本質
自分の本質を理解し、信仰し、実行した者ほど。
馬鹿馬鹿しいほど狂っていて、人間らしいとは思えないだろうか。
言い換えるならば、それは本能と表現できるのではないだろうか。
いつの頃からか、人間の本質とは何なのかということを疑問に思い始めた。
明確に判明することは叶わないと言い切ってしまってかまわないほどの、無理難題且つ未来永劫問われ続ける――研究題材。
何故それが疑問に思ったのかすらわからない。
だが、人間の本質に興味を持ったことは事実だった。
人間の本質を理解する――初めはそんな研究をしていたが、すぐにこれは哲学の部類だと理解し、切り捨てた。
何故なら“永久”に問われ続けるのだ。
哲学者が思い描く答えや導きではなく、研究者は明確な一つの答えを出さねばならない。問い続けるばかりでは何も解明しない。
人間の本質とは何か。解明できぬことに焦燥感と無力感に抱かれながらも、ならばその問いに近い――尚且つ、研究者として果たせる題材を設けた。
人間の本質を“意図的”に変更することが可能か不可能か。
――不可能なことではないだろう。知識と技術が格段に進歩した現代医術なら、遺伝子操作などによって“作り出す”ことは可能だ。おそらくは――人間もクローンによって複製できるかもしれない。
しかしそれは、本来持ち得ていた者が本質を理解した上で、新たに書き換えられたかどうか判断しなくてはならない。
更に言うならば、書き換えられた人間の本質を、書き換えた人間が理解していなくてはならない。
そもそも人間の本質などという馬鹿げた難題を題材とした為に、これも結局見つかることはなかった。
――そんな時に声を掛けられた。
どんな人物だったか、“今”の記憶にはないので思い出せない。だが覚えている。
「人の思考や行動を変えられるか?」と。
無理な話ではない。先程の話にもした遺伝子操作や、脳を部分的に切除することで一部分の性格変化は可能ではある。その後の経過として植物人間のようになってしまうような事例もあるが。
それでもその男は言った。「できるのだな」、と。
「できる」と返した。その上で、設備や資金、違法実験に該当するという注意を付け加えた。
それなのに、その者はこう続けた。
「可能だ。君も加わってみないか」
と。
その言葉は魔法のようだった。そんな言葉を信じる根拠などなにもない。本当だとしても逮捕され、それこそ未来永劫に研究ができなくなる。
――――だが、だが。
一生を捧げられる研究。追い求めるに相応しく、答えを解明できるに相応しい、研究。
その魅力は実に甘いものだった。
――甘い蜜は実に魅力的過ぎた。
結果を言うなれば、その者の言葉を信じて研究を始めた。
初めこそ警戒したが、その者が一体何者だったのだろうか、設備や資金が充分過ぎるほど。そして、違法人体実験とも言うべき豊富な材料があった。
それでも、とても甘美で、鮮烈で、情熱的なほどまでに強烈なものを与えられた瞬間――時間を忘れるほど研究に没頭した。
専門としていたのは遺伝子分野だったが、数多の研究者が共に研究し、討論し、論議し、交流していったおかげで脳外科など幅広い知識や技術を身に付けられた。
これなら……これならば。
人間の本質を、追究することができるのではないか。
他者の本質を理解することはできない。
ならば“自分”は?
自分が追い求めてきた本質を理解した上で、“自分自身の本質を変えることができるならば”?
充分な設備と資金と材料。そして欲のまま動いている――私のような研究者。
迷うことはなかった。
材料と共に私は生まれ変わった。一部分の記憶欠如が見られるが、研究目的は見落としていない。
それに、研究題材を見出だした者が死んだら研究自体が台無しだ。
数多くの材料は研究の成果に繋がり、私もその研究の“一部”となった。
素晴らしい。素晴らしい。素晴らしい。
今も研究を続けられる。一生を捧げ、未来永劫に等しい研究を続けられる。
素晴らしい。素晴らしい。素晴らしい。
自分の本質を理解した上での変更を記録し、更に上書きして変更を繰り返す。これならば材料の実験も兼ねて研究できる。
――数回の実験を繰り返して、とある問題が発生した。
記憶の混合。
完全なる融合。完全なる統一ではなく、前者の記憶が混合してしまう症状が見られた。
前者との記憶が入り混じり、困惑し、それが“誰の記憶なのか理解することができない”。
そもそも、記憶の融合や統一が目的ではない。本質の変更が目的であるのに、何故か記憶の混合が発症して本人が理解できぬまま、崩壊を始める。
そのままの意味だ。自我そのものの崩壊が始まってしまう。
自分の記憶なのに自分の記憶と認識できない。正しく言うならば肉体は経験し、記憶している筈だ。だが細胞や遺伝子、脳に至っては変更してしまっている為に“新規の記憶”が生まれたと仮定した。
肉体に宿る“古い記憶”が、書き換えられた“新規の記憶”と混合し、全てが自分の記憶なのに他者の記憶だと認識し、理解できないでいる。
本質の変更どころか、自我の認識に問題が生じてきたのだ。
何故そのようなことが起きるのか、原因を解明することはできなかった。
まさか精神論や哲学の部類の原因だと言うならば、今までしてきた研究の意味がない。答えの見つからない研究など意味がない。
記憶混合の症状によって材料――被験者は、自我崩壊して既に存在していない。
残されたのはその者が提供した施設と設備。その遺産とも言える充分な資金に、一人の被験者。
材料がなくなったことにより、被験者と私の実験が途絶える可能性がある。
ならば、私の継続を優先させ、被験者には次なる研究の為に――かの研究者が至上としていた時代主義の本質を、変更させてみた。
それも“敢えて”、成長段階を積むようにわざと思考回路を変更させて。
経過途中ではあるが、今のところは最高の結果を示している。被験者は本質を理解し、実行している。
途中報告がないのが気になるが、これも予想の範囲内ではあった。願わくば被験者の帰還を待ちたいが、答えは示されたも同然だ。
ならばもう用はない。日本を去り、早く私の継続をしなければ、私の自我が崩壊してしまう。
――――――――――◇――――――――――
準進行不可区域と言う、つくづく曖昧な境界区域を作った日本政府は馬鹿ではないかと、智和ならびに前線で活躍する日本IMIの生徒と教師が共通する意見を持っていた。
処置することのできなかった区域全てを進行不可区域とし、境界線には常に警備を敷いて隔たりを絶たねば、いつまで経っても犯罪現場や犯罪者の隠れ蓑、更には近隣住民や企業への影響が及ぶことは、少し考えればわかることである。
それこそ正に、イスラエルのガザ地区のように隔離し、一箇所に詰め込んで常に監視しなければならない。
それが不可能なのは、《7.12事件》による人員不足や資金不足などで警備ができないからこそ、準進行不可区域などという曖昧な境界区域を見過ごしたまま、復興する兆しすら見えなくしている。
そのおかげで日本IMIは公共機関に負けず劣らず――常に勝っている実績を持てるということも、前線ならば理解して当然の常識である。
犯罪者がいるから、日本IMIは常に動ける。
「……ま、人がいないから簡単に隠れ場所は見つかるか」
一通り監視していた智和は双眼鏡を下ろす。
セナの意見が正しいならば、120メートルほど先にある雑居ビルにロイ・シュタイナーがいる筈だ。
二階建ての平凡な雑居ビル。小さな派遣会社だったが、《7.12事件》以前に倒産している。
「あそこで間違いないんだな」
「逃げてなければ、の話だけどぉ」
間延びした口調でセナは応える。やはり何度聞いても、何度見ても双子同然の姿だ。正に瓜二つである。
ロイ・シュタイナー確保の為に引き連れてきたのはララ、強希、恵、新一である。ハンヴィーは引き続き拝借している。
さすがに長谷川の愛車を借りることはせず、琴美はこの場にいない。IMIに残り、生徒会などの対処の為に事後処理の役を担った。
「恵は周辺警戒。新一はハンヴィー内で建物警戒。強希はハンヴィーで待機。ララはセナの警護及び監視」
「連れてく気?」
「ロイ・シュタイナー確認の為に必要だろうが」
恵と新一以外は、支給されたMP5短機関銃とサイドアームの確認を行う。新一はMk14EBRを車内で確認する。
「警察に知られたら面倒だからな。ちゃんと警戒しとけよ」
智和に念を押され、恵は少し呆れた様子で答える。
「わかってるっての。さすがにIMIでも銃持ってたら言われるし、だから私は予備携帯しか持たないんでしょうに」
「恵姉さんだったら素手で人殺せるから問題ないッスけどねー」
「降りろチビ。首をねじ切ってやる」
「さっさと配置つけ。無線機の電源つけとけよ」
「了解」
そう言って、新一に対する苛立ちをハンヴィーに蹴りを打ち込んで解消させてから、指定された場所に駆け足で向かう。
「へこむッつの」
「お前も気を付けろよ」
「へいへい」
「準備できたッスよ」
新一の準備が整ったことで、智和、ララ、セナの三人はロイ・シュタイナーの拠点へと向かった。
智和とララの二人は短機関銃を持ち、サイドアームも装備している。セナはなにも武装していない。
ハンヴィーを待機させている場所から人気が極端にない為、二人は短機関銃を隠すことなく持っている。警察も寄り付かないような場所だが、念の為に恵が周辺を監視している。
「着くまでの雑談だが」
セナの顔を見ず、歩き続けたまま智和は問う。
「どうやって隠れ場所を確保した?」
「大方はマフィアから提供された場所だけどぉ、初めから用意されてた場所を再利用したよぉ。それにぃ、こぉんな人のいない場所があるならぁ、色んなことできるのは当たり前だよねぇ」
「……どうでもいいけど」
ララが不機嫌極まりない表情を見せ、セナを睨み付ける。
「その話し方やめてくれないかしら。物凄く苛立つのだけれど」
「だったらお姉ちゃんにもその台詞言ってみればぁ?」
「何か勘違いしてるようだけど、今の貴方は簡単に殺せるのよ。ただ智和と長谷川がそうさせていないだけで、その気になれば蜂の巣にしてあげられるの。あまり私を苛立たせないで」
「やってみればぁ」
「挑発するな。ララも我慢しろ。命令だ」
リーダーの命令ならば我慢するしかないが、瑠奈と同じ話し方のセナがどうしても癪に触る。任務でなければ、当の昔に撃ち殺している。
