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宅間

 窓から漏れる光が交差する住宅街。そこでは夜遅い時間帯でも賑やかな印象が受け取れる。例えば、太陽が沈んでもコンビニや自動販売機は眠らない。暗く寂しい道を歩いていても、孤独を感じる前にすぐに人工的な光と出くわす。人はそんな社会を作りだした。

 それはまるで自然淘汰のようで。次々と変化する状況に適応できない生物が、徐々に種の保有数を減らすように、闇もまた人間という劇的環境の変動に耐えられず駆逐される。拒絶するように、決して相容れない存在であるかのように、人は暗闇を追い立てていった。だからこそ、それは生きようともがくのだろう。自身の存在を守るためにお互いに身を寄せ合い、溶け合いながら。そして、より深い混沌を形成していく。人が恐怖し、自分達の世界から排除しようとすればするほど彼らは黒く濃くなっていくのだ。もはや光では照らせないほど濃厚に。

「な、なんでこんな場所に集まってるんだよ……」

 どういう理由でこんな場所に病院を建てようと思ったのか、開発されていない林の中でぽつんと佇むその廃墟。宅間はそれを見上げひくひくと顔を引きつらせる。

辺りは酷く暗く、不気味で。いかに視線を巡らせようとも、そこに人の気配は全く感じられない。当たり前だ。そもそも昼間ですら訪問者のいないこの場所で、深夜に誰かと鉢合わせするという状況の方が奇妙である。今まさにここにいる彼とて夜更かしの最中、携帯電話が二度に渡って震えなければ、こんな恐ろしげな場所に来ようなどとは思わなかったのだから。

 彼は自分に降りかかった不幸を嘆くようにがっくりと肩を落とし、ズボンのうしろポケットに手を這わせる。


>今から北区の廃病院に来い。例のアレ、お前にも分けてやるよ!


 北区の廃病院。その単語だけで宅間は震えあがった。福田からのメールが指し示すその場所、そこは地元では有名な所謂〝出る〟スポットだったから。

 メールを受け取ったとき、彼はすぐに福田に対して断りの返事を書き始めた。だが、あからさまに「怖いから」などと白状すれは仲間内での自分の立場がない。だから彼は頼りなく揺れる指で「えー、めんどくせえ」とだけ打ち込む。半ば強がりの産物だった。


>すぐに来い。じゃねえと殺すぞ。


 宅間はそのメールの送信者欄に宮崎の名前を見つけ、汚いものでも見たかのように「げえ」と唸り声を上げる。それは福田のメールのあと、先を見越したように彼の携帯電話に送られてきた。

「ああもう、最悪だ……」

 キーパッドの上で親指が悩むように旋回する。しかし数秒後、諦めたかのように作成中のメールを削除した。

 そして宅間は廃病院へと向かう。電灯もなく、月明かりにしか頼れない夜の海を小魚のようにかきわけて。

「……」

 鍵の掛かっていない扉を左手で押し開けると、建物の中は泣きたくなるほど不気味な雰囲気が広がっていた。

「……冗談じゃねえよぉ」

 宅間は弱気な不満を零す。彼は小さい頃から暗い場所が苦手だった。

 暗い場所にはきっと自分には理解できない何者かが棲んでいて、いつも影から人間を狙っている。ベッドの下や押し入れの中、電気の消えた暗い廊下の向こうにも。そんなどろどろとした妄想が常に頭の端にこびりついている。年齢を重ねた所で簡単には消えてくれなかった不安が、再び彼の膝を揺らした。

「……」

 しかし彼はそのまま廃病院へと入っていく。途端、地面を叩く雨音のように跳ねあがる動悸。頭には二つの恐怖が浮かんでいる。一つは闇へ、一つは人へ。それでもより一層深いのはある人物に対する恐怖。その想いは夜の廃墟の中を歩く不安を頭の上から押さえつけ、無理矢理彼の足を建物の中へと引き寄せた。

「……はぁ」

 ある人物とは宮崎である。宮崎は日常的に宅間に対して暴力を振るっていた。と言ってもあくまでそれは遊びの延長線に過ぎないものであるようだったが、実際に被害を受けていた彼がどう感じたのかは分からない。

 仲間同士でふざけ合う、そんな些細な一時。しかし、少なくとも彼だけは気付いていた。宮崎が自分の肩を小突くときの独特の表情に。顔は笑っていても見過ごせないその視線。対等な存在には決して向けられない、何か下賤なものを見るような否定的な目。

「あのくそゴリラが……」

 嫌な記憶を思い出して、宅間はその場に唾を飛ばす。

 だが、しんと静まり返る不穏な空気に体がぶるりと震えた。

「いや、今のは宮崎に言った訳で、別にあなた達に言った訳じゃないですよぉ」

 宅間は誰もいないその空間に言葉を投げかける。自分の声が、ぼんやりと壁に反響し何度目かには自分のものとは思えないほど不気味な音になって消えた。

「……」

 宅間はごくりと喉を鳴らす。

 果たして指示された場所へと自分は辿り着けるのか。彼は家から持参した懐中電灯を正面に向けた。弱弱しい光に照らされたそこは、息を飲むほどおどろおどろしい空間が広がっていて。ここは以前病院だった、その事実を再確認させられる。

