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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

あなたに返したい

作者: 五十嵐 涼

「おはよう〜」

果実のコンポートの様にとろんと甘ったるい声が僕の耳元をくすぐる。ゆっくりと重い瞼を開くと、そこには絵に描いた様な美少女が俺の顔を覗き込んでいた。長い髪を二つに束ねセーラー服の上からピンクのフリルが付いたエプロンをしており、手にはお玉を握りしめている。

(ゆ、夢じゃなかった。しかも朝ご飯まで作ってくれちゃうんだ…ああ、お味噌汁のいい匂いがする)

「こうくん、もうお昼だよ〜早く起きて」

30にもなって「こうくん」なんて呼んでもらえる日がくるとは。僕は喜びを噛み締める様にもう一度瞼を閉じた。

「こら〜起きなさいこうくん」

こんな可愛い声で起こしてもらえるなら一生狸寝入りをしていたくらいだ。寝ているフリをする為毛布を顔まで被ろうとしたが、どうにも体がごわごわして動きづらい。

(あ、そうだ。昨日バイトから帰ってそのままの格好で寝ちゃったからジャンバー着たままだった。寝汗かいちゃったし、早く着替えてお風呂に………………お風呂!?)

あの映像が脳裏を霞め、思わず僕は飛び起きた。

「きゃあ」

いきなり体を起こしたものだから彼女がビックリして悲鳴を上げる。その可愛らしい声は、今さっき考えていた事を吹き飛ばしてくれる程の威力を持っていた。

(ああ、なんて可愛いんだ、めちゃくちゃ可愛いよ、ららちゃん)

目の前にいる彼女は全てが僕の理想通りで、アニメのららちゃんそのままだ。いや、声や仕草だけではない。顔も体型も全てがららちゃんなのだ。そう、彼女は文字通り『絵』に描いた美少女。アニメのキャラクターそのものだった。そんな彼女が現実にこうやって僕の目の前に立ち、僕と会話をしてくれている。

「ご、ごめん、ぶつかったかな」

ぶつかっていない事なんて分かっている癖に僕はデュフェフェフェと照れ笑いをしてみせた。すると彼女は、白桃の様に白い肌をほんのりピンク色に染めて首を横に振る。

「ううん、ぶつかってないよ。こうくん、優しいね」

日焼けして色褪せたカーテンの隙間から眩しい日差しがこのたった5畳の家を、そして僕らに祝福の光を齎してくれているみたいだ。

僕たちは一時の間、相手を慈しむ目で見つめ合いそして微笑みあった。

(ああ、どうしよう。幸せだ、幸せ過ぎる)

いつもは鬱陶しいだけの太陽の光も、このアニメグッズとゴミで溢れかえっている汚い部屋も、彼女が居てくれるだけで全てが幸福の象徴の様に見えた。

「あ!いけな〜い」

彼女はくりっと目を大きく見開くと、慌てて台所へと向かっていく。きっと鍋の火をかけっぱなしにでもしていたのだろう。僕の口元からまた笑みがこぼれた。

しかし、なぜアニメキャラクターのららちゃんが僕の家に現れたのかというと、実の所僕にも全く分からなかった。




昨日バイトを終えて帰宅すると僕は驚きのあまりコンビニのレジ袋をストンと足元に落としてしまった。

「え…?なんだ??」

制服姿の髪の長い美少女、アニメキャラクターのららちゃんが僕のベッドの上で体育座りをしていたのだ。一瞬抱き枕かポスターか何かかと思ったが、それにしては立体すぎるし、そもそもベッドの上にそれらを置いた記憶なんてない。どういう事か必死で理解しようと玄関で呆然と立ち尽くしていたが何も理解出来ない。呆然と立ち尽くしていると、彼女が二本の足で僕に歩み寄り、小さな唇を動かし言葉を発してきた。

「こうくん、寒いから早く上がりなよ」

そう言って僕の手を掴んだ彼女の手は、柔らかくスベスベとしていた。あれは、あの感触はポスターなんかじゃなければ、立体映像でない。しかも僕はお酒が一滴も呑めないので酔っ払ってなんかいない。

彼女に言われるままに靴を脱ぎ部屋に上がってみたものの、僕は頭でもおかしくなったんじゃないかと酷く混乱してしまった。

「ごめんね、いきなりでびっくりした?」

彼女の問いに答える事が出来ず、一重まぶたの小さな目で精一杯彼女を見つめる。

「そうだよね、驚くよね」

胸の辺りまである髪を指先で弄びながら彼女はまたベッドに腰掛けた。

(ど、どうなっているんだ!?彼女はアニメのキャラで、でも今、僕の目の前に居て…どういう事だ???)

