地球調査員エイリクのグルメガイド作り
「ガラパナ星からお越しになられたエイリク様でよろしいでしょうか?」
女性は礼儀正しく背筋を伸ばしてヘソのあたりで手を重ね、笑顔を浮かべながら目の前の男性に尋ねた。
その動作に合わせ、彼女の緩くウェーブした明るい茶髪が僅かに揺れた。
女性は気品のあるグレーのジャケットと黒のスカートを身につけており、『受付担当者 ヤマモト』と書かれたネームプレートが照明に照らされ胸で輝いている。
(まあ、偽名だろうな。こんな場所で働くのに本名を名乗って得るものなどない)
エイリクと呼ばれた男性はネームプレートをチラリと見てそう判断した。
特に気にする素振りも見せず、頷きながら書類の束をヤマモトへと手渡す。
「はい、間違いありません」
エイリクの見た目は30代半ばの中年男性である。
黒髪を丁寧に撫で付け、髭も残さず綺麗に剃り上げ、ネイビースーツに黒い鞄を携えていた。
一見すると普通のサラリーマンにしか見えない。
問題があるとすれば、彼が地球人ではないことであった。
「地球にお越しになるのは今回が初めてですか?」
「過去に数度あります。ただ、東京に来るのはこれが初めてですね」
ヤマモトからの質問に対し、エイリクはあらかじめ想定していた答えをスラスラと述べる。
2人がいる場所は普通のオフィスビルに似た内装をしているが、世界のどこにでもあるようなありふれた場所ではなかった。
ここは宇宙と地球を繋ぐ数少ない拠点の1つ。
入国審査ならぬ入星審査の場である。
エイリクの左右を見渡せば、同じように横一列の窓口で審査を受ける異星人たちがいた。
異星人とは言ったが、いずれもエイリクのように地球人そっくりの容姿をしている。
エイリクのようにスーツを着ている者もいれば、カジュアルなTシャツ姿の者や、どこの舞踏会に参加するのかと尋ねたくなるような豪奢なドレス姿の者もいた。
「あら、擬態スーツはご利用されていないのですか?珍しいですね」
書類を確認していたヤマモトは驚きの声を上げ、その視線はエイリクと書類を何度も往復する。
異星人たちの中にはタコやスライムのように、どう足掻いても地球人には見えない容姿の者たちがいる。
そこで擬態スーツという、地球人に成りすますための道具を着込むのである。
ヤマモトの振る舞いは少々失礼ではあるが、出会い頭に見せた礼儀正しさを考えれば、よほど珍しいことなのだろうとエイリクは納得した。
「ええ、幸いなことに。本来は角が生えているんですが、自分の意思で引っ込めることができるので」
そう言ってエイリクが額を指でトントンと叩くと、たちまち親指ほどの大きさの角が生え、そしてすぐさま跡形もなく引っ込んだ。
「なるほど。それでしたら擬態審査は問題ありません」
ヤマモトは頷きながら手元のタブレットをトントンと指で叩く。
(どうやら第一関門は突破できたようだな)
エイリクは内心で安堵のため息を漏らした。
その時、離れた場所から「エエー!?」という悲鳴が響き渡り、エイリクは思わず驚きの声を上げそうになった。
何事かと周囲の者たちが視線を向けると、そこには耳や目から20センチほどの黒い棘が飛び出した男が1人。
「地球に入れないんですか?自分では上手く誤魔化せているかと思うんですけど……」
男は不満げに受付の男性に苦情を申し立てている。
それを見てエイリクは胸の内で呆れ果てた。
(いや、それは無理だろう。他の星ならいざ知らず、目から棘が飛び出した地球人などいない。基礎的な研修からやり直せと言われるに違いないな)
入星審査は容姿を上手く誤魔化せているかを確認する場でもある。
そして、擬態に問題があるということは、地球で問題を起こす可能性が極めて高いことがデータ上でも証明されている。
「たまにああいった方がおられるんですよね……。地球のことをよく分かっていない方を入星させるわけにはいかないのですけど」
ヤマモトは困ったように形の良い眉をひそめた。
多くの者は事前準備を怠らないが、あの男性のように一目瞭然で失格になる者も少なくない。
現在、地球では異星人との接触は公開されておらず、機密保持の意識が不足している手合いは容赦なく審査で落とされる。
その後、エイリクとヤマモトはいくつかの質疑応答を経て、無事審査を終えた。
