六・狩る者と狩られるモノ
《 六・狩る者と狩られるモノ 》
とりあえず、本日の目標だった町・マティルドの近くにある林に到着したものの、未湖は、思いがけない強敵に震えることになった。
(……さ、寒いっっ)
異世界とはいえ、夜が冷えるのは世界共通らしい。
昼間は、長袖だと少し汗ばむくらいだったのに、夜が深まるにつれ、じわじわと身体の芯が冷えてきた。暗闇のなかに一人きりという不安と恐怖がそう感じさせているのかもしれないが、それにしても、昨日よりもかなり冷え込んでいる。体感温度的には、初冬一歩手前といった感じだ。
一応、獣除けのために小さく火は焚いているが、身体を温めるほどではない。肩にアレクの上着を羽織っているので、幾分か寒さをしのげてはいるが――どうして、こんなにも冷えを感じるのだろうか。
「…アレクに毛布も頼めばよかったな」
それがあれば、少しは夜を快適に過ごせるはずだ。しかし、残念ながら、彼はそこまで気の利く男ではない。服は買っても毛布までは考えが及ばないに違いない。
両手両足を可能な限り引き寄せて、ぎゅっと縮こまる。そうすることで、ちょっとは身体が温かくなったような気がしてきた。
「……それにしても、遅いわね。まさか、町の食堂で自分だけおいしいものを飲み食いしてるんじゃないでしょうね?」
こちらは、水っぽい粥が夕食だったというのに。
悶々と、帰りの遅いアレクを待っていた未湖は、ふと違和感を覚えて周囲を見回した。
「……? 何か、いるような気がしたんだけど」
大きな足音はしなかったが、何だか、気配が近づいている…気がする。それに、どこかから見張られている、とも感じる。
(…人間じゃないわよね、これ?)
目を閉じ、聴覚を研ぎ澄ませてみる。
かすかに、音がする。
地面に生える雑草を掻き分け進む音は、ごくごく小さい。小動物、それもリスとかネズミとか、それくらいの大きさではなかろうかと推測する。
しかし、じわじわとこちらに近づくにつれ、それは足音ではないとわかった。
(…何だろう、この音?)
シュルシュルと草の上を滑るような、摩擦音。衣擦れにも聞こえるそれが何なのか、想像すらつかない。高まる緊張感に心臓の音が早まっていくのがわかる。
未湖は、恐怖を感じつつも、目を開けて音のする方向をじっと見つめた。
しかし、その姿はなかなか視認できない。
その理由は、あとでわかった。
犯人は、漆黒の蛇みたいな細長い生物で、夜の闇に紛れて見えなかったのだ。
未湖がその何かに気づくより早く、ひゅんと風を切るような音がして、黒蛇を射抜いた。
シャアッと掠れ声が足元で聞こえて初めて、未湖は近づいていた音の正体を知った。
「っっ、へ、蛇っっ!?」
青ざめた未湖が立ち上がろうとしたら、どこかから険しい少女の声が飛んできた。
「動かないで! じっとしてて!」
「っっ」
未湖は、その声に驚きつつも、動きをとめた。
息をとめ、どきどきする胸を押さえて、ひゅんひゅんと風を切る音と蛇の悲鳴を聞きながら、目を閉じる。
(…何なの、何なのよ、これ!)
未湖の苦手なモノは、節足動物と爬虫類。それに、血液とレアな焼き加減の肉。採血のたびに意識を失いそうになるレベルなので、とにかく血生臭い事態には関わりたくない。
しばらく、蛇と見知らぬ少女の攻防が続き、ようやく静かになったときには、未湖は精神的疲労でぐったりしてしまっていた。
「あー、大丈夫だった?」
疲れきって項垂れている未湖に、少女が話しかける。
未湖は、そこでようやく自分を助けてくれたらしい少女の姿を確認できた。
とはいっても、小さな焚き火と夜目に頼っているので、細かいところまではわからないが――未湖よりも年下の、小学生くらいの女の子に見えた。
未湖の胸の位置よりも身長が低く、もっさりとした長い髪をゆるい三つ編みにまとめている。矢の入った筒を二本ほど背負い、腰につけた大きめのウエストポーチはパンパンに膨らんでいた。大きくぱっちりした目と子供特有の高めの声は、その愛らしい容姿によく似合っていて、やや小さめの弓は何だかおもちゃのように映った。
「大丈夫だった?」
もう一度訊かれて、未湖は、ようやく我に返った。
「あ、うん、ありがとう。助かったわ」
未湖の言葉に少女はにこりと笑い、周囲を見渡した。
「…お姉ちゃん、一人? 危険だよ、ここがどういう場所かわかってて来たの?」
「え? いや、私、ここに来たの初めてだから。っていうか、何? ここ、何かヤバい場所なの?」
まさか、蛇が大量発生しているとでもいうのだろうか。
