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小島

「あの野郎……」

 小島は自分の携帯を握りつぶしそうになる。


>楽しませてもらったわ。結構、良かったぜ? お前の妹。


 そう書かれた宮崎からのメールには、ピントの合っていない下着姿の妹の画像が添付されていた。


>宮崎なら北区の廃病院で福田とパーティーしてるってよ。


 松永に聞いてよかった、小島はそう思う。宮崎と仲がいい松永ならすぐに奴の居場所が割り出せると彼は踏んでいた。

「待ってろよ」

 声が怒りで震えている。小島の脳裏には宮崎の顔面を金属バットで叩き割るイメージが次々と湧いてきた。この行動がのちの未来にどんな結果をもたらそうと構いはしない。心の中に芽生えた激しい感情に当てられ彼の動悸が速くなる。

「……殺す」

 自分の妹と宮崎が付き合っているのは知っていた。少し前に、二人から告げられていたから。その事実を知ったときは動揺してしどろもどろになってしまいそうになったが、何とか兄貴らしい振る舞いはできたように思う。少なくとも不審に思われることはなかったはずだ、自分の奥歯が痛いほど噛みしめられていることを悟られていなければ。

「……殺してやる」

 小島は天敵を前にした獣のように吠えた。

しかし、彼は同時に先ほど家を出ていった妹のことも思い出す。あのとき自分を襲った奇妙な感覚。何とも表現しがたい違和感のような感情。そう、彼女はどこか怯えた表情をしてはいなかったか。

「……っ」

 鈍感な自分を小島は責めた。上擦った声の妹に気付いて、一言事情を聞いてさえいれば。あるいは最悪の事態を防げたかもしれない。妹のことを大切に思うなら、ふてくされている場合ではなかった。後悔の念が今の彼を苦しめる。

 そして内にどろどろと渦巻く宮崎への激しい感情。友情を感じていたのは自分の方だけだった。おそらく松永から聞いたパーティーは彼の想像通りのもので間違いないだろう。だとすれば今、ターゲットにされているのは妹だ。宮崎は自分の彼女でもある妹を盛りのついた獣達に差し出した。

『ガチャッ……』

 廃病院の玄関はやけにすんなりと開く。まるで、何人もの人間がそこから出入りしたかのように。そこに疑問はなかった。むしろ小島は手応えを感じ取る。自分の行動が見えない何者かに祝福されているような、そんな気配。

 目の前の広々としたフロントから何筋かの暗い廊下が伸びている。建物自体がかなり大きいせいで全体の造りが把握できない。だが、丁寧に探さずとも目的の方角はすぐに見つかる。廃墟に入ったときからずっと何かの音楽が聞こえてきていたから。彼は迷わず正面の廊下へ進む。

『コン、コン、コン、コン』

 壁に反響して自分の靴の音がやけに大きく響いた。しかし気にすることはない。宮崎達が流している耳障りなロックの音楽の方が数倍うるさいことだろう。少なくとも自分が部屋に着くまでは。

『コン、コン、コン、コン』

 小島は淡々と廊下を進んでいった。人気のない廃墟は不気味だったが、怒りのせいで別段気にならない。それよりも自分の中でどんどん感情が大きくなっていっている。頭の中では刻一刻とシミュレーションが完成していった。ドアを開け、そこに誰が何人で、どのような状態でいようともまずは宮崎を殺す。唐突に招かれざる客が部屋に入ってきたら誰もが驚き、動きを止めるだろう。宮崎も間抜けた顔でこちらを見るはずだ。その一瞬の隙を見逃さずに顔面へ金属バットを叩きこむ。手加減なしのフルスイング。人体が伸びきったゴムのようにひしゃげる音。頭蓋骨が放り投げた陶器のように砕ける音。

 しかし、それだけでは終わらない。倒れた宮崎の顔へ再度金属バットをお見舞いする。限界まで振り上げ、床に突きぬけるつもりで振り下ろす。何度も何度も。宮崎は悲鳴を上げるだろうか。もしそれが気に食わないなら先に口から潰してやろう。そのあとは腕だ、手だ、膝だ、足だ。体が粉々のゼリーになるまでやってやる。彼は右手の握る力を強めた。

