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烏は群れを成して劈く  作者: TSK
第一部第3章
16/32

一ヶ月半前

殺す彼らとて人だ。

故に、狂気を認識する。

 智和の日常では、朝の行動はだいたい決まっている。

 五時半には起床。顔を洗い、IMIの敷地内をランニング。一定のスピードを保ったまま三十分きっちり走る。走り終えて部屋に戻りウェイトトレーニングを行う。筋肉を付けすぎてもいけないので、注意しながら行うのだ。その後はシャワーで汗を流して食堂に出向き、朝食を済ます。

 平日ならば制服に着替え、銃の点検を済ませ、授業や午後の訓練などの準備をして普通科校舎に向かう。休日ならば私服に着替えて、iPadで新聞を読みながらテレビのBSで放送されているワールドWaveを聞き流し、メジャーリーグ中継を見る。

 新聞を電子書籍で見ているのは、単純に新聞が読めないからだ。あるにはあるのだが、男子寮の受付係員はスポーツ新聞しか読んでおらず、購買で買うか、図書館に行って読むしか選択肢がない。どちらも朝は開いておらず、新聞を読む為に広いIMI敷地を移動するのは面倒だった。

 平日はともかく、休日の朝はゆったりできる。ソファーに寝ながら新聞を読む傍ら、コーヒーを飲み、ニュースやメジャーリーグ中継を垂れ流す一時ひとときは平和そのものだ。智和は今後も、休日の過ごし方は大切にしたいと思っている。

 いつもなら試合が終わるまでゆっくりしているが、今回は途中で切り上げねばならなかった。迎えに行く用事があるのだ。

 制服に着替え、携帯武器として通販で購入した安物ナイフを腰元に装備する。本当ならば拳銃を所持するべきなのだが、生憎と持っていない。自分の持っていた拳銃を壊し、挙げ句の果てには武器保管庫から借りた拳銃を先日のエリク事件にて壊してしまった。どちらも鈍器のように扱って、粉々に砕けた。

 おかげで武器保管庫の担当からは「本当にやめろ」と厳重注意され、長谷川からも「さっさと自分用を買え、馬鹿」と催促されてしまった。その日のうちに新しい物を注文し、明日辺りに届く。

 学生証や携帯電話、財布を持って部屋を出て一階ロビーへ。休日のロビーには生徒の姿がちらほらと見える。

 智和は受付で係員と話す強希を見つけて歩く。智和に気付いた強希は話を切り上げ、隣を歩いて男子寮を出た。

「何話してたんだ?」

「NBAでどこが優勝するか」

「ヒートだろ。単純に考えて」

「いいや。今度こそスパーズだ」

「サンダーに負ける。もしくはレイカーズ」

「レイカーズは駄目だな。コービーは歳だし、あンなのは金しか掛かってねぇ」

 そんなことを話しながら男子寮前に駐車していた車――輜重科から借りた――に、智和は助手席、強希が運転席へ座る。車を発進させ、IMIを出て羽田空港に。研修から帰ってくる恵と新一を迎えに行く。

「で、お前相変わらずMLBか。よく飽きねぇな」

「ヤンキースがアスレチックスに負けそうだった」

「ヤンキースも終わりだな」

 他愛ない話をしている最中、智和は思い出した。

(……ララが来るんだったな)

 そちらには長谷川が迎えに行くのだが、部隊長である自分が行かないことに対し、少しだけ罪悪感を抱いた。


――――――――――◇――――――――――


 民間軍事企業アックスの社員であるマイケル・リーヴァーは、初めて訪れた日本にすっかり馴染んでいた。休日には東京タワーや東京スカイツリー、浅草などの観光名所を、友人であり人生の先輩であるアレン・マイヤーと回るほどだ。今度は秋葉原に出向いて、基盤を買い、日本文化とも言える二次元文化に触れてみたいと計画している。

 今日はあいにくと仕事だ。だが仕事と言っても社長を迎えに羽田空港まで行き、社員が滞在しているホテルへ連れていくだけだ。午後になれば自由の身となる訳である。

「チクショウ。ヤンキースが逆転勝ちしやがった」

 空港内にある喫茶店に入り、マイケルと向かい合って席に着くやいなや、アレンはそう言った。車を駐車場に入れたが、近い場所が空いているか探す為にマイケルを先に降ろした。マイケルがプリペイド式携帯電話で喫茶店にいることを告げ、アレンは迷わず喫茶店に入ってこれた。話題の野球はラジオで聞いていたものだ。

「八回裏のワンアウト満塁でイチローが打ちやがった。しかも立て続けに打たれて、クリーンナップにはホームラン連続だ。おかげで二桁得点。ヤンキースは三連勝にアスレチックスは五連敗。もう嫌になる」

「だったらアレン、もうアスレチックスのファンなんかやめちまえばいい」

「わかってないなマイケル。地元のチームだから応援し続けるってもんだ。わかるか?」

「わからないね。詳しく教えてくれよ」

「昼間からホットドッグとビールを持って外野席へ。選手達の活躍を見ながら旨いものを食って、ホームランボールを全力でキャッチしに行く。取れなくてもいい。それが最高なんだ。わかるかマイケル?」

「ベースボールは興味ないけど、バスケットボールでも同じ。いやスポーツ全般に言えることだ。地元チームが弱くとも応援したくなる。いつか強くなって優勝争いしてくれるって。そして一緒に戦うんだ」