そんなララを宥めつつ、一つ気になったことがあった智和は再び問う。
「隠れ場所を再利用したと言ったな。何者からか提供された場所を使った、ということだな?」
「うん」
「それは誰だ?」
「《狂信の者達》」
《狂信の者達》。
それは、あの《7.12事件》の引き金を引いたテロ組織の名。
二十年ほど経った今でも、《狂信の者達》による詳細な情報は判明していない部分が多い。テロ支援国家からの援助を受けていたという証拠がなければ、正確な規模も判明していない。国連はよくそれで残党処理などと発表したことに、今でも不思議でたまらない。
最重要人物の名前や風貌を知らず、規模もわからぬ存在を、そもそもどうやって追い詰めて組織を潰したと断言できるのだろうか。
その点だけを考えるならば、IMIは《狂信の者達》がまだ壊滅していないと考えている。その為の対抗手段であり、その為の存在理由だ。
他国もそうだろうが、日本はテロ対策による一種の防衛手段と捉えているので、日本IMIは自由に行動している。了承されていなくともIMI独自に行動することが多々あるが、表面上で許可されていることは大事なことだ。
「お前達も関わっていた。その認識で間違いないか?」
智和の言葉は静かで、且つ明らかな殺気が含まれていた。
当然だ。IMIはテロ対策の為――正確には、《狂信の者達》を“打破すべく誕生した”。セナやロイ・シュタイナーが関わっているならば、見逃すことなどできはしない。
「疑われてるみたいだけどぉ」
対してセナは変わらず反論する。
「セナはそこのところは全く知らないからねぇ。第一、年やら考えて逆算しても事件の後だからぁ」
「お前の年なんて知らねぇよ。資料なんてない」
「まぁ、パパが教えてくれるんじゃないかなぁ?」
「素直に事が運んだ試しはない」
「そうね」
智和とララの経験上、任務がすんなり終了したということはあまりない。それに加え、こんな面倒な任務などは常に厄介事が舞い込んでくるのである。
瑠奈と瓜二つのセナというだけで摩訶不思議な出来事である。この後は生徒会やらの尋問を受けると思えば、やる気など削がれてしまう。
「あんまり心配要らないと思うけどなぁ。パパはセナみたいなことはできないし、銃なんか握ったことないと思うよぉ。面倒事は全部セナが処理してたしぃ」
「コイツが処理係とかパパは苦労人だろうに」
簡単に人を殺し、バラして奇形死体を作り上げてきた痕跡を消すことがどれほど大変だったか。想像しただけで溜め息が漏れそうだった。
雑居ビルの正面入口に到着した。
「見えるか、新一」
『三人バッチリ見えてるッスよー』
「恵、周辺は?」
『智和達の周辺は問題ない。私のところには通行人数名いる。警察はいない』
簡単に情報伝達を済ませ、セナを先頭にビルへと入る。
正面から堂々と入り、セナの挙動が自然なのでトラップが仕掛けられているということはなさそうだった。
二階への階段があるが、昇らずに奥の扉を開けて進む。
奥の部屋に入ると、片隅に地下へと続く階段があった。
「この先」
一言発したセナが地下へ降りる。ララ、智和の順に続いていく。
黴臭い通路に出て少し歩くと扉がある。セナは迷うことなく開けて入ってしまい、二人も中に入った。
広い空間の部屋は暗く、床には保存用のクーラーボックスや研究資料が散らばっている。折り畳み式の簡易テーブルには小さなクーラーボックスや、使用意図不明な研究器材が置かれていた。
「そのサンプルも、無駄な物となった」
ララがテーブルのクーラーボックスに触れた時、奥から感情のない淡々とした声が響き、咄嗟に短機関銃を構える。
「きゃは」
第三者に気を取られた隙をセナに突かれ、ララは後ろに回り込まれてしまう。左手は首に回され、短機関銃を叩き落とした右手で拳銃を奪われ、こめかみに突き付けられてしまった。智和が銃口を向けた時には既に遅かった。
「最悪っ……!」
初歩的な失敗に自分を殺したいと思うララだが、今の状況は死ぬ一歩手前である。
「…………」
智和は銃口をセナに向けているが、目はその奥に座っている男に向けられていた。
痩せ細った体型。みすぼらしいスーツの上に羽織っている白衣は黒々と変色しており、純白とはかけ離れていた。それが血だとすぐにわかった。
生気のない瞳。まるで死者のような不気味さを放つ顔。それは紛れもなく、資料で見たロイ・シュタイナー本人だ。
「ロイ・シュタイナー」
「そうだ。IMI。私に何か用か」
「個人的にも組織的にもお前に用がある」
「私はIMIに追われる理由などない」
「知らねぇよそんなもの。こっちだっていい迷惑だ。相方を人質に取られてるしな」
「悪かったわね、ドジな相方で……!」
「こんな状況でよく喋るよねぇ。立場逆転だよぉ? セオリー通りに銃ぐらい捨てようよぉ」
セナの言う通り、ララの身を案じるならば銃を捨てるのが鉄則だ。
仕方なく短機関銃と拳銃を足下に置き、セナへ蹴って寄越す。
「正直なところ、組織的な用事を俺達は知らない。知る必要はない。個人的な用事を知ることができればそれでいい。それから、この場のやり過ごし方を考える」
「ほう」
半ば挑発のような台詞だが、ロイ・シュタイナーは智和の言葉に少し興味を持った様子を見せる。
「続けて」
「質問がいくつかある。なるべく答えろ」
特に警戒する様子がロイ・シュタイナーにはなく、聞かなければいけないことを聞いていく。
「草薙瑠奈。この名前の人物を知っているか?」
「知らない」
即答だった。
嘘をついている可能性はあるが、その根拠もない。
「お前をパパと称するそいつと瓜二つでな。目付き以外が双子並みに似ている。お前のやっていた実験を資料で見て、クローンか何かと思ってな」
「クローン? クローンだって?」
ロイ・シュタイナーは少しだけ呆れていた。
「そんなもの、現代医療では無理だ。遺伝子だけでは無理だ。遺伝子を作るだけならまだしも、完全な人間の複製品は無理だ」
「……ということは二人は」
――本当の双子?
口に出しかけたが、最後までは言わなかった。
他人に似ている人間なんて珍しくはない。こんな広い世界なのだから偶然もあるだろう。
だが、それにしても似過ぎていることを考えると、まさかの場合――
「……次の質問。お前はここで何をしたかった?」
「研究の飛躍。……それも、君達に発見されて無駄に終わった」
「質問を変えよう。お前は何者だ?」
「どういう意味だ」
「資料を見た。IMIとCIAの資料を。IMIでは二十七歳で失踪だが、CIAでは二十五歳で死亡扱いだ。情報の混乱でもこんなことは中々ない。どっちが確実なのか、俺にはわからない。
ロイ・シュタイナー。お前は本当にロイ・シュタイナーか? お前はいったい何をする為に、こんなことになってしまった?」
IMIとCIAによる資料には決定的なズレがある。これに関しては覆しようのない事実であり、また、容易に変更できることでもない。
ならば。
目の前にいるロイ・シュタイナーという男は、はたしてロイ・シュタイナー本人だろうか。
「私は私であり、ロイ・シュタイナーはロイ・シュタイナーである」
男の答えは至極当たり前であり、淡々としていた。
「これでは満足できない、といった顔だ」
「悪いが回りくどい説明や研究についていけるほど脳みそはない」
「ただ関心がないだけにも思える」
「じゃあ興味が出るように説明してくれよ。お前がやりたかったこと」
「長くなる」
「まぁいい」
ロイ・シュタイナーは深い溜め息を漏らし、前のめりになって手を組んで話し始める。
「私は、人間の本質を追究したかった」
「本質?」
「人間が本来持ち得る気質、とも言うだろうか。各個人が持つ本質を私は知りたかった」
「研究というより哲学だな。哲学者の方が向いているんじゃないか?」
「確かにそうかもしれない。だが私は、私が興味を持つ分野の答えを見つけることに意味を見出だしている。哲学者より研究者向きだ」
「だったら何でそんな大それた題材に興味を示した?」
「……いつの頃から、もう忘れてしまった。思い出せない。明確にはわからないが、いつの頃からわからないが、確かに本質を求め始めた。
だが君の言う通り、本質の存在を解明するなど到底無理だ。だから、本質を意図的に変更できるのか。意図した本質に変更することが可能か。私は求めた」
「で、成功はしたのか?」
興味ない、とでも言うように素っ気なく返す智和の言葉だが、ロイ・シュタイナーは表情を変えなかった。
「まだ解明できていない」
少し間を置いてから再び口を開く。
「そもそも、他人の本質を理解することができるだろうか。人物Aの本質を、人物Bが理解できるのだろうか。密接している両者ならば可能かもしれないが、研究者である私は被験者に感情など抱かない。私には、他人を理解することなどできなかったのだ」
結局、ロイ・シュタイナーは他人の本質を理解するどころか、他人を理解することができなかった。
他人など、ロイ・シュタイナーにしてみれば実験材料でしかなかったのだ。
“以前”のロイ・シュタイナーならば、まだ理解できたかもしれない。
だが、“今”のロイ・シュタイナーには理解できない。もはや“今”の彼には、ただ研究を追い求めるだけしかない。
「……ま、他人を理解するなんて並大抵のことじゃないな」
「他人を理解する困難を理解していたつもりだ。だがそれよりも、本質を理解することが困難だった」
「だろうよ」
「それでも私は追い求めた。本質を求め、本質を求め、本質を求メて……」
「……何故そんなに、人間の本質なんて求めた? お前ぐらいの研究者なら、そんな研究の問題点ぐらいわかるだろうに」
「……わからないさ。本当に“わからなくなってしまった”。以前の私が何を求メ、何の為に……何の為に……」
「……」
智和は違和感を抱いていた。
ロイ・シュタイナーの言動もそうだが、どこかロイ・シュタイナー自身にも違和感がある。
同じ人物の筈なのに、まるで“違う人物”かのような――
「話を戻そう。本質を理解することを諦めなかったが、一先ずそれは置いた。私に理解できるできない云々言う前に、変更できるかどうかを研究しなければならなかった」
「変更?」
「思考の上書き。行動の上書き。本来持ち主が意志あって行う思考・行動を、他者が変更して上書きできるかどうか」
「そんなこと……」
できる筈がない。