『コン、コン、コン、コン』

 だんだん廃墟に反響する音楽が大きくなってきている。奴らの部屋に近付いている証拠だ。小島の瞳孔が自然と開く。憤怒が自分の体積を超えて膨れ上がり、今にも破裂してしまいそうになる。だが、それももう少しの辛抱だ。あと数分後にこの廃墟は地獄と化す。宮崎だけではない。下らないパーティーに参加したつけを他の馬鹿な人間にも支払ってもらうことになる。後悔しても遅いのだ。奴らは怒らせてはいけない人種を怒らせた。小島の歩く速度が一気に上がる。

「うおおおおお!!!」

 廊下の先に明かりが見えたとき、小島は迷わなかった。

 ぐちゃぐちゃに茹ったこの感情をぶつけなければならない。自分の妹を恥ずかしめた奴らに、傷付けた奴らに、償いをさせなければならない。このとき彼は神と一体化していた。愚かな人間に鉄槌を下すために、かの地から舞い降りる残酷な神と。

 だが。

「あべっ!」

 小島は何かに躓き、顔面から廊下に叩きつけられた。両手でバッドを持っていたために、衝撃を和らげることもできない。

「くそったれ!」

 痛みが脳に伝わる前に小島は走り出そうとする。転んだことなど今の彼には全く無意味な出来事だ。それよりも彼にはやることがあった。両手と左足で体を支え、構わず一歩を踏み出す。ちょうど短距離走の選手が見せるような準備姿勢。片足で地面を蹴りつけ、その反動でもう一方の足を大きく前に出す。その瞬間。

『ダンッ』

 小島はまた転んだ。今度は何にも躓いていない。

 感覚的には、足が地面を踏みそこなったような違和感。ただのミスではない。まるで、そこにあるはずのものがないような。

「なんなんだよ!」

 悪態をつきながら小島は自分の足元を見た。地面に穴でも空いていたのだろうか。そうでなければ、怒りのあまり床までの目測を誤ったか。しかし、実際にはそのどちらでもない、全く別の事態が起きていたことを彼は知る。

「……」

 足がなかった。

 あたかも最初からそこには何もなかったとでもいうように綺麗な断面で片足がくるぶしの部分から切り取られてしまっている。

「え?」

 思わず声が出た。状況が全く理解できない。小島の脳は前後の辻褄が合うように必死で情報を処理している。ただ走っているだけで足が取れるということなどありはしない。そこには何らかの力の干渉が不可欠だ。だが、理解できない。まるで、途中のページを破られた本のように大切なシーンが致命的に欠落してしまっている。

 そんな感覚的な思考がふわりと彼の内側を通り過ぎた。

 そして。

「……いっぎゃああああああ!!!」

 小島の足の断面に激痛が走った。人間の脳は神経からの危険信号を優先するようにできている。足が切れた。その理解があとからあとから痛みを増大させる。既に彼の心に怒りはない。強烈な痛みは強烈な感情をも凌駕することを自身の体で証明する。

「あがああ、うい!?」

 頭に麻袋のようなものが被せられた。視界が塞がる瞬間、倒れた自分の目線と同じ位置に光る細い線が見える。

「ああ!?」

 小島は本能的に暴れた。しかし足の先が何かにぶつかり、堪えようのない痛みが生まれる。

「いぎぃっ!」

 それは小島の体を硬直させるには十分な刺激だった。全身の筋肉が針金のように強張る。

 その間も突然の来訪者は手を休めない。宮崎は背後から上に乗られ、両手を腰のあたりで縛られてしまう。

『バキィッ』

 そして頭のうしろ側で金属同士をぶつけあうような音が鳴った。それを最後に意識が線香花火のように小さくなっていく。小島は抵抗する間もないまま、暗い廃墟の中をずるずるとどこかへ引きずられていった。


 息苦しい闇の中、小島は頭に受けた打撲と切り取られた足の痛みで目を覚ます。徐々に形を取り戻していく意識の中で、彼は自分の身に起きたことを思いだした。

「うぐうぅぅ……」

 しばらくすると顔から麻袋が外され、視界が開ける。そこは廃病院の一室で、天井や部屋の角に電池式のランプが置かれていた。

「ふ……うぅ」

 痛みに顔を歪ませながら小島は視線を巡らせる。どうやら自分はストレッチャーのようなものに寝かせられているようだ。しかし、身動きは取れない。何故なら彼の両手と残った左足、それに腰の部分が革製のベルトで固定されているからだ。