「そうだマイケル。やっぱり俺とお前は兄弟みたいだ」

「俺も、軍に入隊してアレンに会ってなかったら、何をしてるかまったく想像つかない」

 マイケルとアレンはアメリカ陸軍出身で、部下と上司の関係だった。二人はアメリカ陸軍第三軍第一騎兵師団の第九騎兵連隊第六大隊に所属していた。マイケルは上等兵。アレンは軍曹だった。

 十年以上のキャリアがあったアレンは優秀で、レンジャー試験を受けないかという誘いもあったが断った。手術したことのある腰が再び痛みだした為だ。

 二人は同じ部隊だった。よく一緒に偵察任務に出た。家族のことや生活のことなどを話し、部下と上司ではなく、本当の兄弟のようだった。

 持病の腰痛が悪化し、手術と療養の為にアレンは軍をやめた。マイケルは派遣先のイラクに残った。

 現在、マイケルはまだ二十六歳。やめたのは三年前の二十三歳。六月頃だ。偵察任務中、定期的に訪れて交流していた村でテロリストと出くわし、銃撃戦になった。その時、仲間の一人が負傷してそのまま死亡。更に村民が数人犠牲になった。子供も含まれていた。

 マイケルは仲間の死を悲しんだが、村に犠牲が出たことに深い傷を負ってしまった。悪者を倒す為に軍に入隊し、辛く厳しい訓練を乗り越えて一人前の兵士――ヒーローになれたつもりだった。だが実際、子供すら守れなかった。

 意味を見出だせなくなったマイケルは軍をやめ、貯金やアルバイトで大学へ入学した。勉強し、友達を作り、恋人を作り、馬鹿騒ぎをした。

 だがマイケルの心は晴れなかった。友達と勉強で議論し合ったり、恋人との甘く激しい時間を過ごしても、クラブに行って踊りカクテルを飲んでも、まったく晴れなかった。

 彼の心に、小さな村のたった四人の犠牲が深い傷痕を残していた。

 大学も休みがちになってしまい、貯金を使い果たさないうちに実家へ帰ろうかと考えていた時だ。腰を手術し、療養を終えたアレンと再び出会った。そして再び銃を握らないかと、誘われた。

 民間軍事企業アックス。聞いたことはなく、社員の中には少しばかり悪い噂を聞く者もいたが、アレンが入社したことと、再び自分が守る側に立つことを決意した。

 実家には大学をやめて仕事に就いたこと、その都合でアメリカを離れることを告げた。民間軍事企業に就職したことと、再びイラクへ行くことは言えなかった。心配をかけたくなかったのだ。

 イラクへ出向き、ブラックマーケットでルーマニア製の中古AK47ライフルを購入。建設現場の警護や運搬トラックの護衛が主で、時には武装勢力との銃撃戦がたまにある。休日は海賊版DVDを見たりゲームをするか、銃を整備、訓練を行う。

 これらの日々を過ごしているうち、マイケルはこの人生が自分には合っているのだと感じた。だが一生の職にするつもりはなく、両親を安心させて楽にしたいと、給料の三分の一は貯金していた。アレンもそれがいいと賛成してくれた。

 今回の仕事は妙だった。島国日本で、スラム街の調査だと言う。準備は全て依頼側が用意しており、企業負担は詳しくわからないが自分達の負担はなかった。条件付きでもあるが苦には感じない。

 しかしながら、日本は本当に治安が良いのだと、マイケルとアレンの両者は感心する。電車では新聞を置いても取られず、財布も交番に行けば届けられていた――アレンは本当に感激した――。

 だからこそ、スラム街――進行不可区域と呼ばれる場所の調査は不安だった。だが運悪く仕事が入ってしまったので、アレンを巻き沿いにして日本に来たのだ。

 だが来て良かった。観光名所を回り、日本独自の文化や国民性、平和や治安の重要さを学んだ。アレンも喜び、今度は妻と二人の娘を連れてきたいと言っている。日本語が多少できるマイケルも連れて、通訳として酷使される予定だ。

「社長が来たぞ」

「先に行っててくれ。払ってくる」

 社長であるポールの姿を見つけ、アレンを先に向かわせる。マイケルは「ドウモアリガト」と片言ながらお礼をして会計を済ませて店を出る。

 歩いている時、同じ喫茶店にいた四人の少年少女を見つけた。あの制服姿はIMIの制服だ。仲良く昼食を食べている。金髪や、髪の一部を紫に染めているあたり、身なりは自由らしいと悟る。

 その四人がただ者ではないと、すぐにわかった。四人共、人を殺してきた目をしている。

 平和な国なのにと、マイケルは少し悲しくなりながらポールを迎え、三人は空港を出てホテルへと向かった。


――――――――――◇――――――――――


『進行不可区域における六回目の調査内容』

 進行不可区域内はスラム街のように無秩序で、建築物も規則性なく建設させられている無法地帯だと、五回目までの調査報告書ではまとめた。今回は進行不可区域の独立性において報告する。

 進行不可区域は独立しているように思えるが、完全孤立している訳ではない。また進行不可区域にも協調性は存在し、統一も存在する。支配勢力がいくつか存在し、互いの利権や利益を尊重などして、絶妙な間合いを保って干渉している。つまり、進行不可区域内は一つの“国”である。

 経済性において、国家から支援を受けていない進行不可区域であるが、進行不可区域内における支配勢力によって経済能力はある。市場に出回るのに主な物は食料、武器、麻薬など、一般社会と同じ物。売春婦による経済はこちらの方が発展している。

