差異
思考の違い。
警備計画会議から一夜が過ぎた。まだ完全に陽が昇っていない朝早くから部隊は動き出していた。
沙耶の身辺警護を務める恵と瑠奈。朝が苦手な恵はフラつきながらも身支度を整える。制服を着るが、スカートではなく黒のパンツスーツだ。女子生徒が身辺警護を行う際は、大抵の場合パンツスーツを穿いている。ネクタイやリボンはせず、ショルダーホルスターを装着する。生地の薄い夏用の上着を着る。ボタンはかけない。服装だけ見ればSPとなんら代わりない格好だ。
着替え終わった瑠奈は、いつもツインテールにしている髪を一つに束ねてポニーテールにしている。その隣で、ララはホットパンツにTシャツの私服に着替えていた。ようやく制服を私服にする習慣――ドイツIMI所属期は私服や寝間着代わりに制服を着ていた――はなくなったらしい。
「今更だけど、警護任務ってやったことないわね」
「えっ? そうなの~?」
意外な発言に瑠奈は少し驚いて向きを変えた。それでも手の動きは止めない。
ララは小さなリュックに拳銃と弾薬、医療キットなどを入れる。ホルスターに入れて装備してしまうと目立つ為の配慮だ。
「ほら、ドイツIMIの時の私って扱いづらかったでしょう」
「それ自分で言っちゃうの~」
「私の好き嫌いもあったのよ。警護任務なんて警護対象に気を遣ったり、チーム行動しないといけなかったから。単純な話では通らない。だから制圧任務や殲滅任務なんていう、単純な任務しかやってない」
「ん~……複雑かな~?」
「ええ。それに、赤の他人の為に命を投げるなんて、私には到底できなそうなことよ」
ララの本音は見事に的を射ている。出会ったばかりの知らない人間の為に一日中警戒して、時には命を投げる。気を遣わなければならないし、理不尽なことが多過ぎる。
「だから、そういうことが出来る瑠奈と恵が、ちょっとだけ羨ましい」
自分が出来ないことを二人は出来る。言葉通り、ララは瑠奈と恵を羨ましいと思った。
準備を整え、瑠奈は荷物を持ちララと部屋を出る。エレベーターで降りている途中で恵と合流。身なりは整っていたがまだ眠そうにしていた。
一階ロビーに降り、寮を出て食堂へ。瑠奈と恵は手早く朝食を済ませ、普通科校舎へと向かった。職員室に寄り、長谷川と軽い打ち合わせを行う為だ。
残ったララは時間をかけて朝食を摂る。食べ終えて部屋に戻り、荷物を持って再び一階ロビーへ。
新聞を読んで暇を持て余していると、予定時間に智和から電話が掛かってきた。今出ることを伝えて電話を切る。
外に出ると、日陰となっている場所に智和が立って休んでいた。ジーンズにTシャツの私服姿で、黒いOAKLEYのサングラスをかけていた。
「まだ揃ってないようね」
「強希は今来た」
寮の前に一台のセダンが停車。運転手は強希だ。今日の為に車を手配してきた。
そしてもう一人。男子寮から新一が欠伸をしながら出てきた。髪は少し伸び、紫色の他に明るい金色のメッシュをしている。
三人は車に乗る。車を走らせながら、強希は新一の髪を見て口にした。
「お前の髪は奇抜だな」
「いやー、紫から金に変えようか迷ったンスけど、別に注意されないからいいかなと」
「というか、何でしようとした?」
「アニメの影響?」
「クソくだらねェ理由」
どうでもいい理由に強希は馬鹿馬鹿しくなった。ララも同じように呆れていた。
車はIMIの正面入口から出発。朝が早いのでデモ隊はおらず静かなものだ。
強希が警備員に許可証を提示している間、助手席に座る智和はゲート付近にいる憲兵科の生徒を見つけた。その女子生徒が生徒会の腕章を付けており、知り合いでもあったので窓から顔を出し指笛を鳴らした。
振り向いた女子生徒は智和だと気付くと笑顔になり、早足で車に駆け寄ってきた。
「おはよう、神原君」
「相変わらず生徒会は難儀な役回りだな、夏樹」
琴美のように髪が長く、柔和な表情の山本夏樹は高期憲兵科一年であり、生徒会の一員でもある。生徒会所属ではあるが、他の部隊と仲良くしている数少ない人材だ。
夏樹と数名の生徒は、デモ隊対応の為にゲートに立っている。その原因が自分達にあるのだが、この通り夏樹はなにも気にしていなかった。
「まぁね。神原君達は早くから任務?」
「ちょっと回ってくるだけだ」
後部座席の窓が開き、ララが冗談混じりに言う。
「見えない人間と向き合ってて楽しい?」
「見える人間よりは楽かな。おはよう、ローゼンハインさん。服、似合ってるよ」
「ありがとう。まだゲートに立っているの?」
「私の班は終わり。さっき別の班が来たから交代する」
「対応はまだ続くのか?」
「落ち着いてきたから対応は数日で終わるって会長が言ってた。ようやく夏休みに入れるよ」
「それは良かった」
ふと、智和は夏樹の両手に包帯が巻かれていることに気付いた。歩いてくる時や会話中、今まで後ろに組んでいた為に気が付かなかった。
「その手、どうした?」
言われた夏樹は一瞬「あ」とばつが悪そうにしたが、誤魔化せないとわかって苦笑いした。
「対応中にね、ゲートの金網や有刺鉄線に針金とかパイプを絡ませることがよくあるの。絡まってた物を取ってたら、手元滑っちゃって有刺鉄線で切っちゃった」
「それってデモ隊側の責任追及にならないの?」
「まぁ、掃除してたら怪我したって感じだから仕方ないかな」
「……悪いな。騒ぎ大きくした俺達が言う言葉じゃないが」
「気にしなくていいよ。これも仕事の一つだから。それに、神原君達にしかできないことが沢山あるから、そっちを頑張って。私もできるだけ協力するよ」
無関係である筈の夏樹からその言葉を聞いた智和とララは、自然と笑みがこぼれた。まさに彼女らしい考えだ。
「ああ。それじゃ」
軽く手を振って夏樹に挨拶。車は銃撃戦が行われた現場へと向かっていった。
――――――――――――◇――――――――――――
普通科校舎に到着した瑠奈と恵は職員室に直行する。夏休みとは言えど教師が数人いた。その中に長谷川や、瑠奈のクラス担任の平岡雅美もいる。
歩いてくる二人に長谷川が気付き、平岡も顔を上げた。
「草薙さん、新井さん。おはようございます」
挨拶を返す二人に長谷川は簡単に打ち合わせを始める。嫌と言うほど会議したので理解しており、書類などはない。
《リスクコントロール・セキュリティ社》と合流次第、警護対象の移動を開始。それから各チームに別れて任務を行う。内容については今更話す必要はない。
手短に打ち合わせを済ませ、机の周りを片付けた長谷川は残っていたコーヒーを飲み干す。
「では平岡先生。姿は見せますが、当分の間は任務指揮の為に席を空けます」
作業を止めて向きを変えた平岡は「わかりました」と笑顔で答えた。
「そういえば、長谷川先生は《戦闘展開部隊》所属訓練の女子担当でしたよね。そちらは大丈夫なんですか?」
「担当者会議にはなるべく出席したいですが厳しいですね。林先生には既に話しています」
「そうですか。無理しないようにお気をつけて。二人も頑張ってね」
「はい」
「頑張りま~す」
平岡から励ましの言葉を貰い、三人は職員室を出ていった。
普通科校舎を出た三人は駐車場へ。長谷川の愛車であるランサーエボリューションに荷物を押し込めている時、数台の車が向かってきた。
メルセデスのSUV一台にフォードのエクスプローラーSUVが二台。スモークガラスで車内はわからないが、誰が来たかは三人理解している。
隣に停まり、降りてきたのはスーツと私服の男女――メルセデスSUVからはスーツ姿、エクスプローラーSUVからは私服姿――だ。
その集団の中には誠二とホワイトの姿があった。共にスーツを着ている。
「時間通りだな」
「正面入口にデモ隊がいなくてな。楽だった」
長谷川の言葉に返した誠二はサングラスを掛ける。同時にスーツを着たチーム全員も掛けた。
《リスクコントロール・セキュリティ社》からチーム十五名。ここにいる全員とは言わないが、ほとんどが軍隊や警察出身の人間だ。それも部隊に所属し、優秀な成績や功績を持ち、称賛されるような人間ばかりである。
そんな者達を目にして、瑠奈と恵の気が引き締まってくる。IMIの特殊部隊と言えど、本物の特殊部隊だった人間と行動するのだから。更には誠二と一緒に任務を行うことも、緊張する原因の一つだった。
二人の様子を知ってか知らずか、誠二は長谷川との会話を続ける。
「恵と瑠奈を対象に付けるのはいいとして、運転を対象の付き人に任せていいのか?」
単純に、千香に車を運転させるべきか否かの問いだった。移動中の対応が出来るかどうか、悩みの一つでもある。
「今からでも運転手を変えるべきだ」
「理解はしている。だが対象がそう望んで頑なに譲らない。一応、そういった訓練は積んでいると聞いた。後でスキルを見るしかない」
「わかった。現状維持でいい。何かあったらこちらで対応する」
「ああ。時間だ。迎えに行くぞ」
時間を確認した長谷川の一声で、各自車に乗り込む。
長谷川のランサーエボリューションを見た誠二が、助手席を見て笑みを浮かべた。
「IMIのネットサーバーに通信機能も搭載したおかげで、助手席乗れないぞ」
「椅子を目一杯下げれば入る」
「もうパトカー買っちまえよ」
「智和にも言われたよ。クソ」
似たようなことを言われ、更には小馬鹿にされた気がした長谷川は悪態ついて運転席に。瑠奈と恵は狭い後部座席に座る。乗り込み、四台の車は黒井沙耶のいる平屋へ向かった。
――――――――――――◇――――――――――――
卵が焼ける甘く柔らかい匂いに誘われて、沙耶はゆっくりと目を覚ました。
体を起こし、ここが家ではなくIMIの施設だと思い出す。疲れが残っているせいか少し怠く、布団を除けてしばらく項垂れていた。
昨日の出来事を思い出す。襲撃事件に巻き込まれ、助けてもらったとはいえ成り行き任せでIMIに身を置いてしまった。父親の祐一や会社の人間には話したが、他の者には一切何も伝えていない。
情報共有はおろか情報収集すらままならないこの状況に、疲労も相俟って苛立ちを覚えた。頭を掻いて、とりあえずシャワーを浴びたいと着替えを持って部屋を出た。
リビングに出ると、既に起きていた千香と真奈美がキッチンで朝食を作っていた。
千香が気付くと「おはようございます」と挨拶。真奈美も振り向いて挨拶し、沙耶も「おはよう」と挨拶して浴室へ。
シャワーを浴びている間、今日すべきことを思い出す。まずは家族へ、そして会社への状況説明。次に訪問する予定だった会社への謝罪と今後の確認。
だが、その前に。
身代わりで死んだ広永の両親が遺体確認をする。その付き添いをしなければいけない。
IMIは立ち会わない方が良いと言った。確かに沙耶も広永の死体を見たくない。両親が悲しむ場面も見たくない。罵詈雑言を浴びせられるのが怖い。
それでも立ち会わなければならないと自分で決めた。彼女は自分の為に死んだのだから、自分がいなければならない、と。
そう考えると、やっぱり怖くなって体が震えてきた。なんとか我慢してシャワーを止め、丁寧に髪を乾かし、いつもの制服に身を包んで身支度を済ませた。鏡を見ると、いくらか表情が戻っていた。
リビングに戻り、用意された朝食を二人と一緒に済ませる。荷物を纏め、いつでも施設を出られるように準備した。真奈美が掃除もする。
テレビで昨日の出来事のニュースを見ているとインターホンが鳴った。千香が確認し、長谷川と誠二が入ってくる。
「こちらでするので、掃除しなくても良かったですよ」
「いえ。これも仕事ですので」