「いてぇ……」

 殴られた頭の方はある程度収まってきたが、足の痛みは留まることをしらない。自由な首だけを上げて、足元を見る。やはりそこに右足は無かったが、代わりに不細工な包帯が巻かれてあった。

 小島は唸りながら首を頭頂部の方に向ける。

「……」

 そこには到底理解できない存在がいた。黒いローブのような布で全身を包み、顔には子ども染みた落書きが描かれた箱を被っている。両手には先ほどまで自分の視界を塞いでいた麻袋が握られていて。

「てめ……誰だよ……?」

 ぼんやりと佇む箱の人物を小島は睨みつけた。しかしそれが敵意故の表情なのか、苦痛を我慢している表情なのかはっきりとしない。元々、足のあった部分がやけに寒く、特に踵側のアキレス腱から来る痛みがえずきそうになるほど耐え難い。まるで筋肉の筋をぎりぎりと万力で締めあげられているようだ。

「……」

 箱は小島の質問に答えなかった。いや、全く反応しなかったと言う方が正確で。その人物はまるで固定された蝋人形のように初めの姿勢を維持している。

 彼は再び目を閉じた。

「ああ……いてえ……よぉ」

 なるべく体を動かさず、ただじっと奥歯を噛んで痛みに耐える。今の小島の足は少しの振動にも多大な苦痛を伴った。

 どうしてこんなことになったのかは分からない。頭が混乱し、そばにいる不審な人物に恐怖を覚える。だが、そんなことよりも足が。なくなってしまった足が痛い。それに酷く苦しい。もう一生戻らないであろう右足のことを想うと、涙が溢れてくる。

「う……ぁ……」

 しかし、小島は次の瞬間それを無理矢理呑み込んだ。いや、呑み込まざるを得なかった。

 がらがらと足元から何かが運ばれてくる。ストレッチャーだ。彼のものとは別の、もう一つのストレッチャー。そして、その上には当然人が寝かされている。

「お兄……ちゃん?」

 それは小島の妹だった。自分と同じく体を革製のベルトで固定された状態で仰向けになっている。

「お前、何で!?」

 思わず声が上擦った。

 妹は大きく目を開いて困惑の表情を浮かべる。

「……分かんない。宮崎先輩に……呼び出されてここに来たら……うしろから殴られたの。それで気付いたら……こうなってて……」

 妹の話が終わる前に、小島は落書きのような箱を被った人物に怒りの形相を向けた。

「てめぇ、宮崎!」

 だが。

「……違う。違うの、お兄ちゃん……この人は宮崎先輩じゃない。だって、体格も全然違うでしょ……?」

 妹の声は雨に濡れる子犬のように震えている。

 冷静になって箱を見ると確かに宮崎とは似ても似つかない背恰好だった。いや、むしろ対照的とさえ言える。華奢な骨格にこじんまりとした手足。

「はぁ? じゃ、じゃあこいつはいったい誰なんだよ!?」

「……分からない。ずっと話しかけても、何も。何も言わないから……」

 怯えきった様子の妹を見て、小島の怒りは改めて燃え始めた。しかし、それと同時に少しだけ安堵する。妹は例のパーティーに参加させられた訳ではないことが分かったから。

 そして、ふと彼の頭にある考えが過る。それは自分達を拘束しているこの箱の人物はいったい誰なのかという疑問。松永にはこの廃墟で宮崎と福田がパーティーをしていると聞かされていた。妹は宮崎に呼び出されてここに来た、と言っている。けれど、この箱は宮崎とは別の人間だ。ということは。

「福田か?」

 試しに訊ねてみた。

「……」

 けれど、箱は反応を見せない。小島は忌々しげに舌打ちをしてから、気持ちを切り替えるように息を一つ吐く。

 いや、誰でもいい。問題は、目の前の人間が明らかに会話の通じそうな相手ではないということだ。そして、今考えるべきはこの意味不明な状況を打開する方法。何かできることはないか。彼は頭を必死で回転させる。

「お、お兄ちゃん! け、け、足。けがっ、怪我してる!」

 そのとき妹が慌てた声を上げた。

 その声に応えるように小島は一度自分の足元に目線を向けてから興味なさげに呟く。

「大したことねえよ」

 本当は泣き出してしまいそうなほど痛かった。だが、妹の前で弱気な自分を見せる訳にはいかない。小島は精一杯の虚勢を張る。妹はなおも心配そうな目をこちらに向けていた。だから、彼は話を逸らすように敢えて大声を出して箱の人物に喰ってかかる。