 武器、麻薬の流通について詳細不明だが、ジャパンマフィア――ヤクザ――や、沖縄や横須賀に滞在する米軍などの横流しか、海外マフィアによるものだと推測する。国の目が届かない進行不可区域ではやりたい放題である。また、それ意外の関係者による横流しまたは処分品もある。AK47やRPK、トカレフやマカロフは勿論だが、ブラックマーケットに売られている銃器と弾薬、市民――住人と言うべきか――が持つ物は性能が良過ぎている。対空砲も完備していた。ジャベリン、スティンガーなども充実している。

 これらの報告を元に、進行不可区域はソマリアより危険であり、ロシアのようなマフィア国家のような区域だと断定する。

 報告者。マイク・ボーン。


――――――――――◇――――――――――


 六回目の報告書を書き終えて、マイク・ボーンはコーヒーを飲んで一息ついた。

 マイクがいるのは拠点にしているホテルの一室。なかなかの広さと快適さがあり、食事も旨かったので文句はない。仕事も楽なものだ。

 ボールペンを置いて――マイクはパソコンではなく手書きで報告書を仕上げる――、時間を確認。十二時を過ぎていた。ポールを迎えに行ったマイケルとアレンがもう少しで帰ってくる。合流したら、ポールに今までの報告と社員の状況を説明するように言われる筈だ。長くなりそうなので昼食を済ませることにする。

 部屋を出たマイクは、ふと隣部屋の様子が気になった。一階のレストランに向かう前に見ておくことにする。

 ノックするが応答なし。もう一度ノックしても返事はない。

「俺だ。マイクだ。開けろ」

 叩くようにノック。三度目の正直でようやく扉が開いた。

「何だよ。うるせぇな」

 扉を開けたのは上半身裸のジョン・アンダーソン。白人で、右肩から右肘にかけてタトゥーが彫られている。他にも右胸や左側の首、見えない場所では足にも掘っている。

 そんな彼が、民間軍事企業アックスの悪性がんとも言える問題人物だ。

「また飲んでるな」

「ああ、そうだよ」

 吐息からアルコールの匂いがする。ジョンは悪びれる様子もなく奥に戻り、追うようにマイクも部屋に入る。

 部屋のテーブルには日本で購入した安物のウイスキーボトルが四本。そのうち二本は空だった。煙草の吸い殻も灰皿を埋めるほどの量だ。

 だがマイクが注目したのは酒や煙草ではない。

 どこにでもある空き缶の表面が開かれ、中には燃え粕があった。典型的なクラック・コカインの喫煙だ。

「買ったのか」

「進行不可区域にいた売人からだ。大麻じゃねぇ。上物のコカインだ」

「炙ったのか」

「ヘロインは買うなっつったのはマイクだろうが」

 得意気に話すジョンは、まるで学生のようだ。その行為が遊び同然のようにしか感じていない。

 彼の行動や性格について、今更とやかく言うことはしない。だがここはイラクでもなければアメリカでもない。日本だ。充分に注意せねばIMIどころか、警察に感づかれてしまう。

「進行不可区域以外から買っていないんだな?」

「買ってない」

「それならいい」

 仕事に支障を来してはいけない。こんな仕事で貰える大金は確実に手にしたかった。金が欲しいのは皆同じだ。

 マイク・ボーンは第75レンジャー連隊に所属していた少尉。ジョン・アンダーソンは第18空挺軍団隷下の第10山岳師団に所属。階級は上等兵だった。

 ジョンは暴力的だった。戦闘ではかまわないのだが、気にくわなければすぐに手を出す。バーで何度喧嘩したかわからない。上官をも殴るのだ。

 そんな彼だが空挺資格を持っていたので、レンジャー試験を受けられた。だが落ちた。能力に問題はないのだが、バディとの衝突や彼の性格が仇となった。レンジャーになれず、派遣された先で窃盗や強姦をした。怒りで我を忘れ、民間人を殺した。

 憲兵によって事件は把握されるが、国は自国兵士の事件を快く受け止めたくなかった。その為、秘密裏に処理された。ジョンも除隊させられた。

 マイクは優秀だった。二十代前半でレンジャーになり、このままならグリーンベレーにもなれた。だがなれなかった。

 偵察任務中、テロリストを拘束した。その際、情報を聞き出す為に拷問したのだ。それが知られ、マイク・ボーンのエリート人生は一気に転落した。

 ヨーロッパで殺し屋を営んでいたが、ポールに誘われて民間軍事企業へと入社。そしてわかったのだ。ここにいる人間の大半は屑だと。

 その屑な人間達がこんな場所にいると考えれば、どこかおかしくて鼻で笑った。


――――――――――◇――――――――――


「よいしょっと……」

 中期三年D組の佐藤早苗は、屋内射撃場で回収した空薬莢を入れた箱を運んでいた。

 中期生の午後割は、各科ごとの訓練か、担当となった持ち場の係などが主だ。射撃場や保管庫などを週変わりで担当し、規定時間まで任された仕事をこなす。

 それ意外は自由時間となるが、中期生のうちは自由時間など一週間のうちに多くて二日ほどだ。しかもIMIは一般教養と軍事教養をしている為、大方の中期生徒は自主学習か個人訓練をしている。

 部隊に所属すればそちらが優先され、高期生になれば仕事が減る。わざと中期生に負担を与え、上下関係をはっきりさせているのだ。その為、中期生は必然的に体力や根気が要る雑用を任せられる。