真奈美が軽く会釈する。言葉では仕事と言っているが、彼女にとっては日常なのだろう。隅々まで掃除され、使用前より綺麗にされていた。
「予定を確認します。遺体確認に立ち合った後、まずは自宅に戻り、その後ご家族へ訪問。次に会社と、取引会社へ訪問。よろしいですね?」
「はい。おそらく、今日一日か二日は状況説明をしなければならないでしょうから」
長谷川や誠二の本音としては、任務開始から数日はあまり行動させたくなかった。練りに練ったとはいえ、最低でも自宅周辺の安全確保や準備を進めたかった。
既に自宅周辺を《リスクコントロール・セキュリティ社》の社員が、日常生活を装わせて確認と監視を行っている。今のところ目立った報告はないが、そもそもの話、あれば犯人を簡単に見つけて事件そのものを解決できているのだが。
準備ができているとのことで早速、三人の荷物を《リスクコントロール・セキュリティ社》の社員がベンツSUVに積み込む。一日も経たずに修理されたメルセデス・ベンツに千香と沙耶、真奈美が乗る。長谷川の先導でまずは病棟校舎へ向かった。
病棟校舎には《リスクコントロール・セキュリティ社》の人間は行かず、長谷川と沙耶、千香の三人だけで病棟校舎の遺体安置所へ。
遺体安置所の受付には既に広永の両親がいた。沙耶が会釈するが両親は無視して安置所へ。三人も後を追うように入る。
衛生科教師が広永の遺体を見せる。チャックを開けた瞬間、両親は酷くショックを受けていた。なんせ、頭を吹き飛ばされたのだから。
「どうして」
泣き崩れた母親が沙耶に掴みかかって叫ぶ。千香が離そうとするが沙耶は制止させた。
「どうしてアンタが死ななかったの? 何で明美が死ななきゃいけないのよ!?」
その通りだ。広永が死ぬ理由などない。ただ運が悪かった、としか言い様がない事実。それを伝えたところで、ただ逆鱗に触れるだけだ。
長谷川が母親を離させる。震えながらも、沙耶は深く頭を下げた。
「申し訳ございませんでした」
それで許される訳ではない。母親が暴れるが長谷川が強引に離す。今まで広永を見つめていた父親が振り返り、沈んだ目で沙耶を見た。
「そう言うしかないのはわかっています。しかし、それで片付けられる訳ないんです。貴方の顔なんて見たくない。出ていってください」
冷たい拒絶を受けながらも沙耶は頭を上げようとしなかった。千香が部屋から出るように促して、ようやく背を向けて歩き出す。
振り返ることはしなかった。父親は泣き崩れている母親の肩に手を置き、優しく抱き締めた。それを見るのが怖かった。
拒絶がこれほどまで辛い。沙耶の予想以上に重く、こたえた。それでもなにも言わず、なにも言えず、病棟校舎を後にした。
現場に居合わせていない真奈美ですら、何を言われたのか理解できた。見かねた千香が声をかける。
「お嬢様。こう言ってはなんですが、あまり、気にしない方が良いです」
言葉を濁したのは、千香も辛かったからだ。彼女も広永と親しく、囮役に進んでなったとはいえ決定を下したのは千香本人だ。沙耶ばかりが拒絶される道理はない。
それを汲み取り、沙耶は「ありがとう」と微笑む。
「それでは、私は離れます」
あえて口を挟まなかった長谷川は様子を伺い、機会を見つけて発した。
「ここから、正確にはIMI敷地外へ出た瞬間から、本格的な警護任務を開始します。打ち合わせ通り、沙耶さんと千香さんの車に新井恵を。真奈美さんを草薙瑠奈と共に《リスクコントロール・セキュリティ社》の車に乗せて自宅へと移動させます。その後の行動も打ち合わせ通りに」
「わかっています。あの、聞いても良いでしょうか?」
「何でしょう」
聞こうか聞かないか少し迷ったが、気になってしまった為に結局聞くことにした。
「他のチームの方々は何をするのでしょうか? 昨日の会議では、他のチームの方々が何をするか知らされていなかったので……」
「一括りにはできませんが、準備を兼ねた情報収集と言いますか。それをしています。ご不満ですか?」
「いいえ。ありがとうございます」
「そろそろ時間です。作戦開始」
最後の言葉は沙耶達に向けられたものでなく、恵と瑠奈、誠二と《リスクコントロール・セキュリティ社》の人員に向けられたものだった。
たった一言で目付きが変わる。人が変わる。空気が変わる。
打ち合わせ通りに乗車し、敷地内という安全な檻から、いつ爆発してもおかしくない危険地帯へと帰っていった。
――――――――――――◇――――――――――――
智和達四人は情報収集として、昨日の戦闘があった場所へと向かう。池袋駅の無料駐車場に車を停めた。
「しッかし、乗りながら回るッては考えねェンだな。勿体ねェ」
徒歩での移動に強希は苦言を漏らす。ララは溜め息を漏らして呆れている。
「当然でしょう。情報収集なんだから蔑ろにできる訳ない。それに、IMIだとバレないようにするのだから運転してる所は警察に見られたくない。それとも、駐車違反で注意されたいって訳?」
「生憎と未成年に見られないガラの悪さでな。それに無事故無違反だ」
「最後の言葉の説得力がまるでないわね」
IMI公認のドライバーだとしても、強希の無事故無違反という言葉は違和感しかない。結局、バレなければいいのだ。
途中に自動販売機を見つけ、智和が全員分の飲み物を奢った。ララにアイスティー、強希にブラックコーヒー、新一と自分にコーラを買った。
隊長からの奢りに三人は礼を言ってから飲む。ふと、新一が尋ねた。
「智和さんって、そういう時には学生証使わないッスよね。敷地内は学生証の電子マネー機能で全部だけど、敷地外だとわざわざ下ろしてる」
「学生証は個人情報満載の万能物だぞ。今のネットワーク社会、どこから漏洩しても不思議じゃない。IMIも然りだが、そこら辺より安心だろう。お前が聞くか、それを」
「いやいやー。やっぱり智和さんはしっかりしてるなーと思っただけッスよ。学生証落とすような馬鹿とは違うッスね」
新一の発言に強希は些か不機嫌になった。
「じゃあ俺は馬鹿かコラ」
「強希さん落としたことあるンスか? へー。馬鹿で間抜けッスね」
「煽ッてるッてことは喧嘩売ッてるンだよな、オイ?」
火に油を注いだ場面を見て、ララは再び溜め息を漏らして呆れた。隣に立つ智和には言わなかったものの、この二人を同行させて上手くいく気がしなかった。
「そんな顔するな」
表情だけでララの心情を汲み取った智和は続ける。
「強希は運転に関してはヘマをしない。新一の知識はこの先、必ず必要になる。誰も欠けることはできない」
「貴方の期待はわかってるわよ」
ララはアイスティーを一口飲む。
「智和の人選は疑ってない。あの二人を信頼してることも。私はああいったことはできないし」
「何言ってる。ララも信頼してるぞ」
さも平然と、智和が真面目な顔つきで言う。その表情と言葉で、ララは思わず「えっ」と聞き返し呆気にとられた。
「信頼してない奴に補佐なんか頼まない。お前だから頼んだ」
言葉の意味通りだ。
智和は認めている者に然るべき役割を与える。適切かどうかもあるが、実力が備わっているかよりも信用に足りるかどうかを基準に置くのだ。
信用できる仲間の実力など把握済み。ならば、一番身近な場所に置くのは当然のことである。
それを聞いたララはしばらく目を丸くしていた。
「……なんか真正面から言われると凄くむず痒い」
「おい」
滅多なことを言わない相手だからこその反応だった。
「でも嬉しい。ありがとう。期待に応えられるよう頑張るわ」
「充分だよ」
改めて仲間の一員だと認識したララは礼を言う。アイスティーを飲んで顔を背けた際、嬉しさで思わず笑みがこぼれた。
そんなやり取りをして数分。四人のもとへ何者かが近づいてきた。
足音はなかった。だが周囲を行き来する人の群れとは明らかに違うことをララは感じ取った。悪寒が走るあの感覚だ。
睨み付けるように振り向いたその先に、ジーンズとブラウスのような七分袖のカジュアルシャツを着た少女が立っていた。
背はララより低く、東欧人とアジア人が混ざったような、もしくはどちらとも思えるような見た目。幾らか東欧寄りで肌も白い。端正で幼さのある顔立ちに、眉が細く伏し目がちの目。ショートカットの髪は暗い茶色に染められている。スレンダーな体型だが、華奢というよりは引き締まっている。
ここまでは普通だった。違うのは少女の瞳である。彼女の目は“死んでいた”。
年端のいかない少女がしてはいけない濁った瞳。この世のどうしようもない真実を見続けたが故の、絶望しきったような、酷く、悲しそうな目をしていた。
そんな目をしていたものだから、ララは戸惑った。先程まで感じていた悪寒がふっと消え、どうしていいのかわからなくなった。
「お待たせしました。遅くなってすいません」
綺麗な日本語で少女は話す。どうやら敵意もない。少女に気付いた強希と新一は口喧嘩をやめて挨拶する。
困惑しているララを見て、智和は説明した。
「《リスクコントロール・セキュリティ社》からの情報収集係だ。会議で話した」
「……え? 彼女?」
ララの困惑はごもっともだ。なんせ自分と同じ、もしくは年下にしか見えないのだから。
「はじめまして。《リスクコントロール・セキュリティ社》より来ました伊藤みくです。よろしくお願いします。ララ・ローゼンハインさん」
少女――伊藤みくは丁寧にお辞儀して挨拶した。
「遅れてきた分際で恐縮ですが、早速行きましょうか。お互い、時間はあまり余裕ないかと」
みくの意見に納得して移動を始める。未だにララが怪訝な表情をしていた。
五人は現場へ。近くで銃撃戦も行われた為か一帯が封鎖されていた。銃撃戦の現場に用はなかった。あるのは狙撃された現場だ。
近くに行けないので、ビルの屋上から観察することに。前以て調べておいた雑居ビルの階段を上がり、屋上への鍵を強希が手慣れた手つきで壊して侵入。こういった手癖の悪さだと強希は一枚上手だった。
予想通り、少し離れているがよく見える。智和と新一が双眼鏡で現場を覗く。とはいえ、ビニールシートで隠されている為に見えづらい。
「無人航空機持ってくりゃ良かった」
「警察相手にそこまで喧嘩売るつもりはないッスよ」
智和はララに双眼鏡を渡す。現場が見えないとなれば、次に確認すべきことを優先させるだけだ。
どこから狙撃したか。ある意味、これが今日の調査目的だった。
狙撃された瞬間を、沙耶のボディーガード達が覚えていた。申し訳ないが事細かに説明してもらった。新一に状況を整理させ、改めてどこから狙撃するかを問う。
新一は少し悩み、双眼鏡で周囲を覗く。そこである一点に動きを止め、双眼鏡を下ろして遠い建物を指差した。
「サンシャイン60。屋上展望台。そこからなら、いけるんじゃないッスかね」
早速、サンシャイン60へと移動した。
「どうしてサンシャイン60?」
移動途中、ララが問うと新一は素っ気なく答えた。
「狙撃された場所周辺は雑居ビルで障害物が多い。かといって直線で狙える訳でもなかった。道路は微妙に曲がってるッスからね。あと、死体の状況。頭が吹き飛ぶってことは7.62mm弾とは考えづらい――まぁ、7.62mm弾でも後頭部なら吹き飛ぶかもッスけど――。
障害物を少なくするには角度を変えて、更に距離が要る。となれば、サンシャイン60の屋上展望台あたりかと。サプレッサーでも付ければ銃声なんて聞こえないっしょ」
「弾頭から推測できるか?」
「無理じゃないッスかねー、多分。頭蓋骨貫通して、地面に当たって潰れたかも。そもそもあったら警察が回収するでしょ」