多少の性格変化ならまだしも、完全なる意思の制御などもはや科学ではなくオカルトの類だ。洗脳実験であるMKウルトラ計画のような、まやかし物のように馬鹿馬鹿しくて魔法のような。
酷くあやふやな研究。
「できるよ」
間を作ることもなくロイ・シュタイナーは断言した。
「君の考え通りもはやオカルトだ。だが違う。上書きと言ってしまったから誤解を招いたかもしれないが、私の研究は洗脳ではない」
洗脳ではない。
元々の意思を強引に制御するのではなく。
上書きし。
変更し。
“作り替える”。
「…………“人間そのものを作り替える”?」
「君は頭が良くて勘が鋭い」
そこで初めて、ロイ・シュタイナーは微かに笑った。まるで遊び相手を見つけたかのように。
「そう。作り替えた。人間そのものを作り替えた。人物Aを、人物Bとなるようにね」
「馬鹿な……無理だ。人間を作り替えるなんて、そんな」
「可能だよ。現に」
ロイ・シュタイナーの左手が静かに上がり、一人の少女を指差した。
「研究成果はそこにいる」
少女――セナ。
それは、ロイ・シュタイナーが研究の為、意図的に作り替えた人物。
「……いったい何をした?」
「単純なこと。脳を弄った。これまでに行ってきた実験成果に伴い、彼女の脳と遺伝子を弄り、私が望むように作り替えた」
「それじゃあ、そいつの性格も、口調も、体型も、髪型も、全部……お前が作り替えたというのか?」
「それは無理だ。先ほども言ったように、完全なクローンは不可能。風貌や体型はありのままだ。性格は変わってしまうが、性格も本質の一部だ」
「実験材料になった人間を否定して、思うがままに作り替えたということか」
「否定はしていない。そもそも、実験材料は実験材料だ」
駄目だ。ロイ・シュタイナーに人道などというものは、当の昔になくなっている。
他者を理解できない人間は、他者を理解しようという考えすら浮かばないのだから当然だろう。
「だが」
嫌悪感を抱いていた智和に、ロイ・シュタイナーは静かに告げる。
「問題が発生した」
「問題?」
「記憶が混合してしまう症状が起こった」
意味のわからない言葉だった。
「人間Aの脳を弄り、遺伝子を操作し、新たな人間Bへと作り替えたとしよう。作り替えられたその瞬間に別人となり、思考や行動も変わる。そしてそれは、新たな記憶となり、人間Bへの構築となる。本来ならば、人間Aの記憶は忘れる。思考や行動を人間Bに作り替えたのだから当然だ」
しかし、と。
「作り替えられた人間Bが、ある日突然、自我を崩壊させた」
「崩壊?」
「精神異常、と言うべきか。記憶が混合し、入り混じり、自分が誰なのかわからなくなってしまった」
「どういうことだ?」
「体の記憶だよ。君のような人間なら、例えば銃の扱いだとしよう。数年もしくは数十年、久しく触れていなかったものの、手に取ると不思議に馴染む。分解作業も難なくこなし、目標に銃弾を当てられる。このような感覚だ。体が覚えている。そのようなことだろう」
実にわかりやすい例えだ。
「体は覚えている古い記憶を、作り替えた新規の記憶は自分のものではないと否定してしまう。完全なる融合、完全なる統一ができず。そもそも、“自分の記憶なのに自分の記憶だとわからない”」
「…………」
自分が誰なのかわからない。
記憶喪失であればまだ納得できるような話だが、自分の記憶である筈なのに自分の記憶だと認識できない。そんなこと、智和には到底理解できなかった。
自分は自分だ。例え誰の記憶だとしても、今の自分は今しかない。作り替えられた存在だとしても、智和は今、ここにいる。そう断言できる。だから智和は嫌悪している。もちろんララも同じ気持ちである。
だが、一人だけ身に覚えのある人間がいた。
(誰の記憶なのか……認識できない……)
セナは以前から、自分の知らない記憶が甦る。自分がいったい誰なのかわからなくなることがある。
はっきりとした感覚ではなく、否定と言うよりは既知に等しい。
知らないようなことを知っていると感じることがある。
自分は誰なのか、わからなくなる。
「……それじゃあ」
嫌悪感を抱いたまま、大体の説明を聞いて大体を把握した智和は、確信に迫る為に重い口を開いた。
「そいつは、セナは、いつか自我が崩壊すると?」
「だろうな」
息をつく暇さえない即答だった。
「薄々と感じていることは会話で理解できた。徐々に壊れ、本能のままに殺して殺して殺していくようになっていき、崩壊するだろう」
「要は――使い捨てか」
「解釈としてはそうとも言う」
ロイ・シュタイナーの言葉に、今度こそセナは表情を保つことはできなかった。
自分は使い捨て。
今まで自分は愛されていると思っていた――否、信じていた。ただ一人の被験者であり、ただ一人ロイ・シュタイナーの隣にいる存在である。愛されている故の結果だと。
――そもそも。
“いつから愛されていると思っていたのか”?
そうだ。何故セナはロイ・シュタイナーに愛されていると感じていたのか。
明確な愛情表現などなかった。それなのにセナはロイ・シュタイナーに愛情を感じ、ロイ・シュタイナーを愛した。
親として愛し、大切な存在として愛した。
それら全ての愛情は、はたしてセナ本人による感覚であったのだろうか。
呆然としているセナに気付く素振りすらないロイ・シュタイナーは、明確な敵意を示す智和と顔を合わせる。
「私は私の研究を求めた。だから使い捨てになろうとも、私自身が研究の一部になろうとも、全ては研究の飛躍の為だ」
「…………ちょっと待て」
聞いてはいけない言葉を聞いてしまったように、智和はロイ・シュタイナーの台詞に疑問を投げ掛ける。
「自分自身が研究の一部って……お前まさか」
「――他人の本質など理解できない。ならば自分は? 己の本質ならばどうだ? 私は私の本質を解明する為、“私は私を作り替えた”」
「“自分の脳みそまで弄ったって言うのか”!?」
「ああ」
平然と答えたロイ・シュタイナーは淡々と続ける。
「一部を切除して他人の脳を繋ぎ、電極を刺して電気を流し、脳の構造を組み替えたりもした。少しばかり遺伝子操作も行った」
果てしない研究の為に、自らも被験者となってしまったロイ・シュタイナー。彼の情熱と欲望はまさに狂喜と狂気に満ちていた。
解明できるかもわからない研究の為だけに、ロイ・シュタイナーは行動していた。
「だから急がねばならないのだ。私が私を維持できなくなってしまっている。早くしなければ。早くしなケレばならない」
「……何故、セナを使った」
恐れるほどの狂気を持つロイ・シュタイナーに、智和は最後に問う。
「被験者がいない。研究はお前自身。ならば何故、セナを使った?」
単純な疑問だった。セナに手術を行った意味がわからない。
被験者がいなければセナを使って拉致すれば良い。ボディーガードとすれば良い。手術前のセナならば、危険を冒すことがないのだから確実に仕事をこなすだろう。
智和には、ロイ・シュタイナーはセナを“わざと”壊したようにしか思えない。
「――――否定だよ」
初めての長い沈黙を破って、ロイ・シュタイナーの口から出た言葉だった。
「ロバート・グラハムを知っているか」
真意がわからず、智和は素直に答える。
「石器時代主義者」
「クロマニョン人時代主義者。まぁ大した差異はない。彼は精子バンクで名を広めたから知っているだろう」
「そんな人間を今更引き合いに出してどうする?」
「彼の主張を否定する為だ」
ロバート・グラハム。ノーベル賞受賞者などの天才の遺伝子を集め、人工受精させて社会に優秀な人材を送り込めば、恩恵を受けられるという考えを持った人物。
彼の否定の為に、ロイ・シュタイナーは吐露した。
「彼はクロマニョン人時代が頂点だと結論した。過酷な自然に生きた彼らが強く優秀で、唯一生き残る資格と遺伝子を残せたと。それが文明に破壊されたと、彼は信じきっていた――――“違う”」
そこで初めて、ロイ・シュタイナーが感情を表した。その言葉には憎悪に似たものが含まれている。
「そんなものは違う。断じて違う。原人時代が頂点など、断じて違う。何故なら頂点などはない。ないのだ。彼の否定は、人間の否定だ」
「……」
「人間は進化する。人間は飛躍する。数多の進化と飛躍の無限の可能性を秘めた存在だ。故に文明を発展させるのは造作もない。知能を持つ存在は進化と飛躍をするのだから。そんな原人主義など認めない」
小さく息を吐き、興奮冷め止まぬ状態で続ける。
「私はこう解釈した。過酷な自然では本能が勝る存在が優秀だと。他者の存在よりも強い渇望と欲望と暴力を所持した獣が優秀だと。――それを“試してやった”」
「……それが“セナ”か」
「そうだ。ただ本能に生きる原人が優秀だというならば、単純明快な本能を持つだけの存在がいかに優秀だということを、彼の理論上で脳と遺伝子を“進化”させて実行してやった。
単純な渇望と欲望と暴力は何物にも勝る。性欲に勝り、娯楽に勝り、残ったのはただの殺戮だ。本能に刻まれた獣に備わる本来の生存本能だ。――その成果を導き出せた」
殺しの過程という娯楽に浸り、性欲に溺れていたセナはいつしか足りなくなっていた。むなしくなっていた。
違う。これじゃない。
今までやってきたことなのに、どういう訳か満足になることができなかった。
思い通りに行動できないストレス。ロイ・シュタイナーに指示される単調な仕事。それが重なって制御が利かなくなり、直に暴走を始めて殺しを行う。
その時に叫ぶ――反応したのだ。
脳が。遺伝子が。本能が。本質が。全てが。
自分はこうあるべきなのだと。
至極簡単。単純明快。
殺しの過程による娯楽でも、激しい性欲でもない、初めて自分はこの為の存在だと“認識”できた瞬間。
自分は獣。言語すら話せない憐れな原人のモルモット。
「なんて憐れだろうと思った。ただの殺し合いの潰し合い。優秀どころは蛮族……否、人間と呼ぶことに不快を覚える存在。私はこう反論する」
それはつまり、セナは殺戮に意味を見出だしたように、ロイ・シュタイナーにとってロバート・グラハムの理論は殺戮でしかないということ。
そんなもの、人間とは呼べぬ代物だということだった。
彼はセナで証明したのだ。
そんなものなどただの蛮族だ。優秀とすら言えぬ汚れた存在。人間に成り損ねた憐れな獣。
――セナはその被験者に過ぎない。
「あえて理性を持たせた上で、原人に近付けさせた。結果、見事に壊レた。モはや人間でハナい。私の否定理論は立証サレタ」
「……お前は、セナに、自分に、何も感じないんだな」
