加藤
>福田には気をつけろ。
角田に返事を返すと加藤は乱暴に携帯電話を閉じて制服のポケットへとしまう。おせっかいな奴だ、と彼は思った。しかし、念のため保険はかけておく。
暗い闇の中、煙草に灯った小さな明かりだけがまるで灯台のように彼の位置を知らせた。もしかすると明け方には天気が崩れるかもしれない。彼は肌にまとわりつく空気を振り払うかのように視線を上げ、そして小さく鼻を鳴らす。
「ここだな」
加藤は廃病院の前までやって来ていた。
月が灰色の雲に隠れてしまっているせいで、全体像は黒いペンキをぶちまけたように形を失っている。とても大きな廃墟だった。夜に薄く映る窓の輪郭を辿ると、どうやら五階か六階建ての建物であるようで、土地もかなり広く使われているように思える。
「……行くか」
そう呟くと加藤は、吸い終えた煙草を足の先で踏み消して玄関へと進んだ。
それは観音開きの扉で、ガラスが張られていたであろう部分に今は板が打ち付けてある。ぼろぼろに錆びが回るノブに手を伸ばした。施錠はされていない。ふと、それを握る掌が僅かに汗ばんでいるのに気が付いた。心なしか、扉も重いような。
だが、彼は不安を押しのけるように無理矢理その中へ入っていく。心臓の動きが少し早くなった。心の中で妙な焦りが生まれる。
「……」
薄暗い階段を上がると、その部屋はすぐに見つかった。
何の変哲もない普通の病室。
『ゴクリ』
喉が大きく鳴る。体が少し強張っているのが自分でも分かった。自分の知らない未知への不安、そして期待が心の中で渦巻いて。そんな感情に惑わされながら加藤は扉を開ける。
中に入るとそこには埃っぽい空気に紛れて、佇む二人分の人影が見えた。それを確認すると彼は制服から携帯電話を取り出し、福田からのメールを呼びだす。
>その筋の人間と会わせてやる。
>卒業したらそっちの世界に入るんだろ?
画面を二人に向けた。
人工的な淡い光が暗闇を照らす。そこには見知った制服のズボンと見慣れないスーツの裾が映しだされた。
「約束通り来てやったぞ」
加藤は言う、できるかぎり落ち着いた声で。
以前から、福田の特異な交友関係のことは彼の耳に入っていた。昼間の世界に住んでいる内は関われない、法律に縛られずに生きる人間、そういった人種に顔が利く。
「話は聞いてますよね? 俺が加藤です」
そんな世界に加藤は興味を持っていた。いや、憧れていたと言っても過言ではない。計り知れない暴力と限りない実力を持つものだけが栄光を掴める弱肉強食。彼はずっと求めていたのだ。普段の日常から隔絶した環境を。自分のつまらない人生に風穴を開けてくれる強烈な刺激を。
だから、こんな場所にもやってきた。与えられた好機を掴むために。だから、躊躇うことなく近付いた。目の前の得体の知れない男にも。
だが、そこで彼が見たものは。
「……は?」
スーツを着たマネキンだった。
最初、加藤はその状況に酷く混乱する。この出会いをきっかけに、夜の世界で成り上がることばかりを考えていたから。自分の生き方を変え、このぼやけた日常に終止符を打とうとしていたから。そんな大きな期待が、願望が、彼の中から疑惑の二文字を消し去っていた。
「……」
しかし加藤は徐々に気付いていく。自分が嵌められたことに。馬鹿にされたことに。軽んじられたことに。次いでどろどろとした憎しみのような感情が自身の内側から溢れだしてくる。固く握られた拳がぶるぶると震えた。
この怒りをどうしてやろうか。彼は今まで生きてきた中で一番の怒りを感じていた。ふと、脳裏に殺意の感情が浮かんでくる。もし今、福田の方を振り返って、その顔に嫌らしい笑みが張りついていたなら。自分は本当に相手を殺してしまうかもしれない。そんな気さえする。
しかし、その予感は当たらない。
「がっ!」
うしろから加藤の首に何かが巻きつけられた。ロープだ。
続けて繊維を切り裂く音。すると支えを失い、昨夜の雨水をたっぷりと蓄えたドラム缶が自由落下する。そしてその反作用で彼の体がエレベーターのように勢いよく引っ張り上げられ、大きな質量の物体が地面と激突する音で止まった。
「ぐぅ……!」
地面から解放された両足がじたばたと空を掻く。加藤の体は今、一本のロープによって支えられていた。
「ぶっ……ぶっ……!」