必要ならば警察から盗ってくる覚悟だったが、無理だとわかったので智和はその考えを捨てた。言葉にはしなかったが、ララは理解していて呆れていた。
エレベーターで上がり、また強希が鍵を開けて屋上展望台へ。
屋上展望台スカイデッキ。少し風が強い。すぐに新一は一番高い場所へ軽快に上り、今度は双眼鏡型のレーザー距離計で確認する。脳内で狙撃手を自分に置き換える。
距離は約910メートル。当日は右から左への横風、秒速4メートル。気温28度。
ぶつぶつ呟きながら距離計を下ろし、伏射姿勢へ。持ってきていないが、新一はライフルを構えているように手を添える。
曲射。12.7mm弾。そんな弾は使わない。スリムな弾。416バレット弾。違う。バレット自体がかさばる。もっとスリムに。やはり338ラプアマグナム。自分ならそうする。
M24A3カスタムライフルを構えている。スコープレンズ越しに標的が奥に歩いていくのが見える。冷たい引き金の感触が甦る。引き金を絞る。
ズドン。
それで終わる。一発で全てが終わる。
緩やかな曲射で流れるように弾が進み、吸い込まれるように命中。頭部を吹き飛ばしたのだろう。新一には、その過程が自分でしたような映像を脳内で作り上げ、それを見ていた。
「あー。スゲェ」
故に感服。称賛。“何だコイツは。化け物だ”。
「これが天才かぁ。いいなぁ」
羨ましい。相手は本物の狙撃手だ。新一は溜め息を漏らす。
だが諦めなどなかった。こんな狙撃をできる人間を初めて現実に感じた。恋い焦がれたボブ・リー・スワガーのような小説の人物が、ここにいた。
この狙撃手は天才だということがわかった。そして確信した。敵は一つの組織ではなく、集められた集団だと。
一つの組織でも統制は可能であり、時間と資金さえあれば一つの軍隊となることが可能だ。だが今回の敵は統制がない。一つの意思に纏められていない有象無象の集団。
一人がずば抜けていようが、周りが使えないガラクタであったら意味がない。宝の持ち腐れである。
とはいえ油断できない。この狙撃手の間合いは広すぎる。長距離狙撃どころではない。“超”長距離狙撃だ。
「智和さーん、警備計画見直しの提案でーす」
新一は嬉しそうにしながら梯子を降りる。
「警戒範囲を更に500メートル広げるべきッス」
「馬鹿じゃないの」
ララが即答した。
「これ以上広げるには人手がいない。そもそもヘリを呼ぶことになる」
「無人航空機飛ばせばいいッスよ。操縦者はIMIなんだし」
「……貴方、昨日のあれでよく言えるわ。撃墜されて、私達に責任転嫁されたのよ。今の東京都はピリピリしてる」
昨日の一件にて、使用していたグローバルホークが撃墜された。予想していなかったミサイルという撃墜によって、東京都には異常な雰囲気が漂っている。
自衛隊は表立って動きはないが、裏では動いている。監視されている可能性もある。
「それでも飛ばした方がいい」
だとしても、新一は退かなかった。
「相手がまずい。メチャクチャな奴がいるッス。こういう手合いはたまにいる。“どういう訳か当てられる”。そんな悪魔じみた奴が相手ッスよ」
「申請しておく」
智和は即座に判断した。狙撃に関して、この場にいる誰よりも新一が上だ。その人物がこれだけ言うのだから相手は異常なのだろう。
「敵の規模はどのくらいかと思いますか?」
みくが双眼鏡で襲撃現場周辺を観察しながら問い、智和が答える。
「まだはっきりとわからない」
「智和さんの見解でかまいません」
「……おそらく、いくつかの組織が共闘している可能性が高い」
「理由は」
「ムラがあった。初めは完璧な運びだった。狙撃による殺害直後、こちらのグローバルホークを発見していたばかりか撃墜までした。畳み掛けるように襲撃された。完璧な連携だった。
問題は俺達が合流した後だ。馬鹿みたいに追ってきて、馬鹿みたいに死人を増やした。指揮系統が百八十度変わった気がした。初めはAがやり、後はBが指揮したような感じだ。
Aの指揮は的確で、知り尽くしていた。完璧で、状況を把握していた。この手合いは理解している。無駄な時間・労力・リスクを計算している。だから引き際も弁えている筈だ。だがBは違う。数に頼ってただ力任せに押してきただけの人海戦術。戦術なんてありゃしない。ただ闇雲に兵を死なせる無能の指揮官だ。腹が立つ」
「状況報告書を読んだ時、私も同じような違和感を覚えました。指揮系統が統一されていない」
みくは双眼鏡を新一に返し、振り返りもせず街を見下ろし続けていた。
「しかし危険な相手には変わらない。そうでしょう?」
「ああ。場合によっては、指揮系統を統一させてくるだろう。新一の言う通りの化け物がいるのなら尚更だ」
「重要報告の一つですね」
冷静に考えてみれば、前半と後半に違和感を覚えた。
沙耶の狙撃からグローバルホークの撃墜。殲滅を狙った強襲。ここまでの一連の動作にタイムラグがなかった。実によく状況を把握し、手綱を握っていたのだ。
しかし後半は違う。からっきしだ。妨害された相手を執拗に追い掛けたばかりか、策もなしにただ闇雲に突っ走ってくるだけの力業。状況も見えていない。
おそらく指揮系統が変わったのだ。そうでなければ、あれだけの事はできない。
「戻ろう」と智和は退却を命じる。エレベーターで降りている最中も考えていた。
はたして、敵の規模はどのくらいか。
組織とは考えても、規模どこから名前すらまだわからない組織である。そこへ協力者が集まると考えるが、その人数すらわからないままだ。
「みく。会社で調査することは可能か?」
「可能ですが、こうも手掛かりがないと期待は薄いです。それに会社の人員に余裕はあまりないかと」
「こっちでなんとかする」
なかなか進展しない状況だが智和は苛立ちもしない。状況が進まないのは別に珍しくもないのだ。
「それでは一度、このあたりでお別れです。おつかいを頼まれているので」
サンシャイン60を出ると、みくは反対方向に歩いていく。すぐに人波の中に埋もれて消えてしまった。
「彼女、何者?」
みくがいなくなったことを確認し、ララは智和に聞いた。
「《リスクコントロール・セキュリティ社》の従業員……というのはまずいか。アルバイトみたいなものだ」
「隠せてないわよ。労働法守られてるの?」
「お前はズバズバ聞いてくるなぁ。守られてるし、あの人は年上だぞ。17歳。アルバイトみたいなものだよ」
「いや、そういうことじゃなくて……。彼女は、何者? こんな日常ではないし、私達みたいな日常で生きてるとは言い難いし、何て言うか……また違う世界の人間みたいで」
普通の日常で、あれだけ死んだ目をすることはない。例えそれが、人を殺すこととなるIMIにても同じだ。教育として、任務として、智和やララ達は染み込んでいる。
だが、みくは違う。普通ともIMIとも違う世界で生きてきたような気さえする。
そうでなければ、彼女はあれほど絶望していない筈だ。
上手く言葉に表せなかったが、智和はララの言いたいことを理解したらしく説明を始めた。
「中近東地域での宗教戦争で巻き込まれた子供兵なんだと。俺行ってないが、誠二さんが高三の時に任務参加した際に連れ帰ってきた。長い年数、戦ってたらしい」
「ああ。だから……」
納得したララはそれ以上を聞かなかった。宗教戦争、紛争などというものに参加したことはないが、そんな“ろくでもない事”を生き延びてきた彼女が、まともである筈などないと理解した。
事実、ろくでもなかった事しかないのだろう。他人事ではあるが、ララの知識ではそう結論付けている。
人を殺し、人を殺され、故郷を燃やし、故郷を燃やされ、思い出を壊し、思い出を壊される。ただ破壊と殺戮の円環でしかない。
政治的理由であろうが宗教的理由であろうが文化的理由であろうが、理由などそもそもなかろうが、結局行き着くのはそこだ。それしかない。
太古の昔から戦争の本質は変わらない。文明開化後もまた然り。単純な違いだ。剣で殺すか銃で殺すか。手段の違いだけだ。
みくもそうなのだろう、と。殺し、辱しめられ、燃やし、壊し。
あの瞳にはそれしかなかった。
「新一、方法を問わずに襲撃犯の確認できるか?」
智和の問いに新一は悩みながら答える。
「警視庁の街頭防犯カメラの映像だったり、自分達使ってた車内カメラから解析するとか。まぁ、昨日の派手なドンパチがここまで抑えられてるから、防犯カメラの方は微妙ッスけど」
「ハッキング出来るか?」
「出来なくはないッスけど警視庁ッスよー。バレたらヤバいどころじゃないッスよ。準備が必要ッスね」
「新一はネット方面から手掛かりを探せ。バレなきゃいい。足は絶対残すな」
「わかってるッスよ」
「強希、新一を連れてIMIに戻れ。長谷川に報告後、装備を集めろ。ララはもう少し付き合え」
装備一覧を書き記したメモ用紙を渡された強希は、新一を連れてIMIへと戻っていった。
残った二人。智和の提案で近くの喫茶店へと向かった。二人はアイスコーヒーを注文。飲み物が届けられてからララが聞いた。
「何か私に用事?」
「そういうことではない。ちょっとした確認だ。中期生達の面接をしようかと思ってる」
「今更?」
「実力はわかった。後は内面だ」
「順序が逆でしょう」
「わかってる。時間がなかった。仕方ない」
智和の言うことは一理ある。時間がなかったのは確かだ。言い換えるならば時間のない中で、尚且つ限られた人選で任務を遂行できたのは素晴らしいことである。――結果論としては最高だが、過程を問い詰められれば納得はできない。
そもそも《特殊作戦部隊》の任務に、どの部隊にも所属していない中期生を参加させた。充分な時間の選考はできていない。もし失敗したら、マスコミどころか国からも叩かれる材料だ。
故に人選での面接という過程を行わなければならない。生徒であろうが智和はれっきとした部隊隊長。然るべき手順で人選された証拠にはなる。
それにはララも賛成だった。ただ一つ危惧するのは、その面接で脱落する可能性があるかどうか、だ。
「貴方のことだから、不合格者を出すかもしれないわね」
「ああ。そのつもりだ」
気にすることもなく言い放つ。それが智和の良い所でもあるが、内容によっては良いことばかりではない。
想像通りの答えにララは溜め息を漏らし、アイスコーヒーを一口飲んで喉の乾きを潤す。
「悪く思わないでくれ。長谷川からの許可は出てる。強希にも伝えてある。俺の人選だろうが特別扱いするつもりもない」
「わかってるわよ。貴方がそんなことするなんて思ってない」
「まぁ、イリナ・ヒルトゥネンに関しては今のところ安心していい。実力は申し分ない。性格に関しては今後の訓練でどうにかなるだろう」
「ありがとう。貴方から言われると嬉しい」
「因みに、ララはイリナ・ヒルトゥネンがどこまでいけると思っている?」
「《特殊作戦部隊》まで」
自信有り気な即答に智和は笑ってしまった。おかしいという訳ではない。ララと同じ意見だからだ。この先、彼女次第でもっと強くなる、と。
性格はまだまだ難があるが、戦闘に対するセンスがいい。技術や知識もある。皮肉にも、苦痛でしかなかったロシアIMIの“基礎”ができている。
「それにしても、貴方がそんなに食い付くとは思ってなかったわ」
「いや、まぁ、言っちゃ悪いが長谷川に頼まれてな。《特殊作戦部隊》のことだ」
「……それ、ここで言える?」
周囲を見回し、ここで話すべきではないと判断した智和は店を出るように促す。勘定を済ませ、池袋駅まで歩いた。人混みの中に紛れたところで智和は話す。
「今年で《特殊作戦部隊》の隊長格が四人抜ける。その後釜と、チーム編成が悩みの種だ」