僕は部屋の真ん中で上着も脱がず、言葉すら発せず、放心状態で突っ立っていた。

「こ、こうくんも立ってないで隣座ってよ〜。あ、この台詞私が言うのはおかしいよね、ここはこうくんの家なんだから」

ペロっと舌を出してイタズラっぽく笑うららちゃん。しかし、そんな可愛い表情をされても僕の頭は真っ白過ぎて口をパクパクと動かすのが精一杯だ。

「え、えっと、まず何で私がここにいるか説明した方がいいよね?」

上目遣いで少し首を傾ける彼女に、あかべこの様に首を何度も縦に振り返事をする。

「あのね、私こうくんにお返ししたくて、それで神様に何度も何度もお願いしたのね。そしたら何と神様が叶えてくれたの〜」

(わからん…全然分からん…)

恥ずかしそうに手で顔を隠しながら言う彼女には申し訳ないが僕は無反応だった。

「こうくんがしてくれた事、私忘れないから、絶対」

なんて綺麗な目をするんだろう。しかし、僕はそんな目で見つめて貰える様な人間ではない。残念ながら。しかも、彼女にしてあげた事とは一体なんの事を言っているのか。

(DVD全巻コンプリートとドラマCDを2セットずつ、それからグッズは全て買ったけど、そんなヤツ秋葉原に行けば腐る程いるよな…)

彼女が出てくるアニメはかなり人気があり、DVD売り上げランキングの上位に食い込める程である。つまり、僕みたいなヤツは全国に何万人といる筈だ。

(もしかしてその何万人もららちゃんと一緒にいるのかな?だとすると、誰かネットに情報を上げてそうだけど…いや、いや、そんな記事をアップしたら頭がおかしい呼ばわりされるだろうから皆あえて黙っているかもしれないな…)

そもそも自分が今見ている事をネットに上げるかと言われたら絶対に上げない。でも、世の中には叩かれる事が分かっていながら自慢記事をアップする奴も居る。

(こんな風に制服を着た女の子が自分のベッドに座っているなんて。自慢したいに決まっているよな)

僕はジャンバーのポケットに入っているスマホを取り出しながらごくりと生唾を飲んだ。何にも分かっていない彼女は唇に人差し指を当てて小首を傾げていた。

(もうららちゃんにあんな事やこんな事をしているヤツもいるのかな〜くそー羨ましい!!!)

こんな非常時でも邪な事を考えてしまうのは、決して僕が卑猥な人間だからではない。これは男の性ってやつだ。

(証拠写真とかいってららちゃんのえっちな写真をアップしているヤツとか居たりして。っていうか見たい!アップしてくれ!)

どこまでいっても僕は究極の2次元ネット人間なのだと我ながら感心する。ららちゃんが目の前に居るというのに彼女を放ったらかして、鼻息を荒らしながらスマホでネットサーフィンを始め、しかも夢中になっていた。そして、検索すること十分少々。

(あれ?誰もアップしていないぞ。やっぱり皆叩かれるのが目に見えているからかな?)

僕の予想は見事に外れ、どれだけ検索してもそんな記事は一件もヒットしなかった。

「ねぇねぇ、さっきから何をしているの?」

「えっ!??」

ふいに声を掛けられ慌てて横を向く。すると、ネットに夢中になって気がつかなかったが、いつの間にかららちゃんが僕の隣に立っているではないか。小柄な彼女は僕の腕にしがみ付いて背伸びをし、スマホの画面を覗き見していた。

(わっ、そんなに近づいたら胸が当たっちゃうよ。いや、当たって欲しいけど)

「なんだ、他の人も私と会ってないかって思っているの?こうくんったら」

彼女は掴んでいた手を離し、それを腰に持って行くとぷんぷんと怒っている様な仕草をしてみせた。

(ちぇっ、離れちゃったよ)

「私はこうくんに会いにきたんだよ!こうくんだけに決まっているでしょ!」

そう言い終わった後に彼女はハッとなって顔を真っ赤に染め、そして恥ずかしそうに俯いてしまった。

(僕だけ!?僕だけに…ああ、きっと人生で初めて言ってもらえた台詞だ)

「あ、あ!そうだ〜こうくんお腹減ってない?」

照れ隠しなのだろうか、急に彼女は全く違う話題を振って来た。

(もしかして何か作ってくれるのかな。アニメの中のららちゃんは料理上手だったしなー)

僕は一瞬期待に胸を弾ませたが、バイトの帰りに激安ラーメンでメガ盛りを食べてしまい胃は破裂寸前だった事を思い出した。とてもじゃないが今の僕の胃には水一滴分の隙間すら空いていない。ここは断腸の思いで首を横に振った。