加藤は本能的にロープと首の隙間に手を持ってくる。だが、下方向にかかる体重を利用して首にしっかりと嵌まる特殊な結び方をされたそれは、指が入りこむ余地を完全に潰してしまっていた。
「びぶ……!」
その間も加藤は全身を振り、何とかこの状況から脱出しようとする。しかし彼の顔からどんどん血の気が失われ、まるでメロンのように青ざめていった。
「づ……」
そして意識を失うまでの数秒間、加藤ははっきりと目にする。ただ、じっと自分のそばで佇んでいる人影。子どもの落書きのようものが描かれた箱を身に着けてこちらを見上げる福田の姿を。
「げほっ……げほっ……」
自身の咳で目を覚ます。
「……縛られてるのか」
加藤は自由にならない手足の筋肉と、靄のようにはっきりとしない視界で現状を把握した。手は背もたれのうしろで縛られ、足もまた椅子にロープでがんじがらめにされている。試しに力を込めてみた。しかし、それらは全くはずれる様子を見せない。
また、違和感を覚え、首を回して足元に視線を移した。目が慣れてくると、椅子の脚がセメントのようなもので床に固定されているのが見える。どうやら自分は身動き一つ取れない状況にあるらしい。彼はまだぼんやりと冴えない頭で辺りを見渡した。
「……」
それは予想通りの出来事。予想通り、部屋の隅に頭のおかしな箱を被った福田がいる。どうやら加藤はおちょくられた訳ではないらしい。それだけは理解した。しかし、それよりももっと恐ろしい事態が起きている。そんな悪寒。
「何が目的だ?」
加藤は酷く冷静だった。
自分の身に起きたこと、そして実際に今起きていること。それらを考えればもっと取り乱すのが自然だが、彼はただ落ち着きを払って福田に訊ねる。
「……」
反応はない。福田は今までと同じように無言でこちらを見ているだけだった。しかし、構わない。ただ、時間さえ稼げれば。加藤はできるだけ無言を避けるように続ける。
「俺が何かしたか? その仕返しか?」
言葉に大した意味はなかった。別に返事を求めている訳ではなかったから。加藤は既に目の前の福田とは会話ができないことを悟っている。そんな当たり前の意思疎通ができる関係性は飛び越えてしまった。そう、理解する。
「何かしたなら謝る。すまん。だから、この縄を解いてくれ」
福田を挑発しないよう、加藤は慎重に言葉を選んだ。そしてなるべく平坦な口調で話す。相手の感情を落ち着かせるように。興奮しきった獣をなだめるように。そして、自分が見つけたものを気取られないように。できる限り自然な口振りで。
だが。
「え?」
そのとき予想外のことが起きた。今までただじっと床を見つめていた福田が急にこちらを向いたのだ。いや、それだけではない。気が付くと福田の手が加藤に向かって真っ直ぐ伸びている。人差指以外を折りたたむ独特の拳の形。それは自分以外の他者に何か対象物の存在を示唆するときに使われる所作。
彼は嫌な予感がする中、視線をすっと下に下ろした。そこには。
「……」
露出する自分の陰茎が見える。縛られた腕や足にばかり意識がいって、先ほどは見落としていたようだ。そして、更にそこから伸びる二本の線。それを視線で辿ると、最後に福田の右手まで辿り着いた。
「……嘘だろ」
加藤は言う。
この絶望的な状況の中で、彼にはもう一つ気付いたことがあった。それは先ほどから耳を叩く不快な音。視界の中には見えないが、どこかでエンジンが稼働している。
「止め……」
加藤の制止と、福田がスイッチを押すタイミングはほぼ同じだった。
「あがぁ!」
ほんの一瞬。五寸釘で一直線に貫かれたような痛みが彼の体の下腹部に落ちてくる。衝撃で体が鮮魚のように跳ねあがり、肺がおかしな音を立てて引きつった。全身の筋肉が加藤の意志を無視して痙攣する。たった数秒の出来事だったが、その日常らしからぬ苦痛は驚愕と共に彼の体に深く染み込んでいった。
喉が震え、気道が圧迫される。上手く呼吸ができなかった。まるで口の奥に何か膨らみのある物体を押し込まれたようだ。それに邪魔されて酸素が肺まで届かない。
「……ひゅー……ひゅー」
意識がばらばらに分断されそうだった。
脳が神経を信号で繋ぐ。すぐに察しが付いた、電気だ。
「っぐ……ひゅー……ひゅー」
加藤は血走った眼で福田を見る。
彼は福田が猫を殺している情景を思い出していた。足を捥がれた猫は、まるで蛆のようにうねうねと。立ち竦む加藤に福田は何と言ったか。確か、「これは、あいつの猫だからいいんだよ」と。