目の前の男は憐れむようにこちらを見ている。何故だ。私の理論は正しいのに。何故そんな目デ私を見る。
「感じナい。何がだ。私は私ダ。ロイ・シュタイナーはここにイル。ロイ・シュタイナーはここに有る」
「もう駄目だよ、お前。ロイ・シュタイナー、俺がわかるか? 隣にいる娘は――セナはわかるか?」
何ヲ言っテいる。
「セナとは誰ダ」
――――刹那。一発の銃声が響いた。
智和が撃ったものでも、ララが撃ったものでもない。ロイ・シュタイナーでもない。この三人は銃など持っていない。持っていたのはただ一人。
セナが、ララから奪い取ったワルサーP99で、ロイ・シュタイナーの腹部を撃ち抜いたのだ。
「…………ぁ」
無表情で涙を流していたのに、徐々に悲しみと怒りが込み上げてきた。手が震えて狙いが定まらない。
撃たれたロイ・シュタイナーの反応は遅かった。何をされたのか理解できず、違和感のある腹部に触れたら生暖かい湿った感触。見れば赤い液体がべっとりと手に濡れて、服に広がっていくのが自分の血であり、ようやく撃たれたのだと理解できた。
「ああああぁぁぁぁああああああああぁぁぁっ!!」
発狂したような、言葉にならない叫び声を上げるセナはララを放り投げ、ロイ・シュタイナーに向けて引き金を引き続ける。
至近距離だが動揺して数発しか当たらない。それでも胸と首を撃ち抜いており、ロイ・シュタイナーの体はボロ雑巾のように椅子から転げ落ちた。
全弾撃ち尽くしても引き続けていたセナは、死んだロイ・シュタイナーに馬乗りになり、力の限り殴り続けた。
「セナはッ、セナはパパを愛してたッ! 大切な人だからずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと隣にいて愛してたッ愛してたのにッ、愛してたのに愛して愛して愛して愛してたのにッ!!」
入り混じる記憶の中でも、それが例え別の存在の者だとしても。
セナはロイ・シュタイナーを愛していたに違いない。
それがロイ・シュタイナーにとって、ただの研究成果であり、否定理論であり、人間否定、存在否定の道具でしかなかった。
そんなこと、セナは許せる筈がなかった。
それ以前に。
セナには生きる意味すらなくなってしまった。
殺戮という本質を見出だし、己が存在する意味をようやく見つけたのだ。狂って狂って狂って、狂いに狂って手に入れた価値あるモノ。例えそれが歪んで、他者から否定されようとも、間違いなくセナの本質であり存在理由なのだ。
苦労して、愛して、傷ついて手に入れたのに。
全てが台無しになってしまった。
否定する為に作られ、見事に研究は成功し、ロイ・シュタイナーの理論は成立した。セナは狂って、本能に従って殺して回る。
行動を起こした瞬間にセナは否定証拠となり、一時的な研究否定の為――用済みとなった。
結局、ロイ・シュタイナーは愛していなかった。人間とも見ていなかった。下手をすれば、同じ生物とすら見ていないかもしれない。
ただの否定証拠。
メモ書き程度の、投げ捨てられた実験材料。
それがセナの存在理由だった。
「――――ロイ・シュタイナー」
半狂乱して殴り続けられ、顔ではなく“肉塊”という表現が正しくなってしまった憐れな研究者に、智和は静かに告げた。
「お前は死ぬべき人間だ。人道以前の、人としての在り方の問題だ。何が正しくて何が間違いなのか俺にはわからない。人間が、猿から進化したのか神様が作ったのかという問いかけもわからないさ。興味もない」
呆れて溜め息を漏らし、研究者とも哲学者とも言えないただの学生は持論を続ける。
「――だけどな、猿でも人間でも結局は同じなんだよ。どっちも本能で動いてる。俺の意見が正しいとは思っていない。それでも確信はできる。
“猿も人間も世界も変わらない。ただ本能で回ってる”」
本能を満たす為に猿も人間も暴力で満ち溢れ、暴力を行使して生き続ける。
そんな存在がいるから、世界は暴力で満ち溢れている。
実際に見た。実際に戦った。実際に感じた。だから言える。猿や人間だけが狂っているのではなく、世界も狂っているのだと。
ロイ・シュタイナーの理論も、ロバート・グラハムの理論も知らない。そんなものは卓上の理論としか智和は考えられない。当然だろうとしか思えない。
世界そのものが狂っているのだから、暴力に満ちているのだから。原人時代が頂点やら原人否定やらなど意味がないと切り捨てた。
「ロイ・シュタイナー」
一学生の勝手な理論だ。研究も哲学も知らぬ未熟で、暴力しか知らぬクソガキの理論だ。
「お前は今ここで死ね。死ななきゃならない」
それでも断言する。否定する。拒絶する。
作り上げた“モノ”すら忘れ、なにもかも忘れた研究者には、何故撃たれたのかすらわからないだろう。
何故“モノ”が泣いているのか――わかる筈がないだろう。
――暫く殴り続けたことで、ロイ・シュタイナーの顔はトマトのように潰れていた。息をきらしているセナの両手は骨を砕き、肉を潰し、黒々とした血で濡れている。
見るも無惨な結果に智和は心底つまらないといった表情を見せ、ララの近くにある蹴った銃を拾い上げた。
対してララは辛いのか、少しだけ目を逸らしている。死体を見ることに辛いのではない。セナの姿を見るのが辛かった。
まるで瑠奈の将来を見ているようだった。己の意思を最後まで貫き通し、壊れてしまって呆然としている彼女の姿が容易に想像できる。
壊れる前に自分は何かできるのだろうか。壊れてしまって自分には救えるのだろうか。
初めての大切な存在だから失ってしまうことを考えると、様々な不安と恐怖が襲い掛かってきた。
「安心しろ」
ふと声をかけた智和はララを見てはおらず、銃に異常がないか簡単に確かめていた。
「瑠奈はセナじゃない。瑠奈は瑠奈だ」
深い意味はない。そのままの意味である。
「……そうね。瑠奈は、瑠奈よね」
智和の一言は不安と恐怖を取り除くには充分なものだった。
瑠奈は瑠奈。セナではなく、誰のものでもない唯一の存在。
後は本人の問題だ。これから先は瑠奈自身が解決せねばならない。それで間違いを起こしたならば、壊れるかもしれないならば、手を出そう。
それが智和なりの優しさだということを気付いたララは、智和もなかなかのお節介だと再確認して少しだけ笑みを見せた。
勝手に納得し、残る問題はセナだけとなった。
「この場所、どうするつもり?」
ロイ・シュタイナーはご覧の通り死亡。顔は潰されたものの指紋で確認はできる。長谷川に連絡すれば隠密に死体とそこら辺に散らばる資料は回収できる。
問題というのはセナの処遇だ。
ロイ・シュタイナーの研究成果。否定証拠でも、言い換えれば脳科学と遺伝子科学の結晶体のようなもの。研究する価値はある。
だが根本的にセナは犯罪者なのだ。研究に参加する条件などの司法取引を行っても、数十人単位で殺してしまっている。ましてや体をバラして被害を増加させてしまった。ニュースでの暴力団や海外マフィアの壊滅も、おそらくセナだろう。
だとすれば減刑どころの話ではなく、司法取引が行われないかもしれない。そもそも研究するかわからない。こればかりはどうしようもない。
「…………少し一人にして」
聞こえるか聞こえないかの大きさで呟いたセナの言葉は震えていた。
叫ぶことなく、ただ大粒の涙を流す視線の先は潰れた肉塊の残骸。
「智和」
「……外で待ってる。五分経ったら連れて帰る」
保護と監視が条件ではあるが、非正規の任務に条件など無意味だと考える智和はそう告げて歩き、廊下へと続く扉を開けて部屋を出る。背中を追うララはセナに一瞥して、少し不安になりながら部屋を出た。
「いいの?」
階段を上がる途中にララは問う。
確かにセナの今の心境を考えると、少し静かにさせた方が良いかもしれない。だが逆に、何をするかわからない状態でもある。目を離すべきではないかもしれないと、ララの中ではそう思っていた。
「さぁな」
智和の答えは素っ気なかった。まるでどうでもいいなどと突き放すかのように。
「他人事?」
「他人事だ。――だが、一人にして良かったのか。自分が何であんなことを言ったのか。……何故か少しだけ、後悔してるような気がする」
それはつまり、セナに対する智和の気遣いであり。
同時に、面影を瑠奈に重ねてしまったが故に、瑠奈に対する気遣いでもあった。
智和もララと同じことを考えていたのだ。もし瑠奈が壊れてしまったら、果たして自分は力になれるのだろうか、と。
今まで散々助けられ、隣にいた少女が傷ついた時、果たして自分は、ちゃんと隣にいて支えられるのだろうか、と。
――――――――――◇――――――――――
引き金を引いた瞬間、セナの世界が崩れた。
愛していたと思っていたのにそうではなく、愛していた者を撃って殴り殺したその瞬間、セナの世界が音を立てて崩れ落ちた。
いったい何がしたかったのだろう。その意味すらわからなくなってしまったセナは、ロイ・シュタイナーであった顔のない死体に馬乗りになっている。
この男は優秀だった。故に憐れでもあった。
そしてセナは憐れなだけだった。
ただ素直に彼を信じ、ただ愚直に彼を愛し、ただ滑稽に彼を想った。これらは今のセナではもはや理解できることではないが、一種の本質だったのかもしれない。
それら全てが、今はもうどうでもよくなってしまった。
こんな場所に意味はない。
こんな資料に意味はない。
こんな研究に意味はない。
ロイ・シュタイナーはロイ・シュタイナーでなくなってしまった。――否、当の昔に消えていたのだ。
自身を研究の一部に作り替えてしまったその瞬間に、消えたのだ。
「…………ぁ」
故に彼にも意味はなく。
「ぁぁ……!」
同じように、ただの否定証拠であったセナにも意味はなくなってしまった。
「ああぁぁぁぁああああああああああァァッ――!!」
金切り声を上げ、髪の毛を強く掻き毟り、頭を引き裂こうかというほど爪を突き立てる。何故こんな自分を作ったのかという怒りと、何故こんな自分に成り果てたという悲しみが同時に込み上げてくる。また涙が出てきた。
元より意味などなかったのだ。
「こんな――こんな世界もう嫌だ――」
おかしくなって薄ら笑いが出てしまう。何の為に生まれ、何の為に生きてきたのか。
何の為に彼を愛したのか。全く意味がわからなくなってしまった。
「こんな世界なんて要らない――――こんな世界なんて、消えればいい」
