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松本

 松本がそこに閉じ込められてから、いったいどれほどの時間が経過しただろう。それを正確に知らせるものはない。この仄暗い穴の底にまで、何度か日の光が差し込んだことは覚えている。だが、それもまた定かではない。まるで、全てが揺れ動く夢のようで、終わりがない悪夢のようで。薄い膜が張ったような頼りない意識が、彼の脳をよたよたと漂っている。

 全く現実感が湧かなかった。常に今いるこの場所が夢かどうかを考える。気が遠くなるほどの長い時間、ずっとこの姿勢を維持してきた。積極的にしている訳ではなく、やりたくなくてもやらざるを得ない。だから、続ける。すると、ほんの些細な逃げ場所であった夢にさえ、現実が泥土のように浸食し始めた。もはや、今が夢でも現実でも構わない。ただ、終わらせて欲しい。この地獄から、無限に流れる時間から解放して欲しい。彼はそんなことを淡い意識の中で考えていた。


>借りていた金を返すあてができた。北区の廃病院で待ってる。


 深夜のコンビニエンスストア。友人とたむろしていたときに松本の携帯電話が震える。福田からだった。


>やっとかよ。でも、何でそんな場所にいるんだ?


 松本は返事を返す。

 時間が遅いことは特に気にはならない。福田達とは夜に集まって、陽が昇るまで遊ぶこともある。だが、どういうことだろう。借金の返済だけなら、わざわざそんな辺鄙な場所を指定する必要はないはずだ。普通に、今度会ったときにでも返してくれればいいのに。彼はそう思って眉間に皺を寄せる。


>皆で遊んでるんだ。お前も早く来いよ!


 疑問に答えたのは福田ではなく、松永だった。相変わらず幼稚な、だが顔文字混じりの活気のある文面。奴がいるのならばそこそこ面白い集まりになりそうだ、松本は胸を躍らせた。


>マジか。けど、どうやって金作ったんだよ。

>お前に貸したのっていきなり全額返せる金額じゃねえだろ?


 口元の煙草から灰が落ちる。横目にインスタントラーメンを美味しそうに頬張っている友人が見えた。松永は鼻で笑う。


>これ、なーんだ?


 送り主の欄に宅間の名前が表示された。矢印のキーを何度か押すと、透明なパックに詰められた植物片の写真が見える。それは松本も目にしたことのあるもので、使用した経験も何度かあった。だが、値段が値段なだけに頻繁にお世話になることはない。


>なるほどな。それをさばいて金を作ったって訳だ。


 福田にメールを送ると、『当ったりー』と陽気な顔文字入りの返事が返ってくる。松本は福田の兄がそういう商品を扱う店で働いていることを知っていたし、更にときどき物を自身の弟に安く譲っているということも聞いていた。

「あいつら相変わらずだなぁ」

 小馬鹿にするように松本は呟く。しかしその表情はどこか嬉しそうで。

 彼はそれが単なる集いではなく、所謂「パーティー」であることに感づいていた。そうなると福田が敢えて、廃病院という人気がない場所を指定してきたのも腑に落ちてくる。要は、今回の遊びを誰かに見つかることは避けたいのだ。特に、鬱陶しいサイレンを鳴らしてお楽しみを邪魔する連中には。

 そこまで確認すると彼は隣にいた友人に一声かけて廃病院へと向かう。友人は挨拶もそこそこに、二つ目のインスタントラーメンにかぶりついていた。


「……あぶばっ!」

 鼻から入りこむ水の痛みと息苦しさで宅間の意識は無理矢理引きずり起こされる。

「……はぁ、はぁ」

 松本は呼吸を荒くしながら目を瞑った。そして幾度目かになるお決まりの言葉を吐く。

「もぅ……殺してくれ……」

 それはとても悲痛な叫び。哀れを誘う声。

 この深い穴に松本が閉じ込められてから、かなりの時間が経っていた。当初は箱の人物に激しい侮蔑の言葉投げかけていた彼も、数十分、数時間が経つにつれ、徐々にその勢いを失くしていく。

「ぁぁ……」

 酷く寒い。

 真夏だというのに、体から血液が消えてしまったように冷え切っている。松本は両手をできる限り体に引き寄せて体温を保とうとした。しかし、それはほとんど意味をなさない。震える。体が自分の意志を無視してぶるぶると震える。それに煽られて奥歯がかちかちと打楽器のようにぶつかり合った。掌で擦り切れるほど自身の肌をさすっても、生まれた熱はすぐに水に奪われてしまう。

 宅間は口の中に指を突っ込んだ。集めて縮めて、十本のそれらを全て体内へ。すると、ほんの僅かだが熱を感じられる。生命活動に必要な温度を補える。初めは丸めた両手に呼気を当てて温めていたが、いつしかそれでは満足できなくなった。この場所にある唯一の熱源を味わい尽くすために、本能的に辿り着いた行動。それはまるで原始的な生きものが行う自食に似ていて。

「あぁ……ったかい……」

 とても醜かった。

 生に当てられ、生を貪る亡者。水を吸い、老人のようにふやけた皮膚がどろどろと溶けて、眼窩は窪み、背が曲がり。

『ぐるる……』

 宅間の腹部から獣の威嚇のような音が鳴った。

「腹……減ったぁ……」

 この穴に閉じ込められてから宅間は何も口にしていない。廃墟にやって来る前に見たインスタントラーメン。あのときは全く興味を引かれなかったが、今になって生き別れた兄弟のように恋しく思えてきた。一口で良いから分けてもらえば良かったと彼の頭の中で後悔がうねる。