 先を見通せない真っ暗な廊下。彼はそこを恐る恐る進んでいった。一瞬、何かに肩を触れられた気がして彼は振り返る。

「……」

 だが、そこには何もない。何もいない。ただ、何もない空間がそこにあるだけ。

 けれど、宅間の脳裏には嫌なイメージが次々に生まれてきた。人などいるはずのない夜の廃墟、その廊下に佇む一人の女。体はこちらの方を向いているのに、うつむいていてどんな表情をしているか分からない。彼女の黒く長い髪が顔を覆い隠してしまっているのだ。

 一歩近付く。女は腕をだらんと下げたまま動かない。暗い闇の中なのに、彼女の剥き出しの素足がはっきりと分かる。光に照らされずとも青白く、病的に染まった肌。また一歩近付く。女はぴくりとも動かない。普通の人間なら何かしら反応があるはずだ。だが、彼女はまるで置物のように佇むだけ。夜の廃墟に宛がわれた不気味なインテリア。更に一歩近付く。既に触れられそうなほど、その距離は縮まっていた。目の前には微動だにしない女の影、彼は引き寄せられるかのように手を伸ばす。

 途端、彼は硬直した。自分の右腕を見る。今まで身動ぎもしなかった女の生気のない手が彼の手首をがっしりと掴んでいて。反射的に腕を引き寄せようとするが、まるで狭い隙間に嵌まってしまったかのように外れない。

『ケタケタケタケタケタ』

 耳に何かを擦りつけるような不快な音が響いた。笑い声だ。

 ゆっくりと。スローモーションのようにゆっくりと頭が上がっていく。それにつられて岩場の海草のように濡れた髪の間から、今まで見えなかった女の顔面が押し出されてきた。暗い海の底から這い上がる不穏な土煙。

 その顔は――。

「……」

 宅間はそんな妄想を追い出すかのように頭を振った。だが、脚の震えは止まらず、先ほどから背筋を伝う寒気も一向に弱まる気配を見せない。

 自分の足音が反響して、まるで何人も連れだって歩いているみたいに聞こえた。気のせいだ。背後で鉄の擦れ合う音がした気がする。空耳だ。この場所には自分以外いない。いるとしても、もっと建物の奥にある部屋で仲間が集まっているだけだ。それ以外はいない。いてはならない。

「……あ、あれか?」

 恐怖で竦む足をなんとか勇気づけていると、宅間は前方に人工的な光を見つけた。ここまで辿り着くまでに随分と長い時間がかかったような気がする。彼は携帯を操作し、福田からのメールを見返した。どうやらあそこが指示された部屋に間違いないようだ。

「……ふぅ」

 彼は小走りになる。

 他の人間に会える安堵がそれを促したのだが、その小走りは自分の中の不安をじわりと高めることにも繋がった。

「……うぁ!」

 宅間は耐えきれず、小さく声を上げる。いつの間にか全速力になっていた。走っている内に、何故だかどんどん恐ろしくなってきて。理由はよく分からない。ただ、こんな不気味な廃墟の中で自分が走っているという行為自体が怖くなった。恐らく本能が彼に告げているのだろう。生きものが走るのは追うときか追われるときか、それだけだ。

『ガラガラガラ!』

 宅間は勢いよく扉を開ける。

 テンポよく運動する横隔膜に肺が大きく呼応した。それを悟られないよう口を閉じ、鼻だけで呼吸をするのはとても苦しい。だが、それでも廃墟の雰囲気が怖くて思わず走ってきたなどと周りに思われてはことだ。彼は少しでも余裕を見せられるように、部屋に入る瞬間姿勢を正す。まるで、何気なく喫茶店の扉を叩いた紳士のように。

 しかし。

「……なんだよ。誰もいねえじゃん」

 そこには誰もいなかった。福田も、宮崎も、メールで来ていることだけは知っていた松永の姿もそこにはない。

「この場所で合ってるよな?」

 そんな状況でも宅間が一息をつけたのは部屋がかなり明るかったからだ。周りに視線を配るとキャンプなどで使用されるランプがいくつも部屋に置いてあり、普通の白熱灯と変わらない光を放っている。更に、真新しいスナック菓子の袋や飲みかけの缶も見つけた。綺麗とは言えない、雑多な置き方をされたそれらが彼に仲間の集まりを彷彿とさせる。

「えっと……」

 状況から察するに、福田達はこの部屋で集まっていたことは間違いない。そして、何らかの事情でどこか別の場所に行っている。そこまでは宅間も簡単に予想することができた。

 彼は携帯を取り出して福田にメールを送る。返事はすぐに返ってきた。


>今、皆でしょんべん行ってる。帰ってくるまで適当にやってて。

 

 宅間はそれを見て、思わず噴き出しそうになる。

 何故なら、そのメールからはこの陰鬱な廃病院に怯えているのが自分だけではないということが分かったから。仲間たちも皆、こんな薄気味悪い場所に嫌な寒気を感じている。そう直感する。もし、そうでなければしょんべんなど行きたい人間が一人で行けばいい訳で、わざわざ全員で行く必要はない。要するにびびっているのだ。それも、一人で用も足せないぐらいに。