見やれば、少女が殺した蛇は、十や二十ではすまない。
青ざめる未湖を困ったような顔で見やり、彼女は言った。
「っていうか、お姉ちゃん、こいつらが何なのかも知らないみたいだね。あのね、こいつは、駆除依頼の来てたマントルバームっていうイキモノだよ。女子供の体内に入り込んで内臓や骨を食い荒したあと、皮膚の内側に卵を産みつけて繁殖するタイプの寄生獣でね、すごく厄介なんだ。今、この辺りに出現してるって聞いて、ボクら狩人が駆除してるところだったんだよ」
「……え、あの、今、何て言ったの?」
蛇の名前なんかは、この際、どうでもいい。問題は、女子供の体内に入ってどうのというところだ。
「だから、こいつらは危険な寄生獣で、特に女子供を狙って襲ってくるから危険だよって。一応、夜行性だから夜じゃないと活動しないんだけど――って、あれ、お姉ちゃん、どうしたの? 顔色が悪いけど…まさか、寄生されたりしてないよね?」
その問いに、ぞわわっと全身が冷たくなった。
「し、してないわよ! どこも痛くないし! っていうか、ねえ、あとどれくらいいるの、こいつら?」
きょろきょろと不安げに周囲を窺う未湖に、少女は首を傾げてみせた。
「うーん、正確な数まではわかんないけど…お姉ちゃん目当てにこれだけの数が集まったってことは、最低でも、二、三百はいるかな。となると、ボク一人じゃ手に負えないかもしれないね」
「っっっっ!」
冗談ではない。蛇に体内を食い荒らされて死ぬなんて、絶対に嫌だ。こんなところに一秒だっていられない。
未湖は恐怖のあまり涙目になって、自分より年下の少女に頼んだ。
「お願い! 私を町まで連れて行って! こんなトコで死ぬなんて、まっぴら御免よ!」
「え、うーん、そんなこと言われてもなあ。ボクにはボクの仕事があるし…」
少女は、地面に刺さった矢を抜いて矢尻の汚れを拭き、背中の筒に戻す。
「お、お願いっっ! お礼はするからっ」
ひれ伏すような勢いで頼んでみるが、彼女は首を縦に振ってくれなかった。
「お礼っていわれても、お姉ちゃん、お金の匂いがしないしなあ」
どうやら、無一文なのがバレているらしい。まあ、金があれば町の宿屋に泊まっているはずなので、こんなところで野宿している女に金銭を要求したところでたかがしれていると思われているのだろう。
未湖は、咄嗟に胸元のブローチを外して、少女に渡した。
「これ! これあげるから!」
救世主として与えられた服が高価そうな代物なので、きっと、これもそれなりの値段がつくはず。
そう思って渡したところ、品物を確認した少女が、ぎょっと目を剥いた。
「…こ、これ、王家の紋章が入ってるじゃないか! こんなの、簡単に出回ったりしないはず――もしかして、お姉ちゃん、泥棒?」
「へっ? ち、違う! 王家の紋章だか何だか知らないけど、私、一応、王様の知り合いだから!」
「嘘だね。お姉ちゃんからは、そういう高貴な人間と知り合えるような感じがしない。コトと次第によっては、軍に突き出すからね。正直に話して」
子供とは思えない強い語気と視線に、未湖はすっかり気圧されてしまった。仕方なく、ぼそぼそと事情を話したところ、少女はパチパチとまばたきをして――失笑した。
「あ、あはははっ! そっか、お姉ちゃんが噂の絶望の救世主様か!」
「ぜ、絶望の救世主って――何か矛盾してない、それ?」
知らないところで、そんなあだ名がついていたのか。
少し頬のあたりをひくつかせる未湖を楽しげに見やり、狩人の少女・ヤミーが簡単な自己紹介をしてから、現在の状況を教えてくれた。
「ボクの名前は、ヤミー。魔獣退治専門の狩人だよ。依頼があればどこにでも行くけど、今はマティルドの町に雇われてるんだ。で、救世主様が前線に送られる前に兵士と行方をくらませたって話は、ここまで届いてるよ。とにかく、一刻も早く探し出せってお触れが出てるからね。町の兵士たちも住民たちも大わらわさ」
「…随分と情報が早いわね。まだ、それほど時間は経ってないのに」
電話やメールもないのに、思った以上の早さで情報が出回っていることに未湖は驚いた。
ヤミーは周囲を警戒しつつ、弓に矢をつがえて、迷いなく放った。
ヒュンと音がして、シャアと悲鳴があがる。続けざまに矢を射ながら、ヤミーは言う。
「けど、ここまでうまく逃げてきたってことは、連れの兵士ってよほど腕がいいんだね。今は気配を感じないってことは、街に買い出しにでも行ってるのかな? まあ、緊急の用事でもない限り、町には近づかないほうがいいと思うけどね」