「ひゅー……いんっ!」
そして、また福田はスイッチを押す。
自然と体が跳ねた。
「あぎぃ!」
そして、また。
「がああ!」
また。
「いいぎぃ!」
これが続くのか。加藤は気が違いそうになる。頭が痛みで一杯になり何も考えられない。意識が飛びそうになる。いや、飛んでくれればどんなに楽か。
福田は常に一定のリズムで彼の体に電気を流し、間に必ず休憩時間を設けている。まるで何かの実験のようにそれが繰り返された。
「ぐびゅ……ひゅー……」
加藤はぐったりとうなだれ、口からはだらしなく涎が滴り落ちている。手足からも力は消え、重力に引きずられるままにしていた。
「ぐぅ!」
しかし、福田がスイッチを入れると、打って変わって加藤の体は元気に跳ねる。まるで、空気でバウンドする蛙の玩具のようだ。何度も何度も楽しく踊る。
「ふひゅー……ぐっ、ひゅー……」
代わりに消耗は酷く進んでいた。電線の結ばれたその部分も、大きな刃物で何度も切りつけられたようにズタズタになっている。電気に耐えきれず皮膚が弾け、細胞ごと裂けたのだ。その痛々しい傷口からはどろりと粘ついた血液がだらだらと流れ出している。
加藤の様子もおかしい。目や鼻から止めどなく体液が零れ、体は電気が流れない間もぴくぴくと痙攣している。その視線は虚ろで、もはやどこを見ているのか本人にさえ分かっていなかった。
「びゅぐ……ぶ……」
既に、呼吸はままならず、横隔膜がしゃっくりのときのように不規則に運動している。
「うぅ……ひっ……ひっ」
すると、福田がいつの間にか手にしていた懐中電灯を加藤の下半身に向けた。それはぼやけて曖昧にしか見えなかった部屋に色を取り戻させる。
「……ひゅー……ぶっ……」
その間は不思議と体に電気が流されることはなかった。ただ静寂の中に加藤の、か細い呼吸が響く。まるで子どもの気付きをゆっくりと待ってあげているように。友人の準備が整うまでのんびりと佇んでいるように。そんな他者の歩幅に合わせるような穏やかな箱の心配りが見えるようで。
「……ひゅー……ひゅー」
最初、視界に入ってきたそれが何なのかは分からなかった。捨てられたゴミのようにも見えたし、小動物の死骸のようにも見えた。
だが。
「……ぅ」
それは徐々に脳に理解されていく。人類の優秀な英知は周りにある様々な情報を処理して、答えを導き出すことに長けていた。
「ぅあ……」
光で形を成したその部分。皮膚が役目を失い、既に赤黒く変色していて。
「……ああぁ」
器官が壊死していることを如実に加藤に知らせてきた。
「あああああああああ!!!」
悲痛な叫びが部屋に木霊する。あらゆる絶望を乗せた、地獄の咆哮。喉が枯れ、空気が軋み、濁流のような感情が喉から捻り出された。
「あああああああああああああ!!!」
加藤は叫び続ける。肺が泥のように溶け、ぐにゃぐにゃと形を変えた。
そして、彼は目にする。右手を高々と上げる福田の姿を。
「ああああああああああああああああ!!!」
そのとき視界が水の中でもがいているときのようにゆっくりと流れ始めた。理屈を飛び越えて脳が悟ったのかもしれない、これが最後の光景になることを。加藤の視界には、福田の右手の親指がスイッチを押し込む瞬間がこれ以上ないほど詳細に映し出される。
「あああああああああああああああああああ!!!」
だが、加藤は同時に希望の姿も見ていた。福田から視線が外れてそこに集中し、心が声にならない声を上げる。それは期待、願望、切望、要求、懇願、祈願、哀訴、哀願、多くの想いが入り混じった複雑な感情だったが、たった一つに集約できるものでもあった。
それは。
「ああああああああああああああああああああああ!!!!」
それは「助けて」という言葉だった。
今まで、加藤が決して縋らなかったその言葉。彼は人生の間際でついにそれを口にする。いや、した気がした。
だが。
「あがぁっ……!」
そこで加藤の意識が途絶える。力なく落ちる線香の灰のように彼の魂が霧散する。
「……」
福田は完全に生命活動を止めた加藤の姿を確認すると、思い出したかのように床に落ちていた携帯電話を拾い上げた。そして、大切そうに一撫でしてから部屋の隅に置いてある学校指定の鞄に仕舞い込む。まるで宝物でも見つけたかのように。
それからどれだけ時間が流れても、彼の携帯電話が震えることはなかった。