「馬鹿みてえ」

 その場に胡坐をかき、まだ開いていない缶を掴むと宅間は笑った。

 おそらくは偉そうなメールをよこした宮崎ですらその調子なのだろう。彼はそのことを思うと、顔がにやけるのを止められなくなる。

 炭酸が良い音を立てて、缶の蓋が開いた。彼は近くにあったスナック菓子を片手で頬張りながら、渇いた喉に泡の立つ液体を一気に流し込む。

「っぷはー、上手い!」

 そうして宅間はその場のものをどんどん胃に詰め込んでいった。遠慮せずとも、思った以上に食料が容易されている。どうせ、最後は割り勘で払うことになるのだから、今の内にできるだけ自分で食べておこう。彼はそう思い至って、辺りに散らばっていたものに片っ端から手を出した。

「あー、いい気分だわー」

 しばらくすると、彼の意識が少しずつぼやけてくる。先ほど飲んだものが頭に回ってきたのだろう、何だか楽しくなってきた。

「つまみ、つまみー」

 宅間はコンソメ味のお菓子を食べ終え、また更に別のものを探し始める。そろそろ、さきいかのような歯応えのあるものも食べたい所だ。そう思って、まだ結ばれたままの新しいビニール袋に手を伸ばす。

 その時。

「ん? 何だこれ」

 宅間の指先は他のものに比べて随分頑丈に縛られているそれに触れる。また、色も黒く中が見通せないようになっていて。一瞬、ゴミ袋かとも思ったがゴミにしては軽すぎる。それに福田達がわざわざ食べカスにまで配慮するとは考えづらい。むしろ、その中に何か大切なものを隠しているような

「……」

 あるいは既に彼は中身を予想できていたのかもしれない。いや予感に近い、曖昧だが確かな印象。

宅間が苦戦しながらも何とか袋を開けると、そこにはプラスチック製の小さなパックのようなものがいくつも入っているのが見える。彼はその中の一つを指でつまみ、顔の前まで持ってきた。すると、ほんのりとピーナッツのような匂いが鼻をくすぐる。なんだかいつまでも嗅いでいたい甘香りだ。

「これって、やっぱり……アレか!」

 それはドライフルーツのように乾燥した植物の破片だった。切手三枚分ほどの大きさのパックに、深緑の小さな枯葉がぎっしり詰まっている。

 宅間は興奮した。話に聞いて興味はあったが、どうしたら手に入るのかを彼は知らなかったから。インターネットで入手する方法も聞いてはいたが、それだって安全とは言えない。もし、その行為が発覚したら確実に大きなしっぺ返しをくらう。そう考えると、どうしても二の足を踏まざるを得ない。

「お、これこれ!」

 しかし、この状況に限り宅間の行動は早かった。滅多にないこのチャンスを逃す手はない。彼は袋の中を探り、金属製の小さな筒を引っ張り出す。

「た、たしかこんな感じだよな」

 周りの人間に聞いたり、実践している動画を見たりして予習は既に終えている。一方に植物片を数グラム落とし、反対側を口で咥えた。続けてポケットからライターを取り出し、火を着ける。大きく空気を吸い込みながら、筒の先に火を宛がうのがコツだった。

「……」

 途端、宅間の口の中に今まで味わったことのない香りが充満する。かなり濃厚だ。だが、嫌ではない。彼は何度も何度もそれを繰り返す。

 すると、周りの景色がどんどんねじ曲がっていくような感覚に襲われた。加えて、耳から聞こえてくる音が小さくなる。いや、違う。耳以外の場所から音楽が入ってきているのだ。くらくらと遠のいていく意識の中で、確かに体が感じ取る。自分の全身を包む皮膚が、音を味わう鼓膜に変化していくのを。脳や脊髄に直接ぶつかってくるような、物質的な音の数々。そして気が付くと、彼は周りに生まれる音々を自分の手で触れることさえできていた。

「あぁぁぁぁぁ」

 ぼんやりとした意識の中、宅間は床に寝そべり意味不明な奇声を上げている自分を確認する。全身の筋肉に全く力が入らない。ぐるぐると回る景色。とても気分がいい。まるで、夢の中でメリーゴーランドに乗っているような感覚だ。彼の目がとろんと虚ろになる。そこでふと、斑模様の意識の中で誰かが自分を見下ろしているのが分かった。彼は、熱したゼリーのようにとろけた口でその人物に訊ねる。

「ふくだぁ……?」

 その言葉を最後に、宅間の意識は混沌の渦へと飲み込まれていった。


 頭がくらくらする。酷い眠気のために瞼が全然開こうとしない。宅間はまどろみの中で、段々と意識を覚醒させていった。

「んぁ……?」

 目を覚ますとそこには見覚えのない、いくつもの四角形の模様が描かれた天井があった。暗闇の中、どこからか差し込む青白い光のおかげで、まだ夜が明けていないということだけは分かる。

 宅間はぼんやりと目を凝らした。ここがどこかはさほど気にならない。どうせいつものように酔った拍子にどこか変な場所に迷い込んで寝ているだけだろう。彼は安易にそう結論付けると、寝返りをうってそのまま意識を手放そうとする。

 だが。

「……?」

 その行動は失敗に終わった。代わりに金属通しがこすれ合う音がして、両手足が何かに引っ張られるような抵抗感を感じる。宅間は驚き、目を見開いた。

「……なんだこれ?」

 どうやら自分はベッドの上で寝ているらしい。それだけは分かる。そして、まだ夢の中にいるのだろうか、自分の手足を固定している手錠のような金属具も見えた。

「え? え?」

 頭の中がはっきりとしていく内に、自分の置かれた現状への理解が進む。同時に大きな混乱も彼に牙を剥いた。

「はぁ!? なんだよ、これ! いったいどうなってんだよ!」

 宅間はけたたましい声を上げる。自分がどうしてこんな状態でベッドに寝かされているのか分からない。自分は確か、あの部屋で福田達が帰ってくるのを待っていたはずだ。彼は首をあらゆる方向に動かし、周りの様子を窺う。