現在、六チームある《特殊作戦部隊》のうち四チームが、波川千里とその同期三人による高期三年の生徒。つまり、来年には卒業してしまう。遅くとも三月までには、隊長となる生徒の選抜とチーム編成をしなければならない。
来年、智和と現在高期二年の生徒が隊長を務めるのはいい。問題は四チーム分の隊長生徒だ。副隊長から成り上がりで隊長にしても良いが、他のチームからの卒業生徒も考えるとあまり得策ではない。チームの数を減らすという案もある。
「《特殊作戦部隊》は歴史が浅くてな。日本IMIができてすぐに創設されたが、使い物にならなかった。それを誠二さんが使えるようにした。今の代の隊長生徒は、あの人の叩き上げで鍛えられた奴ばっかりだ」
「その優秀な人材がごっそり抜けて、《特殊作戦部隊》自体が危うくなる可能性もあるってこと?」
「ああ。誠二さんがいた頃は激動の時代だ。紛争地帯に行きまくって生き残ってきた“ろくでなし”だ。簡単に死なない。あれから数年経って、今は停滞期みたいなもんだ。落ち着いてはいるが中途半端。微妙な時期だ」
「その時期だからこそ、新たな人材を探すってことね」
「ああ。これは個人的な意見だが、イリナ・ヒルトゥネンには期待してる。彼女は“こちら側”だ。殺しに慣れてる時点で普通じゃない」
「ロシアIMIの教訓が生きてるわね」
「アイツら、手加減知らねぇんだよなぁ。まぁ、今はそれに感謝だ」
染々とした言葉にララは思わず笑ってしまった。
「人材探しはわかった。隊長生徒の候補は?」
「現副隊長が最有力だな。恵や白井――千里が隊長を務めるチームの副隊長――先輩、後は訓練次第か」
「それでも四チーム分は出来てるのね」
「とはいえチーム編成はするだろう。多分、専門性に特化した部隊にするかもしれない」
「狙撃や治療、強襲みたいに分けるってこと?」
「一通りを上手くこなし、尚且つ専門性持たせるんだろ」
「そうなると、下手したら貴方のチームがバラバラになるわね」
「仕方ない」
今後の部隊設立の考えによっては、今の智和のチームから大多数の人間が抜ける可能性がある。瑠奈は治療専門、新一は狙撃専門、恵は隊長として別チームを持つ可能性が高い。
考えていなかった訳ではない。だが数年を一緒にやってきた仲間が抜けるというのは、いくらか悲しいものだった。
ふと、五月のあの時を思い出した。屋上でララを誘ったあの時を。
「ララも隊長候補に上がっている。もし隊長生徒になったら、俺がチームに誘った意味がなくなるな」
何の為に誘ったのか。苦笑した智和に対し、ララは当然のように返した。
「あら。私は隊長になるつもりはないわよ?」
「は?」
「だって、貴方のチームに誘われたもの。私は貴方の部下ってことでしょう。それに、生憎と私は貴方と同じような専門性しかないわ。馬鹿みたいに突っ込んで、阿呆みたいに殺す。それしかできない」
あまりに清々しく言ったものだから、智和は目を丸くしている。
「……お前って時々馬鹿馬鹿しいこと言うよな」
「誰に似たのかしらね」
わざとらしく智和に微笑む。ララに一杯食わされ、そして励まされたような気がして智和も笑った。
適当に歩いていると人混みが激しくなってきた。ララが人の流れに呑まれそうになった時、智和は咄嗟にララの手を握って引き寄せた。
「時間をくった。再開しよう」
「ええ」
人混みから抜けて、どちらからでもなく握っていた手を離した。ララは智和の隣を歩き、彼の顔を見ずに口を開いた。
「智和」
「何だ」
「あの時は、誘ってくれてありがとう。貴方のおかげで私は変われたと思う」
「俺のおかげじゃない。全員だよ。ララの努力でもある」
「――そうね。ありがとう」
今でも感謝の言葉しか出ない。あの瞬間、ララは隣を歩くこの男に救われたのだから。そんな彼の優しい言葉が温かく、胸に染み込んでいった。
――――――――――――◇――――――――――――
メルセデスベンツとメルセデスSUVが、田園調布にある沙耶の自宅へと到着した。先に《リスクコントロール・セキュリティ社》の人間が自宅へ。次に沙耶と千香、真奈美が、恵や瑠奈などに囲まれながら自宅に入る。
「始めろ」
誠二の合図で、社員達が盗聴・盗撮機器がないか一斉に調べ始めた。あらゆる家具やインテリア、接続機器やパソコンなど徹底的に。
寝室は女性社員と恵、瑠奈が調べた。自ら頷いた沙耶だが、ベッドを引っくり返されたり本棚やクローゼットを全て調べられると、なんだか荒らされた気分になってきた。
時間をかけて盗聴・盗撮の機器がないと判断し、女性社員と恵、瑠奈が全て元通りに片付ける。残りは自宅周囲を監視し、外へと出ていった。
因みに、エクスプローラSUV二台とは途中で別れた。一台は近くの空き家を押さえて拠点とし、そこで監視や情報収集を行う。もう一台も同じように拠点を作り、監視と情報収集を行う。拠点なので装備の保管もしている。
真奈美と千香も加わって自宅を元通りに片付ける。沙耶は自室の片付けが早く終わった為、少し休んでから今日のスケジュールを確認。そうしていると片付けを終えた千香が部屋に入ってきた。
「お嬢様、終わりました」
「お疲れ様。それにしても……ここまでする必要あるのかって思うぐらい、大変なことになってしまったわね」
「申し訳ございません。私の力が及ばないばかりに……」
「千香のせいじゃないわ。もちろん、警護してくれた人達も。私がもっと早く気付くべきだったのよ」
連日の襲撃事件を経て、沙耶はようやく自分が陥った状況を理解した。冷静に思考できるようになったからこそ、今の自分は危機的状況にいるとわかる。
沙耶の立ち位置は危うい。なんせ全世界に広がる法律の海に一石を投じたのだから。無人航空機の使用と開発、販売を一般企業でも問題なく行えることを発言してしまった。
今になってようやく理解したぐらいだ。考えてみると、自分は傲っていたのかもしれないと沙耶は自嘲した。
自宅の片付け中、《リスクコントロール・セキュリティ社》の社員が外を捜索している。そのメンバーに誠二とホワイトの二人も加わっていた。
二人共スーツ姿ではあるが革靴などではなく、誠二はスニーカー、ホワイトはブーツを履いていた。警護の人間だということを隠すつもりは更々ない。
「思ったより静かな街だ」
「住み方のルールがあるらしい」
ホワイトの呟きに誠二が口を開いた。
「新築や改築の際には色の範囲が決められている。階数や高さ、堀の種類までもだ。そのおかげで周りの自然に溶け込むような街並みになって静かになる。ここあたりは住宅街で、高級の部類に入るから尚更だな。
言い方を変えれば、ルール決めないと静かに暮らせない奴がいるってことだろう」
「詳しいですね」
「全然知らん。春奈のデザート巡りに付き合う時に通ったぐらいだ」
ホワイトの言う通り、住宅街は静観としている雰囲気だった。高級住宅街というイメージと赴きがあるとはいえ、環境そのものが落ち着いている。
大体の見回りを終えると、部下から周囲の状況報告を受け、自宅の片付けも終了した連絡を受けた。二人は踵を返して沙耶の自宅に戻る。
戻るな否や、誠二は沙耶の部屋へと直行。最低限の礼儀を弁えて部屋に入った。中には千香と沙耶がいた。
「沙耶さん。今一度、本日の予定を簡単に確認します。黒井裕一さんの自宅に行き、自社へ向かう。その後は各会社へと訪問。よろしいですね?」
「はい。よろしくお願いいたします」
「真奈美さんは自宅にいるということで、私の部下を三名残します。自宅には常に三名を警護に残しています。そして部屋の外に待機している新井恵と草薙瑠奈は常に沙耶さんの警護にあたります」
「心得ています」
「それでは出発の準備をお願いします」
「十分ほどで」
「わかりました」
部屋を出た誠二は恵と瑠奈に出発を伝え、部下に出発の準備を促せた。
車の準備の為に千香も部屋を出た。沙耶は制服から私服へと着替える。ブラウスとロングスカートを着こなし、制服の堅苦しさがなくなって沙耶の雰囲気がより落ち着きを漂わせた。
仕事用にいつも持ち歩くバッグには小型タブレット端末に大容量USBメモリが二本。もちろん手帳なども入れていた。
中身を確認している途中、打ち合わせの予定はないのに何故入れているのだろうと思った。迷惑をかけた謝罪――沙耶側にしてみれば迷惑をかけたは襲撃側の方だが――から打ち合わせになる可能性もあるが、それはしないようにと誠二に口煩く言われた。
準備を整えて部屋を出る。五分も経っていないが警護の人間は対応できた。瑠奈から「準備出来ました~?」と聞かれて「はい」と答える。間延びした甘い声だった。恵は無線で車に向かうことを連絡した。
玄関で真奈美に見送られ、沙耶はメルセデスベンツに乗る。運転手は千香で助手席に恵。後部座席に沙耶と瑠奈が乗った。無愛想な恵に千香は不信感を募らせながらも、沙耶の前で口にすることはなかった。
メルセデスベンツが走り始め、後ろにはホワイトが運転するメルセデスSUVが後を追うように走り出す。
向かった先は港区麻布。下町を潰して行われている巨大再開発によって高層マンションや高層ビルが立ち並ぶ道を過ぎ去り、高台方面へと進む。そこに行けば街の雰囲気が変わる。
ズラリと並ぶ大きな邸宅のとある一件にベンツが停車し、SUVも停まる。白を基調とした洋風の四階建て住宅の他には大きな庭や車庫がある。2メートルの高さはあるゲートがゆっくりと開き、ベンツとSUVが中に入る。
シャッターが閉じられた車庫の前に、二台の車が駐車していた。共に高級車で、一台はピンク色だ。二台は邪魔にならないよう駐車。
恵が降りるなり後部座席のドアを開ける。その間も常に監視と警戒は怠らない。現に瑠奈は降りた沙耶の横に素早く位置しており、SUVから降りた《リスクコントロール・セキュリティ社》の社員は陣形を組んでいた。例え親類の敷地内だろうが関係ない。銃弾が飛んで来る可能性はゼロではない。
50メートルあるかないかの距離を歩いて玄関へ。恵がインターホンを押すと二台の監視カメラが動いたのがわかる。インターホンのスピーカーから少し年老いた感じの男の声で「どうぞ」と一言。恵は玄関を開けて沙耶を中に入れた。
沙耶、千香の他には恵と瑠奈、誠二が入る。残りはホワイトを中心に自宅周囲の警戒に当たらせた。
広々とした廊下を進んで大広間へ。そこにいたのは若い男女と白髪の多い初老の男――沙耶の父親である黒井裕一と、沙耶の兄と姉がいた。
恵と瑠奈は部屋の外で待機。誠二が付き添い、扉の横に立つ。沙耶と千香が裕一と向かい合う。
五十後半の裕一は年齢の割りに老けて見える。短く切り揃えた白髪のせいだろう。しかし顔つきはまだ若々しい。自宅だというのにスーツを着ていた。
兄の黒井純一は、細身だが筋力トレーニングをしている為に体つきは少し良い。高身長で着ているスーツが見栄え、顔立ちの良さも際立つ。頬は少し細い。銀縁眼鏡の奥にある細目の目付きは鋭かった。
対して姉の黒井文子は、低身長で可愛らしい顔立ちだ。沙耶が凛々しいならば文子は愛らしい、と言うべきか。明るい茶色に染めた長髪はウェーブを巻き、赤と黒のフリルレースワンピースを着ている。残念ながら堅苦しい場で浮いている印象が強い。
空いているソファーに沙耶は座り、後ろに千香が佇む。絵面だけを見ればドラマのようなシーンを思い浮かべる、そんな構図だった。
「無事のようだね、沙耶」
一瞬の沈黙を破ったのは、裕一の落ち着きある静かで低い言葉だった。
「千香から緊急連絡を受けた時に最悪の状況を考えていたが、IMIは間に合ったようだ。良かった」