「そっか。あ、じゃあ、明日朝ご飯作ってあげるね〜それからさ、2人でどっかお出かけしようよ」

「え!?お出かけ??」

女性とデートをした事が無い僕にとってそれはあまりにも嬉し過ぎる提案だったのだが、しかし、彼女が歩いている姿を見て周りの人間はどう思うのだろう。等身大フィギュアを連れて歩いている変態だと思うのか、立体映像だと思うのか、だが、どちらにしても完全にそれは人々の注目を嫌な意味で集める。

「い、嫌かな?」

潤んだ瞳で、眉を下げながら僕を見つめてくる彼女。その姿を見て嫌なんて言える筈もない。

(どうせ何にもしていなくても気持ち悪いヲタだと思われているんだから、この際いいか)

パンチラキャラの紙袋を平然と持ち歩いている男が何を今更言っているのだ。しかも、彼女がこの先ずっと一緒に居てくれるという保証もない。それに、今後の人生で僕が女性と一緒に歩くチャンスがあるとも思えない。僕は開き直って首を横に振った。

「本当!?良かった!!じゃあ明日はデートだね!」

(昨日人生で初めて告白してフラれたというのに、捨てる神あれば拾う神ありとはこの事だな…)

しかし『昨日』という言葉を考えた途端、僕の背内に寒気が走った。それと同時に胃に激しい痛みが伴い、僕はその場にしゃがみ込んでしまった。

「こうくん!?大丈夫??」

心配そうにららちゃんが背中をさすってくれた。しかし、その優しさに感動出来る余裕はなく、冷や汗が止まらない。

「ベッドまで歩ける?」

何とか頷くと、彼女の手を借りながらフラフラと立ち上がり、そしてそのまま倒れ込む様にベッドに体を預けた。ベッドで横になる僕に彼女は優しく毛布をかけてくれた。

「また明日ゆっくり話そうね、こうくん」

彼女の柔らかな声は僕をそのまま夢の世界へと誘ってくれたのだった。





そして今朝目を覚ましても、やはり彼女は僕の家に居てくれた。さらに、信じられない事に朝ご飯まで作ってくれている。

エプロン姿の女子の後ろ姿は男心を最高にくすぐるものだ。ベッドに座ったまま僕はニヤつきながら彼女の事を上から下まで舐め回す様に見つめていた。

(ああああ、可愛いなー。後ろから抱きつきたいなー)

「あ、そうだこうくん」

「は、はい」

邪心にまみれていた僕は思わず姿勢を正した。

「今日、お出かけ出来そう?一緒に外を歩きたいな〜私」

その台詞に僕は多少の違和感を感じた。優しい彼女の性格から、昨日あんな風に倒れた僕を気遣って今日はお家でゆっくりしてようとでも言ってくれるのかと思ったのだ。

(でも、ららちゃんとデート出来るなら何でもいっか)

こくりと一つ頷く。それを見て彼女は嬉しそうにはしゃぐとさっそくとばかりにエプロンを外した。

「じゃあ、私は準備をするからお風呂場借りるね」

そう言って彼女が一歩進んだ瞬間僕はすぐさま立ち上がり声を張り上げた。

「待って!!!」

それは叫びとも悲鳴ともとれる様な声だった。彼女の足が止まり、困惑した様な表情で僕を見てくる。

「あっっ。ご、ごめん」

「ううん、お風呂場借りたらまずかったかな?」

僕は何も答えなかった。

「そんなに嫌だったんだ。ごめんなさい、実は私昨日寝る所が無かったからお風呂場で寝ていたの。ごめんね、知らなくて」

「えっっっっ!!」

(お風呂場で寝ていた???!!!どういう事だ?どういう事だ!??)

頭の中で地震が起きている様にグラグラする。体からは一気に血の気が引き、末端が冷たくなったのを感じた。

「ねぇ、お風呂場に行ってもいい?ちょっと着替えるだけだから良いよね?」

彼女の口調から柔らかい印象が消える。気のせいだろうか、目つきもどことなく険しくなった様な気がした。しかし、何が何でも風呂場に行かれては困る。僕は慌てて再び彼女を止めた。

「う、後ろ向いているから。だからここで着替えてもらっちゃダメかな。絶対見ないから、絶対。約束するよ!」

「なんでそんなに嫌なの?昨日も借りていたのよ」

そう言って彼女は僕の言う事を無視し、そのまま風呂場へと向かってしまった。

(止めなきゃ、止めなきゃ、止めなきゃ)

ガチャっと風呂場のドアノブを彼女が回す。

「ダメだ!!!開けちゃダメだ!!!」

叫ぶ様に言うと、彼女はゆっくりとこちらを振り向いた。その刺さる様な鋭利さを持つ冷たい眼差し。それは、とても先程までと同一人物には思えないものだった。

「覗いちゃ駄目よ、こうくん」

思わず言葉を失った僕を置いて、彼女はそのまま風呂場に入りドアを閉めてしまった。

(まずい、まずい、まずい!!)