「どこだよ、ここは!」

 そこはどうやら前にいた場所とは違う場所のようだった。けれど、同じく朽ち果てた壁の有り様が、ここも廃病院のどこか一室に違いないことを宅間に告げてくる。

「……」

 そこで宅間の思考が止まった。彼の中で感情がさっと音を立てて引き、次の瞬間、潮が満ちるように恐怖が押し寄せる。

「……ぁ」

 口が勝手に小さく声を発した。それは驚きなのか、拒絶なのか、恐怖なのか分からない。

 暗闇に目が慣れ始めた頃、部屋の隅に立っている人影のようなものが見えたのだ。それは全身を黒い布で覆い隠し、子どもの落書きのようなものが書かれた箱を頭からすっぽりと被っている。

その人物はじっと床を見下ろしていた。

「っひ……」

 その様相の不気味さに宅間は思わず息を飲む。

箱の人物が何の反応も見せなくて良かった。もし、彼の小さな悲鳴に応えて箱がゆっくりとこちらを向こうものなら、彼は部屋中を揺らすほどの悲鳴を上げていた所だ。

 彼は自分を落ち着かせるようにゆっくりと呼吸を整える。目線は決して離さない。瞬きをした隙に、箱がすっと近づいてくるような気さえしたから。

「ふ、福田か……?」

 自分の意思というよりも、口が勝手にそう呟いた。あるいは、この不安定な状況をはっきりさせたかったのかもしれない。人間は確定した不利よりも、不確定な現状を怖れる生きものである。昔、テレビか何かでそう得意気に話している学者がいた。

 もし、この時点で箱の人物が「そうだよ。怖かったか?」と笑ってくれれば、彼は心の底から安心することができたに違いない。その場合はこちらも口の端を吊り上げながら「冗談きついぜ」と返すシチュエーションが頭には浮かんでいた。

 彼は先の分からない不安に押し潰されそうになりながらも苦く、愛想を振るように笑う。この数秒後にはにやにやと腹の立つ笑顔の仲間に囲まれている光景を信じて。

 しかし、現実は違った。箱の人物は無言のままのそりと首だけでこちらに顔を向ける。改めて見えた落書きの全体像は驚くほど滑稽で。

「……ッ」

 目の前にいる人物がいったいどこの誰なのかということは分からない。けれど、たった一つだけ宅間にも理解できることがある。それは相手がおよそ話の通じる人間ではないということだ。

「うっ!」

 そして、箱が足元の余った布を引きずりながらこちらに向かってくる。顔の位置は変えずに、体だけを震わせて。それは人間というよりもなめくじのような陰湿な印象。闇が占めるこの廃病院の中を這いずり回る異形の存在。

「うわあ! くるなぁ!」

 宅間は自分を拘束する手錠を振り払って逃げようとした。しかし、がちゃがちゃと音を立てるだけで手錠が外れる様子はない。気が付くと、箱はベッドのすぐ隣まできていた。彼は恐怖に耐えられずに、ぎゅっと目を瞑る。

そして生まれる無音。耳を澄ませてもずるずるというあの不気味な音は止んでいる。包み込むような静寂の中、彼は恐る恐る目を開けた。

「……ぁ……ぁ」

 目の前に箱があった。

 ちょうど横から覗きこむような姿勢で箱が宅間の顔の正面までやってきている。

 彼はあまりの衝撃に心臓が止まったように思えた。暗闇の中、相対する自分と箱。瞼が皿のように見開かれ、今にも眼球が飛び出してしまいそうだった。

「たす……」

 命乞いの言葉が自然と紡がれる。

 箱の人物が誰か、どうしてこんな状況になったのか、全ては分からない。ただ、一つだけ、自分の心では処理しきれない純粋な恐怖がそこに生まれる。宅間はどんなことをしても、その感情から解放されたいと思った。

「……け」

 しかし、それは途中で止まる。自分の声が何かに遮られたかのようにくぐもった。そんな違和感が宅間の言葉の邪魔をする。彼は戸惑った。戸惑っている間にどういう訳か、箱もゆらりとその場を離れて行く。

「え……?」

 彼は状況がよく呑み込めないまま声を漏らした。耳に届いた音はまたしても曖昧で。

 肝心の箱の人物はというと、どういう訳か最初にいた場所へと戻ってしまっている。視線はこちらには向いていない。

「あ……ふ、ふぅ」

 宅間は不細工な安堵の吐息をつく。

 自分の理解が及ぶことではないが、とりあえず箱の人物にすぐに危害を加えられるということはなさそうだ。少しだけ緊張が引く。一度、大きく深呼吸した。

 その時。

『プーン』

 耳のそばで酷く不快な音が鳴る。甲高い、嫌悪感を誘う音。

 それは宅間が最も嫌う存在が放つ声。

「うわ!」

 条件反射で宅間は頭を振る。例え、ほんの少しでもあの存在に触れられるのは嫌だ。彼はぞくぞくとした生理的悪寒を感じ、身悶えした。

 しかし、音は鳴りやまない。それどころか、今度は反対の耳からも音が鳴り始めた。

『プーン』『プーン』『プーン』

 その存在から逃れるために宅間は必死で頭を振る。いつもは手で払うか叩き潰すかすれば簡単に終わること。しかしその不快感に対して、今の彼は全くの無力だ。

「うが! ああ!」

 音は一向に鳴り止まない。それどころか宅間が頭を振る度にどんどん音が増えていっている気がする。彼は混乱しながらも、視線を左右に向けた。すると、視界の端に透明な何かの一部が映る。そこで彼はようやく気付いた。自分の両耳に透明なビニール袋のようなものが取り付けられていることを。