彼女の世界は壊れ、なにもなくなってしまった。愛した男も殺した。彼女の愛した世界は崩れた。
ならばロイ・シュタイナーの世界はもう必要ない。思い残すことはなにもない。彼の世界はもう必要とされない。
崩そう。壊そう。
覚束ない足取りで、部屋の隅に置いていたポリタンクに手を伸ばす。日本を去る時、証拠隠滅として燃やす為にガソリンが入れられている。
ガソリンを周囲に撒き散らして一階へ。一階にもガソリンを用意しており、それを撒き散らす。
地下へと戻り、発火させる為に用意したオイルライターに火を点けて無造作に投げた。狙った訳ではないが、奇しくも死体にライターが転がり、瞬く間に燃え上がる。
「…………うふふ、ぁはははは、はははははははッ、あっははははははは――」
高笑いと共に地下室は一気に燃え広がる。壊れたように笑うセナは愛した男の顛末を見る気すら起きず、よろめきながら一階に上がっていく。
――――――――――◇――――――――――
「おいおいおいおいマジかよ」
ハンヴィーの運転席に座る強希は、立ち上る黒煙を眺めていた。銃を片付けていた新一や、監視から戻った恵も同じ光景を眺めており、また、智和とララの二人も傍観していた。
建物が燃えている。二階にはまだ火が回っていないということは、おそらく地下か一階から出火したのだろう。だとしても火の気などある訳ないこの区域だから、証拠隠滅用に前以て準備していたのだとすぐにわかる。
少し考えればわかることだった。証拠隠滅の準備をしていることも、セナがこうすることも。
力尽くで連れ出すこともできたのだ。なのにそうはしなかった。セナの為と、そうしなかった。
本当にそうだろうか。
ただ単にセナを生かすことが危険かもしれない。瑠奈とセナを引き合わせることが恐かっただけかもしれない。
あの二人は似過ぎている。瓜二つの存在として、或いは双子という可能性として。セナは瑠奈にとってあまりに危険だと。
「…………クソッ」
何で自分はこんなことをしたのかと強く苛立つ。
瑠奈ならばきっとセナを助けるというのに、自分は見殺しにしたのだ。
「智和」
隣で壁に凭れかかって黒煙を見上げるララは、どこか決意した目をしていた。
「貴方なら、こうなるってわかってた筈よね」
「ああ」
「責めるつもりはないの。ただ、貴方らしくないって思った」
「そんなのは知らん」
「お節介しない貴方は貴方らしくない。あの時の私に言葉をかけたような智和じゃない」
――エリクを追い詰め、殺す一歩手前で智和は声をかけた。
今思い返せば余計なお世話だ。お節介にも程がある。
だが、そのおかげでララはここにいる。
「瑠奈の為に、会わせたくないんでしょう」
ララならば気付いているだろうと考えていた通り、見抜かれていた。
「私も恐い。もし瑠奈が壊れたら物凄く恐い」
初めてできた大切な存在だから。手放してしまうことを考えると耐えられない。
『セナちゃんを助けてあげて』
だが。
瑠奈の望みを叶えてあげたい。
瑠奈が強く望んだことだから。
凌辱されて無事な筈がない。大丈夫な筈がない。それでも強く望んで、決意したのだ。
瑠奈が――友が決意したならば。
その友として、助けることが道理だろうと。
「でも私は助ける。瑠奈がそう望んだから。あいつを助ける」
「…………だろうと思ったよ」
なんのメリットもない。犯罪者をみすみす助けにいくなど愚の骨頂だ。
助けて瑠奈に会わせたとしても、セナはなにをするかわからない。ただの危険な存在として残り続けるだけである。
――それでもやはり、智和はお節介で。
そのお節介は、瑠奈から伝染したものでもあるのだから。
大切だから。壊したくないから。
瑠奈に何をしてやれるのだろうかと考えると、こんなことしかできない。
壊すことしかできないから。
殺すことしかできないから。
瑠奈のように、助けることなんて――できないから。
「そのまま突っ込んだら焼け死ぬぞ」
「知ってる」
二人は周囲を見回し、智和が鋼製の単口消火栓を見つけた。すぐに無線で強希に伝える。
「強希、こっちにハンヴィーを寄越せ。あと、油圧カッターとか積んでるか?」
――――――――――◇――――――――――
燃えていく。
彼の世界が燃えていく。
回収したサンプル。脳と遺伝子の構造や変更してきた者達の資料の数々。ロイ・シュタイナー。
全てが燃えていく。
燃えて尽きていく。
彼の世界が終焉を迎えると同時に、セナが愛した世界も終焉を迎える。
彼女が愛した彼も、彼女が生まれた証拠と意味も、彼女が想い焦がれた世界が消えていく。
「――――これで、いい」
言い聞かせるように呟き、火の海に囲まれながら座り込んで俯いていた。ジリジリと肌が焼けていくのを感じる。酸素が燃焼されて息苦しく、肺や口内に熱気が伝わる。脳みそが働かない。
死にに逝く感覚がわかる。
そうだ。これでいい。
セナのいるべき世界、愛すべき世界が消えていく。ならばセナも消えなければならない。
彼の“愛した”世界の住人だから。例えそうでなかったとしても、セナは彼の世界で生きてきた。彼が消えるのならば、セナも消えるのが道理である。
「…………ぅぁ」
ならば何故、涙が出るのだろう。
後悔をする理由がわからない。涙する理由がわからない。
「ぅあ、ああぁぁ……」
先程までは、愛していた彼と共に逝くことになんの不安も抱かなかった筈なのに、今は何故こんなにも恐いのだろう。
胸に突き刺さるこの痛みは何だ。耳に残るあの声は何だ。記憶に浮かぶあの顔は――
“同じ少女”。
たった数時間、しかも少ししか会話をしていないあの少女。瓜二つのあの少女。姉と呼んだあの少女。
瑠奈が、セナから離れない。
「ああぁぁ、ああああぁぁああ……!」
初めて接した人間だった。笑顔の似合う人間だった。優しい人間だった。
姉と呼んだ理由がわからない。どうしてそんなことを思ってしまい、瑠奈をロイ・シュタイナーに会わせないようにしてしまったのだろうか。
「うわああぁぁああっ、あああああああああああああ!」
わからない。わからない。わからない。
わからないけども――会いたい。
瑠奈に会いたい。会って話したい。
死にたくない。死にたくない。死にたくない。
「うぁぁっ、ああああああっ……! おね、え……ちゃん……」
この場から逃げ出したいが、脳に酸素が供給されず頭が働かない。立とうにも立てず、這いつくばってしまう。力が入らない。
視界が暗くなり、意識が薄くなってきた。火傷などもはや気付くこともない。抗うことができず、目蓋はゆっくり閉じていく。全身の力が抜けていく。
――消火栓を破壊して水を被った二人が救出に来たのは、セナが意識を失った直後だった。
――――――――――◇――――――――――
「学園長」
日が変わって一時間半ほど経過した頃、吉田が学園長室にいた如月の下へ訪れた。
真夜中だと言うのに二人はしっかりとスーツを着ており、疲労など感じないといった静かな表情をしている。
「先程、部隊の帰還を確認しました」
「状況は?」
「ロイ・シュタイナーはセナに殺され、焼け落ちた瓦礫の下敷きになったと。セナは火傷を負って一度意識を失ったようですが、現在は安定している模様です」
「セナ……それが彼女の名前か」
「はい?」
「深い意味はない」
椅子に深く体を預けていた如月は肘をつきながら考える。いつもならば窓を眺めながら考えるが、あの巨大化な窓ガラスは今カーテンで閉められている。
予想していた範疇ではあるが、結果が出てしまえば意外にもパンチのあるものだ。ロイ・シュタイナーは死に、セナが生き残った。
はたしてこれは充分な結果と言えるか。それとも――
「千早。本部と繋いでくれ」
「了解しました」
どうあれ、企業側の対応は知っている如月にしてみれば事件の後始末はわかりきったことだった。
――――――――――◇――――――――――
瑠奈が目を覚まして最初に感じたのは腹部の鈍痛だった。
「つぅ……!」
痛みが治まり、ようやく記憶が甦ってきた。
自分はセナに気絶させられた。
予想していなかった行動を躱さすことができず、まともに直撃してしまった。結果、瑠奈はこうして眠っていたのだ。
「目が覚めたか」
傍らから聞こえた声に顔を向け、その主が長谷川だということを知る。そして自分の状況も少しずつ理解できていった。
ここはIMIの病棟だ。衛生科を受講していた瑠奈にとっては馴染み深い場所でもある。
「私が運んだ」
セナに気絶させられた後、長谷川に運ばれてベッドで眠っていたらしい。ツインテールにしていた髪は解かれている。
そういえば随分長く寝ていた気がするのに、体が重くて気怠い。長谷川の後ろにあるカーテンの隙間からは、僅かに光が射し込んできていた。
「…………っ! 今は何時ですか!? というかセナちゃんはどうなっ――」
「まずは寝てろ」
起こした上半身は、長谷川の右手で軽く押されただけで再びベッドに倒れてしまった。どうやら体力も消費してしまっているらしい。
予想以上に体力が回復していないので、長谷川の言葉に甘えてベッドに寝たまま話を聞く。
「今は六時半を過ぎたあたりだ。正確には六時三十八分。セナは隣だ」
「えっ」
まさかとは思いつつ左に顔を向けると、長谷川の言葉通りセナが隣のベッドで眠っていた。冷静になっていたと思っていたが、どうやら違っていたらしい。
セナも瑠奈と同じように髪を解いており、体の至るところに包帯が巻かれている。
それでも静かな寝息をたてているということは、セナの状態が安定しているのだろう。
「浅達性Ⅱ度の火傷だが問題ない。衛生科の教師が治療して火傷の痕は残らないそうだ。気道燃焼はしていない。火の海に囲まれていたのに、つくづく運の強い奴だ」
長谷川が微かに笑いを見せ、瑠奈は安堵の溜め息を漏らす。
「智和とララが消火栓を壊して水を被って助けた。二人も多少の火傷があったが、もちろん心配は要らない」
「トモ君とララちゃんが……?」
意外な人物の名前だった。確かにララにはセナの為にと懇願はしたが、彼女は智和の指示に従うとばかり思っていた。智和もセナを嫌悪しており、殺そうともしていた。
その二人がわざわざ火の中に飛び込んで助けるなど、いくら瑠奈でも簡単には信じられなかった。
「……そう、ですか。そうですか」
自然と手に力が入り、シーツを強く握り締める。目頭が熱くなり、泣きたい気持ちを必死に堪える。
「ありがと……トモ君、ララちゃん……! 本当に、本当にありがとう……!」