「よっと……ってうわぁっ!?」

 重さに耐えきれず、なにもない場所で思わず転びそうになってしまう。

「っととと、大丈夫ッスか?」

「え? あ……」

 しかし、誰かが箱を押さえたおかげで佐藤は転ぶことなく、空薬莢が撒き散らされることもなかった。

 受け止めたのは同じクラスであり、中期生で唯一狙撃専門の部隊と特殊作戦部隊に所属している新一だった。

「し、新一君。帰ってたの?」

「今日帰ってきたッス。どこまで運ぶッスか? 手伝うッスよ」

「あ、えーと……その……第二武器保管所まで運ぶの」

「了解ッス」

 申し訳なさそうに呟いた佐藤に、新一は軽い口調ながらも嫌な顔をせず運ぶのを手伝った。

 第二武器保管所までは些か遠い道のりを、二人は雑談しながら歩いていった。

 到着し、空薬莢を入れた箱を担当に渡した。そしたら、ついでに弾薬箱を第三保管所まで届けて欲しいと頼まれた。中期生に断る権限はないので、渋々と台車に弾薬箱を積んで運ぶことにする。

「その……ごめんね。手伝わせちゃって」

「別にいいッスよこのぐらい。雑用は中期生の仕事だから仕方ないッス。というか、なんで姫っちが一人で運んでたの?」

 クラスの中で佐藤は『姫』というあだ名で呼ばれている。本人は少し不満だが、クラスで満場一致した為に拒否することはできなかった。

「もしかして陰湿かつ悪質なイジメ?」

「ううん、違うよ! 私って、運動オンチだし体力もないし、ドジだから……。できるだけ一人で頑張ってみようって思ったから」

「……誰か手伝いとか申し出なかったッスか? 同じクラスの人が五人はいた筈ッスけど」

「うん。『姫に運ばせちゃ怪我させちゃう』って言ってたけど、頼んで運ばせてもらったの。……私ってそんなに駄目かなぁ」

(……それは単に、姫っちがそんなの持つ必要がないとか、本当に怪我しそうだからとか、心配してくれてる方ッスよね)

 佐藤が『姫』などと呼ばれる理由は、実家がなかなか裕福だということや、佐藤が姫のような雰囲気を持っているからだ。だがそれ以前に、西洋人形のような可愛らしい顔立ちや華奢な体、大人しい性格全てが重なって、「この子を守らなければ」という保護者にも似た感情をクラスは持った。故にあだ名が『姫』となった。

 佐藤に仕事を任せたくないのは、心配する保護者のような優しさ感情の為だ。決してイジメではない。

 本人は気付いておらず、そのことを新一が今言っても変わることはないので、そのまま言わないことにした。

「にしても、なんで姫っちはIMIに入学したの?」

「え?」

「あ、いやいや。悪い意味とかイジメるとかじゃなく、ただ純粋に思っただけッスよ」

 IMIは東北・関東・九州の三地方に設置されている。本部となり、日本IMIと称される東京IMI。東北の秋田県秋田市郊外にある東北IMI。九州の福岡県福岡市郊外にある九州IMIの三つがある。

 時々いるのだ。何故IMIなどに来たのだろうと感じる人物が。智和は瑠奈に感じ、新一は佐藤に感じている。

 IMIの一般教養は高い水準ではあるが、進学校などと比べれば少し首を捻る。佐藤がわざわざ命の危険を感じるIMIに入学する意味がわからず、もっと良い場所があると新一は思っていた。

 佐藤はとても困った表情になってしまった。挙動不審になる。

「……私は、その、深い意味はなくて……。軍事とか、専門とか、その……」

「ごめん。イジワるみたいだったッスね」

 言葉が詰まった自分自身を佐藤は恥じた。理由はある。大切な家族を守りたいということが。だが彼女の性格故に、口にすることができなかった。親への入学理由も結局言えず、ただ「行きたい」としか言えなかった。

 そんな自分を変えたいのに、まったく変わる見込みすらなくて泣きたくなってきた。

「別に恥ずかしがることないッスよ。IMIにいる大多数の生徒は、軍事に興味あるとか、将来の進学だとか就職だとかの為なンスから。だから泣かなくっても大丈夫ッスよ。

 後の人間は……事情によってIMIに来た、って感じッスかね」

「事情……?」

「IMIの入学制度は知ってるッスよね。入学金及び必要経費の支払いと、入学条件」

「……確か、入学金や必要経費は待ってくれるんだよね。条件は特に指定しないって」

「そう」

 IMIに入学する際、入学金、学習用品や装備品、寮などの必要経費を期間内に支払わなければならない。だが、事情によりすぐに支払えない場合は、保証期間までIMI側が支払ってくれる。

 一年から最大四年の保証期間があり、期間が過ぎれば支払ってくれた分を負担しなければならない。

 そして入学条件が特に指定されていない。つまり、両親の許可がなくとも個人の意志で入学ができるのだ。この制度がIMIに人を集める最大の要因とも言え、世間でも度々問題視されている要因でもある。

「IMIの入学は自分で決められるンスよ。筆記問題や体力測定あるッスけど、あれは試験じゃなく確認作業ッスね。メチャクチャ簡単ッス。姫っちなんて馬鹿されてるような感じだったでしょ?」

「そういう感情はないよ……」

 しかし、と佐藤は考える。思い出せば、確かに筆記問題は簡単だった。

「別に合格ラインなんか決めてないッスよ、アレは。簡単簡単。支払いに対する保証期間もある。

 だから、事情があってすぐに金払えない人間が来るンスよ。IMIには」

「え……何で?」

「《7.12事件》の影響や、家庭環境のいざこざッスよ」

「あ……」

 新一がそこまで言ったことで、ようやく佐藤は理解した。

「あの事件で進行不可区域や準進行不可区域なんてできて、犯罪は増えて経済もまた悪くなっちゃったッスから。今は建て直し途中ッスけど。そうなると、貧しい子供だとかは純粋でIMIに行くンスよ。入学はタダだし、依頼で報酬は貰える。部隊に所属しても貰えるから、金銭面は余裕あるンスから。だからIMIに来る。