「え? え!?」

 宅間は目を疑った。

 彼の耳にぴったりと嵌められたそれが、ただのビニール袋ではなかったから。いや、正確に言うのならビニール袋自体は何の問題もない、スーパーなどで見かけるごくごく一般的なもの。重要なのはその薄い膜の内側の部分だった。

 彼は袋の中にあるものを見つめ、表情をこれ以上ないほど歪める。その視線の先には一面を黒く覆い尽くすほどの蚊の大群がぎっしりと詰まっていた。

「があああああ!」

 宅間は一心不乱に耳をベッドにこすり付ける。何度もこれを繰り返せば耳から袋が外れるはず、そう考えて。しかし、布製のガムテープで止められた袋は彼の耳からまるで離れる様子は見せない。

 いや、むしろ彼のその行動で動きを止めていた蚊が一斉に活動を始める。耳障りな羽音が合唱するようにメロディーを奏でた。

「いやあああああああああああああああ!!!」

 耳を、両耳を、交互にベッドに打ちつける。中の空気は余裕を持たせているため、ビニール袋は割れることなく、へこへこと自由自在に形を変えた。

「うああああああああああああああああ!!!」

 代わりにぶちゅぶちゅと肉の潰れるような汚らしい音が鼓膜のそばで響き始める。宅間の反撃をかわし損ねた蚊達が、耳とベッドに押しつぶされて死んでいく音。だが、蚊の数は一向に減らない。いったいどれほどの数の蚊がこのビニール袋に閉じ込められているのだろうか。

「ぐぅ! ぐぅ! ぐぅ! ぐぅ! ぐぅ!」

 それでも宅間は続けた。あの羽音から少しでも遠くへ離れようとするように。

 既に彼の耳は大量の蚊によって血を吸い出され、でこぼこと奇妙な形に腫れあがっている。加えて、潰れた蚊の体液と飛び散った血液によって鮮やかに肉が色付けされ、見るに堪えない病的な醜さを演出し始めた。

『プーン』『プーン』『プーン』

 音は絶えず彼の耳元で鳴り響く。

 小さな命達が燃えているのだ。驚くべき状況の変化に、悪化に、蚊は懸命に抗おうとしている。彼らにも声帯があったなら、宅間の耳にも恐怖に慄く悲鳴が届いていただろう。

『プーン』『プーン』『プーン』

 だが、宅間もまた蚊と同様に苦しんでいた。

「うが! うあ! あがぁ!」

 苦しみの声が喉から自然と溢れてくる。気色悪い感触が耳の表皮を刺激する度に、宅間の背筋は氷のように冷たくなった。

「気持ち悪い! 気持ち悪いいいい!」

 頭だけでなく体全体を震わせる。まるで自分という存在がまるごと一つの器官になってしまったようだ。リズミカルに音を立てる楽器のような。

「あが、はあ……」

 しばらくして、宅間は動きを止めた。彼の激しい動きはそう連続して続けられるようなものではない。脳が失った体力を取り戻そうと体に休息を命じる。吸い込んだ空気の圧力で、肺が大きく膨らんだ。

 しかし。

『プーン』

 また、あの音が聞こえた。人間の精神を揺さぶる音。

「うわあああ!!!」

 宅間は叫ぶ。そして、両耳をベッドに打ちつけた。何度も、何度も、音が消えるまで。

 すると耳の感覚が少しずつ鈍っていく。痺れたような浅い痛みが、皮膚の表面を支配しつつあった。

「あう! あうあ!」

 それが宅間にとって少しだけ救いとなる。こうして耳を打ちつけている間は、気色の悪い羽音も痛みに紛れたから。

 そして彼は縋るようにその行為を繰り返した。あの聞き苦しい音が木霊する度に、彼は頭を振る。まるで熱心な悪魔崇拝者が自身を供物として異形の存在に献上するように。

「いぎい! いぃ!」

 醜く折れ曲がった六本の手足と、ねたねたとした粘つく粘液を吐きだす長い突起。そして、細胞が無数に寄せ集まった奇妙な眼球が全身で宅間の隙を窺っていた。いざ彼の動きが止まり、命への脅威が薄まると、蚊にとって彼は怪物から獲物へと姿を変える。

 口から垂れ下がる管は一見針のように見えるが、実はうねうねと体をよじる針金虫のように柔軟で、彼の皮膚の下をまさぐりながら進んでいく。その陰湿な動作は目を背けたくなるほどおぞましいが、同時に体に注がれる蚊の体液で感覚が麻痺させられているために無防備のまま異物からの侵略と搾取を受けなければならない。