「てめえ! さっさとこれ外せ!」

 箱の人物は相変わらずじっとその場に立ち尽くしているだけだった。あたかも、誰かに命令をされなければ行動することもできないロボットのように。しかし別に構わない。妹の目線が箱の方に移った。これで自分が痛みを我慢していることは悟られないで済むだろう。小島の額から脂汗が滑り落ちる。

「お前は誰だ!? 何が目的だ!?」

 小島は罵声を浴びせるように箱の人物に訊ねた。箱の返事は期待していない、今は妹の意識を自分から逸らすことができればそれで十分だ。彼は勢いに乗って、次々に暴言を吐く。

「……」

 その間も箱は全く動かずに、ただその場に佇んでいた。まるで反応がない。箱は小島からどれだけ言葉を投げかけられても、家具のように口をつぐみ、人形のように立ち竦む。 それは酷く不気味な光景だった。何か、大きな壁に邪魔されて自分の声が全く届いていないような、そんな不可解さ。あるいは、本当はそこに箱など初めから存在していなくて、全ては自分の妄想が造り出した幻影であるかのような。そんな錯覚。

 だから、その箱が再び動き始めたときには思わず目を疑った。

「え?」

 本能的にその動きを目線で追う。人間味のない靄のような歩行で、着ているローブを引きずるように部屋の隅へと歩いていった。そこにあるのは大きな布が被せられた長方形の物体。箱はその布の端をついと摘まむとそのまま手前に引っ張った。

二人はその光景に戦慄する。

「……」

 それは木でできた大きな枠だった。視界が限定されているので全体像は分からないが、移動するときの音から察するに下部にいくつかホイールが取りつけられているのだろう。そんな無意味な予想が頭を掠める。あるいは、現実から逃避したかったのかもしれない。

枠はちょうど二人を挟んで真ん中の位置に運ばれてきた。

「おい、なんだよ。それ?」

 小島はそのいでたちを敢えて詳しく見ないように箱に訊ねる。妹が怯えないよう、声を震わせないことが彼のできる最大限の努力だった。

「……」

 箱は二人を見もしない。何かの作業のように、淡々と枠の中央に設けられた穴に自らの腕を差し込む。そして。

『シャキンッ!』

「きゃあ!」

 それはギロチンだった。

 設置された台の上ですとん、と大根のように左腕が落ちる。同時に流れ出した赤いどろどろとした血液。妹は目を逸らしたせいでその瞬間を見ずに済んだが、小島の網膜にはその恐ろしい光景がまざまざと刻みつけられた。

「な……なんなんだよ」

 箱は無言で体から剥離した腕を拾い上げた。そして興味なさげに部屋の端に放ると、道化師のようにおどけた動作でお辞儀する。切り落としたはずの左腕は何事もなかったように胸の前に宛がわれていた。

「……」

 それは最初から自分の腕ではなかったようだ。だが、先ほどのあれが本物の人間の腕であることは間違いない。何故なら、小島からは切断された腕のグロテスクな断面図が見えていたから。

「お前……」

 それをどうするつもりだ、小島はそう訊ねるつもりだった。だが、そんな質問をする前に、嫌な予感は最悪の形で的中する。

 箱は枠を掴むと、あろうことかそれを妹の寝ているストレッチャーの場所へと移動させた。

「おい止めろ!」

 妹の顔は恐怖で引きつっている。小さく、泣きそうな声で「お兄ちゃん」と自分を呼ぶのが聞こえた。

 ギロチンの穴はちょうどその高さに合うように設計されているようで、冗談のように上手く妹の首に嵌まる。その間、彼女は目立った抵抗しなかった。いや、できなかったのだ。最大限まで持ち上げられた重厚感のある刃、それに繋がるロープは箱の手に握られている。そのとき彼女が暴れて、もし箱の握った手が開かれてしまったなら。

