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福田

 福田は死んだ。

 他の人間が次々と死んでいく間も彼だけは最後まで生きていた。

 死因は定かではない。与えられ続けるストレスが人体の耐久度を超えたのか、あるいは排泄物がつまり内臓が破裂したのか。物語であるように耳を塞ぐような断末魔が上げられることはない。ただ、彼は時間の経過と共に徐々に弱っていき、最期は寿命を迎えた花のように萎れていった。

 その環境はいったいどれほどの苦痛を彼に与えたのだろうか。セメントで固められたドラム缶の外には彼の頭しか出ていない。どんなにあがこうと首から下は腕一つ、足一つ動かせない完全な拘束。

 例えば、狭い鉄製のロッカーの中に閉じ込められた宮崎のストレスはまさに生き地獄だった。だが、その宮崎の苦しみでさえも彼に与えられた試練から見れば平凡だ。彼はこの状況下に置かれ、たった一時間で人語を忘れる。そして響く呻き声と唸り声。ぴくりとも動かせない体が受けるストレスは想像もつかない。

 体を一切抵抗できない状況においてから暴れる。そのとき初めて気付いた。抵抗が失敗すると、それを行う前よりも格段に濃縮されたストレスが生まれることを。彼がどんなに首から上を乱雑に動かそうが、そんなものは取るに足らない。環境から受ける多大なストレスが遥かに上回る。そこでは意志も知性も何の役にも立たない。彼の晒された苦痛が口から声となって一定のリズムで飛び出てくる様は、まるで何かの機械のようだった。およそ、それが知性のある人間とは思えない。ただの物体。

 この世の果てまで続くうんざりするような間隔。全ての歴史を紡ぐような膨大な流れ。どれだけ苦痛に晒されようが、決して終わらない悪夢の一時を彼は過ごした。楽しさも嬉しさも怒りも憎しみも悲しみも、両親への愛情も、兄弟への信頼も、友達への感謝も、何もかもが、気が遠くなるほど小さくなってしまう絶望的な時間の長さ。

 このとき、確かに彼は永遠を生きた。永劫の苦痛と共に。アインシュタインの相対性理論で、時間は一定ではないということが証明された。彼にとっての時間は、今まで生まれたどのような生命よりも長いものだったに違いない。永遠を生きる、人類の夢見たテーマの一つがそこに実現したようだった。

「……」

 角田は福田の最期を見届けると携帯電話を開く。


>突然でごめん。

>最後に誰かに話しておきたかったから。

>僕さ。ずっと後悔していたんだよ。

>周りに流されていたのかもしれない。

>誰でも良かったのかな。

>ちょうど良い相手があいつだった。

>でもさ、ずっと嫌だった。

>誰か一人を差別していじめるなんて。

>三年になってからあいつ、不登校になっただろ?

>僕はずっとそれで罪の意識を感じていた。

>あいつが、あんな弱いあいつが。「逃げる」って意思表示をして、それでやっと分かったんだ。

>僕達は〝やりすぎた〟んだ、って。

>小さい頃は、僕は立派な大人になりたかった。誰にでも優しくて、いつだって正しくて。

>でも、小さかった僕が今の僕を見たらどう思うだろう?