「それでは、こちらが身分証明書となります。地球に滞在する際には必ず携帯してください。何かあれば記載されている連絡先までご一報を」
ヤマモトは微笑みながらプラスチックのようなカードをエイリクに渡す。
「ありがとうございます」
エイリクも微笑を浮かべながらそれを受け取った。
カードは薄い透明なケースに入っており、硬くヒンヤリとした感触が頼もしくもあり心地良くもあった。
エイリクがカードを胸ポケットへとしまい込むのを見ると、担当官は右手を上げて方向を示した。
「あちらが出口、いえ東京への入口となります。あなたの滞在が良いものであることをお祈りします」
「どうも」
(確か日本人はこうするのだったな)
エイリクは少しぎこちない様子で右手を上げて感謝の意を示し、彼女が指し示した方向へと歩き始める。
数分ばかり歩くとそこには無機質なドアがあった。
横幅2メートルほどのドアの前に立つと、ドアは自動で横に開き、眩い光が溢れ出す。
不思議なことに純白の光の先には何も見えない。
「さて、念願の初仕事だ。気合いを入れてかからねばならんな」
エイリクは躊躇い無く光の中へと足を踏み入れる。
呟いた言葉は誰の耳にも留まらず、エイリクの姿と共に虚空へと消えていった。
一般には公開されていないが、2020年代には既に人類と宇宙人は接触し、国交を樹立していた。
貿易や情報交換があるとなれば、次に起きるのは人材交流である。
多種多様な異星人は地球へと降り立ち、身分や姿を隠して暮らしていた。
そんな状況下で、また1人の異星人が地球での生活を始めた。
彼の名はエイリク。
地球での仮の身分は日系アメリカ人の後藤エイリク(ごとう エイリク)。
仕事は地球の文化調査と、地球に訪れる異星人向けのツアーガイド。
目下与えられた任務は東京近郊における飲食店の調査である。
**********
「思ったよりも遅くなってしまった...」
エイリクはオフィスビルとマンションが建ち並ぶ街中を歩いていた。
東京23区の主要駅ともなれば周囲に一軒家は少なく、視界をコンクリートの建物が埋め尽くす。
建物や看板に違いはあれども、こうも密集していては目当ての場所を探すだけでも一苦労だ。
エイリクは左手首につけた時計をチラリと確認する。
時計の針は13時46分を指していた。
予定よりも遅れてしまったのは、エイリクが電車の乗り継ぎや複雑な駅の移動に少々手間取ったせいだ。
電車を降りたら降りたで、街中の景色や行き交う人々を興味深げに眺めていたせいでもある。
しかし、エイリクの顔に焦りは浮かんでいない。
むしろ口元は僅かに笑みで歪んでいた。
(日本の昼休みは12時から13時が一般的。この時間帯なら出遅れるどころか、むしろ混雑を避けられて好都合。安心してメニューを眺められるというものだ)
エイリクが向かう先は飲食店。
そう、彼は今から調査を兼ねた昼食を取ろうとしていた。
日本において異星人たちから人気を集めているものはサムライ、ニンジャ、カレーライス、ラーメンである。
中でもカレーライスとラーメンに注目が集まるのには理由がある。
共に海外から持ち込まれた料理であるにも関わらず、日本国内で独自の発展を遂げ、「1000年前から存在する国民食ですが?」と言いたげなほどに浸透している。
それが異星人たちからすると「実に興味深い」となった。
その種類の豊富さや未だ新種が誕生することもあって、比較文化学や文化進化学の研究者から熱い視線を集め、「日本に来たからには一度食してみたい」という強い需要が存在している。
しかし、今回エイリクが選んだのはどちらでもない。
「確かこのあたりのはずだが...」
歩きながら左右をキョロキョロと見回す。
そして、視線の先に目当ての看板を見つけ、逸る気持ちを抑えながら小走りに近寄った。
「町中華の北々軒は......ここか」
赤地の看板には白文字で『北々軒』と力強く書かれていた。
中華でありながら中華ではない。
日本独自に発展した料理と店。
それが町中華であり、今回のエイリクの目的であった。
(正直なところカレーライスにするかギリギリまで迷ったが、やはり町中華を選んで正解だった。この赤と白の看板から漂う頼もしさと温かみ。風に揺れる赤い暖簾がまるで手招きしているようじゃないか)