「彼らには大変お世話になりました。今もです。そうでなければ、私は今この場にはいないでしょう」
襲撃された時、智和達が即断したおかげで間に合った。言葉通り、沙耶は生きてこの場にはいなかった。IMIの霊安室で、千香と仲良く広永の遺体に並んでいた可能性もある。
「この後、どうするつもりだ?」
純一の問いに沙耶は表情を変えない。
「襲撃犯は判明していません。だけど、私は行動を辞めるつもりも変えるつもりもありません。今まで通り、私は私のすべきことをするだけです」
「その判断と行動が、身内に危険が及ぶとしてもか?」
沙耶は思わず表情をかたくする。僅かな変化を見逃すまいと純一は続けた。
「お前と、お前の社員だけの話じゃない。俺や文子、父さんへの影響もある。一連の事件の影響は大きいぞ。俺と父さんの会社じゃ、お前の襲撃事件で電話が鳴りっぱなしだ。巻き込まれたくないから取引を辞めると言う輩もいる。もちろん、命の危険もあるぞ。それに対してお前は、どうするつもりだ?」
「ご心配には及びません」
沙耶が言葉を詰まらせながら話そうとした時、誠二が口を開いていた。
「警備計画考案時点で既に対策チームをIMI協同の下、黒井グループ傘下に回しています。とは言え、黒井グループで社会的影響の大きさで考えるならば数グループで結構かと」
「誰だ、お前は」
「申し遅れました。今回、警護を担当させていただく《リスクコントロール・セキュリティ社》の榎本誠二です。名刺は持ち合わせていないのでご遠慮を」
純一のきつい口調にも臆することなく、むしろ“噛み付く勢い”で誠二は挨拶を交わした。
「《ディ・マースナーメ》はもちろん、警戒を強めるべきは商事、化学薬品、ソフトウェア、電機。黒井グループ中核企業であり、先日クラッキング行為があった企業です。それと文子さんのファッション関係の会社。これは文子さんが経営する為ですね。親族が標的になる可能性に備えてです。後は重要性が低いと考え、切り捨てます。
会社への影響対策ですが、私達の専門は生憎と限られています。警護・防犯対策はできますが、襲撃事件による売上や業績の減少は自己で対応していただきたい」
「ふざけているのか、お前」
「残念ながら大真面目です。黒井グループ全てを守れる程、私の会社に余裕はない。IMIも然り。万能ではありません。出来る限りのことはしますよ」
「話にならん。社員を誘拐されたとしたら?」
「沙耶さんや千香さん、真奈美さんに《ディ・マースナーメ》の社員の場合。人質解放への手を尽くします。契約対象ですから。
今挙げた以外の人物の場合は、私達は人質解放の任務をIMIに譲ります。そちらの方が都合良い」
最後の一言の意味を理解できた者は、残念ながらいなかった。わからなくてもいいことだ。
沙耶や千香、真奈美や《ディ・マースナーメ》の社員が誘拐された場合、《リスクコントロール・セキュリティ社》は全力で人質解放の交渉を行う。依頼者であるから当然であり義務である。
しかし、それ以外の場合は行わない。親族が誘拐されても。契約対象外と見なすのだ。
だが、それでは終わらない。その役割をIMIに譲ることで、現場の状況を把握・維持させておく。他の機関には介入させない。
人質解放の現場指揮権を《リスクコントロール・セキュリティ社》からIMIに移すということ。これはつまり、“同じ機関内での役割交換”だ。
《リスクコントロール・セキュリティ社》が人質解放を行い、もし突入する場合。それは沙耶達の危険に繋がる。つまりは依頼者の危機。突入というリスクは高い。
反対に依頼者ではない場合。契約対象外として《リスクコントロール・セキュリティ社》は現場指揮権をIMIに譲る。そして彼らは躊躇せず、突入する。“契約対象外だから関係ない、と”。
IMIの性質は暴力に特化している。故に救出作戦だろうが突入作戦だろうが強襲作戦だろうが、“同じようなもの”なのだ。人質が死んでいても、真相を埋めてなんとでもする。
誠二が都合良いと口にしたのはその為だ。依頼者が誘拐されては困るが、依頼者以外が誘拐されたのならばIMIの指揮権で行動すれば良いのだから。そうすれば襲撃犯の手掛かりも集められるかもしれない、と。
――もっとも、そんなことを教えたら沙耶に罵声を浴びられ、千香に殴られるだろうとわかりきっていた。だから誠二はなにも言わない。
「少なくとも、私達は沙耶さん及びその周囲に対する危険の対応術を心得ています。どうぞご心配なく」
「そうか。俺はお前が嫌いだ」
「どう思われてもかまいません。ご自由に」
誠二の動じない態度と静かな口調が、純一の感情を逆撫でする。事実、誠二はそうした。
純一は嫌いだと言ってくれた。有り難い。誠二も第一印象で彼が嫌いだった。
「会議がある。先に失礼する」
そう言って純一は椅子から立ち上がり、足早に部屋を出ていく。去り際に誠二を睨み付けたが、誠二は相変わらず爽やかなままだ。
純一がいなくなり、文子の溜め息が漏れる。雰囲気がいくらか軽くなった。
「じゅんにぃは相変わらず厳しい言い方で困っちゃうね」
愛くるしい、甘えるような声をした文子は苦笑する。
「さーちゃん。あまり気にしちゃダメだよ。じゅんにぃは心配して言ってるだけだから」
「ありがとう、姉さん。気にしてない」
「文子の言う通りだ。純一はきついが、受け流してかまわない。グループ会社の影響などお前が考えなくとも良い」
「はい。わかりました」
どういう訳か、誠二には今の会話が不自然に思えた。親子の会話ではあるのだが、どこか違和感を抱いてしまう。何がおかしいかまではわからなかったが、気味が悪かった。
「千香。沙耶を頼む」
「はい」
「榎本誠二さん」
裕一に話しかけられた誠二は顔を向ける。
「よろしくお願いします」
「ご心配なく」
一礼した誠二。顔を上げると席を立っていた文子が駆け寄り、誠二の手を握ってきた。甘い香水の匂いがふんわりと漂ってきた。
「妹をよろしくお願い致します」
甘えた優しい声ではあるが、先程の家族との会話ではない口調に誠二は一瞬だけ呆気にとられた。気を取り直し、手を離させる。
「守り通します」
静かで短い言葉。謙遜していたが、それだけで安心できるような力を持っていた。
事実、自信はあった。まだ二十年と少ししか生きていないが、その年月は修羅場でしかなかったのだから。生きるか死ぬか、殺すか殺されるかの世界と境界と瀬戸際を歩いてきたのだから。誠二にとって、今の日本でもまだ“温い”。
握った時、左の薬指に結婚指輪を嵌めていたことを知った文子は聞いた。
「貴方みたいな人だったら安心。けど、奥さんは心配しないの?」
「毎日心配されますよ。妻からはそんな仕事しなくてもいい、と。それなら喫茶店の仕事しよう、とまで言われます」
「良い奥さんですね」
「はい。ですが、残念ながら私には“これしか”出来ない」
「それでも、奥さんは構わないと思いますよ。大切な人の怪我なんて見たくないです」
文子の言葉に、今度こそ誠二は目を丸くした。そんなこと、今まで考えたことがなかった。
自分に出来ることなど“こんなこと”しかないとわかっていた。わかっていたが故に、誠二は妻である春奈の言葉を、受け入れたつもりで聞き流していたかもしれない。
そんな自分を恥じて、誠二は柔らかい笑みを見せた。
「ありがとうございます。今度、話し合ってみることにします」
「是非そうしてください。それじゃさーちゃん、ちーちゃん。またね」
小さく手を振りながら文子は部屋を出た。それを見て沙耶も席を立つ。
「私もそろそろ。取引会社に行ってきます」
「くれぐれも、気を付けてな」
「わかっています。父さんも、体にはお気を付けて。薬、ちゃんと飲んでください。それでは」
三人は軽く頭を下げてから部屋を出る。残った裕一は小さく溜め息を漏らし、背凭れに体を預けて天井を見上げた。
――――――――――――◇――――――――――――
沙耶、千香、誠二の三人が部屋に入り、恵と瑠奈は扉を挟むよう両側に立って警戒していた。
初めは無言で警戒していたが、危険がないことを察すると少しだけ緊張を解いた。常に警戒と緊張を保つようにしているものの、四六時中そうしていると必ず限界が生じる。《特殊作戦部隊》の面々でも二日から三日、長くて五日間ほどだ。
故に、抜ける時は抜く。楽にできる時は楽になる。そう心掛けている。
「それにしても、立派なお家だね~」
警戒心が好奇心に心変わりした瑠奈は隅々を見回しながら感心する。
「麻布の高台でしょ~。相当のお金持ちなんだね~」
「元々は昭和から続く財閥家系だけど解体された。停滞期があったり一時は倒産寸前までいったけど、上手く回して互いに利益を上げてる。まぁ、これでも総資産ランキングじゃ世界どころか日本内の商事部門で十位すら入ってないんだけど」
「へぇ~。でもお金持ちなんだね~」
「一般庶民の私達からすれば充分過ぎる」
「話は変わるんだけど、黒井グループで最初に考え付くのって何かある? 私ならファッション関係が思い浮かぶな~。お気に入り~」
「私は……智和に付き合って変に調べたから、企業ってよりは黒井裕一が思い浮かぶ」
「沙耶さんのお父さん?」
「さっきの倒産寸前までになった話。あれなんだけど――」
扉の向こうに気配を感じ、二人は会話を中断して即座に警戒へと切り替えた。
出てきたのはスーツを着こなす男性――黒井純一だった。部屋の外に見知らぬ少女二人が立っていることに面食らった様子だが、制服の上着を見てIMIだとわかると少しだけ睨み付けて前を通った。
瑠奈は思わず目を背けたが、恵は純一の態度が気に食わず睨み返してしまった。
露骨な敵意に純一は聞こえるように舌打ちし、廊下を歩いて玄関へと向かう。出ていったことを確認し、瑠奈は溜め息を漏らして苦笑した。
「そんな睨んじゃ駄目でしょ~、メグちゃん」
「他人に苛立ちをぶつける方が悪い」
「でも沙耶さんの身内なんだから~。多分、お兄さんの黒井純一さんだね~」
「嫌いな人間。関わりたくない」
「こらこらっ」
はっきりしている性格は別に良いが、こういう場でこうも自分の意見を言えることは少々考えものだ。好き嫌いの激しい恵だから仕方ないと言えば仕方ないが、任務として考えると我慢して欲しいとも思う。
とはいえ、恵と警護任務を行う機会が多い瑠奈にとって、こういった恵の発言や考えは今に始まったことではないので特に気にしなかった。
また部屋から誰かが出てきた。今度は文子だ。文子は二人がいることに少し驚いたが、すぐに会釈する。二人も会釈した。
顔を上げた瑠奈は文子の服装に目がいった。そしてすぐに気が付いた。
「あの~、もしかして黒井文子さんですか~?」
「そうです」
「『EGOISTIC』の黒井文子さんですか!?」
「知ってるの!?」
「ファンなんです!」
「わー嬉しい! ありがとー!」
初め冷静だった両者だが、どういう訳か興奮し始めて互いの手を握り合う始末。意気投合したような光景を恵は見ているが、まだ状況がうまく掴めず怪訝な表情を浮かべていた。
ようやく落ち着いた瑠奈が、喜びを隠すことなく説明する。
「『EGOISTIC』って言うのはね、ゴスロリ系高級ファッションブランドなの。格調高い英国淑女をテーマにしてて、品格と重みがありながらもゴスロリ本来のイメージを損なわないファッションデザイン。社交場でも着れるエレガントなものから、プライベートで着れるものまで。帽子やアクセサリー、靴まで全て良くてね、ゴスロリファッション業界じゃ世界でも有名なんだよっ!