「……」

 箱は淡泊に作業を進める。別に彼女に「動くな」と脅したりはしていない。ただ、内にある恐怖心が彼女の体を氷のように凝固させた。

「……お、おい」

 それは小島も同じである。その作業に少しでも手違いが起きれば妹が死ぬ。その事実が、彼の抵抗を強制的に留めさせた。

 目の前で着実に進む死への準備。まるで悪夢のような。

 そして箱の作業が終わる頃、彼の虚勢は完全に崩れる。

「……止めて下さい」

 救いを求める弱者の声。発したのは小島だった。

 涙ぐむような。苦しみを訴えるような。許しを乞うような。そんな哀れな響き。

 彼には分かったのだ。今、この瞬間。自分に妹を救える力がないことを。それをまざまざと感じられるほど、ギロチンの穴に嵌められた妹の首というのは絶望的な情景だった。

「……お願いします」

 何度でも繰り返す。既に彼の許容範囲には自分の死さえ組み込まれていた。自分が死んで妹が助かるのならそれで構わない。そんな必死の決意で箱へと言葉を投げかける。

「何でもしますから……」

 そのとき箱が小島を振り返った。友人の呼びかけに答えるような、箱が初めて見せた人間らしい仕草。箱はギロチンに繋がるロープを握ったまま、彼の真横までやってきくる。そして、右手を彼の目の前に差し出した。

「なに……を?」

 最初、小島はその動作が示す意味を計りかねて困惑する。ロープの長さにはほとんど余裕がなく、箱の手のすぐ脇にその縮れた先端が見えた。こうしている今にも滑ってしまいそうだ。そんな危機感を彼が覚えた次の瞬間、本当に箱の右手の中でロープが滑る。

「っひ!」

 小島の息を飲むような声。妹は叫び声を上げる余裕すらなかった。

『ガンッ』

硬いもの同士がぶつかる音。この世で最も不吉な響き。

 だが、何かがおかしい。小島がロボットのようにぎこちなく妹の方に視線を動かすと、ギロチンの大きな刃は妹の首、そのほんの数センチ上で止まっていた。どうやらストレッチャーに取り付ける際に、最初からそこで止まるように仕組まれていたらしい。箱は落ち着いた動作でロープを引き、ギロチンの刃を上昇させると、枠の途中に取りつけられた障害物を抜き去った。そして再度彼の元へとやって来てロープを差し出す。

「……」

 箱の人物の意図が今度は小島にも伝わった。何故なら箱はその際に、余った左手で彼の口を指差していたから。その行動が裁判の判決文のように思考を炙る。

「わ、分かった……」

 小さくまた、「お兄ちゃん……」と聞こえた。だから小島はロープを噛む前に、妹と視線を合わせできるかぎりの明るい笑顔を作った。

「心配すんな、お兄ちゃんに任せとけ!」

 とても力強い声。大切なものを守るために、人間が発する尊い意志。彼の覚悟は既に決まっていた。

 しかし、そこから先は。

「……うぐぅ」

 奥歯を噛みしめる。繊維がみしみしと押しつぶされる音がした。ロープは太くも細くもなく、噛み心地は悪くない。むしろ小島の歯に予想以上にフィットする。だが、顎に伝わるギロチンの刃は決して軽くはなかった。加減が分からないせいで容易に力を抜くことはできない。楽をしようとして万が一、ロープが歯の間を滑り抜ければ妹は死ぬのだ。その事実は口で支えている刃の質量よりも、彼の心に重くのしかかる。だから力の限り、彼はそれを噛み続けた。

「……ふぅ……すぅ……ふぅ」

 呼吸のしづらさに気付いたのはそれから少し経った頃。小島は歯を噛みしめていると酸素を浅くしか吸えないことをそのとき初めて知る。

「……ふぅー……ふぅー」

 ふと、箱の方を見た。箱は二人から離れ、部屋の隅でうつむいている。何をしているのか。右の掌を自分の方に返して、ずっとそちらを見つめていた。何かを握っているようにも見える。

「お、お兄ちゃん……」

 今にも消えてしまいそうな声が聞こえた。妹の声だった。

「あんら?」

 小島は「何だ?」と言ったつもりだった。だが、口の中の異物のせいで上手く発音できない。妹は彼の意図を汲み取る。そして正面にあるそれから目を離せないまま続けた。

「怖い……よぉ」

 その発言で小島は昔の記憶を思い出す。まだ小さかった頃、妹は怖い話を聞いて眠れなくなり、夜に彼の布団の中で一緒に眠ることがあった。怖い映画を見るときも、彼の服の裾を掴みながら、うしろに隠れるようにして妹は見る。実際の所、彼も怖い映画は得意ではなかったが妹の前ではその素振りを一切見せないよう心掛けた。そのときの自分は、妹を守ることが何よりの使命であるかのように思えたから。

