一、始まりの屋台
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全ての始まりは一軒の屋台から――
仕事帰りの若者、名を紺田という。彼は新聞社に勤める記者であり、残業を終えた仕事の疲れを癒すべく、馴染みの屋台へ足を運んだ。
慣れた調子で酒とおでんを注文し、まずは一息に煽る。ふと、隣に意識を向ければ先客がいるようだった。
それは若い男で、身に纏っているのは上質な軍服。闇に溶けてしまいそうな色合いも、屋台の豆電球の下では意味もない。どこかの軍に勤めているのだろうか、けれど凛々しい制服姿もこんなところでは少しばかり浮いていた。
先客がいようと、取り立てて珍しいことではない。けれど最常連と豪語しても過言ではない紺田である。初めて見る顔というのも珍しく、なんとなく気になってしまった。
だが、今は何よりも目の前のご馳走である。疲れた身体に沁みわたる酒、空腹を癒すおでん。その全てが紺田を至福に誘い、満面の笑みで屋台を満喫していた。
「そんなに美味いのかい?」
不意に声をかけられ、紺田は大根へ伸ばしかけた箸を止める。見知らぬ相席者は、無表情に手元のコップを眺めていた。注がれた酒は、まだコップいっぱいに残っている。
酔いに浮かされ始めた紺田は、自分でも驚くほど陽気に語りだした。
「ああ、美味いね! 俺はこの瞬間のために生きてるんだ!」
「ほう……」
短く極めて抑揚のない返答は、さして興味がなということだろう。紺田も深く気に留めず、そんなことよりも至福の時に浸るほうが重大であった。
満足そうに何度目かを飲み干したところで、紺田はぴたりと手を止める。一つ、己の発言に思うところがあった。
「いや、違うな……。じき、娘が生まれるでね。俺は、その子に会うために生きてるって、訂正させてくれ! ははっ!」
見ず知らずの相手に何を言っているのやら。饒舌に回る舌は十中八九酒の影響だ。
「興味深いな。娘とは、ここに並ぶ食料より価値があるのか?」
これはまた意外な話題にくいついてきたものだと、紺田は目を丸くする。けれど、それもほんの僅かな間のこと。娘自慢をしたい父親(予定)であり、有り難く乗らせてもらうことにする。
「そりゃそうさ! 俺の宝になる予定なんだ。もうなー、きっと可愛いんだろうなー。いや、絶対可愛いに決まってるね! 嫁さんに似て……あ、いやそれは困るな。あいつ顔は美人だが、なにかと小言がるさいからなー、似られると面倒か。けど、やっぱ子どもは可愛いもんだろー!」
「そうか、子は宝。嫁とは面倒なもの、か……。なるほど勉強になった。いろいろと、な」
紺田の預かり知らぬところで彼は何かを学んだらしく、深く頷き手にしていたコップを戻す。見れば、並ぶ料理には殆ど口を付けていない。
「なんだい、兄さんしけてるねー! 飲まないのかい?」
「気分じゃない。それに、もう飽きるほど飲んだからな」
そう話す男からは酒臭さを感じない。酔っている様子もなく、冷静な態度が崩れる気配もなかった。
「兄さん、どんだけ飲んだんだ? 見たとこぜんぜんみたいだが、酒に飽きるってのはなんとも贅沢な悩みだねえ」
紺田は豪快に笑い飛ばしては、また酒を煽った。
「娘、か……。それがあれば俺も――」
酒に夢中になり、さらにはまだ見ぬ娘へと想いを馳せていた紺田に、その呟きは届いていなかった。
「――ん? さっき、何か言ったかい?」
ややあって、隣からの返答がないことに気付いた紺田は横を見る。
「兄さん、どこ行ったんだ? なあ、おやじ!」
屋台の店主も首を横に振る。ちょっと大根の煮え具合を確認しているうちに、姿をくらましていたらしい。律義なことに、彼の居た場所には金が置かれていた。それも二人分の。
それが男からの礼だということを、紺田は知らない。
今夜の出来事は酒の席、一夜の夢として紺田の脳裏にうっすら記憶されることとなるが、彼は自分がこの物語の元凶だということを知るはずもないだろう。
月日は流れ――
流れること十六年が経っていた。