「うがあ!」

 宅間は思い返したかのごとく頭を振る。それでまた何匹かの命が消え、腹に溜まった彼の血と蚊の内側を流れる液体が混じり合った。

「……はぁ……はぁ」

 彼は疲弊しきった兵士のように苦しげに息を吐く。

 だが、自分自身すらも傷つける狂気に満ちた宅間の行動は決して無駄ではない。気が遠くなるほど蚊を潰し続けた結果、ビニール袋の中のそれらは徐々にただの肉片へと変わっていった。

「うぅ……」

 宅間は涙目のまま天井を見上げる。

まだ、あの耐え難く不快な音は止んでない。だが、それでもかなりましになった方だ。目を瞑ると、瞼の端から液体が押し出される。

 だが、それはまだ始まったばかりだった。幾度となく叩きつけられじんじんと痛む耳。そこへ徐々に普段の感覚が戻ってくる。それまで目を背け続けていた触角。呼吸が整えられていくに連れて、彼はどうしようもない刺激を意識せざるを得なくなった。

 それは――。

「かゆい」

 宅間はぽつりと呟く。その言葉を待っていたかのように彼の耳が脳に信号を送り始めた。

「あがぁ!」

 かゆい。かゆい。かゆい。

 かゆい。かゆい。かゆい。かゆい。かゆい。

 また、両耳を何度もベッドへ打ちつける。そこに伝わる衝撃で少しだけかゆみが緩和されるがそれでもなお。

「あああ!」

 身を捩り、なんとか手足が自由にならないか画策する。しかし、手錠はしっかりと宅間の両手足を括り、ベッドの上から離さない。

 それでも宅間は暴れた。耳がかゆいのだ。腕に、腕の筋肉に思いっきり力を込める。耳がかゆい。拘束されたまま、膝を全力でばたばたと曲げては伸ばした。かゆい、かゆい。頭を振る、左右だけでなく上下にも。耳が。尻と肩甲骨を支点に胸と腹をせり上げる、そして真下に向けて打ち下ろす。両手足も同じだ。このベッドを破壊せんがために全身を震えさせた。耳がかゆい、かゆすぎる。

「うがああああ!」

 今すぐ、両手で耳を掻き毟りたい。蚊に刺されてでこぼこになったその場所を血が滲むまで、力一杯。

 その感情が心を満たしたとき、ついに宅間は自分でも信じられない行動に出る。

「おい!」

 その声は部屋の奥に佇む、箱の人物に向けられたものだった。相変わらず箱はじっと床を見つめている。

「おい、お願いだ! 片方の腕だけで良いから、この手錠を外してくれ!」

 懇願だった。

 昔の諺で「藁にもすがる」というものがあるが、彼の心境はそんなものではない。もし、この地獄から助かるならば悪魔にだって魂を売ろう。そう、決意して話しかける。

「お願いします! 何でも、何でもしますから!」

 だが、箱の人物は動かない。ただ、じっと微動だにせず、うつむいている。

 すると、宅間の頭に言葉が溢れた。気が狂いそうなほど、その感情が脳を占拠する。

 かゆい。

 かゆい。かゆい。かゆい。

 かゆい。かゆい。かゆい。かゆい。かゆい。

「があああ!!!」

 宅間は咆哮した。喉を震わし、肺を潰し、可能な限り大きな声で。今もなお止まない耳障りな蚊の羽音をかき消すような雄々しい声。そして、また両耳をぶつけ始めた。無限に続くかのようなこの現実。変化の起きようもない苦境の極み。

 けれどそのとき、彼の願いに呼応するように、ずるずると何かを引きずるような音が響く。

「ああ……?」

 目を開けると、自分のすぐ横に箱の人物が立っていた。その姿はどこまでもいっても奇怪で。だが、今の宅間にはそれが天の使いであるかのようにも感じられる。

「た、助けて……」

 自然とまた、目尻から涙が零れ出した。宅間の心はもはや修復不能なほどかき乱され、壊れ始めている。

 そんな彼に箱の人物は手を差し出した。

『ガポッ!』

 その場に大きな音が響く。遅れて、喉の奥に痛みが走った。

「かはっ……」

 掠れた空気のような声。突然の異物の侵入に、条件反射で捻り出される拒絶の意志。宅間は驚き、目を丸くした。口も同様に大きく広げる。動物は予期せず侵入してくるものに対して、咄嗟に口を閉じることができない。そんな本能を逆手に取られ、彼はその異様な物体をすんなりと体内へと受け入れてしまう。

「かっ!」

 宅間は大きく顔を背けた。その勢いで太いじょうごのような形をしたそれを振り払おうとしたのだ。けれど、上手くいかない。箱の人物が上からじょうごを押さえ付けている。そして逃げられないように左膝を彼のこめかみに当てて固定し、口とじょうごをガムテープで器用に固定していった。

「あめろぉ!」

 宅間は必死に抵抗する。しかし、箱の作業はほんの数秒で完了した。

両耳にビニール袋が取り付けられ、口にじょうごを咥えてさせられている彼の姿は、まるで不細工な玩具のようにも見える。では、それで遊ぶ子どもは一体誰なのか。彼の目に箱の失敗作のような落書きが、更に不気味な面持ちで映しだされる。

「ぶっ、ぶぶっ」

 勢いよく顔を振っても固定されたじょうごはびくともしない。それが分かると宅間は口をすぼめて唾を吐きだした。だが、それは全く外れようとしない。試しにそこに歯を立ててみた。けれど、固い金属性のそれは噛み切ることもへこませることもできない。彼は縋るように、箱の方へ視線を向ける。

