四、日常の終わり
離れには生活に必要な物が揃っている。つまり一歩も外へ出ずに生活が可能ということだ。けれど年頃の少女が外の世界を望むのは、ごく自然なことだろう。
桜子は布団も敷かず畳に寝転がる。意気込んでいた気力は削げ落ち、意気消沈していた。
「さて、どうしましょう……」
家庭教師が訪れる日ではない。自習用にと課題も出されているが、とても勉学に励む気分になれなかった。
思案に耽っていたところ、外が騒がしくなっていることに気付く。
離れに訪れる者は少なく静まり返っているはずが、複数の足音に人の声がするなど珍しいことだ。
「何事かしら?」
障子を開け、限りなく細い隙間を作る。そっと覗けば、庭先に数人の男が立っていた。皆同じような出で立ちで歩きまわり、何かを探しているのか、きょろきょろしている。視線をずらせば、離れと母屋を繋ぐ渡り廊下も同じような雰囲気だった。
面会に来た政治関係者とは考えにくい。なぜなら警棒やら警杖を所持しており、まるで見張りのようだった。警戒するような視線を周囲へ巡らせている。
(一体何を……って、まさかわたくしを見張って?)
どれだけ厳重に監視するつもりか。信用がないにしても、か弱い女子が、この警戒をかいくぐってなぎ倒して外出するなど無理があるだろう。手放しで諦めを抱く程に厳戒態勢である。
しかし今日に限って、何故これほどまでに仰々しいのだろう。ふと、ある可能性に行き着いて、桜子は蒼白になった。
(まさか、あの手紙から夜の外出がバレてしまった? あの不審者、実はお父様の知り合いで告げ口されたの? そんな、どうしよう……)
嫌な汗まで浮かび始めた桜子の心中は穏やかではない。
(と、とにかく今日は大人しくしておきましょう。ええ、それがいいわ。わたくしは大人しい良い子なのだから!)
ごくりと喉を鳴らし、誰も見ていないのに平静を保つよう取り繕う。そして日頃の三割増しに丁寧な仕草で障子を閉めた。
あまりにも手持ち無沙汰で食事を作ったり、裁縫に興じたり。立て掛けた薙刀を一瞥しては、体を動かしたいとうねってみるが、庭すら出ることは叶わない。
料理をすれば調味料を間違え。裁縫をすれば針で指を突く。まったくもって、何にも集中出来やしなかった。
「あー! もう!」
投げやりな叫びで、桜子は縫いかけの刺繍を放りだした。
(どうせ家庭的で良い娘を目指そうと、誰も喜びはしない。淑やかで、理想的な淑女であろうと、お父様の目には映らない)
いないものとして扱われるのなら、目に留めざるを得ない完璧な娘になろうと決意した。
兄のように政治の補佐に携われるわけでもない。ならば良い相手と婚姻を結び、日ノ宮の家を守らなければと思っていた。政略結婚さえいとわぬ覚悟で、そのために良妻に求められる技術は一通り習得してきたつもりだ。文武両道であれという家訓に従い、薙刀の稽古にも励んできた。
けれど、いくら努力してもとどかない。頑張り続けること十六年、今も努力は実を結ばず、とっくに疲れ果てていた。
投げやりな思考に包まれながら、畳に寝そべり天井を見上げる。
「わたくし、どうしてこんな所にいるの……」
やがて思考に靄が掛かる。当たり前だが深夜起きていた反動だ。もういっそ眠ってしまおうと決め、まどろみに身を任せることにした。
この時はまだ、目が覚めても籠の鳥生活が続くと信じて疑わなかった。
遠くの方で、何かが鳴っている。
軽やかな調べは、鈴の音に似ていた。広がる波紋のように繰り返される響きは、いつまで経っても鳴り止まない。
「ん――、何時?」
耳鳴りに覚醒を促され、桜子は目を擦る。室内はすっかり暗くなっていた。かなり長く寝入ってしまったのだろう、慌てて灯りを付ける。
寝ぼけているのかと思ったが耳鳴りは止んでいない。それどころか次第に大きくなっているように感じた。
病気の症状かと懸念したところで出所を発見する。それは頭の中で鳴っていた訳ではなかった。
気のせいか、鏡の中から響いているような?
馬鹿馬鹿しいと一蹴しながらも、鏡に映る桜子の表情は険しかった。慎重に伸ばした手が冷たい鏡に触れた途端、鏡が波打つ。
「何、これっ!?」
桜子の姿は波紋に歪んでいった。
恐怖に手を離し、壁際まで逃げた。ドン――と壁に背中が当たり地味に痛い。
やがて鏡は黒く塗りつぶされていく。少女の姿は消え、浮かび上がったのは……。
「あの時の不審者!」
そこに映る姿と目が合う。見間違えたりしない、昨晩の不審者だ。向こう側とでもいうのか、彼は鏡の中の世界から手を伸ばしている。
桜子は悲鳴も上げられずに息を呑む。じっと目を逸らせずにいると、指先が鏡から出てきた。水中から抜け出すように、初めは指先、次に手が、そして腕。
「うそ、でしょう……」
茫然と呟いている間に、男は鏡の中から降り立っていた。気付けば耳鳴りは止み静寂が訪れている。
「……ん? 静かな場所があると出口に選んでみれば、お前の部屋か」
桜子は大きく目を見開く。口を動かそうとするも、上手く言葉が紡げない。というか何を言えばいい? 土足で畳に上がるなと普通ならば咎めるべき粗相も目に入らぬ驚愕なのだ。
「手紙は届けてくれたようだな。この鬱陶しい歓迎で一目瞭然だ。その件に関しては礼を言う」
いや、そうじゃなくて……。少しだけ冷静を取り戻せたようで、桜子は心の中で反論していた。
「あなた、一体……」
得体の知れない恐怖に呑まれてはならない。足腰を奮い立たせ、桜子は薙刀に手を伸ばす。気休めでも身を守るものが欲しかった。
(人間ではない、と思うわ、多分……)
鏡の中から現れる人間がいるはずない。仮に妖怪や幽霊の類であれば薙刀など無駄かもしれないが、負けじと桜子は勇気を振り絞る。
だというのに張本人は桜子に目もくれず、別の何かを探しているように落ち着きがない。
「お前に構っている暇はない。俺は桜子の元へ行かねばならないのだ」
桜子は瞬いた。素で驚いてしまった。今しがた告げられたのは、間違うはずもない自らの名だ。
「……あの」
「なんだ」
控えめに呼びかければ、遠慮なく鬱陶しげな眼差しを向けられる。赤い瞳は薄く細められ、いかにも不機嫌そうだ。よほど桜子の元へ急いでいるのだろう、邪魔するなと責め立てられるが、それは自分のことだと言ってやりたい。
「桜子って、日ノ宮桜子?」
恐る恐る、自分の名を口にしてみる。
「そうだ」
「それ……」
桜子は迷っていた。なにせ相手は人外(推定)である。名乗りを上げたとして、恐ろしいことにならないとも限らない。けれど自分の名があげられれば嫌でも気になってしまう。本人目の前ですと主張してもいいのだろうか、何度も喉元まで言いかけては自己申告すべきか再度迷っていた。
逡巡していると、話し声を察したのだろう、見張りたちが荒々しい勢いで部屋に乗り込んでくる。