異星人であるエイリクが町中華の看板を見たところで、本来であれば何の感慨も湧かないはずである。
しかし、現地に溶け込むべく擦り込んだ知識と日本人のロールプレイにより、彼の胸の奥深くから確かな感情が溢れ出ていた。
エイリクは看板をひとしきり眺めた後に頷き、店の入口へと視線を向ける。
引き戸には曇りガラスの嵌め込まれ、店内の様子は伺い知ることができない。
(見知らぬ店に入る時の緊張感。いつまで経っても慣れることはないな)
緊張と迷いを誤魔化すかのように鞄を握る手に力が入る。
覚悟を決め、「エイヤッ」と店の引き戸をガラガラと音を鳴らしながら開けた。
そして、敵が籠もる要塞へと突入した兵士のごとく、油断無く店中をサッと見渡し状況を把握する。
その動きと判断は俊敏で、店員が「いらっしゃいませ!」と声を上げるよりも早かった。
(2割ほどが空席。テーブル席は埋まっているがカウンター席は空いている。これなら相席で気を使う必要もない)
頃合いであった。
(注文待ちの店員の視線に晒されることもない。待ち客を気にせずじっくりと腰を据えてメニューを選ぶことができる)
エイリクは内心で幸先の良さを噛み締めつつ、カウンター席へと歩み寄る。
「こちらへどうぞ」
白い制服に身を包んだ年配の女性店員が空いた席を手で示す。
エイリクも無言で頷き、カウンター下のスペースに鞄を押し込み、椅子に腰を下ろした。
そして手に取るのはメニュー表が挟まれたプラスチックスタンド。
メニュー表と言っても、書かれているのは料理の名前と値段だけである。
(画像も無しに料理を選べとは…。これでは一見の客は迷うばかりだ)
内心とは裏腹にエイリクの表情は幾分か和らいでいた。
店の不親切さに不快を抱くのではなく、むしろその潔さが気に入っていたのだ。
(町中華と言えばラーメンにチャーハン、餃子の3点セットこそが王道だが…)
メニュー表にはラーメンを始めとして、チャーハンに餃子だけではなく、回鍋肉などの炒め物も並ぶ。
選択肢は豊富にある。
しかし、それが逆に迷いを生んだ。
(本来の中華ではラーメンと餃子は同時に食べないと聞く。だが、あちらにはワンタン麺があるではないか。ワンタンと餃子では身分の差でもあるのか?それとも餃子ラーメンならば許されるのか?)
エイリクは地球の食文化を知識としては押さえている。
だが、理解できるかどうかは別の話である。
疑問に答えが見つかることはなく、ため息という形で漏れ出た。
(地球の文化は複雑過ぎる……。宇宙には流動食しかない星すらあるというのに)
「お冷やです。ご注文はお決まりですか?」
そうこうしている内に、女性店員が水の入ったコップをエイリクの前に置いた。
彼女の柔和ながらも鋭い光が宿る目は彼の目をしっかりと捉え、注文を聞き逃すまいと静かな圧力を発している。
「いえ、もう少し時間をください」
彼女の猛禽類のような眼光を前に、エイリクはつい手拍子で答えてしまい、内心で「しまった!」と舌打ちする。
「分かりました。お決まりになりましたらお声がけください」
女性店員は彼を咎めることもなく、そのまま彼の隣に座る客から注文を取って去っていった。
(経験不足が看破されたか?初来店であっても、手慣れた客ならこうはなるまい)
エイリクは僅かな受け答えにも余裕の無さが表れていたと反省する。
心無しか他の客から、新兵に向けるような温かい視線を送られている気すらしてきた。
逸る気持ちを抑えながら、メニューを素早く流し見る。
(迷いはするが、やはりここは王道の3点セットだろう。なにが『ラーメンと餃子は同じ麺料理』だ。争いにおいて重厚な陣容に勝るものなどない)
町中華は中華ではない。
日本の独自文化を体験せずしては調査員の名が廃ると、エイリクは覚悟と注文を決めた。
店員を呼ぶため右手を上げる。
「すいませ―――」
店員を呼ぶ言葉は最後まで発せられなかった。
エイリクが何かを察したかのように目を見開き、慌てて手を下げたからだ。
店員の耳に言葉が届かなかったのを確認し、彼は安堵の息を漏らした。
彼は再びメニュー表へと視線を移す。
(ラーメンにチャーハン、その上餃子ともなればボリュームは凄まじい。果たして食べ切れるのか…?)
