長谷雄理のユウ鬱2
季節は冬。
場所は市立北中学校。
「ふむ、そこでこの式が……」
朝早く、他に誰もいないコンピューター室で分厚い本を片手にキーボードを打ち込む少年がいた。名前は長谷雄理。中学2年生。
「それでこのXが……いや、ここではχか。まぁどっちでもいいや。Xが……」
長谷の指がくるくると回る。頭の中で計算式が渦巻いているのでそれをひも解いているのだ。ふと、キーボードを打つ手が止まる。
「あの機械を使うにはどうすればいいんだろう……」
誰もいない静かなコンピューター室で、独りつぶやいていた。
僕達は北高生外伝「長谷雄理のユウ鬱2」
長谷の作る世界改変プログラム「STP(世界を作り変えるプログラム)」は完成していた。あとは叔父の大学にある高分子核加圧式原子計測器をどうやって長谷一人で実行できるかを考えていた。
「やっぱり手伝いをして使わせてもらうのが一番だな」
長谷はそうたくらみ、中学が終わるとすぐに叔父の務める大学へいき、叔父の実験を手伝った。
ある日、いつものように叔父の大学の研究室へ向かっていると、長谷の幼馴染が声をかけてきた。
「あれ、ユウちゃん?」
「おっ、三季江じゃないか。ひさしぶりだね」
長谷の幼馴染、桜庭三季江。彼女も父親が長谷の研究室に在籍している為、たびたび研究室で顔を出している。彼女は長谷が小学生の頃からの友人で、お互い研究者の親族を持つからか、長谷とは学問においていい競い相手である。
「おじさんたち今会議してるから入れないよ。ジュースでも飲んで待ってなって小遣いもらっちゃった」
桜庭の手には200円が握られていた。どうやら長谷が来ることも見越していたようだ。
2人は大学のテラスで暖かい缶コーヒーをのみながら、今自分が何を調べているのか、どういったとこに興味を持ったのかを話し合った。烏が何故黒いのか。星が死ぬ時どうなるのか。アサリの舌が伸びるのはどういった条件下なのか。くだらないことかもしれないが、興味を持ったならば調べるのが一番だとお互いよく知っていた。
長谷は話しながらも、数年前の今頃、この場所で彼女と出会い、打ち解けた事を思い出していた。どうやら桜庭も同じことを考えていたようで、2人は顔を見合わせて小さく笑った。
「思えば、ユウちゃんとは小学生の頃からこんな会話ばっかしだったね」
「そうだな。三季江と知り合ったのもこの場所だったし。変わった子だなって思ってたよ」
「それは私もだよ?ユウちゃんすっごい変な事ばっかり知ってるんだから」
話していると、2人の携帯がほぼ同時に鳴った。それぞれ叔父と父親からだった。どうやら会議は終わったようだ。
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「……で、なんだけど」
「どうした、雄理?新しい研究課題でも見つけたか?」
「ま、まぁね。あの機械、使ってみてもいいかなぁ……って」
長谷は会議を終え研究室で一服している叔父に問う。あの機械、とは高分子核加圧式原子計測器、長谷の叔父が開発した原子の法則を一時的に無視して原子を観察する機械の事だ。
「あぁ、あれか……何に使うんだ?」
「実験だよ。ストロンチウムを用いた炎色反応とその結果。今度の理科で発表しようと思ってさ」
勿論嘘である。長谷は叔父の隙をついてSTPを作動させてみたい、その一心だ。
「えっ、ストロンチウムの炎色反応?私もそれ見てみたい!」
「み、三季江!?」
長谷の背後にさっきまでいなかったはずの桜庭が顔を出す。
「ユウちゃん私をさしおいて実験するとかずるいよ!おじさん!私も見たい!」
「そうかぁ……三季江ちゃんも見てみたいか……じゃあ、しょうがない。いいよ。桜庭さんにも言っておくよ。隣の棟で実験してる研究室に確かストロンチウムがあったはずだから、借りに行ってくるよ。奥の実験室で待っててくれないか?」
叔父はタバコの火を消しながら、白衣を着直し、別室へと向かって行った。長谷は少し残念そうな顔をしていたが、桜庭がそれに気づき、言った。
「ユウちゃん、ひとりで実験はダメだよ」
「え?」
「……大事なら、あの機械でひとりで実験しちゃダメ」
桜庭は不敵な笑みを浮かべ、白衣を着て実験室へ行った。とりのこされた長谷は大学にこさえてもらった自分の白衣を持ったまま、最後の桜庭の言葉の意味を考えていた。
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実験を終えた帰り道。長谷は桜庭と薄暗い歩道を並んで歩いていた。
「結局、ストロンチウムの炎色反応も普段通りか、すこし期待外れだったな……」
「そう?私はとっても面白かったと思うなぁ」
「まぁ、凄い事には変わりなかったけど……そうだ三季江、さっきの言葉の意味、教えてくれないか?」
「さっきの言葉?」
「ほら、『大事なら、あの機械でひとりで実験しちゃダメ』って」
「……、……」
桜庭が立ち止まる。それに釣られて長谷も立ち止まる。
「ユウちゃんは、この物理の法則に倣った世界を変えてみたいと思う?」
「な、なんだよいきなり……」
「答えて」
「そうだな……変えたい。新しい物理法則を発見するには観測者がもう一歩上に行かなきゃいけないと思うからな」
「そっか。わかった」
そういうと桜庭は何かを握った右手を突きだした。長谷はそれを受け取る。小さな鍵だった。
「これ……」
「長谷研究室の鍵。明後日、夜の10時に警備員の交代があるから、その瞬間、門があいたままになる。誰にも気づかれず大学に入れるよ。夜10時なら他の研究室が実験で使うから電気もついているし、ユウちゃんのやりたい実験が、高分子核加圧式原子計測器を使った実験がやれるよ」
「だ、だめだろそんなことしちゃ」
「実験とは、多少リスクの伴うものである。リスクを恐れていては、実験は成功しない」
「それって」
「6年前に出会った、私が背中を追いかけてる人の言葉。……早くしないと、追い抜いちゃうよ?」
桜庭はそれだけを伝え、走って帰ってしまった。長谷は研究室の鍵を手に握ったまま、走り去る桜庭を追うことなく、突っ立っていた。
「それって……俺がよく言ってた言葉じゃん……」
夜空を見上げると、冬の大三角が光り輝いている。シリウス・プロキオン・ベテルギウスが長谷を見つめているようだ。
……まもなく、年が明けようとしていた。