「はいおうふは、ふぐいおわう」

 歯が軋み始めている。だが、小島は笑って見せた。不安でたまらない。この状況にいつまで耐えれば良いか分からない。まるで未知。けれど、小島は笑った。大切な人を勇気付けるためのとびっきりの笑顔を見せる。

「……う……ん」

 妹の唇が恐怖で震えていた。だが、引きつる顔で小島の方を見る。相手を信頼していなければ、それから目を離すことなどできない。そして見える、自分をずっと支えてくれていた兄の顔は今もなおとても心強かった。

 けれど。

「……ぅ」

 怖い。怖い。怖い。

 あの刃が落ちてくれば自分は確実に死ぬ。その事実は彼女の中の何もかもを台無しにした。これまで生きてきた十数年間を。今まで経験した数々の出会いを。自分の人生には果たして何の意味があったのだろうか。

「うぐっ……うぇ……」

 涙が溢れてきた。息が上手くできない。視界が歪み、ぐるぐると回り出す。死にたくない。死にたくない。怖い。まだ、生きていたい。まだ、たくさんやりたいことが。やり残したことがあった。

「うぇ……うぅぅ……」

 どうしてこんなことになってしまったんだろう。自分は何か悪いことをしたのだろうか。母親にテストの点を誤魔化して伝えたことだろうか。それともめんどくさがって分別をせずにゴミを出してしまったことだろうか。何がいけなかったんだろうか。頭の中で巡り始めた後悔。止むことのない不安、恐怖。

「……ひっ……うぅ」

 目を開けたまま、それを見つめたまま彼女は絶望していく。状況に耐えきれず、心がばらばらと積み木のように崩れていった。助けて欲しい。誰でもいい。誰か。誰か。助けて。死にたくない。死にたくない。

「はいおううは」

 優しい声。兄の顔を見た。兄は額から脂汗を噴き出しながらも笑っている。ずっと、ずっ自分が生まれたときから傍にいてくれた存在。

 そんな余裕はないだろう。足に巻いた包帯に血が滲んでいる。顔は真っ赤だ。歯を食いしばりながらこちらに顔を向けてくれている。だが不思議と体の震えが止まった。涙が止まった。

「お兄ちゃん……」

 小島は鈍い顎の疲労を感じている。顎に力を込め続けることはとても苦しくて。マラソンの終盤を思い出した。力が枯渇して、立ってすらいられなくて。頭が真っ白になりそうになって。中途半端に口を開いているせいか、唇の端からとめどなく唾液が流れ出る。

「……ぁ」

 その呻きは小島以外には聞こえていなかった。自分を落ち着けるように深く、大きく呼吸する。肺がぴくぴくと痙攣し始めた。だが、彼は繊細にそれを続ける。顎がだるい。脳が出す休息の信号を無視した。声を出せばいくらか楽になるはずだ。けれど、彼は耐える。

「……ぅ」

 妹を不安にさせたくない。

 痛い。だるさが痛みに変わる。脳が筋肉へ、弛緩を催促した。だが、小島は従わなかった。自分の体が敵のように思えてくる。目を開けていられない。自分にだけ分かる程度に眉間に皺を寄せる。辛い。苦しい。吸い込む空気に血の味が染み始めた。

 体が激しい痛みに備えようとしている。自然と拘束された両手が握られた。強く、強く。爪が皮膚を破り血が滲み出す。その感覚が救いだ。足先まで筋肉がぴんと延び、肉離れを起こす。その感覚が救いだった。

 重さに引きずられ、後頭部がストレッチャーから離れる。ちょうどその分だけギロチンの刃が下がった。首の骨が無理な体勢で固定される。頭を元の位置に戻そうにも、既に酷使され尽くした筋肉が言うことをきかない。筋繊維が岩のように凝り固まって静止する。その体勢では体のどの部分も休息を取れない。ただただ、甕に注がれ続ける水のように疲労が蓄積していく。

