五、認識の誤り
「桜子さん、無事ですか!」
駆けつけた男たちは、もれなく警棒を装備していた。もはやただごとでは済まないだろう。物騒な雰囲気にうろたえながらも、桜子はなんとか口を開く。
「無事ですが、これは……。無事とは一体、何事です?」
「どこから侵入した! 誘拐犯めが!」
隊長と思わしき人物が声高に宣言する。
「ゆ、誘拐犯!?」
動揺に揺れる声を上げ、桜子は誘拐犯と命名された人物へと視線を移す。
「はい。我々は誘拐犯から、あなたを守るよう命じられています!」
確かに彼の狙いが日ノ宮桜子ということは間違いない。本人の口から聞いたばかりだが、まさか誘拐目的だったとは。うっかり名乗らずにいて正解だった。父の知人と思いこんでいたが、まさかの誘拐犯である。
……ということはだ。もしやあの手紙は脅迫状だったのではないだろうか。
(わたくしったら、自分の誘拐予告状を父親に手渡してしまうなんて……なんという失態なの!)
桜子は深く反省する。
日ノ宮紀仁といえば政界では屈指のやり手。家族を誘拐すれば打撃を与えられる、そう企てる輩がいてもおかしくはないだろう。
(……まあ、わたくしを攫ったところで痛手があるかは、今はおいておくけれど)
すると誘拐犯は無表情のまま、感情のない声で呟いた。
「……心外だな」
隙間なく取り囲まれているというのに冷静そのもので、どこから余裕が生まれるのか、むしろこちらが不安を煽られてしまう。
余裕の根拠は、すぐに垣間見ることとなった。
「なっ!」
何が起こっている?
それが理解できなかったのは皆同じで、最後まで成り行きを見守っていられたのは桜子だけだった。
辛うじて黒い影が動いていたような、そんな程度の認識しかできない。呟きの後、誘拐犯の姿を見失った。もう次の瞬間には、警備の者たちは倒れ伏していたのだ。
「あなた――、こ、殺したの?」
発した声は自分で思う以上に震えていた。血は流れていないが、ピクリとも動かない人の山が形成されている。
「いや、殺さない程度に留めてある」
それはつまり、殺すことは造作もないと言っているようなものだ。この男は危険だと最初から鳴っていた警鐘が、さらにガンガン激しく鳴り響く。
こんな危険な男を母屋に行かせてはならない。あそこには大切な家族がいる。たとえ振り向いてくれなくても、大切な家族だ。何より、彼の目的は桜子である。無関係な人たちを巻き込みたくはなかった。
「ところで、先ほどこの部屋に入ってきた男が桜子と声を上げていたが、お前知っているのか?」
どうやら情報を引き出すため、唯一桜子に危害を加えなかったのだろう。
「わ、わたくしです!」
とにかく犯人の注意を引かなければという一心だった。
「は?」
「わたくしが日ノ宮桜子よ!」
今度は男が呆ける番になる。こいつ何言ってるんだ? まさにそういう顔をしていた。
「馬鹿を言うな」
鼻で笑う、馬鹿にした言い草だった。次いで告げられた言葉に、桜子本人は目を丸くする羽目になった。
「桜子は、まだ赤子のはずだぞ!」
この人、今何て言った? 何を言っているのだろう。誘拐するつもりがあるのなら、せめて前情報は正確に集めてきてもらいたい。そんな不満が募り、そこから説明してやらなければならないかという呆れが生じる。
「あなたこそ馬鹿を言わないで、それはどこから仕入れた情報よ! 誘拐しに来るのなら、正しい情報を仕入れて出直しなさい!」
宣言すれば何故か桜子は睨まれた。だが、何も間違ったことは言っていないので引き下がるのは癪である。
「ふざけるな。あれから、十六年しか経っていないぞ!」
あれからって、どれから?
そんな疑問はひとまず置いておこう、今は些末な問題だ。桜子にはふざけようがないし、自分自身で十六年とのたまっているではないか。
「……十六年もあれば、人間わたくしほどの大きさには育つかと思いますが」
至極まっとうな一般的事実であり、何気ない調子でぼそりと発していた。だが何気ない桜子の呟きも、男にとっては致命傷になったようだ。
頭からつま先までじっくりと、信じられない面持ちで桜子は見つめられている。
「……たかが十六年で、人はこれ程育つと言うのか?」
あまりにも真剣かつ慎重を重ねる口調に、これは肯定していいのだろうかと若干の躊躇いを生じさせる。とは言え否定のしようがないため桜子は首を縦に振った。
愕然とした男は全身から崩れ落ち、畳に膝をついた。