色に染まる。僕は手を伸ばす。まだ見ていたい。もう少しだけ。僕は。
ー ー ー
僕は手元に持った紙束に目を落とす。そこに書かれた文言は全て頭に入っているけれど、見ずにはいられなかった。失敗する訳にはいかない。この中には、僕の十数年と彼の全てを費やしたものが入っている。いくらか重く感じるそれを強く握りしめ、僕は口を開いた。
「この度私は、太陽の出す紫外線に対抗し得る物体を――