「そりゃ、町が危険ってのはわかるけど、ここにいるのはもっと危険だし……っていうか、あんたは私を捕まえようとか思わないわけ? 私を引き渡せば、報奨金とかもらえるんじゃないの?」
今の未湖は、国から追われる罪人のようなものだ。しかも、おそらく国王直々のお触れだろうから、捕まえた者にはそれなりの礼金が準備されているはずだ。
やや訝るような視線を向ける未湖に対し、ヤミーは、ちらりとこちらを一瞥してから、矢を二本同時に射った。
ヒュヒュンと闇に吸い込まれた矢が、的確に蛇の生命を奪う。若いのに、すごい腕前だ。
「…確かに、相当額の収入にはなるけど――か弱い女の子一人に戦争の全責任を押しつけようって考えは、ボクにはないね。そもそも、この戦争を最初に仕掛けたのは、魔族じゃなくて人間のほうなんだ。それを忘れて、手痛い反撃を受けてピンチになったからって救世主を仕立てあげて士気をあげようとか、ちょっとおかしな話じゃないか」
至極真っ当な意見に、未湖は驚いた。まさか、そんな答えが返ってくるとは思ってもいなかっただけに、百万人の味方を得たような気持ちになる。
「だ、だよね、普通はそう思うよねっ? なのに、あの三流顔の王様と取り巻きどもときたら、自分たちは安全なところで高みの見物しておいて、私に後始末してもらって当然だ、みたいな態度で命令してくるんだもの。腹が立つったらなかったわ!」
「王侯貴族ってのは、みんな常識知らずなもんだよ。自分たちの言動はすべて正しくて、相手の事情なんてものは顧みない。前国王様は、市井に目を行き届かせていた名君だったんだけどね」
「…へえ、そうなんだ。じゃあ、あの若い王様はぼんくらってことね」
道理で、ふんぞり返って偉そうにしていると思った。こちらの事情そっちのけで自分たちの都合ばかりを押しつけて、感謝も罪悪感も持たない王様なんて、暴君でしかない。
しかし、ヤミーはやや同情気味に言う。
「まあ、今回の戦争は、同盟国のせいってのが大きいと思うよ。先に、同盟国が魔族の領土を侵略しようとしたけど返り討ちにあって、その火種がこっちに飛び火してきて、なし崩し的に戦争に参加せざるを得なくなったわけだから。でも、そうなる前に手を打つこともできたはずなのにそうしなかったのは、国王様の手落ちともいえるけどね」
「ふーん。ってことは、やっぱり、あの傲慢な王様が悪いんじゃない。戦争で得するのは武器商人に武人、あとは悪人どもくらいのもんだってのに、何で、わざわざ殺し合いたがるのか、私には理解できないわ」
まあ、未湖のいた世界でも戦争は起こっていたから、完全に他人ごととは思えないが――それでも、ヤミーの話を聞いた限りでは、非は人間側にあるようだ。敵だという魔族がどういう連中かは知らないが、最初に喧嘩を仕掛けたほうが悪いというのは常識ではなかろうか。
「…まあ、こっちの事情に深入りする気はないから、戦争の原因も結果もぶっちゃけ興味ないんだけど。だいたい、こっちの世界の住人じゃない私には、どうしようもないし、何かしようって気も起きないしね。よって、これまで通り自由気ままに生きていくだけよ」
未湖の無責任なほどばっさりとした意見に、ヤミーが苦笑する。
「さすがは、絶望の救世主様。自分本位な意見なのに、不思議と正当性を感じるのはどうしてだろうね」
「そりゃ、あんた自身が正論だと思ってるからでしょ。ま、そんなことはどうでもいいわ。ねえ、とりあえず、安全な場所まで連れてってくんない? こんなヤバいところに長居は無用だわ」
そこまで話したところで、アレクがあちこちに地雷を仕掛けていたことを思い出した。一応、仕掛けた場所については聞いているが、もし間違っていれば大惨事だ。安全な場所に移動しようとして、地雷を踏んで爆発。大怪我したところに常駐の兵士たちがやってくる、もしくは、寄生獣に襲われる、なんてこともありうる。
とりあえず、地雷の件を追加説明して安全に逃げる方法はないか訊ねてみたところ、ヤミーは思案顔になった。
「…だとすると、ボクみたいに木の上を移動するしかないけど、マントルバームは木の上にもいるからなあ。地上よりは数が少ないぶん、安全だけど…」
「…え、あの蛇、木の上にもいるの? ああ、でも、蛇ってたまに木の枝に絡まってたりするもんね」
数が少ないとはいっても、やはり危険はあるということか。もっとも、木登り経験のない未湖には、木の上を移動すること自体、考えられないのだが。