「ぐううっ……うぐぅ」

 縄で喉を締められているような声が出た。小島が意図して出したのではない。彼の体から、声を我慢する余力が溶け出していた。

 目を開ける。体の他の部分に力を込める。少しでも意識を顎の痛みから遠ざけるために。耐えなければ。耐えなければ。もう何もいらない。ただ、妹を助けて欲しい。この苦しみから解放してくれ。誰でもいい。涙が滲んだ。

 歯ががたがたと揺れる。ロープの繊維に絡まって、今にも歯が抜けてしまいそうだ。だめだ。もうだめだ。心が。勝手に諦めようとする心が。何よりも憎く。どうして。どうして。どうして、こんな目に合わないといけないのだろうか。痛い。痛い。痛い。痛い。筋肉が。締め上げ続けられる筋肉が休息を欲している。喘いでいる。

「いぎいい! うぐっううう」

 眉間の皺がぴくぴくと痙攣した。一瞬も力を抜かない。抜けない。全身が勝手な意志を持ったように震えだす。肺がおかしい。小刻みにしか酸素を吸えず、それが連続して過呼吸になる。

「ひっ……ひっ……」

 顎の感覚が鈍りだした。顎がない。顔の下に顎がない。目を向ける。ある。まだ、噛んでいる。しかし、ロープの感覚が。歯茎への圧力が。

「ぐっ! ぐぅぅ!」

 声を上げて、再び力を込める。だが、肉体へ自分の意志を伝える道が閉鎖されてしまったかのように手応えがない。顎はまだ確かにロープを噛んでいた。ただ、顎が。顎の感覚が。痛覚が。何もかも。鼻から下が消え去ってしまったようで。筋疲労が限界を超え、痛覚を鈍化させる物質が脳内で生成され始めた。

「うぐぁぁ!!!」

 力を込めても。力を込めても。伝わっている気がしない。だが、小島は止めない。頭がおかしくなりそうだ。一体、いつまで続くのだろうか。どうして、どうしてこんな目に。痛い。もう止めたい。今、口を開いて、十秒でも休ませてくれるのなら何でもする。だから。この苦しさから。妹だけでいい。自分は死んでも構わない。妹を。苦しい。

「ふっ、ふっ、ふぐぅぅぅぅ……」

 目玉が落ちそうなほど目が見開かれる。

 限界が近付いていた。どれほど耐えようが、肉体がついてこない。歯茎からぼろぼろと血が流れる。それが喉に伝わって。

 どれだけ時間が経っただろうか。無限に思えるような時の中で、彼は今もなおロープを噛んでいる。

「ひひひひぎぎぎぃぃ」

 脳が痺れ始めた。

 目が裏返る。柔らかな光が小島の体を包み込んだ。こんな暗い廃墟で、あまりに似つかわしくない暖かな光。木漏れ日をそのまま閉じ込めたような、天使に抱かれるような光。

 顎から力が抜ける。力を入れなくても、何か別の大いなる力が顎を押さえつけてくれている。彼の頭と顎の先を抑え、ロープが抜け出ないように強く。そんな妄想が彼を支配し始めた。強烈な苦痛を与えられ、脳が造り出した幻影。

 喉の表面が裏返りそうだ。首の筋肉が酷く凝り固まっている。顎が辛い。涙が目尻から流れ落ちた。

 それでも。

「う……ぐぉ、っぐううぅぅ……」

 小島は耐える。

 顎の筋肉は他のものと比べ、持久性は高い。肉食動物が暴れる獲物の体に歯を立て続けられるのもそのことが影響している。だが、それにだって限りはあるのだ。どれだけ優れた筋肉も永遠に収縮し続けることなどできはしない。

 しかし、それでも。

「ぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……」

 小島は耐えた。

 既に、人体の限界はとうに超えている。意志の力などという言葉では決して表わせないほど異常な光景。

「ぐぅぅぅぅぅぎぃぃぃ」

 あるいはそのとき、小島は辿り着いていたのかもしれない。ここではないどこか世界の境地に。

「ぃぃぃ……」

 耳から聞こえてくる声が自分のものかはもはや分からなかった。曖昧な水の中のように周りの音が反響する。夢の中を旅しているようなおぼろげな感覚が始まった。

 目に入る光が踊り始める。くるくる、くるくると彼を包み込むように。巨大な海が口を開けて、体をすっぽりと飲み込んだ。その中にはこれまで星が紡いできた歴史がありありと詰まっている。

