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魔女と紅茶と角砂糖

作者: 藤崎珠里

 明日の夜、部屋へ来るように。

 そう言われて、シャルリールはついにこの日が来たか、と思った。

 だから彼女は笑う。


「――ねえ魔女様。明日一日だけ、お母さんって呼んでもいいですか?」


 明日が最後ならせめて、とびっきりのわがままを。



     *  *  *



 ふんふんと調子はずれな鼻歌を歌いながら、シャルリールはティーポットをお湯で温める。歌に合わせてそれをくるっと回し、全体を温めてからお湯を捨てる。スプーンで紅茶の葉を三杯入れたところでケトルが主張し始めたので、ティーポットへお湯を注いで蓋を閉めた。

 このお茶の葉用の砂時計は、と少し棚に目をやって、目当ての砂時計を見つけるとひっくり返す。さあ、これでもう待つだけ。

 その間に魔女様お気に入りのティーカップと、適当なティーカップを棚から取り出した。魔女様はお砂糖が好きだけど、控えめにしてもらわなきゃ。シャルリールはカップをことりとテーブルに置きながらそう決意する。その決意を無駄にしてしまうのがいつものことなのだが。


 砂時計の砂が落ちきる。

 魔女様に美味しいと思ってもらえるよう、真心をこめて紅茶を注ぐ。ふわっと紅茶の匂いが広がって、シャルリールはつい笑みを零した。

 冷めないうちに、魔女様の寝室へ向かう。紅茶の匂いに反応して、魔女様はベッドの上でうっすらと目を開けてぼうっとしていた。


「おはようございます――」


 ここまではいつもと同じ。けれど続ける言葉は、今日だけは違う。早く言いたくて口がむずむずとしていた。


「――お母さん」


 ぱちり。魔女様の目が、戸惑ったように一度瞬く。長いまつげがかすかに震えた。しかし昨夜のことをおぼろげに思い出したのか、ああ、と寝起きのかすれた声で返事をした。


「お母さん、今日の紅茶はとびっきりのですよ。だから、あんまりお砂糖は入れないでくださいね」

「なるほど。道理で良い香りのわけだ」


 納得したようにうなずいて、魔女様はシャルリールからカップを受け取った。直前に言われた言葉など気にせず、魔女様は角砂糖をいくつもカップへ落とす。「お母さん!」と少し大きな声を出しても、魔女様は知らん顔で角砂糖を投入していった。小さくため息を吐いて諦めると、シャルリールは急いで自分の分の紅茶を持ってきて、ベッドの横の椅子に座る。

 朝のこの時間。魔女様はベッドの上で紅茶を飲み、シャルリールはその横で魔女様の様子を窺う。

 一口飲んだ魔女様の口元が、わずかに緩んだ。それを見て、シャルリールは嬉しくなってにこにこ笑う。


 ――最後の朝だもん。


 高価な茶葉だけれど、これくらいの贅沢は許してほしい。

 魔女様の珍しい笑顔を心に焼き付けてから、ようやく彼女は自身のカップに口をつける。うん、美味しい。この十年、紅茶を美味しく淹れることに力を入れてきた甲斐があった。

 紅茶を飲みきるために、魔女様の顔が少し上を向く。その際に、真っ黒な髪がさらりと揺れるのを見て、シャルリールは更に笑顔になった。

 魔女様は、美しい。真っ黒な髪も、真っ黒な瞳も、この世のものとは思えない色ではあるけれど。雪のように白い肌には、それがよく映えるのだ。紅を引いたかのような赤い唇が、唯一魔女様を人間らしく見せていた。


「……どうした。今日はやけに私を見るな」

「あっ、ごめんなさい。まじょさ……ううん、お母さんが綺麗で、つい見とれちゃいました」


 えへへ、とはにかむと、魔女様は表情を動かさずに「そうか」とだけ言った。


「お母さん」

「なんだ」

「……へへっ、お母さん」


 お母さん。そう呼んで、魔女様が返事をしてくれる。

 それだけでたまらなく嬉しくて、シャルリールは何度も魔女様を呼ぶ。


「お母さん、お母さん、お母さーん」

「うるさい。私はお前の母親ではない」

「僕を育ててくれたのはお母さんでしょ。それに、お母さんが呼んでもいいって言ってくれたんですよー。ね、お母さん!」

「うるさい」


 そう言いながらも、『お母さん』呼びをやめさせようとしないのだから魔女様は優しい。



 魔女様は最初から優しかった。

 十年前、孤児だったシャルリールを拾い、育ててくれた。少年のふりをしていた名残で『僕』と言ってしまうし、言動もお世辞にも上品とは言えない。そして何より、シャルリールには魔力がなかったのに。

 魔力がない彼女を、魔女様がなぜ育ててくれるのか。何年か前まではそれがわからなくて、不安で夜に一人で泣いたものだった。

 しかしシャルリールはもう、知っている。入ってはいけないと言われていた魔女様の部屋を見てしまった、あの日からそんな気はしていたけれど。確信を持てたのは、村での情報収集が一段落ついた昨年のことだった。