「ほれで、あに……ふるふおりだ?」

 唇が閉じられないせいで言葉にはならない。しかし、宅間の不安や恐怖心は痛いほどその震える声に表現されている。

 彼はそのとき頭の隅で思っていた。どうして人間には未来を予想する力があるのだろう、と。そんなものがなければ恐怖なんてしなくて済むのに、いたずらに苦しみを増やすことなどないのに、と。

「……あめへ……ふえ」

 宅間が弱弱しい声を出したとき、いつの間にか箱は透明なビニール袋を握っていた。彼の悪い予感が当たる。箱は長いピンセットで袋の中のものを掴み出すと、そのままじょうごの大きく開いた入口の真上に持ってきた。

「……」

 恐怖で体が動かなくなる。世界が死んでしまったような静寂に、一度耳元で『プーン』と嫌な音が聞こえた。だが、今の宅間にはもはやそんな音など気にしている余裕はない。目の前の事実で頭が一杯になっている。

 彼は今一度しっかりと箱が持つピンセットの先を見つめた。長い時間この暗い部屋にいたおかげで、目は暗闇に順応している。順応していたせいで、それがはっきりと見えた。

「うう……うう……」

 宅間は嘆くように顔を横にふるふると動かす。目は限界まで細められ、顔は老人のようにひしゃげてしまっていた。

 彼の視線の先にはわきわきと無数の節足を蠢かす小さな生き物の姿。百足だ。自身を捕獲している外敵から逃れようと、不規則に体をうねらせている。

「ああ、うあ」

 絶望で体から力が抜けていく。少し前まで必死で抵抗していたのが嘘のように、 宅間はの身体は急速に脱力していった。ただ涙を流して顔を左右に振り、ピンセットとの距離を離す。

 だが、手足を固定され、限定されたその動きを追うのは簡単だった。箱はいともたやすくじょうごの口に百足を宛がう。

「あめ……」

 宅間の最後の懇願も空しく、箱の手にするピンセットは開かられた。

『チャッ』

 金属と虫の甲殻がぶつかる音がする。

 瞬間的に顔を振って百足を振り落とそうとしたが、箱にじょうごを掴まれていたせいで不発に終わった。代わりに『シュルシュル』と何かが滑り落ちる振動が、口の細胞を伝わってくる。

「……!」

 声は出なかった。空気を震わさない宅間の悲鳴が部屋に轟く。

 次に、何よりもまず先に彼の舌がその触感を味わい始めた。小さく固い粒が、無数の点が舌に押しつけられては消える。歩いている。彼の口の中を。無数の手足を持つ生きものが。品定めをするように、ゆっくりと。

「……ぁ」

 小さく声帯を震わし、だが、すぐにその先を我慢する。本当は叫びたい。肺一杯に溜まった悲鳴を、口から押し出してしまいたい。しかし、耐えなければならなかった。舌の上の百足を決して刺激してはならない。

 そして気色の悪い足の感触に加えて、時々するりと長細い物体が口の内部をかすめる。おそらく触角だ。汚らしい虫の部位が、今体内を嬲っている。

「あは……あは……」

 そのとき宅間は気が狂いそうになっていた。頭がぼんやりとして思考が廻らず、今自分が晒されている状況が夢か現実か判断できない。

 ふと、自分が笑っていることに気付く。恐怖で頬が引きつり、呼吸が不均等になる。唇がぶるぶると震え、喉の筋肉が締まる。自然と顔の筋が微笑んでいるような表情を作り上げた。

「……あは、あはははは」

 宅間はまた笑う。先ほどよりも大きく。そのせいで舌が上下し、煽られた百足の動きが一段と速くなる。もしかすると興奮して口の内壁に噛みつくかもしれない。しかし、彼にはそんなことなどどうでもよくなっていた。何故なら、彼の身に更に絶望的な事態が起ころうとしていたから。

「あはははははは」

 それを見ると何だがおかしくなった。まるでどこまでも他人事のように思えて。

箱の人物の持つピンセットの先にはわらわらと大きな蜘蛛が蠢いている。

「ほれをほうふるふぃはあ?」

 語気を明るくして、宅間は友達と話すように楽しげに訊いた。全身の感覚が鈍っている。口の中の感触がくすぐったい。何か夢の中にいるようだ。

「ほんなにおおひいのはいらないおお?」

 宅間はずっと笑っていた。横隔膜がひくひくと痙攣する。おかしい。おかしくてたまらない。自分の頭が。

 一方の箱の人物は淡々とピンセットに力を込めた。嫌な音がして、蜘蛛のぱんぱんに膨らんだ腹部が潰れる。力をなくした蜘蛛の八つの足がだらりと下がった。すると、命の危険を察知したのか、その傷口からわらわらと小さな子蜘蛛達が這い出てくる。