この疑念が店員を呼ぶ声を留まらせたのだった。
町中華には採算を度外視したような大盛りで出してくる店もある。
その危険性に遅まきながら気がついたのだ。
(いかん、焦り過ぎだ。店の雰囲気に飲み込まれてしまっている。今の私はミニチャーハンを探す心の余裕すら失っている)
エイリクの星では地球ほど食文化が発展していない。
古今東西、未熟な新兵が焦って行動した末路は1つしかない。
ラーメンやチャーハンのサイズ確認を怠るミスを前にして、彼は王道という安易な言葉に流されていた自分の力不足を痛感する。
しかし、彼の意思は折れることなく、すぐさま計画の修正へと移った。
(今回は安全策を取ろう。せっかくの料理を嫌々押し込むなど店にも失礼極まりない。ラーメンは頼むとして、中華らしく炒め物を添えたいところだが、量が多くては同じ失敗を
繰り返すだけだ……)
状況を立て直そうと素早くメニューを確認する。
その時、ある文字が目に止まり、意識が引き寄せられる。
レバニララーメン。
(初めて見る料理だが、恐らくラーメンにレバニラを乗せたものに違いない。これならラーメンと炒め物を楽しめる。小ライスを付ければ定食のミニセットも兼ねる。完璧だ!)
エイリクは頷き、今度こそ胸を張って店員を呼ぶ。
この時の彼は勝利を確信した将軍の如く意気揚々としていた。
「レバニララーメンと小ライスをお願いします」
「レバニララーメンと小ライスですね。少々お待ちください」
女性店員は復唱しながら手早く注文票に書き取り、流れるように厨房へと指示を飛ばした。
(注文1つでここまで手間取るとは…。やはり、演習と実戦は違うな)
エイリクは内省しつつ水を飲む。
そこで遅まきながら、緊張で喉がカラカラに渇いていたことに気がついた。
(今回は初仕事だ。成功よりも失敗しないことが肝心。100点満点とは行かずとも、70点取れれば良しとしよう)
彼はそう自分に言い聞かせ、店内の調査のため目立たないように周囲を観察する。
清掃は行き届いているが、やはり年月を経た内装は幾分か傷んでいた。
しかし、この雰囲気こそが町中華で味わうべきものだろうと、報告書に書く内容を思案する。
そうこうする内に注文の品が運ばれてきた。
「お待たせしました。レバニララーメンと小ライスです」
女性店員が丼と少し小さな茶碗をカウンターへと並べた。
町中華らしく黒みがかった透明なスープのラーメンには黄色の麺が沈み、その上には鮮やかな緑色のニラと茶色のレバーが乗せられていた。
添えられた小ライスも程よい炊き上がりで米が粒立っており、宝石の如く白く輝いている。
小ライスはおにぎり1つ分ほどで、全体のボリューム感も手頃だ。
「いただきます」
エイリクは日本人らしく手を合わせた後、割り箸を手に取り料理へと向き合った。
(うむ、予想通りだ。レバニラにタレもしっかりと絡んでいる。これならラーメンの具という脇役ではなく、炒め物として主役を張れそうだ)
まずはレンゲを手に取り、スープを一口啜る。
(醤油と鶏ガラのいかにもな町中華ラーメン。淡麗さを押し出した、主張控えめながらも足腰のしっかりしたスープだな。これなら麺も心配いらないだろう)
ゴテゴテと手を加えたラーメンに比べれば単調さや特徴不足は否めないが、だからこそ万人受けする味わいだった。
となれば、懸念すべきは盛られた具。
エイリクは恐る恐るレバニラへと手を伸ばす。
しかし、彼の不安げな表情は料理を口にした途端に一変した。
(素晴らしい!甘辛い濃厚なタレとニラのシャキシャキとした食感。そこに臭みの無いレバーの旨味が合わさっている)
中華の炒め物ならではの、香ばしさと熱さも美味しさを一段引き上げていた。
その味わいに背を押され勢いで麺を啜る。
プルプルと弾力に富んだ縮れ麺はスープにもよく絡み、彼の口内はまさに渾然一体となった。
(……来てよかった町中華。選んで良かったレバニララーメン)
エイリクは満足げに料理を飲み込み、再びスープを一口啜る。
レバニラのタレが溶け込み、その味は更に深みが生まれていた。
(食欲に火がついたぞ!)
エイリクはレバニラと麺を軽く混ぜ合わせ、敵陣を切り裂く騎馬隊が如く勢いよくラーメンをかきこんでいく。
そして、ラーメンを半分ほど食べ終えた段階で、ようやく彼の目に忘れ去られていた小ライスが映った。
(いかんいかん、ライスのことを失念していた。これでは何のために炒め物を選んだのか分からんではないか)
失態であった。
エイリクは慌ててレンゲを手放し、ライスが乗った茶碗を手に取る。
(レバニラとライス。まあ、勝ちが見えている戦いではあるが…)
口元に笑みを浮かべながらレバニラを箸で摘み上げる。
ライスの上で絵画のような色の対比を楽しんだ後、躊躇うことなく口に放り込む。
喜色満面と言うべき彼の表情が絶望と後悔の色に塗り潰された。
(……タレの味が薄まっている!これは一体どうしたことだ!?)