彼女が望んだ叶いようのない願いを二人が叶えてくれた。いくら感謝しても足りない。
大声で叫びたかったがセナが起きてしまう。必死に堪え、静かにむせび泣きながら涙を流した。
――セナの罪は重い。そんな言葉を、長谷川は今の瑠奈に言えなかった。
客観的に見ても明らかな殺人行為の数々。非人道的で、人間とは思えぬセナの行動は、どう考えても取り返しのつかない状況にある。
学園長がIMI本部に連絡をしており、最終的な決断が下るのはまだ先だろうが、すぐに厳しい選択を迫られることになる筈だ。
ならばこの瞬間でも。僅かな時間でも。瑠奈とセナを一緒にしてやりたい。
「私は行く。後で朝食を運ばせる。昼にもう一度来るから、それまでゆっくり休んでおけ」
「…………はいっ」
ようやく泣き止んだ瑠奈の顔は、涙でぐしゃぐしゃだったが笑顔に満ちていた。
長谷川は初めて――誰にも見せたことのないような、優しいながらも少し諦めたような複雑な笑みを見せて病室を去った。
――――――――――◇――――――――――
寮に隣接している食堂にて六時半という早い時間帯にも関わらず、一部の生徒が集まっていた。
「ちょっとそこのお二人さんよ。聞きたいことがあるんだが」
「何で衛生科の建物から出てきた? 何で朝方の衛生科校舎から二人で出てきた?」
「ねぇ何で? ねぇ何で二人で出てきたのかな?」
「…………うるせぇぞお前ら」
「殺すわよ」
輪の中心にいたのは智和とララ。セナを救出した時に軽い火傷を負い、頬や腕などに治療を受けていた。
二人は何故テンションが低い状態で朝食を受け取っているのかというと、周りを囲む生徒――全員が特殊作戦部隊に所属する生徒――が先程から問い詰めているからである。
その内容というのが、智和とララが朝に衛生科の校舎から出てきた理由だ。
当然、二人は治療の為に衛生科校舎から出てきたのだが、どういう訳か特殊作戦部隊の生徒に見られており、“二人が夜通しで衛生科校舎にいて何かをしていた”という勘違いが生じてしまった。
すぐさま仲間内に広がってしまい、今はこうして質問攻めにされている。
智和は長谷川や琴美との生徒会による打ち合わせなどをしており、あまり寝ていない為に苛立っていた。ララは瑠奈とセナの病室を行ったり来たりで文字通り寝ておらず、苛立ちや呆れを通り越して殺意が沸いてきた始末である。
こんな朝早くから噂話の真相を確かめる為だけに食堂へ集まるなど、余程の暇人なのだろうと二人は思っていた。
朝食を受け取って生徒の群れを抜け、窓際の席に向かい合って座った。
「本当に暇な集団ね」
「からかうのが好きなんだ。放っとけ」
愚痴を言って朝食に手を伸ばす。
今朝はハムやレタスやトマトを水平に切ったベーグルで挟んだサラダパン、コーンポタージュのセットメニューとなっている。セットメニューに加え、智和はホットドッグ二つ。ララはクロワッサンを選んでいる。
「今日は予定ないわよね」
「ああ。昨日のアレだから何か言われるだろうが、そこは長谷川と琴美さんが対処したらしいから、生徒会からはまだなにも言われないだろうと」
「車とハンヴィーの正面突破?」
「それだ。警備員にまで口裏合わせてもらったらしいからな」
ハンヴィーは強希が何かと理由をつけて持ち出し、長谷川の車は長谷川が智和に貸したという無理な理由で押し通した。正面突破に関しては、運転手と警備員の両方に不手際があったという、これまた無理矢理な後付けである。
それでも長谷川の信頼によって警備員が協力してくれているので、強行手段を用いた智和側は両者に深く感謝している。
長谷川の車は無傷で戻り、ハンヴィーも強希によれば問題なく車庫に戻したらしいので一安心だ。
あとは生徒会がどのようにして迫ってくるのかだが、これも今のところは問題ないと言っていいだろう。残るは――
「セナの処遇は、どうなるのかしらね」
ララの発言に、智和はオレンジジュースを一口飲んでから答える。
「本部が決めるだろうよ。もしくは……企業の意向だ。まぁ企業に至ってはセナじゃなくロイ・シュタイナーに用があっただろうがな」
「そのロイ・シュタイナーがいなくなってセナが残った。どんな目的があったか知らないけど……ある程度決まってくるわよね」
「だろうな」
それは、セナが犯罪者として連行されること。
二十人をバラバラにした上、暴力団や海外マフィアをいくつか潰してしまった行動に関しては言い逃れできない事実だ。今後の処遇を考えると、警察に引き渡して刑務所に入るか、IMI本部に引き渡して専用の刑務所に入るか。どちらを選んでも刑務所に入るのは変わりない。当然の結果だ。
瑠奈には申し訳ないが、こればかりはどうすることもできない。
「ここにいたの」
朝食を食べ終えようとした時、寝呆け眼の恵がテーブルに近づいてきた。
数時間でも寝ていたのかジャージ姿で、手にはオレンジジュースが注がれたコップを持っている。
「さっき長谷川先生と会って、瑠奈が目を覚ましたって聞いた」
「本当に?」
「ええ」
「良かった……」
気絶させられただけだが、瑠奈が無事だと知っただけで安堵する。
「で、何か集まれってさ」
「集まる? 病室にか?」
「そう。長谷川先生も詳しく知らないらしいけど、そうらしい。智和だけでいいってさ」
部隊の隊長として居合わせろ、という意味だろう。
「私も行くわよ」
「だろうな」
ララが名乗り出たことに何ら不思議はない。むしろ無理矢理にでも着いていく筈だ。
「私は遠慮しとく。眠いし。新一や強希も行かないだろうし」
「わかった」
「早速行きましょう」
そう言ってララはトレーを持って返却場へと歩いていく。余程瑠奈と話がしたいらしい。
「……ねぇ智和」
智和も片付けようと席を立った時、話し掛けた恵が少し恥ずかしそうな表情をしていた。
「……ララと衛生科校舎で何かしたの?」
「してねぇよ」
――――――――――◇――――――――――
恵にあらぬ誤解をされた智和とララは瑠奈とセナの病室に向かう。
ノックして入ると、既に長谷川がパイプ椅子に座っていた。二人は目を覚ましており、瑠奈は体を起こしセナは寝たままだった。
「もう大丈夫?」
「大丈夫だよ~。心配かけてゴメンね~」
「いいのよ」
「呼んだ理由は何だ?」
簡単に挨拶した直後に智和が長谷川に問う。
「学園長が来るまで待て」
「学園長が?」
学園長が自ら出てくるということは、セナの今後に関する処遇を伝えるのだろう。
智和が深く勘繰る前に、日本IMI学園長の如月が杖をつきながらゆっくりやって来た。隣には秘書の吉田もいる。
「遅くなって済まない。なんせ足が悪い」
「いえ。わざわざ出向いてくださっただけでも。それで要件とは?」
立ち上がった長谷川が早速聞く。どうでもいいが如月の前だと、相変わらず軍人のような姿勢正しく厳かな雰囲気を纏わせると智和は思った。
「セナの処遇だ」
智和だけでなく、その場にいた全員の予想が一致した。
「単刀直入に言おう。セナは日本IMIの保護下に置くこととなった」
だが、如月の言葉までは予想できなかった。
セナを保護下に置く。
それはつまり、セナは罰せられずに日本IMIが一切を引き受けるということ。
「……何故、そのような結果になったのか聞いてもいいですか?」
困惑する学生三人と犯罪者一人を除き、長谷川は静かに問う。
「彼女の犯した罪は大変重い。二十人の一般人を殺害し、あまつさえ暴力団や海外マフィアを打倒した。
しかしIMI本部は、ロイ・シュタイナーの実験作に“仕立てられた”彼女を精神障害者と見なしたのだよ。それに後者に至っては、少なからず打倒した方が良いと考える者達による意思で動いている」
「…………」
「今後は精神状態の確認として本部から一人来る。精神科医をしていたそうだ。精神や性格などの内側のケアをして、問題なしならば日本IMIの生徒とする。これが処遇の結果だ」
そう言って如月と吉田は踵を返して病室を後にする。
残された人間は信じられないものを見た、聞いたように目を丸くしていた。
寛大なんてものじゃない。セナを精神障害者として、犯罪者であることを塗り潰そうとしている。これはれっきとした隠蔽工作だ。
「智和。ララ」
ただ名前を呼ばれただけなのに、威圧感を与えられた二人は振り向く。
そこにいたのは教師と呼ぶには生易しい――まるで歴戦を潜り抜けた戦士が、腹の底から煮えたぎる怒りを必死に抑えている長谷川浩美の姿。
「お前達は授業に出ろ。後は私が聞いておく」
――――――――――◇――――――――――
納得できる結果ではなかった。瑠奈やセナにしてみれば最高の結果ではあるが、予想もしていなかった結果に明らかに困惑していた。
二人は納得できていない。当然、智和とララと長谷川も納得できていない。
「失礼します」
ノックして学園長室の扉を開ける。如月が椅子に腰掛けて座っており、隣に吉田が立っていた。
「来るとは思っていたよ」
長谷川が訪ねてきたことについてなんら不思議ではなかったらしく、顔には少しだけ笑みが見える。
「セナの処遇だろう」
理解しているなら話は早い。
「明らかに本部の意向ではないでしょう。ただでさえ二十人以上を殺し、《狂信の者達》と間接的ながらも関係があるならば、本部が生易しい判断を下すわけがありません。企業の意向ですよね。学園長の指示ですか?」
「それ以上の発言は学園長に対する敵対行為と見なし――」
「かまわんよ。続けてくれ」
吉田がスーツの内側に手を伸ばすが、如月が制したことにより手を元の位置に戻した。
一瞬だが長谷川も隠しているS&W M19コンバットマグナムを握ろうとしたが、如月が事を荒立てても得はない。これはただの事実糾明なのだから。
「彼女は遺産だ」
「ロイ・シュタイナーのですか」
「その通り。外見が草薙瑠奈と瓜二つであっても、中身が暴力に満ち溢れていても、脳と遺伝子は天才が作り上げた作品だ。彼の遺産のサンプル回収が主な理由になっている」
学会から追放されたロイ・シュタイナーだが、当時の遺伝子分野では次世代を担う若き天才として名が知れ渡っていた。加えて脳の構造をも変化させたロイ・シュタイナーは、本当の天才だった。
天才が作った遺産サンプルの回収。それが企業の目的であり、セナを保護した理由だ。
「企業は生物兵器でも作るつもりですか?」
「そんなものはゲームの世界だけだ。それに、企業は新たに医薬品分野に手を伸ばすらしい」