 70パーセントが興味や将来。28パーセントが貧しい、もしくは家庭環境のいざこざで来た。残り2パーセントは例外で、来なきゃ生きられないとからッスかね」

「その2パーセントって……いるの?」

「いるッスよ。知ってる限りじゃ一つ上の輜重科の先輩。金髪でビアスしてる不良っぽい人。あの人が来なきゃ無理って部類ッスね。あとは、智和さんや瑠奈さんは本当の例外で、恵姉さんは家庭のいざこざッスか」

「……新一君は」

 絞り出すように佐藤は言葉を発する。

「新一君は、何で来たの……?」

 ふと、新一は足を止める。今までの快調な言葉が止まる。

 聞いてはいけないとわかっていたが、佐藤は、同じクラスで、自分に優しくしてくれる――そう思っているだけかもしれないが――、いつも笑っている彼が、どんな理由でこんな場所に来たのか、知りたかった。

「あー、俺は…………俺は、家庭のいざこざッスよ」

 恥ずかしがるように言い、再び台車を押し始める。

「父親がね、昔気質で厳しい人だったンスよ。想いがあるしつけってのはわかってたッスけど、それに耐えられなかった。母親は優しくて、泣いてる度に頑張れとか応援してるって言ってくれるッス。でも、そんなこと言われる度に、何を頑張ればいいんだとか、そんなひねくれたこと思ってたンスよ」

「…………」

「それに、俺の趣味があんな――アニメやゲーム――だし、今はそうじゃないッスけどあの時は酷いコミュ障だったんで、まぁ学校でも避けられがちというかイジメられがちというか。小一からコミケ行ってたぐらいだし」

 だから、と。

「そんな日常から、逃げてきたッスよ」

「……家族の人、心配してるよ。きっと」

「どうッスかね。正直、両親なんてどうでもいいって思ってるッスよ、俺。姉貴……あ、これ本当の姉さんね。姉貴とか兄貴はちょくちょく連絡しますけど。

 最初入学した時は、そりゃまぁやり過ぎたかなって思ったッスよ。だけど意外と馴染めたし、姫っちだとかクラスメイト、先輩達のおかげでコミュ障は克服できたし。それに、俺は人より狙撃がいくらか上手かったんで、それ伸ばせたらいいなって思ってる。

 だから将来だとか考えない。今が楽しいからあまり考えない。授業して訓練して任務やって、ゲームしたり姫っちとか先輩達と話したり遊んだりするだけで楽しいッスから、家族とかもうどうでもいいかなって、思うンスよ」

「じゃあ、目標とかないの……?」

「んー……ゴジラとかガメラ見て自衛隊カッケーとか思ったから、自衛隊ッスかね?」

「そうじゃなくて!」

 声を大きくした佐藤に新一は驚いた。普段大人しい佐藤が、こんなに声を出すなんて初めてだった。

「新一君は……その……何で狙撃を選んだの?」

「…………ただ人より上手かっただけッスよ」

 苦笑いで言った新一だが、本心を言えなかった。確かに人より狙撃が上手い。だが、それは建前だった。

 そして佐藤も、新一の本心をわかり始めていた。

 狙撃は、スコープで相手を狙って撃つ。つまり狙撃手には明確な殺意があり、相手の死に様を見届ける――言わば“死神”だ。

 軍人の狙撃手達は何十何百もの敵を狙い、殺す。スコープ越しに見える敵の死に様を時には笑い、時には冷酷に、時には悲しむ。

 狙撃手には、人の死に耐えうる精神力が必要だ。

 体力はもちろん必要だ。だがそれ以上に、人を殺すという明確な殺意と、人の死に様を直視しなければならない現実がある。相手の生死が、引き金に掛かる人差し指で決まるのだ。

 新一は、本当に人を撃ってきた。無力化だけでなく、本当に殺してきた。だが新一は悔やむことはない。悲しむことも、笑うことも。

 何故なら、両親の面影を重ねていたから。

 新一にとって両親とは、結局のところ憎しみの対象でしかなかったのだ。それがいつの間にか、本人が気付いてもそのままで、スコープ越しに見える相手に両親を重ねて引き金を絞っていた。

“両親を殺したい”と思っているのだ。

 新一だけではない。事情によって来なければならない人、興味や将来の為に来た人であれ、誰かを殺したいと思った筈だ。

 それが新一にとって両親だった。それだけのことだ。

「何してるッスか姫っち。さっさとこれ運ぶッスよ」

「…………うん」

 佐藤は改めてIMIの狂気――新一の狂気を痛感する。人殺しが日常で、通用してしまう世界に。


――――――――――◇――――――――――


 ポールはホテルのレストランで夕食を済ませ、部屋でワインをたしなみながらマイクの調査報告書に目を通していた。

 六回目の報告書を読み終え、不備が見当たらないところは流石マイクと感心し、今のところ仕事は順調だということに安堵した。口に運ぶワインが旨い。

 このまま順調にいってくれれば良いと思っているが、おそらく少しずつ遅れるだろう。物事には必ず遅れが生じるのだと考えながら進行させるのがポールの考え方だ。最悪の想定は常に頭の中にある。

 となれば、やはり不安が多かった。調査でしかない今回の仕事では、荒くれ者である社員が暴走しないとは限らない。全員がそうではない。ただ、大人しくできない連中が多いのだ。