どれも生地は高級で値段は高いんだけど、やっぱりそれだけいいの。デザインも格好いい中に可愛く、可愛い中に格好いいっていうのが沢山。オススメがね、今文子さんが着てるタイプのフリルレースのワンピース。私だけじゃなくセナちゃんもお気に入りでっ――」
「わかった。わかったから一回落ち着こうか」
あまりに長く、熱のこもった説明に恵は耐えきれずクールダウンを促す。そもそも、瑠奈がこれだけ興奮して語ることが珍しかったのだ。
深く、何度も深呼吸して瑠奈はようやく落ち着いた。
「貴方達もさーちゃんの警護をしてくれるの?」
「沙耶さんの傍での警護任務を任せられています~」
「こんな可愛い子達だけど、なんだか安心できるよ。もし私の会社に来る機会があれば、新しい服のモデルやって欲しいな」
「是非ともお願いします~」
「瑠奈、任務中」
恵の言葉で思い出したのか、瑠奈は「あっ」と声を出して謝罪した。文子は笑顔で「いいよ」と受け流してくれた。
「さーちゃんのこと、守ってあげてね」
小さく手を振って文子は家を出ていった。二人は小さく会釈して見送る。
恵が顔を上げると、瑠奈は嬉しさを隠そうともしていなかった。
「文子さんの会社に行く機会あるかな~?」
「こらこら」
先程まで逆の立場だった筈なのに、まさか同じ言葉を言うことになるとは。恵は呆れてしまった。
その時、部屋から沙耶、千香、誠二が出てきた。二人は反射的に姿勢を正して気を引き締め直す。
「なんか嬉しそうだな、瑠奈」
「わかります~?」
切り替えた筈なのだが、誠二にあっさりと見抜かれてしまって再び笑みを見せてしまった。恵は溜め息を漏らす。沙耶と千香の二人はなんのことだかわかっていない。
「すぐに切り替えろ。移動する」
誠二の一声で恵と瑠奈は再び警戒を強めて前を歩く。沙耶と千香の後ろを誠二は歩き、外にいるホワイトに無線で指示を送った。
――――――――――――◇――――――――――――
池袋の北口。チャイナタウンになりつつある繁華街を、フランチェスカはブラックデビルの煙草を吸いながら歩いていた。
襲撃を失敗したその日から、タカハシを中心とした情報収集が行われていた。その間、フランチェスカはやることがまったくなかった。
昨日も、ギブソンから提供されていたホテルが気に入らず、抜け出してここまでやって来た。
池袋北口のチャイナタウンになりつつある街の一角は、《蜂蜜》の縄張りになっている。三流の中華料理を食べ、売春宿に寝泊まりしていた。もし売春婦だと思って客が入ってきたのなら、ギブソンから渡された拳銃で脅している。
ホットパンツにタンクトップ。薄い生地の黒いパーカー。血のような赤黒い髪。サングラスをかけ、背の小さい煙草を吸う外国人。こんなに目立つフランチェスカだが、この街では誰も気にしない。何故ならここの住人も外国人だからだ。
日本で縄張りを持つ《蜂蜜》以外にも中国マフィアが存在し、更には韓国マフィア、ロシアンマフィアも東京都に根を張りつつある。一時期はチャイナタウン化を地元住民で抑制させていたが、《7.12事件》によって《進行不可区域》が生まれてしまった為に治安が悪化してしまった。
その存在は流れ者を生み、社会不適合者を育て、武器とクスリと情報を垂れ流す。規制すらされていない現状では、マフィアと暴力団の抗争や犯罪者増加による治安悪化を止めることなどできない。
実際、フランチェスカにとっては居心地が良かった。
生きてきた世界がごみ溜めのような世界だから仕方ないのだが、フランチェスカが世界と混ざり合って一部になっているような安心感がある。
周囲に散らばるゴミ。薄汚れている密集した建物。生気のない売春婦達にクズの住人。ぼったくりの麻薬売人。これに安心を覚える時点で、殺し屋を営むフランチェスカの人生など底辺の底辺だった。
「あー、嫌いだわ。この国」
故に。
フランチェスカは日本が嫌いだった。
縄張りを抜け、正常な街へと戻ってきた。仕事に勤しみ、休日を謳歌する人で賑わう駅前。壁に乗り掛かり、吸い終えた吸殻を踏み潰したフランチェスカは吐き捨てた。
日本という国は、あまりに違い過ぎる。
宗教信仰による対立がなく、多民族国家でもなく、《7.12事件》によって治安悪化となっても、変わらず正常なままの街並みが多すぎる。外国人をジロジロと見る。
平和過ぎる。
この国で銃を撃つのは好きだ。都市部で堂々と撃てるなんてなかなかない。しかし、フランチェスカは日本に長く居たいとは思えなかった。
彼女が生きてきた世界と、あまりにも違い過ぎる。苦痛に等しい感情だった。
何故だか腹が立ってきた。煙草をくわえて火をつけるが、その苛立ちは消えなかった。
消えるどころか、余計な“虫”が集まってきたことに舌打ちする。
五人の男。全員が若く、一番上でも二十代前半だろう。一番下は学生だろうか。体格はバラバラで、細い体型もいれば太った者もいる。筋肉質の者はいなかった。全員が赤色の物を身に付けていた。
《レッド・グループ》の人間だとすぐにわかった。池袋北口周辺は彼らの縄張りだった。今では全盛期に比べて弱体化し、中国マフィアの中で台頭した《蜂蜜》との抗争で押されているものの、未だ池袋北口周辺で根を張り続けている。
五人の男はフランチェスカを囲んで見下ろす。背が小さいから仕方ないのだが、こうも威圧的に見られると更に苛立つ。
「キミ、どこから来たの? 学校サボり?」
いかにも頭の悪そうな輩がにやにやしながら話しかけてきた。目を見れば麻薬の中毒者だとすぐにわかった。香水と口の臭いで鼻が曲がりそうだ。
「格好いい煙草吸ってるね。ブラックデビル?」
『失せろジャンキー。今アタシは機嫌が悪い』
フランチェスカが英語を話したことで数人の男はきょとんとしてしまった。二人ほどわかるらしく、冷静に聞いていた。
「キミ外人なの? へー! どこの国? アメリカ?」
対して話しかけた男は関係なく話し続けてきた。やけに多弁ということはコカイン中毒だと推測した。
いつもなら相手にしない。だが今は待ち合わせ中だ。それに気が立っている。
『息が臭ぇんだよ。趣味の悪い香水も重なって糞の臭いがする』
「日本語わからない? 困ったなぁ。タケ、訳してくれよ。この子可愛いからヤりたい」
『猿と同じじゃねぇか。どこの国もクズは一緒だな』
「なぁ訳してくれよタケ。頼むよ」
「“お前みたいなクソガキジャンキーに跨がって喜ぶ程、アタシの貞操観念は低くないんだよ”」
フランチェスカが突然日本語を話したことで、今度こそ五人は驚いた。
口説いていた男も目を丸くしていた。だがすぐに表情を変えた。
「なんだ。日本語喋れるじゃん!」
「このジャンキー、会話成り立たねぇじゃねぇか」
わざわざ日本語で答えた意味がなかった。そもそも日本語を話すメリットもなく、相手に話ができるということを知られてしまった。
「ねぇ。暇そうだから遊びに行こうよ。いいクスリもあって凄くハイになれる。キメてセックスすれば最高に気持ちよくてハッピーになれるからさ」
「見てわからないか? アタシの腕に注射痕はないし、瞳孔も開いてない。あいにくクスリとは無縁でね」
「じゃあやってみようよ。大丈夫大丈夫。鼻から吸うけど痛くないよ。全然痛くない。むしろ気持ちいいよ。全身が性感体になるような気持ち良さだからさ、触っただけでイッちゃうよ」
人の話を聞かない男にフランチェスカは舌打ちする。これだからジャンキーは嫌だ。ハイになるか穴を突くかしか考えられない。
溜め息を漏らし、呆れながらどうしようかと悩む。拳銃で脅そうにも、この街で使えばすぐに足がつく。警察と《蜂蜜》に繋がりがあるとはいえ、IMIに知られたくはない。
かといって、フランチェスカは格闘が強い訳ではない。狙撃の腕前は一流だが、格闘にも才能があるかは本人すらわかっていない。それを使う場面や習う機会などなかったのだから。
「こんな所で何してる。Mrs.アルバーニ」
面倒だが走って逃げようか迷っていると、ようやく待ち合わせしていた人間がフランチェスカのもとに現れた。
黒いスーツに薄い生地のロングコート。ゴアテックスのブーツを履き、今日はオークリー製黒レンズのサングラスを掛けていた男――タカハシだった。
「またギブソンのホテルから抜け出したのか。君は猫みたいに動き回るな」
「自由奔放がアタシの長所でね」
「確かに。それで――」
表情が見えないタカハシは静かに問う。
「どういう状況なんだ?」
「見ての通り。絡まれてる」
さらりとフランチェスカが答えるとタカハシは溜め息を漏らした。自由奔放なのは良いが、そのせいでトラブルに巻き込まれるのは勘弁してほしい。
相手が《レッド・グループ》なのが尚更悪い。《蜂蜜》との対立上、あまり関わりたくなかった。
「悪いが、連れていかせてもらうよ。こっちが先約だ」
「ちょっと待てコラ」
タカハシが間に入ってフランチェスカの手を取ろうとした瞬間、口説いていた男の右足が鋭く壁を突いて阻止した。
今までの雰囲気とはまるで違う。怒りと興奮を隠そうともせず、タカハシを睨み付けていた。
「先約だろうが今はこっちが話してんだよ。邪魔すんじゃねぇ」
殺気を込めた低い声に仲間の若い青年二人は冷や汗をかき、男二人は呆れていた。
対してタカハシは冷や汗をかくこともなく、表情を変えることもなく、今まで通りの対応で接した。
「ナンパするのはいいが相手を考えた方がいい。子供相手にクスリとセックスを要求するのは間違いだろう」
「ンなことテメェに言われる筋合いねぇんだよ。失せろヒョロ長。顔潰すぞコラ」
「そのガキが、チャイナタウンから出てきたのを見た」
今まで黙っていた赤いニット帽を被った男が口を開いた。リーダー格の男である。
「《蜂蜜》のシマから来た。そこからこっちのシマに来る奴なんて一般人にはいない。中国人の顔でもないし、ガキだったからな。すぐ怪しいって思ったよ」
――また《蜂蜜》の店に行ったのか。
タカハシの冷たい目線に気付いたフランチェスカは、わざとらしく口笛を吹いて誤魔化した。
「それが何か問題でも?」
「大問題だ。中国マフィアとは揉めてる最中だ。特に《蜂蜜》とは長年争ってる」
「どうでもいい。君達の争い事なんて心底どうでもいい。俺と彼女は関係ないし、同じにされている時点で不愉快だ」
「不愉快だろうがどうでもいいんだよ。こっちだって不愉快だ。何十人も死体で帰ってきた。収まりつける訳にはいかないんだよ」
「――そうやって、全員死ぬまで続ける気か。馬鹿らしい。昔から変わってない」
タカハシの雰囲気が変わったことを、フランチェスカだけが理解した。
まるで何かに絶望して、怒りを覚えていた。ほんの一瞬、サングラスから見えた彼の瞳は“泣きそう”になっていた。
「“本当に昔から変わってない。お前らは”」
「ごちゃごちゃうるせェンだよ、このヒョロ長がァ!」
男は足を引き、ポケットに突っ込んでいた両手を抜いた。メリケンサックを右手に嵌めており、タカハシの腹部にアッパーを繰り出した。
手慣れた速いパンチだが、タカハシにとってはなんのことはない。むしろ下の上のレベルだった。
左手で手首を押すようにアッパーの軌道を変え、体を半歩分ずらしただけで躱した。
前のめりになった男の顔に、流れるような動作で右肘を振るう。鼻が折れ、詰まるほどに鼻血が大量に溢れ出てきた。
更に、男の右膝に突き蹴りして骨を折った。膝をついたところで髪の毛を掴み、もう一度顔に、今度は膝をお見舞いした。
「テメェ!」
仲間の一人が怒り任せに襲ってきた。ぼろ雑巾を捨てるように男を投げたタカハシは向きを変える。構えなどはしなかった。
赤いバンダナをした男はパンチを繰り出す。しかし掠りもせず躱される。大振りの右ストレートをしゃがむように躱したタカハシは、一気にバンダナ男との間合いを詰めて懐に潜り込む。掌底を顎に打ち込み、よろけた所で腹部に突き蹴り。蹴り飛ばされたバンダナ男は壁に頭を打ち付けて気絶した。