「今更、慈善事業などする必要はない筈ですよ。別ルートの拡大ですか」
「そこまで教える義理は私にはないさ」
表情には出さなかったものの、嫌悪感が生まれたのは確かだった。
如月はIMIの人間ではなく、企業の人間だ。長年、企業の手足となって尽くした如月ならば企業の幹部に位置していても不思議ではない。
今の如月は日本IMI学園長ではなく、世界を相手にする軍事企業側の人間だった。
吉田も企業側――正しく言うならば如月個人か――に対して、長谷川は日本IMIの、軍事教科担当の一教師に過ぎない。優秀な部隊を持ち、生徒の面倒に手を焼きながらも愛しく、大切に思っている。
“故に、無性に腹立たしい”。
「これだけは言わせていただきますが」
込み上げてくる感情を押さえ込み、二人を――企業の人間を睨み付けて、静かながらも強く訴える。
「全てがハッピーエンドで終わるならばそれはいいでしょう。全員が無事ならばいいでしょう。しかし、“私達の世界にそんなことはありません”。ハッピーエンドならば良いと願うのではなく、行動して結果を引き寄せなければならないからです。だから私はハッピーエンドなど望みません。実力で結果を引き寄せることを望みますし、生徒達にもそう教えています」
「良い心構えだ。して、何が言いたい?」
「今回の件はまさにハッピーエンドです。運が良かった。二十人を犠牲に組関係は潰され、無事サンプルも手に入れられた。そうでしょう?」
「ああ」
「ですがね、“そんな奇跡”の為に傷ついた者がいることも忘れないでいただきたい。
――そして、企業の思惑に私の、“私達の”生徒達を巻き込まないでいただきたい」
企業の利益目的の為に、長谷川の生徒だけでなく、日本IMIの生徒が動かされているかもしれない。
否、実際に動かされている生徒がいる筈だ。把握しているかしていないかはともかく、IMIが企業の下にある時点でその可能性はあり、世界各国のIMIで行われた可能性もある。
今回は智和達が動かされ、瑠奈は心に傷を残す結果となり、セナという不確定要素を得てしまった。今後、セナによって瑠奈がどのように変化するかが決まってくる。そのままなのか、はたまたすぐに壊れてしまうのか。長谷川は瑠奈の思想を智和より早く見抜き、いち早く危惧していた。
そんな賭けをするならば、セナなど刑務所に入れられてしまえば良かったと、智和が殺してくれれば良かったと思ってしまう。
殺してしまっても、智和は長谷川の大事な教え子だから全力で守る。智和の先輩である榎本誠二が託した後輩を全力で守る。瑠奈を守る。ララを守る。強希、恵、新一、琴美も例外ではなく、IMIの生徒を守ることが長谷川の使命なのだ。
今回の事件で瑠奈は凌辱されて心も体も傷ついた。守れなかった責任が長谷川にある。
だが、企業の利益目的の為に瑠奈が傷ついたということにもなる。本来まったく関係のない人間が犠牲になった。その犠牲が長谷川の教え子。怒りを覚えるのは当然だった。
全てがハッピーエンドなんて、そんな上手い話などないと長谷川は思う。過去に願ったことがあったものの、そんなことは起こらなかった。
「草薙瑠奈君の件についてか。それは確かに気の毒だった。だが、それとこれは話は別。任務に障害はつく。それは彼女も想定していた筈だ」
――気の毒だった、だと。
手を組む如月の言葉に、長谷川の我慢は限界を迎えようとしていた。感情を剥き出してはいけないが、そんな言葉で片付けられていい筈がないと、女性ならではの感情も付け加えられていた。
「もちろん本人もそうでしょう。私が確認しています」
「ならば君は何故、まだ言い足りなそうな表情なのだ?」
「セナは罰せられるべきです。例え遺産だろうとサンプルが必要だろうと、刑務所の独房でも可能な筈です。それを何故わざわざ日本IMIの敷地内で行うのですかっ……!?」
「理由が必要かね? そんなもの本当は要らないのだよ。彼女は一般人を二十人殺し、それ以上を殺したが、サンプルを用いた医薬品が世に出れば数十倍の人間を救う。これは事実だ」
「そんなものは“建前”であって本質ではありません。罰するか罰しないかの問題です!」
「物事には真っ当な判断をせず進行すべきことがある。今が“それ”だ」
「そんなもの、そんなものなんて納得できるわけないでしょう」
「する、しないではない。そもそも君には選択肢はない」
IMIと企業との間には立ち入れない壁がある。しかも無条件でIMIが下になる無慈悲な関係図。
選択肢はないと言われたことは、IMIがしゃしゃり出てくる場面ではないという言葉でもある。
もはや、長谷川にはどうすることもできない。
「そもそも君は何故そんなに区別したがる? 差別とは違う――正義か悪かの判別。何故かね?」
「それは……」
「やはり昔の事件が原因かね?」
瞬間――長谷川は言い表わせない感覚に襲われた。
言葉を聞いた瞬間、如月に向けて憤怒と憎悪が暴れだした。しかし、頭の中に甦った過去の記憶の事件映像などが走馬灯のように流れると、かつて共にいた者達に対する情熱と悲しみ、自身に対する憐れみと惨めさと後悔が溢れ出てきた。
あの頃の自分がいかに愚かだったのか。それが今の長谷川浩美を作り上げる成長となり、後悔となり、憎悪となった。
引き金を引けたなら、助けられた筈だった。
――いったい誰に向けた憎悪かは本人も不明で、知らず知らずのうちに力を込めた右手が指を広げ、上着の下のコンバットマグナムを求めて強く震えていた。
あの時引けなかった引き金を、今引きたいと希うかのように。
「ぐ……ぁ……!」
それでも歯軋りしながら懸命に耐えて、握り拳を作った右手の手首を左手で捕まえる。ねじ切るように強く、強く握り締める。
「失礼しました……!」
話すことはもうない。“昔話”を掘り起こされて自暴自棄になりかけた長谷川は、逃げるように学園長室を後にした。
まだ右手に力が入る。引き金を求めて。まるで長谷川の意思とは別の意思があるように震える。
「くそっ!!」
耐えきれなくなり、階段を降りている途中で右手を壁に叩きつけるように殴った。
痺れるような重い痛みが拳全体を包む。右手に多大な負荷が掛かっている証拠だ。痺れが取れて痛みがまだ続く。
「私は……!」
何を今更悔やんでいるのだろうか。
瞬間的ながらも、憎悪を誰に向けるかすら理性を失ったのは愚行だ。あの場面で吉田が銃を出さなかったのが奇跡的に思える。
(……もう、何年も前か)
耐えられると思っていた。大丈夫だと思っていた。しかし、実際に口にされるとあのザマだ。これでは、「常に冷静を保て」と口煩く言い聞かせた智和達に顔向けできない。
関係ない。もう関係ないのだ。
古巣を終われ、日本IMIの教師となった瞬間に長谷川浩美は生まれ変わった。
だがそれでも企業の意思に智和達を――生徒達を絡ませたくない。巻き込みたくない。
「……くそ。ふざけるな」
何が倍の人間を救える、だ。
企業は数えきれないほど殺しているだろうに。
――――――――――◇――――――――――
全員が去って一時間ほど経った。瑠奈とセナに衛生科の教師が朝食を運んできてくれた。
「食べないの~?」
「……あんまり要らない、かなぁ」
瑠奈はちょうど空腹だったから良かったが、セナはとても食べる気にはなれない。
今の状態も一つの理由だが、如月から告げられた自分の処遇を考えていた。セナ自身、この始末は優し過ぎると思っている。
理由は簡単に思いついた。自分はロイ・シュタイナーの研究作品。いくら否定の為に作られたメモ書き程度でも、他者から見れば脳科学と遺伝子科学が詰まっているのだ。それを企業がみすみす手放すことはないだろう。
ということは、これはIMIの決定ではなく企業の決定。
「…………くそ」
軍事企業などに生かされている自分が情けない。
そして、最後の最後で生きたいと願ってしまったことも情けなく思えた。
「…………私ね、捨てられてたんだ~」
「え?」
突然語りだした瑠奈にセナは顔を向ける。
「拾われたのはフランスだけど、生まれた場所はそこじゃないのは確かだよ~。顔立ちもこんなだし~」
確かに瑠奈の顔立ちはヨーロッパ系などではなく、アジア系の顔立ちだ。瞳の色も明るいブラウンで、ヨーロッパなどで見られるブルーではない。
「拾ってくれたのはIMI本部の人だった。男の人。私から見ても気弱そうな人だったんだよ~」
「へぇ」
「日本人の眼鏡をかけた人で、皆から『ザキ』って呼ばれてた。山崎義光が名前で、だからザキなんだ~。私は普通に義光さんって呼んでた~。
義光さんは世界中を飛び回って、私も一緒に回って歩いたんだ~。小さい頃から色んな場所を回って、色んな人と出会って、色んな事情を知って。私の性格とかもこれで成り立っていったと思ってるよ~」
瑠奈の育ての親――山崎義光はIMI本部に勤め、世界中のIMIとの連携を保ったり、IMIが使用する武器弾薬や装備、車両の視察や調達などを“足”で稼いでいた。見方によれば営業マンだが、武器商人とも見える仕事だった。
「義光さんは、私の本当の父親みたいになってくれた。不器用だったけど、私の為に一生懸命になってくれてた~」
「その人は、今どうしてるのぉ?」
「死んじゃった」
変わらない口調で即答した。
「十二歳ぐらいの頃、南米にいた時、義光さんとはぐれちゃったことがあるの。初めての場所だったからとても不安で、その場から動けなかった。ようやく歩いたけど変な場所に出ちゃって、治安の悪い場所だった。
そしたらいつの間にか囲まれてた。麻薬売買のギャングやマフィアがいるって聞いてて、すぐその人達だってわかったから逃げようとしたけど遅かった。捕まった。
その時に義光さんが来てくれた。息が荒くて、必死に捜し回ったって思った。警察に通報したからすぐに駆け付けるって言ったけど、私を掴んでた男は応じないで拳銃を向けた。そしたらさ、いつの間にか義光さんも拳銃を構えてて躊躇なく撃ったんだよ。男の頭に当たって、その返り血が私にかかった。本当にびっくりしたよ」
引き金を引いた瞬間、瑠奈の義光に対する印象は大きく変わった。今は違うが、あの瞬間の義光は不器用で優しい父親ではなかった。
あの目は違う。人を殺し慣れた冷たい目だった。
IMIの人間として、銃の扱い方を心得ておくことは当然の義務だ。更に、義光の仕事上では襲撃されるということは珍しいことではなかった。ただ瑠奈が知らないだけで、義光が気付かれぬよう処理していただけである。