「ぐぅぅ……ぅぅぐぅう」

 地中からガスが噴き出し、それが空気の元になった。ガスは濁流のような激しさで雨となり大地を叩く。すると干からびた岩石のようなそこに水溜りが生まれ、やがて海となった。海は風に吹かれ、振動を始めた。月が海を引きずり、波を呼んだ。そして波から生きものが生まれた。

「……ぅぅ」

 生きものはやがて周囲のガスをその身で分解し、酸素を作り出すようになる。地表は空気で満たされ、多くの進化と発展に関与した。生きものは互いに傷つけあい、育みあいながら星と歴史を共にする。全ての流れは一つの大きな流れに集約され、そして光輝いた。

「ぎぁ……」

 小島の意識が自身の魂のルーツを感じ始める。何か大きな力に導かれるように脳がぐらぐらと歪み、弾ける。

「……ぐぅ」

 ロープはまだ噛まれたままだった。

 それはいったいどれほどの偉業が。彼の口は鉄のように固まり、ロープを離さない。目から生気は消え、病人のように虚ろに淀んでいる。体は完全に硬直し、時折痙攣する様が酷く痛々しい。体から流れ、ストレッチャーを伝わる汗は床を叩くほどだった。

 それでも彼は。

「……お兄ちゃん、もう大丈夫だよ」

 そのとき声が聞こえた。びりびりと引きつる瞼をこじ開け、妹の方を見る。

「……私ね。お兄ちゃんのこと……好きだったの。ずっと、ずっと。小さい頃から」

 妹は笑っていた。

「宮崎先輩と付き合うことになってからもそれは変わらなかった。だから、先輩には悪いことしちゃった。先輩に迫られたときにね。『私はお兄ちゃんが好きだから』って言っちゃったの。そしたら先輩、複雑な顔してた」

 妹は泣いていた。

「でもね、そこからが面白いの。そのとき先輩何て言ったと思う? ……えへへ。あのね、『じゃあ、代わりにお前の下着姿の写真くれ。それでオナって我慢するわ』だって。あんなに怖い見た目の先輩がそんなこと言うんだよ? 私、笑っちゃった」

 妹は笑っていた。

「今日、ここに来たのはさ。先輩からメールがあったの。私、すごくびっくりしたんだよ。『あの写真ばらまかれたくなかったら、北区の廃病院に来い!』って。優しかった先輩らしくないって」

 妹は泣いていた。

「あのね……だからまだ私……処女なんだよ?」

 妹は笑っていた。

「お兄ちゃん。私の処女、いらない……かな?」

 妹は泣いていた。

「……いりぅ」

 自分では「いる」と答えたつもりだった。

「……えへへ、嬉しいな。私達、両思いだね!」

 妹は笑っていた。

「あぁ」

「お兄ちゃん、私は幸せ。もう十分」

 妹は笑っていた。

「ぁめろ!」

 妹は笑っていた。

「えっはい、はふへへやる! ははら、あきらへんな!」

 妹は笑っていた。嬉しそうに、幸せそうに。

「ありがとう。お兄ちゃん……天国に行ったら、いっぱいHしようね!」

 その時だった。

『ブチン!』

 小島の顎にかかる力が急速に抜けていく。そこにかけられるあまりの力の大きさにロープの方が耐えきれなかったのだ。反射的に妹の方へ視線を向ける。「違う、これは何かの間違いだ! 止まれ、止まれええ!」、彼は心の中で叫んだ。しかし、彼の眼球がとらえたのは。切断された勢いで、バスケットボールのように宙を回転する妹の首。彼は。

「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 地獄だった。眼球が血走り、真っ赤になる。

 そのとき見えた箱の人物は、まるでプレゼントを受け取った子どものようにぴょんぴょんと跳び跳ねていた。そして、興奮しきった様子でこちらに手を差し出してくる。その手に握られたストップウォッチにはちょうど三十分○○秒と表示されていた。

 小島の脳が弾ける。

「てめえ! 殺す! 殺す! 殺す! 殺す! 殺す! 殺す! ころ……」

『バスン』

 箱の人物はボウガンを小島のこめかみに添え、引き金を引いた。

 小島の首がだらりと二回揺れる。それを確認してから箱はつまらなそうに地面を蹴った。

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