「となると、やっぱり、あの馬鹿が帰ってくるまでここで待ってたほうがいいってこと? うわー、最悪なんですけど」
とてもではないが、生きた心地がしない。
こうなったら、一刻も早いアレクの帰りを祈るばかりだが――。
ヤミーは、力なく座り込んだ未湖に近づき、預かったままのブローチを手渡した。
「…とりあえず、これは売れないから返すよ。あと、提案なんだけど、ボクが一度町に戻って、その連れの兵士ってのを呼び戻してきてあげようか? 思った以上にマントルバームが繁殖しているみたいだから、狩人協会に報告して人手を増やしてもらいたいし」
「…え、いや、だったら私はどうなるわけ? まさかの見殺し?」
こんなところで放置されたら、蛇に殺されるより先に精神がもたないかもしれない。こう見えて、未湖はビビリ性なのだ。退治しようとしたゴキブリがこちらに飛んできたときなんて、パニックに陥ってあちこちに殺虫スプレーを噴きつけ、最終的にはゴキブリではなく父親を退治しかけたことがあったくらいだ。人間、我を失うと何をするかわからない。
(…たぶん、ここで置いていかれたら、恐怖のあまりショック死するわね)
それも、かなり高い確率でそうなるだろう。
そんな死相が見えたわけではないだろうが、ヤミーが眉をハの字にしてこちらを見つめてきた。
「……一応、訊くけど。何か武器は扱える? もしくは魔法が使えるとか?」
「どっちも無理!」
胸を張って断言してやると、未湖よりも小さな少女は疲れたサラリーマンのような溜息を漏らした。
「…はーっ。ちょっとは自力で何とかしてみようとか思わないのかな」
「生兵法は大怪我のもとって言うでしょう? 怪我してから後悔したって遅いのよ」
何ごとも向き不向きがあるのだ。武器を持って戦うのは、それ専門の人に任せたほうがいい。下手にナイフを振り回したところで、敵を攻撃するより先に自分が負傷する可能性が高いのだ。よって、未湖は戦わないし、戦う気すらない。まあ、今の自分にできるのは、せいぜい走って逃げることくらいのものだ。
すっかり達観している様子の未湖を見やり、ヤミーはぽりぽりと頬を掻いた。
「…んじゃ、捕まる覚悟で一緒に町に行くかい?」
「え、いや、捕まるのは困るわ。今度こそ、戦地に送られちゃうもの」
「だったら、ここに残る? どちらにしろ、ボクは一度、町に戻って人手を増やしてもらいたいから行くけど」
「………うっっ」
ここに残るか、町に行くか。
二者択一の場面だ。ゲームなら、死亡フラグが立つかどうかの岐路。慎重に選択したいところだが、そんな悠長なことは言っていられない。
「……わかった、私も行くわ。連れてって」
「そう。なら、地雷を踏まないように木の上を移動しよう。ボクについてきて」
主導権を得たヤミーは、重力を無視したかのようにひょいっと近くにあった木の枝に飛び乗った。
「…猫もびっくりね」
あまりにも軽々とこなしたので、自分にもできるのではないかと思ってジャンプしてみたが、そんなに甘くはなかった。三十センチほどジャンプした未湖が手を伸ばしても、ヤミーのいる太めの枝には届かない。
「……んもう、仕方ないなあ」
溜息混じりの呟きが落ちてきたかと思うと、小柄な身体が再び地上へと舞い戻ってきた。
そして、未湖の足元に置いてあった大きな麻袋の中身を全部外に放り出すと、空になった袋を目の前に置いた。
「ここに入って。ボクが担いでいってあげるから」
「……へ? 担ぐってあんた、どう考えても無理でしょう」
未湖よりも小さくて細っこいヤミーに、そんな力技は期待できない。親切心は嬉しいが、やはり、未湖が自力で木に登って移動するしかないだろう。
そう思っていたのだが、ヤミーは強引に未湖の肩を押した。
「落としたりしないから大丈夫だって。ほら、早く入って。あまり長居すると、また襲われるよ」
言いながら、慣れた仕草で弓を構えて矢を放つ、狩人・ヤミー。
あまりの早業に目が追いつかない。
シャアシャアと、あちこちから蛇の悲鳴が聞こえてきて、ぞっとした。
これは、押し問答している場合ではなさそうだ。未湖は、彼女の言葉に従い、袋のなかで膝を抱えて座った。思った以上に袋は大きくて、未湖の身体をすっぽりと包んでくれる。
「…よし、んじゃ行くからね。舌を噛まないように気をつけて」
言うなり、袋の口を紐で縛り、ヤミーが動く。
ぐんっと袋ごと未湖の身体が引かれて、浮かび上がった。そして、振動に酔った以外に特に危うい場面に遭遇することなく、あれよあれよという間に未湖は町まで運搬されたのだった。