 特に問題はジョンだ。マイクから聞けば早速コカインを手に入れたらしく、注意しようにも本人の性格では対抗してしまう。大人しくさせる為には、やはり無視を貫くことが必須なのだろう。

 マイクと一緒にいるうちはまだ大丈夫な筈だ。奴が一人で行動し始めた時こそが危険。そこだけを注意深く見なければならない。

 先が思いやられる。日本に着いたばかりの夜ぐらいは忘れさせて欲しいと、ポールはワインを飲み干すことにした。


――――――――――◇――――――――――


 諜報保安部は、諜報科生徒によって形成される部隊である。入隊試験は公開されておらず――特殊作戦部隊も同様に――、所属している生徒が耳打ちする程度でしか漏洩することはない。

 主な活動は文字通り諜報活動であり、手段を選ぶことはまずない。必要とあれば拉致して拷問する。これは最終決断の場合のみだが、基本的な活動では個人のプライバシーなど考えてもいない。

 そんな人権に反する部隊に所属している高期一年の阿部千夏と、高期三年の佐々木彩夏は、今まさに任務を遂行中である。

 エリク事件より数日前、羽田空港に妙な連中が入国してきたのを監視カメラで発見し、すぐさま調べあげた。そうしたら民間軍事企業アックスという、知らない企業の社員全二十三名だった。社長のポールはこの時に発見できなかった。

 民間軍事企業が何の用事で入国したのか。まさかイラクから日本への社員旅行などという馬鹿げたことではないだろうと思いつつ、社員の動向を監視しつつ、民間軍事企業アックスの詳細を更に調査することが決定した。

 彼らが泊まっているホテルから、150メートルほど離れた場所の空きビルを監視場所とし、監視役を二名から三名の交代制。今は千夏と彩夏が当番という訳だ。

 千夏は恵と同じ寮部屋であり、智和や瑠奈とも知り合いである。彩夏も面識がある。千夏はIMIに戻ることがあるのでちょくちょく会っているが、彩夏は付きっきりの為に最近はあまり顔を見ていない。

 それでも、生徒会に所属している恋人の久瀬大輔とは小まめに連絡をしていた。監視だけなので、暇な時がある。その時に電話をするのだ。

「朝御飯にしよっか」

 彩夏が、部屋の隅にある冷蔵庫を開ける。三階建ての空きビルには数週間分の食糧に、生活するに必要最低限な物が充実している。

 キッチンを設けてもらったのが女子生徒では救いで、三回ある食事で楽しみを得ることができるように工夫して調理する。これが良いストレス発散になるのだ。それでも任務中なので、彩夏は手早く朝食を作っていく。

「はい」

 スクランブルエッグに焼いたベーコン。サラダ。トースト。豆乳のパックを千夏の足下に置いた。

「ありがとうございます」

 千夏はトーストにベーコンとスクランブルエッグを乗せ、望遠鏡を覗きながら食べる。

「やっぱり任務やるのって同性に限りますね」

「どうして?」

 同じ食べ方をしていた彩夏が顔を向ける。

「男子だとレーションで済ませちゃうんですよ」

「ああ。そういうこと」

「自衛隊の美味しいっちゃ美味しいんですけど……やっぱりほら、飽きちゃうじゃないですか。他の人は知らないですけど、私はやっぱり食事はちゃんとしたいなぁ、って」

「千夏ちゃんは料理上手でこだわるから。私もそうだからその気持ちわかるよ」

「ですよね。親子丼と白いご飯だけじゃ飽きますよ。あ、でもたくあん美味しかったです」

「話変わるけど、千夏ちゃんと同じ部屋の新井さん。ちゃんと起きれてる?」

「あー……正直心配です。恵は低血圧というか、生活におけるプライバシーをまったく感じてないんで……。最近暑くなってきたから、もしかしたら寝惚けて裸のまま食堂行くかも」

 同居人の心配をしていると突然、部屋の扉が開いて、二人は携帯していた拳銃を咄嗟に構えた。交代の時間にはまだ早く、ノックで合図するのが決まりだ。

「おい待て。私だ。撃つな」

「千里?」

 訪問者は千里だった。意外な人物に二人は安堵し、拳銃を下ろす。

「驚かさないでくださいよ……」

「悪い悪い。合図だとか知らなかったし、連絡もしなかった。すまない」

 千里は制服ではなく私服だった。ジーンズにブーツ、Tシャツの上に生地の薄い上着を着ている。制服のままここに来れば、任務の弊害となってしまう為に着替えたのだ。

「いったいどうしたの?」

「これを届けに来た」

 千里は持っていた封筒を渡し、彩夏はすぐさま中身を確認する。民間軍事企業アックスの調査報告書だ。

「諜報保安部も人手不足らしいな。時浦から運べと頼まれた」

「ちょっと忙しいからね。全員出てるし、IMIには最低二人か三人残さないといけないから。迷惑かけてごめんね」

「別にいいさ。おかげで授業を抜け出せた。それにしても朝食遅くないか?」

「あんまりお腹減らなかったから」

「それに、寝不足で食欲ないですし」

 千夏は望遠鏡を覗きながら食べ、彩夏は書類に目を通す。千里は冷蔵庫から勝手にコーラの缶を取り出し、彩夏の隣に座って飲み始めた。

「……なにこれ。酷い内容」

 ざっと内容を読んだ彩夏はそう吐き捨て、深い溜め息を漏らす。報告書を片付けようとすると、横から千里が取って勝手に見始めた。

「…………とんだ畜生共じゃないか」

「どうしたんですか?」

「どうしたもこうしたも、お前が見てるホテルに泊まってるのは屑の塊がいるってことだ。ここ二年で強盗四十二件、強姦十七件。他にも銃器の違法販売、麻薬輸送、過剰殺人などなど確認。護衛途中の民間人発砲は数えきれない」