 両手を揃えてお椀のような形を彼は作った。そして、目の前の無限に湧いているような水を掬い、自分の口元へ。すると、ほんの幾分かだが飢えを誤魔化すことができる。だが、同時に強い吐き気がした。当然だ。宅間はこの水の中でもう、何度も。

「……うぅ」

 食道に水が浸入したおかげで体がまた少し冷たくなった。既に視界はぼやけ、何もかもがおぼろげに見える。けれどあの鉄格子の向こう側で、それはまだじっと宅間のことを見つめていた。理性の感じられない拙い落書き。理不尽の箱。

 当初、彼は箱の人物に繰り返し質問を投げつけた。「お前は誰だ?」、「どうしてこんなことをする?」、「他の奴らはどこにいった?」、「目的は何だ?」という具合に。だが、鉄格子を挟んで見下ろす箱はそれらの問いに一切答えない。ただ、沈黙を守る。

 穴は深く、彼の身長の二倍以上はあった。それでも、どうにかそこを脱出しようとよじ登るとする。しかし、周りの壁は滑らかに塗装されていて手を掛けられるような場所は見当たらない。手も足もずるずると表面を滑るだけだ。水の中に何か無いか。頭まで潜って手探りで探した。だが、何もない。指先に触れるのは同じく平らな壁だけ。

 そんな不毛な時間を過ごしている内に彼に変化が訪れた。腰まである水が体力を奪うのか、彼は極端に消耗し始める。虚ろげな表情、だるそうに垂れ下がる両腕。人間が生きるには適さない環境が、彼の精神面へ過大なストレスを与えた。

「……あぁ」

 最初、松本にはこの水がどういう意味を持つものなのか分からなかった。飲み水には多すぎるし、溺れさせる目的なら足りなさすぎる。ただ、自分を閉じ込めておきたいだけなら、この穴には水など必要ないはずだ。

だが、闇雲に時間が経過するにつれ彼もようやく気付いた。水位が腰まであると人間は休息が取れなくなるということを。

「……うぁ……あぁ」

 松本は喉を小さく震わせるようにして呻き声をあげる。

 足がまるで豆腐のように頼りなく揺れた。しかしそれでも、ざらざらとした真新しいコセメントの壁にもたれかかり何とか立ち続けるも、今度は水が鼻をさらう。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。

「ばはぁっ!」

 この穴に閉じ込められてから三回目の日の出が分かる頃、彼の口にする「助けてくれ」は「殺してくれ」に変わった。そんな哀願を発する度に、心が空気の抜けた風船のように萎んでいく。

「どうして……」

 疲労していた。体がはりぼてのように邪魔で野暮ったい。

短距離を全速力で走り抜けたような清々しいだるさではなく、まるで何時間も単純作業を繰り返したあとのような。辛い職場で黙々と仕事をこなしたときのような。思わず地面に倒れ込んでしまいたくなる、そんな不快な疲れ。それが宅間の内臓の中に泥のごとく淀んでいる。

 脳がしびれて何も働かない。外からの刺激を適切に処理することができず、麻痺したような感覚が永遠と続く。ここはどこだろうか、そんな疑問が頭を掠めた。

 思考の中で画像のイメージだけが定期的に浮かぶ。暖かな湯気の立ち上るインスタントラーメン。松本の中でそれは世界を創造した神のように安らかで、滑稽なほど遠い存在となっていた。

 そのとき。

『変えたいんです』

 誰かの声がした。

 肩をびくりと震わせる。自分の形を思い出せない意識がぐにゃぐにゃと変形した。

『ご安心を。私にそんなことは起きません』

 また違う声が聞こえた。誰かが、自分以外の人がこの穴の中にいる。

『ホテルに着いたらね』

『愛してるよ』

『あの子のためなら』

『ドアが開いてて、明かりがついていた』

『そうするとも。喜んでやるよ』

 大量の蜘蛛が宅間の腕を這いあがってくる。この水で満たされた穴のいったいどこに隠れていたのだろう。

『じゃ眠ったら?』

『眠れない。仕事が山ほどある。暇がない』

『もののはずみだ。悪気はなかったんだ』

 松本は腕の上の蜘蛛にむしゃぶりつく。唇の先をわらわらと虫の足が撫でた。染み出てきたどろりとした体液が生暖かい。唾液が溢れてくる。イチゴジャムパンのような時折、粒々とした舌触りがこそばゆかった。

『おいで、おいで、どこにいる』

 そして松本は何度も何度も水の中で目が覚めた。その度に一時的な興奮が彼の意識を覚醒させ、苦しい時間をより濃厚なものにしていった。

 目眩が日常化する。ぐらぐらと溶ける視界に、胃の中の全てを吐き出しても止まらない吐き気がブレンドされた。頭ががんがんと痛み出す。まるで、後頭部を思い切り鈍器で殴られ続けているようだ。今が夢なのか、現実なのかは分からない。だが、もはや彼にはそのどちらもが苦痛すぎて。

「……殺してくれぇ」

 今すぐ座り込んで休みたい。しかし座れば水で口が塞がれる。

「殺してくれよぉ……」

 今すぐ横になって眠りたい。けれど眠れば水が呼吸を塞ぐ。

「……あぁ…ぅぁ」

 絞り出すような声。松本の意識がまどろみ始める。

 極度の疲労が脳の信号を遮断した。まるで、鍋の中で徐々に形をなくしていくカレーのルーのような思考。

「……ぅ……」

 松本はまたもや意識を手放した。

 ずるずると壁をこすりながら水の中へと沈んでいく体。だが静かな寝息が、同じように液体を体内へと誘い込んだ。

「ぶっ……がはっ!」

 意識が、現実が松本の元へと帰ってくる。

 結局、彼が休息を得たのはそれから二日後のことだった。

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