二人が瞬く間に倒されたことに赤いニット帽のリーダーは目を丸くして驚いたが、すぐ反応してバタフライナイフを構えた。
「“遅いよ”」
タカハシはリーダーの前に立っており、左手でバタフライナイフを握る手首を掴んでいた。右手はリーダーの首に添えられている。その右手には、小型のカランビットナイフが握られており、少しでも力を入れればリーダーの首を切り裂くことができた。
見えなかった動きに反応できなかった驚愕。更にタカハシが武器を持っていたことに恐怖する。これがもし、夜間の路地裏であれば、彼らは間違いなく自分の血と臓物をばらまく結果になっていたからだ。
それだけの実力をこのヒョロ長が持っていることを、そして自分達の命が助かっていることもリーダーは理解できた。
「何者なんだ、お前……!?」
タカハシの右手が動き、リーダーは思わず唾を飲む。
右手はリーダーの首の肉を刈り取らず、ゆっくり下ろされていく。
「気が変わらないうちに失せろ」
タカハシはカランビットナイフを片付けて背を向ける。リーダーは気が抜けたのかバタフライナイフを落とし、壁にもたれ掛かりながら座り込んでしまった。
「Mrs.アルバーニ」
「はいよ」
短い時間だったが野次馬が出来ていた。写真や動画を撮影する者もいたので、この場から去らなければならなかった。
呼ばれたフランチェスカはタカハシに付いていくが、傍らに転がっていた男を見ると足を止めた。
「そういやお前、アタシとヤりたいんだろ? いいよ。イカしてやるよ」
おもむろに男の股間をブーツを踏みつけると、強く上下に擦り付けた。ブーツでも男の性器が勃起しているのがわかる。フランチェスカはそれを不快どころか、愉快と思っていた。こういう場面でも欲求というものは生まれ、抗えない生理反応とはいかに素直で馬鹿馬鹿しいものか。
思わず男は呻き声をあげた。その直後、フランチェスカは全力で股間を踏みつけた。男の呻き声は叫び声に変わった。トドメに全力で蹴り飛ばす。睾丸が潰れ、性器が折れた。
「ホラよ。望み通りに“逝った”ぞ。最高にハイで気持ちいいんだろ?」
「Mrs.アルバーニ。君が構う相手じゃない」
「わかってるよ。からかっただけだ」
まるで遊んでいたかのような軽い口調で答え、フランチェスカはタカハシの隣に並ぶ。
《レッド・グループ》の面々はしばらくの間、人波に消えた二人を呆然として見ることしかできなかった。
人波を掻き分けて出てきた二人は、拠点まで歩くことにした。途中、タカハシが口を開く。
「自由奔放に動くのはいい。君の勝手だから俺はなにも言わない。だが時と場所を選んだ方がいい」
「わかってるよ。懲りたよ。しばらく池袋方面には行かない」
「それがいい。あそこは《レッド・グループ》の本拠地だった場所だ。今は残党ばかりで統制すらされていない」
「ふぅん。詳しいな」
「色々とね」
「色々、ね」
確かにと、フランチェスカはそれ以上なにも追及しなかった。
タカハシのあんな泣きそうな瞳を見て、問い続けることなどできやしなかった。
あの一瞬で、タカハシがどんな人生を送ってきたのか大体わかってしまった。詳細はもちろん知らないし、間違っているのかもしれない。ただ確実にロクな人生を送れなかっただろう。
望まないで堕ちたか自ら堕ちたかまではわからない。ただ、自分と同じ人生を歩んできたことは確かだ。“糞のような世界を歩いてきた”。
自分と同じ、世界の背徳を担う人間であった。
そう思うと、タカハシの存在が一気に身近に感じた。彼のことを同じ人種だと理解し、そして興味が湧いてきた。何が彼を壊したのか。
「タカハシ」
「なんだい、Mrs.アルバーニ」
タカハシは先程までの冷たい口調ではなく、今まで通りの口調に戻っていた。
「いちいちMrs.とか付けなくていい。アタシは淑女なんかじゃない。それにアタシは名前で呼ばれた方が断然いい」
「君が良いのなら……フラン。フランチェスカはちょっと長い」
「いいさ。アタシの呼び名はそれで合ってる。本当の知り合いしか呼ばせない」
「それは光栄だよ、フラン」
「見事アタシのお気に入りに認定された訳だ。ここは一つ、モーニングでジャパニーズテンプラとスシをご馳走してくれ」
「おい、店やってないぞ」
「気にしないって」
そんな問題ではないことにタカハシは頭を抱えるが、仕方ないといった感じに諦めた。
拠点に到着。しかし二人は建物に入らず、バイクに跨がって魚市場の近くにある飲食店へと走り出した。
――――――――――――◇――――――――――――
裕一の家を出た沙耶達一行は、事件の謝罪と今後の対応についての簡単な説明の為に各取引会社へと移動していた。
会社に到着しては、沙耶は頭を下げっぱなしだった。迷惑をかけられたのは自分だというのに。
穏便に済ませる会社もあれば、わざわざ怒鳴り散らす会社もあった。マスコミによって襲撃事件が大々的に放送されている為、自分の身にも危険が及ぶかもしれないことを考えたら当たり前のことではあるが、恵と瑠奈、誠二率いる《リスクコントロール・セキュリティ社》にとっては何を今更といった感じを抱いていた。
今の時代、一般企業でさえハッカー集団に狙われる時代。軍事企業に関わるならばそれ相応の覚悟をすべきだと。
そんなことを一般人が持ち合わせている筈もなく――そもそも持ち合わせていないから怒鳴り散らして侮蔑するのだが――、沙耶には厳しい叱責が降り注がれていた。
ようやく取引会社への訪問が終わったのは昼を過ぎたあたりだった。
この後は《ディ・マースナーメ》の会社へ向かい、現在の状況と今後について社員へ説明する。その間、周囲の警戒や監視などを行う。
昼食はまだ済ませていなかった。行きつけのパン屋に寄ってもらい、いつも買っているパンとコーヒーを千香に買ってきてもらう。ついでに恵や《リスクコントロール・セキュリティ社》の社員達も昼食としてパンや飲み物を買うことにした。
車内に瑠奈しかいなくなり、沙耶は思わず小さな溜め息を漏らす。
移動中、タブレットPCで溜まっていたメール処理や、会議を改めるメールを送信したり、控えている出展イベントへの打合メールをしていた。慣れないことをしたせいで少し気分が悪かったが、弱音を吐くことはしなかった。それでも、頭痛を感じると頭を抱えるように手で覆った。
見かねた瑠奈が、用意していたミネラルウォーターを差し出した。戸惑った沙耶だが、「ありがとうございます」と礼を言って受け取った。
「このお店はよく利用するんですか~?」
「はい。幼い頃に立ち寄ってから、外出すればこのお店に通っています」
ミネラルウォーターを二口ほど口にしてから容器を返した沙耶は、話題を変えて聞いてみた。
「《リスクコントロール・セキュリティ社》の方々は、貴方達と知り合いなのですか? その、IMIと友好関係と言いますか、就職支援と言いますか……彼らの立ち位置はどのような?」
「前に説明受けたかもしれませんが、《リスクコントロール・セキュリティ社》は日本IMI援助で設立されて内閣や自衛隊にも容認されている企業です。危機管理コンサルタント企業や警備会社という言い方ですけど、分かりやすく言ってしまえば民間軍事企業なんですよね~」
「日本に民間軍事企業があるとは聞いていましたが、設立のメリットなんてあるのですか?」
「やっぱり一番は支援なんですよ~。IMIの就職支援の一つになります。私達のやってることは極端ですからね~」
「それ以外にメリットはありますか?」
更なる質問に瑠奈はわざとらしく「うーん」と考えた。
「ないと思いますね~」
「えっ?」
考えたわりには中身のない簡単な回答に、沙耶は拍子抜けしてしまった。しかし瑠奈は説明を続けた。
「まだ争いが続くアフリカや東南アジア地域には遠く、各国の紛争に対応できるほど規模も多くありません~。それに今の時代、落ち着いたとはいえ《7.12事件》の首謀組織である《狂信の者達》打倒の為に各国の軍事がまだ働いてますし、それこそIMIもあるので~。
それに日本という国はそういった事柄に関しては厳しいですからね~。あまり良いことはないと思いますよ~。誠二さんも最初はアメリカかヨーロッパのどちらかで立ち上げるか迷ってましたし~」
《7.12事件》によって世界情勢が変わったとはいえ、未だ尚、世界の争いは変わらない。変わる筈がなかったのだ。
ただ混乱を招いただけで、犯人探しをすれば更に混乱した。《狂信の者達》打倒を掲げて各国から軍が派遣され、IMIが派遣されても、結果は喜ばしいものではなかった。
《狂信の者達》の他にも脅威が姿を表し始めた。ISIS、タリバン、アルカイダ、ボコ・ハラム、アノニマス――言い出せばきりがない程に、世界に脅威が蔓延していった。
いや、蔓延していたものが姿を見せただけである。《狂信の者達》によって影を潜めていただけで、時が経って見えてきただけなのだ。
初めから脅威はそこにいた。
故に何も変わらない。ISISは国を作り、タリバンやアルカイダは殺し合い、ボコ・ハラムは拉致しては殺し、アノニマスはネットの海を潜り続けている。
解決の糸口など初めからないのだ。脅威は癌と同じである。“完全に取り除かなければ永遠に蝕む”。
「それでも日本に作った理由は?」
「私はそこまでわからないですね~。IMI支援や自衛隊公認によって自由にできていますし、日本に本社を置いても今のところ不自由はなさそうですから~。やっぱり本人に聞いてみた方がいいですね~」
「機会があれば聞いてみます。貴重なお話、ありがとうございます」
「いえいえ~。話せることならいくらでもお話ししますよ~」
しばらく雑談していると千香と恵が戻ってきた。車のエンジンはつけたままだったので、沙耶は窓を開けてパンを受け取った。
瑠奈はなにも言わなかったが恵は呆れていた。なんの警戒もせず自分の顔を晒すなど、ただの馬鹿としか思えなかった。それでもなにも言わなかった。言っても無駄だと。
パンが入ったビニール袋とカフェラテを注がれたカップを受け取った沙耶は礼を言う。
パンを取り出そうと袋に視線を移そうとした沙耶は、道の先にいた人物に目が止まった。
二人の男女。赤の他人から見れば端麗な顔立ちの外人カップルに見えるかもしれない。だが沙耶は間違わない。
襲われたあの日、自分のもとに駆けつけてきた少年の顔を。車に乗り込む際、手を差し伸べた少女の顔を。
智和とララがそこにいた。
「あの、すいません」
自分でも声を張り上げた理由がわからなかった。反射に近い反応で話しかけていた。
呼ばれた二人は顔を向け、一緒に嫌な顔をした。何故ここにいるのだろうと同じ表情をしていた。瑠奈は苦笑し、恵は舌打ちしてあからさまに苛立っていた。
「……何でいるんだ?」
「知らないわよ。というか最悪のシチュエーションよ、これ」
智和とララが状況を飲み込めない中、智和の携帯電話に誠二から着信がきたので電話に出た。車の中から一部始終を見ていたのだろう。
『二人は護衛対象の車に乗れ。瑠奈はこっちに乗せる。クソ、何だこのザマ』
「わかった」
これ以上怒らせない為に智和は短く答えると、ララを連れて車へと歩いていく。疲れていないのに足取りが重かった。
降りた瑠奈と変わるように智和とララが車に乗る。助手席に乗っている恵が苛立っていることに気付き、二人はなにも口にすることはなかった。
車が動き、誠二の指示でとりあえず適当なルートを走ることにした。
「あの、ごめんなさい。私のせいで皆さんを怒らせてしまって……」
発進早々に沙耶が謝罪してきた。それならするな、と言いたげに恵が舌打ちする。
「やってしまったことをどうこう責めるつもりはない。次からは気をつけてください」