 そして、今日の夜、魔女様の部屋へ来いと言われた。それはつまり、そういうことだ。美味しい紅茶を淹れることしかできなかった自分が、ついに役に立てるのかと思うと嬉しかった。



「お母さん、今日は薬草採りさぼっちゃ駄目ですか?」

「駄目」

「ちぇー」


 シャルリールの最後の一日は、いつもと変わりなく過ぎていく。



     *  *  *



 魔女にはかつて、友がいた。たった一人の友だった。美しく、気立ての良い娘だった。その娘が数百年前に死んで以来、魔女は彼女を蘇らせるために様々なことをした。彼女の体は、魔女の部屋に大事に保管してある。魂などもう欠片も残ってはいなかったけれど。

 一番可能性のある方法は、生きた人間の魂を彼女の体に定着させること。今までに何度も失敗し、多くの人間を犠牲にしてきた。

 シャルリールを拾ったのは、シャルリールがかつての友に似ていたから。この歳になるまで育てたのは、かつての友が死んだ年齢と同じだから。

 その間にしたことは、全て気まぐれだった。誕生日だと言うから特別な魔法を見せてやったり、薬草を採りに危険な場所へ行ったシャルリールを叱ったり。そんなのは全て、気まぐれだった。




「おいで、シャルリール」


 夕食後、シャルリールは魔女様の部屋へ呼ばれた。魔女様の口から出たシャルリールという響きは、とても美しかった。


 ――もう、か。早いなぁ。


 魔女様は、笑っていた。美味しい紅茶を飲んだときくらいにしか見せない笑顔だった。

 けれど、魔女様の目は、笑っていなかった。何をされるか正確にはわからないけれど、これでお別れだと思うと寂しくなる。泣きたくなった。しかし魔女様を困らせてはならない。何も気づいていないふりをしなくてはならない。

 それに、魔女様の瞳に映る最後の自分は、笑顔でありたいから。


「はい、お母さん」


 シャルリールは、精一杯の笑顔を浮かべた。





 ――ああ、綺麗。


 数年前に見たその少女を見て、シャルリールはそう思う。ついで、魔女様に視線を向けて、それはそれは幸せそうに笑った。



「お母さん、紅茶にお砂糖入れすぎたら駄目ですからね」






「また失敗か」


 魔女はつぶやいた。

 ぬけがらのようになった彼女の目は、虚ろなまま開かれていた。頬にはまだ赤みが残っているし、そっと触ってみると温かい。これで死んでいるのか、と思うと不思議になる。

 いつものように死体を燃やそうとして杖を握り、しかし結局そのまま手を下ろした。なぜだかわからないが、彼女の死体をただ燃やしてはならないと思った。

 彼女の目を閉じさせてやる。

 少し考えたあと、家の外に出て地面に埋めた。掘るのは魔法で一瞬。けれど、埋めるのは自身の手でやった。彼女が土で見えなくなったとき、水がぼとりと落ちた。自身の目からこぼれたものだと気づくまで時間がかかり、気づいたらそれは止まらなかった。落ち続けた。

 少しでも魔女の様子がおかしかったら、「どうしたんですか!」と大慌てで問いかけてきた、彼女はもういない。


『お母さんって呼んでもいいですか?』


 そう、はにかみながら言った、彼女はもういない。


 ふと思い立って、彼女が来てから十年、自分で淹れたことのなかった紅茶を淹れることにした。

 彼女はよく、紅茶を淹れるときに調子はずれな鼻歌を歌っていた。魔女は手際よく紅茶を淹れながら、彼女の鼻歌を再現しようとしてみて。

 気づいた。

 この歌は昔、泣き虫だった彼女を寝かしつけるために歌った子守唄だ。

 どこをどうすれば、あんな変な歌になるのだろうか。

 そんなことを真面目に考えている間に、砂時計の砂が落ちきった。彼女が昔買ってきてくれたいつものカップに、紅茶を注ぐ。


『お母さん、紅茶にお砂糖入れすぎたら駄目ですからね』


 角砂糖に伸ばした手が、止まった。

 砂糖を入れていない紅茶なんて飲めたものではないと思うが、なんとなく入れる気になれず、そのまま紅茶を一口飲む。ああ、やっぱり――不味い。

 砂糖を入れていないせいだ。今日の朝彼女が淹れてくれた茶葉と同じなのだから、これほど不味いのは砂糖を入れていないせいだ。そうに決まっている。砂糖を入れれば美味しくなるはずだ。

 そう思うのに、なぜか魔女は砂糖を入れる気になれなかった。

 代わりに、もう一つ適当なカップを棚から取り出して、紅茶を注ぐ。

 魔女は自分の紅茶を飲みきって、そのカップの横に並べた。








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