六、名を明かし
「きゃ!」
眼前で起こった素早い動きに驚いて桜子は肩を震わせるが、そんな自分が可愛いものだと感じるほど相手の驚きぶりは異常である。
「なんという! 俺は、俺は――、なんてことだ!」
女子の部屋に侵入して喚き立てる男は、方膝をついた姿勢のまま項垂れ、上には漬物石でも乗っていそうな具合である。
(わたくし、もしかして今のうちに逃げるべき?)
もはや隙だらけだにもかかわらず、桜子は取るべき行動に悩む。早く逃げなければと理解しているのに、動けないのは相手の動揺が尋常ではないからだ。意味は不明だが、桜子が赤子でない現実に酷く打ちひしがれている。そこに悪意があるようには感じられず困惑していた。
桜子が戸惑っているうちに、男はようやく自分を取り戻したらしい。かと思えば今度は豪快に笑い始めた。大笑いしているのに自虐気味であり無理しているようでもある。
「ふっ、俺は大馬鹿者のようだ。すまなかった、桜子」
これまでの無表情が嘘のように柔らかかな笑みを向けられる。名を呼ばれると胸が音を立て、これが物語ならば『高鳴る』とでも表現するのだろう。
「お前が桜子だったのか。ならば、名乗り遅れてすまなかった。俺は宵闇無月だ」
「宵闇、無月?」
つられて繰り返してみるが、どことなく不思議な響きの名である。
「ああ、お前を迎えに来た。さあ行くぞ」
嬉しそうに目を細められた。ますますもって訳が分からない。
「どこへ――、いえ、そもそも意味が……。迎えって、誘拐犯ではなくて? というか存在からして得体が知れませんし、わたくしをどこへ連れて行こうというの?」
「なんだ、十六というくせに何も知らないのか?」
桜子の中で何かが音を立てた。例えるなら硝子にヒビが入ったような、薄く張った氷が割れる直前のような。他人にこんな感情を抱くなど初めてで、でどうしていいかわからない。
カチンときた、なんだこの言い草は!
「喧嘩を売られているのかしら。不快に感じましたので、買って差し上げましょうか?」
桜子は笑顔を引きつらせ薙刀を向ける。突きつけられた相手は物騒な物を気にするでもなく語り始めた。
「十六年前、俺は日ノ宮紀仁――お前の父と取引した。窮地を救う代わりに、対価として娘を貰うとな」
「それは、どういう……」
そう返すだけで精一杯だった。つまり自分は父親に売られたと、この男はそう言っているのだ。
(わたくし、それほどまでに、お父様にとって不要な存在だった?)
嘘だと否定してしまえばいいのにどうして出来ないのだろう。悔しいことに心のどこかでは、あり得ないことではないと認めているのかもしれない。
「約束通り、お前を貰い受けに来た。待たせてすまない。まさかこんなに大きくなっているとは――」
無月と名乗る男は構わず話し続けているが、あまり耳に入ってこなかった。
桜子は必死に息を吸う。呼吸が落ち着かず、胸を締め付けられているようだった。激しい鼓動が動揺を表している。
「いや、どれも単なる言い訳に過ぎないな。本当に、悪かった」
無月は居住まいを正す。立ちあがると桜子よりも頭一つ分背が高く見上げる形となった。
桜子に向けて手が差し伸べられる。小さな子どもにするように、少し屈まれ目線が合った。たとえ仕草が丁寧だとしても、とてもその手を取る気にはなれない。
「……信じない」
正確には『信じたくない』だったのかもしれない。
「なんだと?」
桜子は無月を睨みつけた。薙刀を握る手には自然と力が入っていた。
「嘘は止めて。そんな作り話、信じない! あなた、何? 妖怪、幽霊なの? わたくしをかどわかしてどうしようというの。この、嘘つき!」
他人を嘘つきと罵るなんて、気持ちのいいものではない。さっそく後悔が生れていたが、それでも引き下がるわけにはいのだ。
(きっと、この方はお父様に恨みがあるの)
だから娘をかどわかして家族を混乱させようとしている。そう無理やり結論付けては、自分を納得させようとした。
(大丈夫です、お父様。桜子は惑わされたりしません)
丁寧な謝罪も、優しい気遣いもいらない。桜子が無月に望むことは、ただ違うと、嘘だと否定してくれるだけで良かった。
「……本当に、何も聞かされていないのだな。では、俺が教えてやろう。それともお前の口から語るか、紀仁?」
「え?」
視線を追うと、障子の脇に人影が覗く。
「お父様!」
桜子は縋りつくような眼差しで父を見つめていた。紀仁が離れに訪れるなど、記憶している限り初めてのことだ。
話を聞いていたのだろうか、それならば早く否定してほしいと願った。違うと、ただ一言の否定を待ち望む。
けれど紀仁は忌々しげに無月を睨むだけだ。
「私が語ることも、貴様が語ることもない。失せろ、汚らわしい妖が!」
紀仁は怒号混じりに妖と叫んだ。やはり彼は人間ではないのだと、すんなり沁みわたる。家族だから信じられると言えれば一番だが、そんな風に認識できるほど二人が家族の時間を過ごしたことはない。この目で人らしからぬ所業を目の当たりにしただけのことだった。
紀仁は桜子を見ていた。父から向けられる眼差は嬉しいことのはずなのに、素直に喜べないのは悔しいことに無月の言葉に動揺している証。そして紀仁の手に刀が握られているからだ。
物騒な獲物に気付いた瞬間、桜子は内心叫びを上げる。
(お父様、刀の腕は強いと聞くけれど! な、何が起こるの? ……流血沙汰!?)
ちなみに桜子は薙刀を持っており、あっという間に三つ巴の殺伐とした光景が造りあげられている。
「貴様なんぞに、くれてやるものか!」
紀仁は刀を振りかぶると無月めがけて斬りかかる。
桜子は動けず、悲鳴を漏らさぬよう両手で口を押さえた。