>きっと、軽蔑する。

>僕は普通の人間でもなんでもない。ただの誰かをいじめなくちゃ生きていけない弱い人間だったんだ。

>それに気付いたら、もう何もかもどうでも良くなった。

>だから、僕は死ぬことにする。

>それが、誰かをどうしようもなく傷つけてしまったことへの償いだ。

>お前も知っているだろう? 今、僕は北区の廃病院の屋上にいる。

>ここなら誰にも迷惑かけないし、僕みたいな最低な人間にはうってつけって訳さ。

>そういうことだから。

>あとは頼むね。じゃ。


 すると福田の携帯の画面が光った。

 箱の人物はメール作成を中断し、受信したメールを確認する。

 最初は、突きつけられた情報を上手く呑み込めなかった。箱は携帯を握ったまま、呆けるように静止する。

「……」

 だが、すぐに箱の人物はベッドの上に置いてあったボウガンを掴んで走りだした。大事な約束に遅刻してしまったかのように焦り、全速力で脚を回転させる。

「あああああああ!!!」

 初めて箱の人物が声を上げた。今にも泣き出しそうな悲痛な声。絶望を必死で否定する涙の懇願。肉親の死を受け入れられない遺族のそれに似た。

「ああ……やっと出れた」

 箱が部屋を飛び出すと、角田はゆっくりとソファの中から出てくる。偶然にも、人間が一人収まるスペースがあることを知った彼はずっとそこに隠れていたのだ。

「あはは、あいつ必死だなぁ」

 角田は少し体を捻って、固まった筋肉をほぐすとそのまま箱の人物を追いかける。二人はそのまま真っ直ぐ並ぶようにして廃病院の屋上へと向かった。

「うあああぁぁぁ!!!」

 外はかんかんに晴れていて、絶好の海水浴日和。辺りを颯爽と吹き抜ける風がとても心地よかった。

「うぁ……あぁ……」

 箱の目に、あるものが留まる。

 それを皮切りにまず、膝から力が抜けてがくんと下がる。次いで左手に握っていた福田の携帯電話が、更に右手のボウガンが落ちた。

「うわああ、ああああああああ!!!」

 箱はその場に崩れ落ちると嵐のような叫び声を上げる。

 視界を掠めたのは見覚えのある二つの靴と、その下で風に揺れる一枚の紙。絶望はそこにあった。全てのことを台無しにされた事実が心を捩じり上げる。

「うぁ……うぇ……」

 ゆっくりと年老いた犬のように、水分を失ったなめくじのように箱は這いずった。長いようで短い時間、苦痛や怒りや悲しみや憎しみや後悔が、言葉にできない感情が津波のように押し寄せてくる。

「ぅぅぁあああ……」

 箱は紙に手を伸ばした。そこには無機質な文字でいくつか言葉が書かれている。しかしそれをじっくりと読んでいる余裕はない。箱は紙を握り潰し、怖いものでも覗くように屋上の縁から顔を出す。

「……え?」

 そこには予想しているようなものはなかった。ただただ綺麗なコンクリートの地面があるだけ。目を凝らしても、その事実は変わらない。

 その時。

「そいっ!」

 悟られないように慎重にうしろから近付いていた角田が箱の両足を思い切り掴む。そして息もつかせぬ早業でそれを持ち上げ、思いっきり反対側へ放り投げた。

 すると元々小柄だった箱は玩具のように宙を舞い。嘘のように落下する。その途中で彼は一瞬、箱の人物と目が合ったような気がした。

『グシャッ』

 水袋が叩きつけられるような嫌な音。角田は自分の靴を手繰り寄せ、その場で履いた。

「おお、やっぱこの高さから落ちると死ぬんだな」

 角田は右手を目のすぐ上に当てて屋上のふちから下を見下ろす。先ほどと違い、そこには変な形で折れ曲がる箱の死体があった。その手にはしっかりと紙が握られていて。ここからでは分からないが、そこには『自分をいじめていた人間に復讐して僕も死にます』などという文章が書かれているはずだ。

 彼はそれを確認すると、両手を神妙な面持ちで顔の正面に合わせる。

「ありがとう。お前のおかげで全部すっきりしたよ。それと、いつも『×××××××』とか言って、ごめんな」

 角田は簡潔にそう告げた。そして福田の携帯を拾い、自分が送った最後のメールを削除する。そのとき、黒い何かが視界を掠めた。

「何だこれ……?」

 拾い上げるとそれは日記だった。表紙を開くと、一ページ目のタイトルに「僕の日記」と書かれてある。

 角田はぱらぱらとページをめくった。

「ふーん。お前も日記つけるの好きだったんだぁ…………へぇ、色々考えてたんだねぇ。何だか親近感湧くよ。もしかするともっと別の形で出会ってたら、僕達、友達になってたかもしれないな」

 他人事のように角田は言う。

 そして眠そうに体を伸ばしながら、よたよたとどこかへ歩いて行った。

「あーあ、今日のご飯は何かな」

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