「どうしてまたこんな所に来たのか、まったく不明だし」

「特にジョン・アンダーソンとか言う奴が酷い。除隊後はマフィアとも絡んでる。明らかヤバい」

 彼らの素性を確認した千里は、彩夏と同じように溜め息を漏らす。何でこんな犯罪者集団が日本にいるのかすらわからない。

 とはいえ、これは千里の仕事ではないので深入りすることはない。深入りしたくもない。

「ところで、話は変わるが」

 その為、気分転換に話題を変えてみた。

「二人は昼前に交代すると聞いた」

「そうだけど」

「それじゃ野球をしよう」

「はい?」

「実は男子と賭けてな。あっちが勝てば焼き肉を奢る。私達が勝てば高級アイスクリームを奢らせる」

「千里アイスクリーム好きだっけ?」

「希美だよ。いい機会だからな」

「後輩思いで泣けてくるわね」

「それにな、昨日来た編入生も誘ってみる」

「編入生?」

「ララ・ローゼンハインだよ。エリク事件の。智和の部隊に入るから、誘ってみる価値はあるだろ。大輔には言ったからな」

「手回しが早いわよ。わかった、参加する。千夏ちゃんは?」

「暇なんでいいですよ」

「昼にいつものグラウンドでな。それじゃ、用事が済んだから私は帰る」

 言うことは全て言って、千里はビルを後にした。


――――――――――◇――――――――――


「局長。追悼式についての参列者なんですが」

 IMI連盟局局長室にて。岡田の言葉が、書類を確認していた内藤の顔を上げさせた。

「増やしてくれとの相談が」

「誰だそんなことを抜かす馬鹿は。参列者は既に決定済みだと言い返せ」

 岡田はばつが悪そうに「そう言い返しましたが……相手は国防教育機関でして」と言う。

「それでもだ」

「防衛大臣と総理大臣からも参列させろ、と言っています」

 そこで内藤は不快感を露にして、書類を机の端へ投げ捨てるよう雑に置き、手を組んで改めて岡田を見る。

「許可できない。既に参列者は決定し、日程の流れや準備も少しずつだが行われている。変更はできないと伝えろ」

「そう伝えます」

 岡田は表情をいつものように変えて即答する。普通の人間ならば嫌がる仕事を、岡田は平然と受け入れてこなす。この秘書を内藤は内心で尊敬し、信頼していた。でなければ計画のことなど話さない。

 また、計画の共犯者としてしまったことに少なからず罪悪感を抱いていた。それでも岡田は自ら沈む船に乗ったのだ。これは間違いのない事実である。

「苦労をかける」

「あちらとの電話は慣れてますので」

 頼もしい言葉を口にして、少しだけ表情を緩める。

 しかしすぐに表情は戻り、声の調子を低くして問いかけた。

「本当に良かったのですか。あんな連中に任せて」

 計画に関わる民間軍事企業アックスのことだと、すぐにわかった。

「言った筈だ。仕方ない」

「彼らは危険です。いつ暴走してもおかしくありません」

「だとしても、もう引き下がれない。隆峰は既にわかっている」

「如月学園長、ですか」

「今日会って、言われた。二人のことは忘れろと。できる訳ない。“忘れられないのだ”」

 京子とさやかの二人が、思い出が、頭の中にカビのように深くこびりついて離れない。忘れようにも忘れられず、消そうにも消せない。

 二人が死んだ原因は他にもあるかもしれない。進行不可区域ではなく、当時の政策による死かもしれない。人かもしれない。環境かもしれない。必然であり、偶然であったかもしれない。

“そんなもので片付けられたくないのだ。内藤は”。

 あの時、大勢が死んだ。テロによって犠牲になった。だが、京子とさやかは果たしてテロの犠牲だったのか。もはや考えることはできず、推測も意味をなさない。そもそも、意味がないのだ。

 だが――大勢の犠牲という言葉に、二人を片付けられたくなかった。

 京子とさやかが死んだ原因など知らない。だが進行不可区域――あの場所で死んだことは間違いない。あんな“肥溜め”で死んだ二人を認めたくなかった。

 全部が憎いのだ。内藤は。なにもかもが憎い。進行不可区域を、日本、人間を、自分を。憎んで恨んで、追い詰めていた。

 それを理解していた岡田は、内藤のことを可愛そうな人間だと思っていた。軽蔑ではない。だが可愛そうだと思っていたが、同時に尊敬する人物だった。だから計画に加担した。慈悲をかけたつもりはまったくなかった。目指した人間がそこにいたから、岡田は自ら進んだのだ。


――――――――――◇――――――――――


 苛立ちを隠すことなく、ジョンは酒を煽った。

 今いるのは進行不可区域のブラックマーケット。この区域最大の市場であることに間違いない場所だ。ボロい露店が立ち並び、夜だというのに客がひしめいている。日本人が多いが、中国人や韓国人、北朝鮮からの脱北者などアジア系が多い。あとは白人や黒人で、国まではわからなかった。

 もう一度言うが、ジョンは苛立っていた。コカインは要らないかと聞かれたが断り、露出が多く下着丸出しの娼婦も突き放した。あの密売人はただの小遣い稼ぎで、ほとんどは小麦粉だった。コカインも嘘だ。娼婦はブスで、日本人ならともかく中国人か韓国人だった。片言の日本語で誘ってきたが、「失せろくそ豚」と言ったら「死ね白人」と吐き捨てて消えていった。

