松永
右手で握っていたハンドルのグリップを緩めると車体を動かしていた推進力が徐々に陰りを見せ、最後には自重で停止する。原動機付自転車を運転していた松永は慣れた動作で左足を地面に突きだし、傾く体を支えた。じゃり、と靴底が砂を噛む音。
ハンドルのすぐ下、差しこまれた鍵をひねる。すぐにエンジンの内部で気体と液体をぶつけ合わせていたような攻撃的な音が止まった。それを確認してから、彼はスタンドを下ろしてライトのスイッチに手をかける。
「……」
光が消えると、途端に闇が大きくなった。まるで、怪物が口を大きく広げたかのように周囲の輪郭が曖昧になる。同時に音が消え、吸い込まれそうになるほど深い静寂が辺りを包み込んだ。ざわざわと木々を揺らしていたぴたりと風が止む。その一瞬だけは、普段草むらで元気に合唱している虫達も何故だかそっと息を潜めているようで。
「ここかぁ」
松永は空を見上げた。そびえ立つ廃墟が月を半分だけ隠しているのが見える。自分が子どものときからぼろぼろで、今にも崩れ落ちそうな廃病院。そこに彼はやってきていた。
>パーティーやろうぜ。
夜の暗さに現れた人工的な白い光。松永はメールの無機質な画面にざっと目を通してから携帯電話を閉じる。
「あいつも懲りないな」
松永はふうとため息をつく。
彼にはそれが何を意味するものなのか分かっていた。送り主の福田は、時折こういった誘いを持ちかけてくる。人間の内にある未熟な悪戯心を刺激するような甘美な手招き。断りがたい誘惑。
気まぐれに角田にもメールしてみたが、『今日は予定が合わない』とだけ返ってきた。最近付き合いが悪くなったな、と彼は思う。
「でも、わざわざこんな場所じゃなくてもいいだろ!」
松本は、改めて目の前の建物に視線を這わした。陰鬱な空気をまとう廃病院。長年の風雨に晒された外壁は生気が抜けたように色あせ、崩れ落ちている。窓には何重にも木板が打ちつけられており、まるで廃墟自身が外からの侵入者を拒んでいるようにも見えた。
「……」
松永の背筋に不気味な悪寒が走る。
胸の内ポケットから煙草を一本取り出して自分を落ち着かせるようにゆっくりと口まで運んだ。乾燥した葉がぎっしりとつまった刃先に火を着けると、甘い香りの紫煙が空気に混じり始める。喉を伝って肺まで送られる煙が人肌のように暖かい。
人間に必要とされなくなった建物は不吉だ、頭の中で生まれた妄想が彼に囁く。廃墟という場所では、それが最初から持っていた役割が全く別のものへとすり替わる。例えば、人とは異なる理解できない存在の棲みかとして。その未知の現象は人間の関われる範囲を逸脱し、どこまでも深く濃くなっていく。
彼は携帯電話の画面に福田の番号を呼び出した。
『プルルルルルルル……』
7回目のコールを待って松永は電話を切る。
すると入れ替わるように着信マークがディスプレイに映った。
>ビビってるのか? 早く上がってこいよ。
福田からのメール。その言葉の下には病院のとある一室の場所が指定され、そこに行くまでの道順も書かれている。一人で来い、そういうことだろうか。
「ちっ」
松永は忌々しげに舌を鳴らす。音はびゅうと吹いた風に掻き消された。
福田にはこういう嫌らしい癖がある。人をおちょくって楽しむ悪い癖。パーティーの場所にこの廃病院を選んだのは、あるいは放置されたままになっているベッドが多数あるからだと彼は思っていた。しかし、もしかすると最初から福田には招待した誰かをからかう目的があったのかもしれない。例えばお楽しみの最中に耳元で、「根性なしでもやることはやれるんだな」とでも嘯いて。
咥えた煙草から緩い灰がぽとりと落ちる。松永は意を決して、廃病院の玄関へと足を踏みだした。もし仮にこの不気味な雰囲気に怖気づいて、家に帰ろうものなら福田から一生馬鹿にされかねない。彼にはそれが我慢ならなかった。
『カチャ……』
事前に聞いていた通り、鍵は開いている。
松永は観音開きの扉を自分の体が通れる分だけ手前に引き、そのまま奥へと入っていった。建物内をひしめくかび臭い空気がそわそわと鼻孔を刺激する。暗く淀んだ深い闇。そこはまるで太陽に見捨てられた海の底のようで。彼は人知の及ばない暗闇を携帯の光を頼りに進んでいった。
ふと脳裏に、昔図鑑に載っていた不細工な魚のことが浮かぶ。あの魚もまた、頭から光る触角を伸ばして暗闇を旅するのだ。彼は今の状況と照らし合わせ、魚に少しだけ共感を覚えて苦笑いする。
『ガチャリ』
そのとき松永の遥か後方で錠の閉まる音がした。
金属特有の冷たい音色。それが何かの合図のように響く。しかし、その音は彼の耳にはまるで届かない。自身の恐怖を否定するかのように打ち鳴らす、雑多な足音に紛れてしまって。
彼は知らず知らずの内に深く、深く潜っていったのだ。
怪物の潜む深淵へと。