エイリクは慌ててラーメンを観察し、その原因をすぐさま悟る。
スープに触れたことで、レバニラのタレが溶け出ていたのだ。
(不味いわけではない。だが、レバニラ本来の濃厚さが損なわれてしまった。ラーメンは複雑さが増して美味くなったが、その代償はあまりにも大きすぎる…)
箸を握る手が震え、表情が歪む。
しかし、いくら嘆いたところで覆水は盆に返らず、スープに溶け出たタレも元には戻らない。
彼は再びレバニラを口にする。
やはりその味は最初に食べた時ほどの力強さに欠けていた。
なまじ最高のパフォーマンスを知っているだけに、その味には悲しみすら覚える。
(子供の頃遊んだ公園に、大人になってから訪れた時のような寂寥感。美しかった過去が色褪せていくような焦燥感。ポッカリと胸に穴が空いたような感情を抱えたままでは、ライスも喉を通らない…)
エイリクは悲しみを胸に抱きながら、「何とかしなければ...」と焦り、すぐさまメニュー表に手を伸ばす。
麺が伸びるまで幾ばくかの猶予もない。
メニュー表を握る手にも力が籠もる。
(何か手頃な料理はないか!?)
必死に探すがメニュー表にあるのはラーメン類にチャーハン類、そして炒め物と重いものばかり。
(事ここに至っては餃子1人前を頼むのもやむ無しか?ボリューム過多なのが懸念だが…)
エイリクが覚悟を決めようとした時、隣からパリパリという小気味よい音が聞こえた。
彼は思わず視線をそちらに向ける。
隣に座る客が狐色に揚げられた春巻きを食べていた。
即座にメニュー表に視線を戻すが、そこに春巻きの文字は無い。
(壁の張り紙にあるメニューか?いや、それらしきものは見当たらない………さては!?)
メニューをひっくり返し、裏側を確認する。
そこには、「一品もの」と書かれた欄が存在した。
唐揚げやスープと共に並ぶ「春巻き(2本)」の文字を見た瞬間、エイリクは流れるような動きで店員を呼び注文を済ませていた。
春巻きはすぐに提供された。
かといって冷えた作り置きではなく、表面には熱した油が見て取れる。
(人気商品として備えているのか、それとも2度揚げか?いや、今はそんなことを考えている暇は無い)
エイリクは揚げたての春巻きに怯むことなく一口齧る。
パキリと音が鳴った。
春巻きの中から蒸気と共に、舌が火傷しそうな熱さのゴマ油香る餡が飛び出してきた。
熱さに耐えながら咀嚼すると、次第にタケノコやニンジン、挽き肉の食感へと意識が移る。
そこにライスを放り込むと、ライスが春巻きの熱さと美味さを受け止めてくれた。
(これだ、これこそが正解だ!)
エイリクは頷き、一心不乱に食べ始めた。
春巻きを齧って、ライスで追いかけ、ラーメンのスープで流し込む。
次はレバニラと麺をセットで啜り、食感の違いとスープの変化を楽しむ。
(レバニラのシャキシャキとした食感と、春巻きのパリパリとした食感の対比。異なる料理のの共演。エンターテイメントと呼ぶに相応しい!)
レバニラに抱いていた悲壮な感情は今やどこにも存在しない。
エイリクはこの日初めて、全ての束縛から解き放たれたような解放感を味わっていた。
「ごちそうさまでした」
そう言って満足げに手を合わせたエイリクの前には、綺麗に食べられた空き皿だけが並んでいた。
**********
「ふぅ」
会計を済ませ、店を出たエイリクは大きく息を吐いた。
彼の体は満腹感だけではなく、疲労感にも包まれていた。
なぜなら彼にとって、これほどまでに忙しない食事は生まれて初めてだったからだ。
「しかし、素晴らしい体験だった。これでこそ地球に来た甲斐があるというものだ」
準備し、迷い、選び、失敗し、立て直す。
この一連の流れを経験できたことは、彼にとって何物にも代え難かった。
「旅行の価値とは未知の経験と言ってもいい。ツアー客には今回の私と同じような状況を味わって貰うべきだな」
ただ出された料理の蘊蓄を聞かされながら食べるより、自分で調べて選んだ料理の方が印象は強くなる。
エイリクは報告書に書く内容と上司への提案プランを思案し、概要がまとまったところで「うむ」と満足した。
「さて、夕飯は何を食べようか……」
エイリクはそう呟いた後、駅の方へと歩き出した。