「突然のことだったから周りの男達は慌てて、義光さんは冷静に撃っていった」
今でもあの時のことは鮮明に覚えている。SIGザウアーP226拳銃を“手慣れた感じ”に構え、引き金を引く。“手慣れた感じ”にまず前の男二人の胸に撃ち込み、逃げようと背中を向けた男にも二発撃ち、背中と右脇腹に一発。まだ生きていたので男の横に立ち、頭に二発撃った。
実に“手慣れた”ものだった。
「恐かった」
助けにきてくれた希望を持った瞬間、今まで一緒だった待ち望んだ人ではなかったかのような衝撃を受けた。
「私は義光さんのことが恐かった」
不器用だが、優しくて面倒見がいい、ちょっと頼りないお父さん。
「私は――義光さんのことを恐がってしまった」
あの瞬間、集団を容易く殺した義光は義光ではなかった。誰がなんと言おうと、瑠奈にとって義光は義光でなくなってしまった。お父さんと慕っていた優しい義光から、冷たい目を持つ殺し屋の義光に変わってしまった。
「――私は、義光さんのことを恐がって、拒否した。差し伸べてもらった手を拒否してしまった。
その時の、その時の……義光さんの目が忘れられない。冷たい目も忘れられないけど……悲しそうな、困った顔が忘れられないの。いつもの優しい義光さんの表情で、悲しそうに見てたの」
声が微かに震え、ベッドの上で体育座りしていた。
「拒絶しちゃった。一番駄目なことをしちゃった。義光さんは当たり前のことをしただけで、私が駄目だった。義光さんは私を助けただけなのに。
その時、義光さんの体が揺れた。私の後ろのほうにまだ仲間がいて、逃げる前に撃ってきたの。義光さんは撃ち返しながら私を庇って、何発も当たった。
仲間が逃げて、義光さんが倒れた。出血が酷くて、目を開けたまま死んでた。後で、四十五口径の弾丸が七発当たったって医者から聞いた。死んでたことに気付かないで、私、義光さんに話し掛けた。ずっと話し掛けてた。返事がなくて、ようやく状況がわかってきたら、その状況をわかりたくなくて叫んでた。ずっと、叫んでた」
幼かった瑠奈にとって、義光の死を簡単に受け止めることはできなかった。初めて死を直視したのが育ての親であり、突然の死を目の当たりにしたのだ。
感じたのは死体に対する気持ち悪さではなく、大切な人物が死んだ悲しみでもなく、信じられない衝撃のみだった。
だが死に慣れていないと言えど、時間が経てば無慈悲に現実を突き付けられる。
四十五口径の弾丸を七発も撃たれ、瞬く間に辺り一面は血の海となった。横向きに倒れた義光は無表情で、眼鏡が外れて落ちた。
最初は理解できていなかった瑠奈はいつものように声をかけるが返事はない。段々と声を荒げ、力任せに揺するがなんの反応も示さない。無我夢中で叫び、揺すっている時に、ふと自分の手が絵の具を握り潰したかのように真っ赤に染まっていた。自分を見れば、義光の血で染まっていた。
そこでようやく理解できた。
義光は死んだのだと。
揺することを止め、義光に声をかけることを諦め、ただ泣き叫んだ。
「どうすることもできなかった」
力がないから。
幼い瑠奈にそんな力が備わっている筈がないと、誰もが理解していた。責めることはなく、逆に励ましてくれた。
だがそれでも、瑠奈は悔やむ。
「――しばらく本部に預けられてる時に、日本に行きたくなったの。義光さんの生まれた国で、行ったことがなかった。本部の人達は最初反対したけど、許可してもらって日本に来た」
「感想はぁ?」
「ごったごたしてたね~。なんだか雑多な印象だったよ~」
セナにつられる形で笑みをこぼした瑠奈は、セナに向きを変える。
「でもね、義光さんが生まれた場所だって思うと新鮮な気持ちだった」
「その人と来たかった?」
「うん。だけど、一人で来たから決意はできたよ。
私は救いたい。皆を救いたい。でもそんな力がないから、日本IMIに所属したの。義光さんの仇を討ちたいとかじゃなく、ただ本当に、救いたいの」
義光が凶弾に倒れた時、瑠奈は自分の無力さを知った。今の自分ではなにもできないと知った。
初めて日本を訪れ、義光が生まれた国を見た時、自分を変えなければならないと決意した。
守られる側から守る側へ。
救われる側から救う側へ。
例え死ぬことになろうとも、瑠奈の強い意志は間違いなくそこで生まれたのだ。
だから、と。
「私はセナちゃんを救いたい。――ううん、救いたいのもそうだけど、友達になりたい」
「…………馬鹿じゃないのぉ?」
この女は本当に頭のネジがおかしい。犯した相手と友達になりたいなんて酔狂だと、セナは呆れていた。
それでも瑠奈は笑顔を絶やさない。
「うん。私は馬鹿だよ。だから友達になりたい。セナちゃんと友達になって、救いたい」
凌辱されていたあの瞬間、瑠奈はセナのとある感情に気付いていた。
ロイ・シュタイナーへの愛情を欲していたこと。
セナは、瑠奈への性行為をロイ・シュタイナーからして欲しかったこと。例え苦痛でしかなくとも、セナにとって大事だったのは中身ではなく表現だった。
例え本気ではなくとも、愛されている表現だけでもして欲しかった。
そうでなければ、あれほどロイ・シュタイナーの名前を口にはしない。
瑠奈はそれに気付き、セナも理解していた。自分は壊れているから、誰かを頼らなければならない。それがロイ・シュタイナーであり、愛情が向かう対象だった。
「怖い」
愛情を注ぐ人物を殺してしまった。独りぼっちになってしまった。
「独りは怖い。意味がわからないままだから、怖いよ」
「大丈夫」
天井を眺めるセナを、瑠奈は優しく抱き締めた。
「私も独りぼっちだった。気持ちがわかる」
「セナは壊れてる。独りは怖い」
「私がいる」
「貴方のことを、何故かお姉ちゃんと呼んでた。何でかは知らないけど、お姉ちゃんに会って話したかった」
「これからもたくさん話したい」
「セナもたくさん話したい」
――貴女のことを、もっとよく知りたいから――
――――――――――◇――――――――――
都内の比較的安いビジネスホテルにて、レオンハルト・ローゼンハインは帰り支度を整えていた。
情報収集の為だけに日本で用意したパソコンなどは既に処分済みで、残っているのはプリペイド式携帯電話とキャリーケースだけだ。
身支度を整えている時、携帯電話が鳴りだす。いつもの番号が表示されて、なんの疑問もなく電話に出る。
「はい」
『報告を見た。ロイ・シュタイナーは確保できなかったか』
「ええ、長官。IMIに先を越された形です。彼の遺産もあちら側です」
『仕方ない結果だ。我々はあまりにも後手過ぎた。それにロイ・シュタイナーが死んだことで、世に出ることはなくなった。ドイツの汚点は消える』
「《狂信の者達》による加勢、という点ではですが。しかし遺産はいいのですか?」
『遺産はあくまで脳科学と遺伝子科学の結晶だ。企業とて優秀な実験材料だけに目をやって、死んだ人間など忘れ去る』
「でしょうね。企業の意志だということは確証を得ましたし、IMIは上手く利用されたでしょう。気付いてはいるが、なにもできない」
『それに関しては君にも悪いことをした。エリク事件にて犯人に仕立てられながらも、ロイ・シュタイナーを追い続けたのは素晴らしい精神だ』
「いえいえ。これは自分の性格が問題ですので」
レオンハルトが日本に来た理由は、ロイ・シュタイナーを確認する為だった。
ロイ・シュタイナーがドイツを拠点に研究を行い、ドイツの発展になると思っていたが、その研究は破壊の対象に向けられた。これは、ドイツ史における汚点である。レオンハルトは汚点の掃除の為だけにやって来た。
また、これは長い期間をかけた調査だった。亡霊となったロイ・シュタイナーの居場所を突き止めることは困難で、ドイツ史の汚点を知られない為に少人数チームの調査だったことが更に困難を招き寄せた。
その最中に、レオンハルトはエリクが《狂信の者達》に加担していた証拠を掴んだ。いや、“掴んでしまった”。
極秘調査を良い事にエリクはレオンハルトを犯人に仕立て上げ、IMIに所属する妹のララや家族をも利用して逃げ場を無くした。最後は失敗したが、途中までは完全に手出しできなかった。
その際に智和から指摘された。何か他にも隠しているのでは、と。
答えることができない。レオンハルトの回答の意味には、ロイ・シュタイナーが含まれていたのだ。自分の命より、ドイツの歴史に重きを置いていたことは、レオンハルトがどれだけドイツを想っているかの回答でもある。
『君は人が良過ぎる。優秀なことも評価対象だが、些か優し過ぎはしないかね。君は五課(組織犯罪、国際テロ対策)の人間なのに、他の課からラブコールがきている。主に女性局員だが』
「嬉しい限りですよ」
『他の課でも上手くやれることは私も確信できるし、君は若きエースだ。悔しいが、IMIは人材育成には素晴らしい場所だということになる』
「IMIはあくまで企業の“暴力”ですが、中身はちゃんとした軍事教育機関ですよ。学校行事に銃を手にする場所です」
『嫌な学校だよまったく。ああ、それとだな』
「何でしょう」
『エリクが死んだぞ』
その言葉を聞いた瞬間、今までの柔らかな笑みが消えて、ララでさえ見たことのない冷たい表情に変わった。
「いつ頃、どのように?」
『刑務所の移送前だ。CIAは極秘に運ぼうとしたが、乗せる直前に撃たれた。狙撃だよ』
「ニュースには……しないでしょうね。CIAの管理問題を問われる」
『ああ。頭が弾け、弾丸は酷く潰れていたが、脳組織と頭蓋骨破片が付着していた。使用されたのは大口径の対物ライフル。推定距離およそ1820メートル』
「ボブ・リー・スワガーもビックリな距離ですね。それ以外は?」
『なにも。CIAは情報を渡したくないらしい』
「そうですか」
レオンハルトはスーツの上着を着て、腕時計で時間を確かめる。
この時間ならばすぐに飛行機で行ける。
「戻ります」
『あと三日は休暇だぞ。家族や妹に会いたがっていただろう。確か、ララだったか』
「休暇より仕事をするほうが合ってます。家族にはドイツで会えますし、ララは小まめに連絡しているので」
冷たい表情が消え、再び家族を想う柔らかな笑みを見せた。
「それに、ララは大丈夫ですよ。会って確かめましたので。それではまた、ドイツで」
上司の返答を聞かずに電話を切り、携帯電話を上着の内ポケットに片付け、キャリーケースを引いて部屋を出る。
ララは大丈夫だ。
あの子はもう、独りではない。