「なるほほー、そういうふうにするんはあ」

 箱はそのままじょうごの口の上に、母蜘蛛の死骸ごと子蜘蛛を落とした。宅間は笑う。笑って、笑って。そして首を振る。

「ああああ!!!」

 限界だった。

「あがぁ! うがあ!」

 固定された手足をめちゃくちゃに動かして暴れる。首を持ち上げ、勢いをつけながら後頭部をベッドに叩きつける。奇声を上げる。

 百足は強い振動に驚いて宅間の頬に噛みついた。途端に激痛が走る。

「ぎゃああああ!!!」

 一度凍りついたようにのけぞった状態で体が固まった。だが、敏感な舌の上に新たに複数の物体が這い回る感触が生まれる。宅間はまた荒れ狂った。

「ばあああ! ばあああ! ぎいいいいぃぃ!」

 汚い。汚い。汚い。

 宅間の生理的悪寒が脳を占拠する。生まれたてのぶよぶよとした柔らかな肉質と、その表面に生えたグロテスクな産毛。ぬめり気のある母親の体液に塗れたその体で、歯茎の隙間や舌の裏、喉の奥底にまで子蜘蛛達は容赦なく入り込んでくる。彼らも必死だった。唐突に母という寄り所をなくして、自力で自身の命を守らなくてはならなくなったから。生まれてすぐ突きつけられた脅威に、懸命に抗おうとしている。

 しかしそのとき。

「……う」

 ごくり、と宅間の喉の筋肉が勝手に動いた。人体の持つ自然な反応、避けられない生理現象。

「……ぁ」

 だが同時にそれは数匹の子蜘蛛の死を意味し、宅間の絶望を深めるスパイスとなる。彼の体の内部、それも本来食事のために使われる清潔な器官に虫が流されていった。彼自身が嫌悪して止まない、汚らわしい節足の生きものが。

「あああああああ……」

 宅間の目が裏返る。意識が現実に耐えきれず穴のあいた風船のようにしぼんでいく。それをまた百足が噛みつき覚醒させた。

「いぎぁ!」

 視界の端を嫌なものが掠める。箱の持つピンセットの先で、今度は釣りで使うような虫の幼虫が体を捩らせていた。

 汚い。宅間の感想はそれだけに収束される。汚くて汚くて、たまらなかった。

 彼が暴れる。しばらくすると箱が新しい虫をじょうごに投入する。彼が暴れる。しばらくすると箱が新しい虫をじょうごに投入する。それが何度も繰り返された。彼は新しい虫が口を蹂躙する度に跳ねるように体を震わせたが、数分後、ぐったりと溶けるように休息する。虫が舌の上を這っても反応しなくなるのだ。それはまるで死の病に冒された病人のようで、その姿からはまるで生気が感じられない。

「……はぁ……ぁぁ」

 ぼんやりと風景を見つめる。口から疲労が漏れ出し、声が出た。

「ぁぁ……」

 なんとなく箱の方へ宅間は視線を向ける。気が付くと、あの恐ろしいビニール袋とピンセットがない。

「ほれえ……ほはり?」

 解放を感じた宅間は箱に訊ねた。しかし、箱は佇むだけ、何の反応も示さない。だが、彼は笑う。本当は自分でも分かっていたことだ。これで終わりではないことを。

「……ふぁ?」

 ずいぶんと間の抜けた声が出た。そして、自分の身に何が起きたのかを気の抜けた頭で考え始める。見える景色が狭い。どうやら宅間は最初から、眼鏡のような形をした器具を顔に取り付けられていたようだ。

しかし、普通のそれらとは違ってこちらにはレンズがついていない。だから、必然的に代わりの何かをそこに取り付ける必要性が生まれる。例えば、視界が狭まるほんの数秒前に見えたH型のパイプのようなもの。

「あんら……よぉ……」

 宅間がそう呟くと同時に景色から光が消えた。視線の先の二つの光穴を塞がれたのだ。彼は混乱する

「……あんらんらよぉ」

 力なく漏れる声。

「いっはいへんはい……」

 だが、そのとき宅間の中に自分でも理解できない感情が込み上げてくる。

「ほれは、はんはんはよ!!!」

あまりに意味の分からない状況が続きすぎて、彼のストレスが爆発したのだ。

「ふぇめえぇぇぇぇ! ほろすぞぉぉぉぉぉ!」

 部屋中に宅間の叫びが轟く。鬼の咆哮のような。自分がここまで攻撃的な面を持っていることを、彼自身が知らなかった。

 人間は追い詰められたときに本当の自分が表れるという。では、この激しい炎のような様相こそが彼の持つ本性なのだろうか。それともこの直後に見せた弱弱しい感情こそが、本物の彼なのだろうか。

『ブブブ』

 音が聞こえた。音だけが聞こえた。

「へ……?」

 光の消えた暗闇の中で何かが高速で空気を叩く音が。

 それは宅間が改めて出所を探るまでもないほど近い場所で飛んでいる。例えば、そう。自分の目の前に。

「う、うわあああ!!!」

 悲鳴が上がる。理解からくる悲鳴。

 宅間には分かったのだ。光を塞がれる際に一緒に筒の中に入れられたものが何なのか。それに再び刺されることが何を意味するのか。

「は、はふけれ! はふけれ! ほめん。あ、あやあるはら! ゆるして! はふけれええええええええええええええ!」

 恐怖で体が動かない。足先まで伸びきった筋肉が今にも吊り上がりそうだ。

『ブブブブ』

 音は少しずつ降りてくる。脇道などなく、ただそこに残った道を、彼の眼球まで最短距離で降りてくる。

「あああ!!!」

 そして最後の音がした。

 太い針が自分の水晶体まで届く音。

 痛覚を司る神経があまりの激痛に軋む音。

 宅間は極上の苦痛の中でその生を終えた。

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