僕は全身汗でびしょ濡れになりながら彼女を追う様に風呂場のドアの前に向かった。ドアは磨りガラス風の造りになっており中は見えない。

(もう見ている、見ているに決まっている。でも昨日も見た筈なのに彼女は普通だった…どういう事だ!?)

ドアノブに伸ばす手がガクガクと震えている。震える手で何とか僕はドアノブに手を掛け、回した。

ガチャ

少しだけドアを開けると、隙間越しに見えたのは瞼が裂けて眼球がむき出しになる程見開かれたららちゃんの目だった。その目の中には憎悪がウジ虫の様に這い回っている。

「ひぃぃぃっっ」

「覗いちゃだめって言ったのにぃ、駄目じゃないこうくーん」

にたぁと赤い唇が左右に広がる。そして不気味な笑いを浮かべたまますぅっと彼女の姿が消えてしまった。

「ひぃっっ、はぁはぁはぁ」

心臓マヒを起こしそうな程息を荒らし、だがそれでも僕は中の様子を確認する為に風呂場を覗いた。どうしても確認せずには居られなかったのだ。

「ひっ」

自分がやった事の癖に思わず悲鳴が溢れた。

(や、やっぱり!やっぱり居るじゃないか!!!)

狭い風呂場には小さな真四角の湯船があり、その中には首がだらりと折れた20代後半の全裸の女が入っていた。肌は絵の具で塗った様に青紫色をしており、目は見開かれたままでドロリと眼球がこぼれ落ちそうだ。浴槽からはみ出ている手の指は何本かあらぬ方向に曲がっていた。

「思い出した〜私のこと?あんた、私を殺した後も平然とバイトに行っているんだもん、ビックリしたわ〜」

背後から声が聞こえビクっと体が揺れる。多分ららちゃんが居るのだろうが僕は恐ろしくて振り向く事が出来なかった。

「ストーカーしてフラれた腹いせに殺した女の死体を堂々とそのままにしていられるなんて凄いわねー。あれ、こんな所にノコギリが落ちているけど、もしかして私の体をバラバラにしようと思ってお風呂場に入れていたのかしら〜?」

僕の足元に置いてあるノコギリを今初めて見つけた様にわざとらしく彼女は言う。

「大好きなららちゃんとならアホ面さげて外に出ると思ったのに、ざんねーん。あんたをさらし者にするのは諦めるわ」

ピンポーン

「ひぇっ」

突然、部屋の呼び鈴が鳴ったので体中の臓器が全て飛び出してしまいそうになった。

「あ、そうそう、昨日勝手にあんたのスマホ借りたわよ。私、妹と同居しているでしょ。妹が心配しているだろうから監禁されています、助けてってメールを送っておいたのよ」

ドンドンとドアを叩く音がする。手足は震え出し、僕の頭の中ではある言葉だけが支配していた。

(終わりだ終わりだ終わりだ終わりだ終わりだ終わりだ終わりだ終わりだ終わりだ、僕はもう終わりだ!!!!!!!!)

その後は何を考えていたのか全く記憶にない。空っぽの頭で置いてあったノコギリを手にして玄関まで向かうと、扉を開いた瞬間に相手めがけてノコギリを力の限り振り下ろした。

ゴキィ

鈍い音をたてて、ノコギリの歯は呼び鈴を鳴らした人間のちょうど首と肩の間に刺さった。

「こ、こ、こうすけ…」

シミだらけの手が弱々しく伸ばされる。

「え………」

なんと僕が刺した相手は彼女の妹なんかではなく、近所に住む僕の母親だったのだ。

「ぎゃはははははーーーごめん、ごめん、私間違えてあんたのお母さんにメール送っちゃったみたい」

お腹を抱えながら、僕の後ろでららちゃんが笑い転げていた。

「あーお腹痛いー。あ、お母さん怪我しているから救急車呼んであげるわね」

彼女は昨晩僕のポケットから勝手に取り出していたスマホで電話を掛け始めた。先ほどと打って変わって彼女は怯えた様な声色を使っている。

「あ、もしもし、警察ですか?今、男の人がノコギリを振り回して、それで女の人が怪我したみたいなんですけど、ええ、ええ、住所は....」

電話を済ませると、彼女は「あっ」と声をあげて舌をペロっと出してみせた。

「ごめ〜ん、間違えて救急車じゃなくてパトカー呼んじゃった」

そして耳鳴りの様な笑い声を一頻りあげると、ららちゃんはすぅっと姿を消してしまった。

残ったのは、全身汗だくで放心状態の僕と、目の前で血を吹き出しながら痙攣している僕の母と、それからお風呂場の彼女の遺体だけだった。


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