 そういった一連の流れで機嫌を損ねたことは間違いないが、もっと根本的な性格によってジョンは苛立っている。

 飲み干した酒瓶を店の看板に叩きつける。質素で汚ならしい木の板だから割れなかった。煙草を取り出し、火をつける。だが気分は落ち着かない。こういう時にこそコカインを鼻から吸いたい。あの感覚は最高にクレイジーで、一気に頭が清められる。

「終わったぞ」

 ようやく、調査を終えたマイクが現れた。

「まだまだ調べ足りないな。明日もだ」

「じゃあ、今日はもう帰るのか」

「ああ。急ぐ必要はないが、内容を纏めなきゃならない」

 ジョンはピンときた。こんな時にしか働かない頭がフル稼働した。

「だったら、少し付き合えよ」

「パブだったら行かないぞ」

「違う違ーう」

 そこで初めて、ジョンは笑みを見せた。気味の悪い、犯罪者の表情だった。

「ストレス発散だよ」


――――――――――◇――――――――――


 娼婦のス・ヒギョンは決して美人ではなかった。それでも引き締まった体や大きな胸、露出の多い服装で売り上げはそこそこ出ていた。だが彼女自身が客を選んでいた為、売り上げが伸びることはなかった。

 彼女は韓国ではアイドルだった。しかし売れずに借金し、こんな場所に逃げてきた。

 最近、売り上げが落ちてきた。若い娘や白人、黒人に客を取られる。どれだけ体型が良かろうが、年齢には勝てなかった。化粧も厚い。

 早く客を見つけようと、路地裏を歩いていく。この先は男女――もしくは同性――の社交場であり、比較的釣りやすい場所で、人目もない。

 急いでいたことで、背後から近づかれていたことには一切気付かなかった。頭を殴られ、その場に転ぶ。

「ようくそ豚」

 先程誘って断った白人――ジョンが、笑みを見せながら立っていた。少し離れた場所には、マイクが無表情でヒギョンを見ている。

 ヒギョンが叫ぼうとするが、ジョンが喉を蹴りあげた為に声を出せなくなった。息が詰まるようになり、唾を飲み込んだだけで激痛が走る。

 続いてジョンは腹や胸、顔を蹴る。まるでサッカーボールを蹴るように、楽しく蹴る。ヒギョンのことなど人間とすら見ていない。

 数十回蹴り、ラストは渾身の力で股関を蹴る。爪先が股を抉り、ヒギョンは股を手で押さえ失禁しながらビクビクと体を震えさせる。

 次に、ジョンはヒギョンを足で仰向けにさせると腹に乗って馬乗り。今度は単純に、拳で顔を殴り始めた。彼女の顔はみるみるうちに腫れていき、歯や鼻、顎などが折れていく。

 叫ぼうにも叫べず、激痛と屈辱がヒギョンを満たしていく。

「あーくそ。こんな顔でも体はいいな」

 殴ることに満足したジョンだが、今度はヒギョンの体に性欲が生まれた。括れた腰や服の上からでもわかる乳首の突起など、材料はいくらでもあった。

「ちょっと待ってろよマイク。すぐに済ませる」




「豚の割りには相性が良かった。大きさがピッタリだ」

 果てたジョンはヒギョンの首を両手で掴んで力一杯込める。メキメキと骨が軋み、ヒギョンは抵抗するが、首の骨が折られると一瞬で力を失った。

 離れ、ジョンは満足してズボンを穿き直す。そこにマイクが、掌よりも少し大きい手頃な石を見つけると、死んだヒギョンの顔を何度も叩き出した。

「何してる?」

「もしもの為に証拠を消す」

「ここはスラム街だ。警察なんていないしバレない」

「スラム街じゃなく進行不可区域だ。それに警察がいなくとも、支配組織に目をつけられる可能性だってある。この娼婦も売り上げの一部を渡してる筈だ」

 顔を潰し、歯を全部折る。次は指紋を調べさせなくする為、持っていた大型ナイフで手首と足首を切り落とす。安物で切れ味が悪く、骨を切断する時は柄を両手で握って体重をかけた。

「どこからそんなの持ってきた?」

「護身用にここで買った。くそ……ガソリンを探してくれ。もしくは車から抜いてこい。焼くぞ。お前も精液を調べられたくないだろ」

「わかったよ。抜いてくりゃいいんだろ」

 ジョンは指示に従って車へ向かう。すぐ近くに駐車している。

 ジョンがいなくなっても、マイクは黙々と作業を続けた。先程から骨がなかなか切れず、刃が止まってしまうのだ。血の臭いも強くなってくる。それでも無言でナイフを降り下ろす。

 暴力がジョンを象徴するならば、マイクの象徴は冷酷だろう。どんなに惨たらしいことでも表情を変えず、さも平然とこなしていく姿は別の意味で他者に恐怖を与える。実際に今、彼の行動は猟奇的だ。当たり前のようにやっている。

「持ってきたぞ」

 携帯用の小さなガソリンケースを持ってジョンが戻る。マイクも手足を切り落とした。手足のない死体にガソリンをかけ、ジョンが持っていたライターで火をつける。瞬く間に火は炎となって、死体を燃やしていく。

「その手足はどうするんだよ」

「準進行不可区域で燃やす」

「結局燃やすなら一緒だろうが」

 ジョンの小言など無視して、マイクは上着を脱いで手足を包む。これなら人混みの中でもバレることはない。

 路地裏を出て再びブラックマーケットを歩いて抜け、駐車している車に到着。トランクにガソリンケースと丸めた上着を片付け、マイクの運転で進行不可区域を後にした。

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