もう二度としないように。そう念を押して智和は付け加える。
IMIが関わっていることは既に知られているが、どのような人物が関わっているのかまで知られたくはない。沙耶の周辺を四六時中監視して警護する人間ならまだしも、周囲に紛れて警護しなければならない人間が知られてしまっては意味がない。
それを即座に理解したのか、沙耶は自分の軽率な行動にとても落胆していた。おそらく自分でも何故声をかけたのかわからないのだろう。だからといって許して良いことでもないが、これ以上糾弾することはない。
しばらく沈黙が続く車内。智和は前から気になっていたことをふと思い出し、沙耶に聞いてみた。
「何故、軍需産業などに進出しようと?」
「元々は父が手掛けていた小さな会社でした。進出しようとしていた訳ではなく、既に進出していた、が正しいでしょう」
「日本IMIとも関係を持った理由は?」
「五、六年程前ですか。日本IMIの活動が活発になったといいますか、積極的な戦闘行動をするようになったのです。その時、女子生徒用のボディアーマーや戦闘服などを作ってみないかと私が父に相談しました。そこから少しずつ、IMIに商品提供する形で研究開発を進めています」
当時は、日本IMIに誠二が所属して《特殊作戦部隊》が設立された年に近い。
活動が活発化したというのは犯罪率の低下と犯罪者の掃討。及び《準進行不可区域》の範囲縮小へ向けた監視行動――と言う名目で“個人能力上昇の為の戦闘行動”が行われ始めた年でもある。
いくら訓練しようが実戦を体験しなければ意味がなかった。それほど当時の日本IMIは、世界各国のIMIから見ても能力不足と見なされていた。実戦のない島国のIMIに何ができる、と。
故に誠二は戦闘行動をさせるべきだと提唱し、学園長の如月は承諾した。そして現在に至る程の戦闘行動をこなし、今ではトップクラスの能力として位置している。
「父が軍需企業から退き、今の社長へと変わりました。その時に社名も変えたのです。きちんとした役職はありませんでしたが、私は補佐役のような形で携わってきました。服の他にGPS機能の開発や自動販売機の学生証認識システムなど、日本IMI独自のシステムに関われていると思いますよ」
「聞いてあれですが。沙耶さんが社長就任になるとのことですが、数年で社長が変わる理由とかあるのですか?」
「その次期の私はまだ幼いですから。私はその気がなかったのですが、今の社長がどうしても私に譲りたいらしく。任せていただけるなら喜んで受けますが、卒業してからでも遅くないと思うんですけどね」
話してみて、わかったことがいくつかあった。
沙耶は望んで軍需産業に進んだのではない。それに関わったからこの先も関わっていくという、ビジネスマンの思考だ。
出世欲もそれほどない。小さな会社で、親族だからそう言われているだけである。
出世欲はない。ただ追求欲がある。
戦闘服やボディアーマー開発から、一気にコンピューターシステムまでに関わってきた。衣服分野からいきなりIT分野へ対応し、GPS機器や認証システムを独自に開発し、成功してきた。
もし、これが沙耶の助言によるものだとすればとんでもない功績だ。なんせ日本IMIの重要システムの考案者なのだから。
そしてもう一つ。わかったこともあった。前々から確認しておきたかったことを、智和はようやく聞いてみることにした。
「沙耶さん。貴方は“こちら側の世界”にはあまり詳しくないですよね?」
「……“こちら側”とは、どういった意味でしょうか?」
「そのままの意味です。俺達がいる世界のことを、貴方はあまりわかっていない。世界情勢や政治の話ではなくただ単純な話。現場の話です」
智和の真意がわからず沙耶は怪訝な表情をしていた。
「貴方の商品は確かに素晴らしいものです。国産の日本IMI向け戦闘服やボディアーマーは当時はなく、GPS機能や認証システム自体がなかった。それに関しては沙耶さんは素晴らしい。
しかし貴方の言葉を聞いていると、頭の中に思い描いた物を作り上げたいということしか思えないのです」
「それは、貴方達の言葉を無視している……ということでしょうか?」
「いいえ。ただ、貴方は何も知らないままこの世界に足を踏み入れているとしか思えない。貴方はサプレッサーをわからなかった。技術はあるのにそういったことはわからなかった」
警護任務をする前。状況を理解させようと説明した際に、沙耶はサプレッサーの意味を知らなかった。それが智和には引っ掛かっていた。
「おそらく、ボディアーマー開発で沙耶さんはただ言ってみただけでしょう。知識や技術はある。ただ、それは貴方が進む方向にある物にしか向かない。極端に狭く、深く。
それほどまでに貴方は俺達のことを知らない。理解できているようで理解できていない」
「いい加減に――」
「千香。いいの」
智和の言い方が気に入らない千香だったが、主に宥められてぐっと堪えた。
沙耶は隠し事がバレた子供のように笑うが、どこか落胆しているようにも見えた。
「神原さんの言う通りです。興味のある分野でも極端に狭い知識しか見ようとしない。言ってしまえば貴方達が現場で使う物には興味が湧かなかった……というよりは、そこまで考えてなかったのです」
「だが、貴方は現場の道具に興味を持ってしまった」
「ええ。それが無人航空機という訳です」
「正直な話、無人航空機に手を出そうとした理由がわからない」
「理由ですか?」
すると沙耶は何故か恥ずかしながら話した。
「大した理由ではないのですが……私、最近まで飛行機に乗ったことがないんです。高校二年生で初めて海外へ。窓際の席でした。乗っている時の景色が綺麗だったんです。海や、雲や、小さく見える建物や夜の街や、全部綺麗だった。その感動を今でも覚えています。それを手軽に、誰にでも体験させたい。そんな思いで無人航空機に手を出しました」
「……失礼ですが、それだけですか?」
「はい」
「本当にそんな理由で?」
「そんな、とは心外です」
「智和」
沙耶の理由を信じられない智和に、ララは呆れながら口を挟んだ。
「貴方も言ってたでしょ。極端に狭いって。彼女、本当にその理由で手を出したのでしょうね」
「色々と調べて、大企業と中小企業の技術独占が競争されていることはわかっていました。法律制定のことも。だから、法律が制定される前に小型無人航空機を個人向けに販売することを提唱した覚えはあります」
「マジかよ……。その理由でこんなことなってるのか」
稀に見る素直な人間に智和は頭を抱えた。“そんな理由”でこの事態になっているなど、あまり人には言いたくなかった。
「……やっぱり貴方は、もう少し立場を理解するべきだ」
「と、言うと?」
「沙耶さんは軍事企業の人間だ。いくら純粋な想いで無人航空機開発と販売を自由に提唱しようが、他の人間は快く思えない。民間向けの商品を作ると言っても説得力がない。
実際、会社で作られたモノは小型で映像も良く見える。頑丈で稼働時間も長い。部隊で行動するなら持っていきたい代物だ。そして、そこまで作ってしまえば必ず軍事用になる」
「それは……」
「ない、と言い切れない。数台購入してしまえば後はこちらの自由になる。赤外線センサーや熱探知機能も付けられる可能性だってある。そうなってしまえば最早、民間用には販売できない。軍事関係者、IMI関係者がこぞってやって来る。
貴方が夢を見て作ったモノは確かに素晴らしい。ただ、世の中にはその夢を利用する人間がいることも忘れないでいただきたい」
例え子供向けの玩具を作っても、それが人を殺す道具に変わる時もある。
沙耶は無人航空機を空から眺められる自分の目、としか考えていないのだ。ただの記録媒体、手軽な空撮機器。
しかし智和や、他の人間は違う。持ち運べる空の目。敵を見つけられる便利な道具。盗撮、盗聴できる機器。爆弾を装備して突撃させる道具。
敵を殺せる道具。
考え方だけでこうまで違う。それほどまで無人航空機の可能性が高く、人の思考によって目的が変わるのだ。
言うなれば、人の思考によって変わる。
無人航空機だけではない。日常品でさえ殺す武器となる。
故に思考の違い。思考の差異。
本当は沙耶も理解していた。自分の立場で開発すればどうなるかを。
それでも諦めきれなかった。
「……今更なことを言っても意味がないです。自分達に干渉の権利はない。ですので、あまり気を落とさないでください」
あれだけ言っていた智和だが、隣で肩を落としている沙耶を横目で見ると申し訳なく思った。
「いえ。神原さんの言葉は正しい。私はもっと自覚しなければならないでしょう」
「それでいいです」
沙耶はカフェラテを飲んで一息置くと、別の話題を聞いてみた。
「興味本意な話になるのですが、警護される側に何か求めてますか?」
「はい?」
「私自身、警護されるという経験がないもので。神原さん達の意見で、私に何か求めることはあるのかなと思いまして。なんというか、アドバイスじゃなく……こうして欲しいとか」
「赤の他人役には声をかけないこと」
恵の意見にを聞いた千香が睨み付ける。沙耶は苦笑して「次は控えます」と約束した。
「特にないですよ。強いて言うならいつも通りに。変に気負っていては疲れてしまう。あと、非常時は警護係の指示を聞いてください」
「それは大丈夫です。他にはないのですか?」
「他にねぇ……」
智和が言うことでもないのだが、他に言うことがなかったので教えることにした。
「最悪の状況下の一つ。もし沙耶さんが敵に拉致された場合のアドバイス」
「はい」
「気を強く持ってください」
「…………それだけですか?」
「それだけです」
なんて適当なアドバイスだろうと肩透かしになった沙耶だが、智和の真剣な表情で考えを改めた。
「拉致された場合、沙耶さんの身に何がされるかわかりません。監禁、薬物、陵辱、拷問。そういった時、常に自分を保っていられるよう頑張ってください。心を折らず、耐えてください」
「……そうなった場合、いつまで耐えれば良いのでしょうか?」
「わかりません。長い時間が掛かります。“ですが必ず助けます。沙耶さんを助けます”。その時まで、どうか耐えていただければ」
――ララと恵、口にした智和でさえ最後の一言を疑問に感じた。
必ず助ける。
《特殊作戦部隊》の本来の役割は主に殲滅だ。そんな彼らが言う言葉ではない。
勇気づける為でなければアドバイスの為でもない。“あの時、助けられなかった為に口にしたようなものだった”。
智和らしくない言葉だった。
「そろそろ自分と彼女は降ります。車を停めてください」
停車することを恵が無線で後続車に連絡。智和とララが降り、再び瑠奈が乗り換える。
瑠奈は擦れ違った時、智和の異変に気付いて足を止めた。
「……何かあった~?」
「何もない。安心して」
ララが答えたが瑠奈は納得していない様子だった。恵に急かされて渋々後部座席に乗る。
車が行った後、智和は溜め息を漏らした。
「意外と引き摺ってた」
「仕方ないわ。長い付き合いだったもの」
軽々しく助けるなど言わない筈だ。それがどういう訳か言ってしまった。
佐々木彩夏のことを思い出した。
悔やんでいたから出た言葉なのか。決意したから出た言葉なのか。どちらかはわからないが、確かにあの瞬間、彩夏のことを思い出した。
憂鬱な気分だ。
自分でこれだけ気分が沈むなら、彩夏の同級生である千里達はどうなのか。
考えているとララが前に立って智和を見上げた。
「昼食にしましょう。美味しいもの食べて、それから仕事再開」
「ララに店を任せる」
「行き付けの喫茶店。オムライスが美味しい。ここから歩いていける」
励まされていることがわかる。情けない気持ちにはならず、ララが人を励ますなど思っていなかったのでむしろ驚いた。
その気遣いを無駄にせず、智和はララの提案を受けることにした。




