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不都合な幻覚  作者: 阿波野治


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8/21

神社

 目覚めは最悪だった。頭痛がするとか、寝不足で頭がぼーっとするとかじゃなくて、最悪なのは気分。

 意識を取り戻した瞬間、赤星蒼のことを思い出したせいだ。

 気まずい瞬間を先延ばしにしても苦しみが長引くだけ。聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥、ということわざもある。たしかにむちゃくちゃ声をかけづらかったけど、それでも勇を奮って声をかけるべきだったのでは?

 怒声と物音が吹き荒んだあとで家から出てきた彼女は、明らかに普通じゃなかった。だって、泣いていたんだから。項垂れて意気消沈していたんだから。客観的に見て救いを欲していた。そう受け取らざるを得ない姿をさらしていた。たとえ顔見知りじゃなくても声をかけるべき場面だった。

 なのに。

 俺は声をかけなかった。とぼとぼと去りゆく背中を、小便くさい電信柱の陰からただ見送るだけだった。そして、蒼そっくりにぼとぼと我が家に帰った。

 帰宅して、プラスティックごみだらけの、汚くて少しくさい、音を吸い取られたみたいに静かな部屋の中で一人、食事にも手をつけずに、すっかり暗いのに部屋の照明さえ灯さずにベッドで仰向けになっていると、後悔の念が気泡みたいに次々に浮かんでは弾けた。

 少し時間が経つと、罪悪感と自己嫌悪の念に苛まれるようになった。

 己の行いを悔やむ気持ちは強くなった。反省だってした。夜が明けてからじゃなくて、事件が起きた当日、帰宅後すぐに後悔の念に苛まれていたし、その感情に促されて反省だってしていたんだよ。自分から見てもまずい対応だと思ったし、そうすることで、精神的苦痛と決別できるんじゃないかっていう期待があったから。

 でも反省したところで、悔やんだところで、罪悪感や自己嫌悪に苛まれたところで、自分がへまをやらかした過去も、赤星蒼が被害に遭った事実も消せないし動かせないから、虚しさしかない。その虚しさは思考能力を緩やかに奪っていき、俺を疲れさせ、現実逃避したい欲求をこれでもかと煽る。

 遅い晩飯を食って早めに風呂に入ったものの、それでも虚しさからは逃れられない。明かりを消して横になっているうちに寝落ちしていたらしく、気がついたときには朝だった。そう、この手紙の冒頭で書いたような最悪の朝。

 決して恵まれているとはいえない人生、いろいろとくそったれな出来事を体験し、尾を引き、寝覚めの悪い朝を何度も経験したけど、ぶっちゃけ、そのどれよりも気分が悪かったね。

 新記録を樹立した記念に存分に語りたいところだけど、残念ながら、多弁に耐えるだけの語彙と表現力を俺は持ち合わせていない。昨日長々と書きすぎて母さんに迷惑をかけたのもあるけど、今回も長くなりそうだから文章量を節約したい下心もたしかにあるんだけど、一番の理由は語彙と表現力が足りないことなんだよ、母さん。

 ただ、人の心は現金だ。寝床から起き上がり、着替え、顔を洗って歯を磨き、飯を食い、また歯を磨いて――ようするに朝のルーティンをいつもどおりにこなしているうちに、だんだん調子を取り戻してきた。きびきび動けるようになったし、気持ちだって前向きになった。

 洗面所の蛇口をきゅっと音を立てて閉めた瞬間、俺は決めたんだ。

 赤星蒼に会いに行こうって。


 アパートの自室を出た俺は赤星家に向かった。

 ためらいはなかった。間違った選択ではないと確信していたからね。なぜって、彼女は昨夜、明らかに助けを欲していたんだから。唯一の懸念は助けに入るのが遅すぎることだけど、それを理由に手を差し伸べないよりも断然いい。

 昨夜も通ったコースを歩いて赤星家に到着した。

 なんとなく、蒼の母親あたりが誰かが玄関先で掃き掃除でもしていそうな気がしたんだけど、そんな人間は敷地内にも門の外にもいない。昨夜は駐車されていた黒のセダンは消えていた。

 車の持ち主は、蒼にDVしていたのと同一人物なのだろうか? なんとなくイコールだと俺は考えていたんだけど、推理が正しい証拠はどこにもない。

 仮に車の持ち主=DV野郎だったとしても、そもそも蒼が加害者と二人暮らしとは限らない。DV野郎には妻がいて、DVくそ女としていっしょに蒼を虐待しているかもしれないけど、箱を開けてみるまで閉じ込められた猫の生死は不明。嫌なやつが家から出払っていて、今は一人のんびりとしたひとときを過ごしているんじゃないかという想像は、俺にとって確かな慰めになった。昨夜の事件後から続く最悪な気分はこれによって解消され、長らく続いていたマイナスがようやくプラマイゼロになった。

 しょせんふりだしに戻っただけとはいえ、相対的に気持ちが楽になったのはでかくて、俺は思案を挟まずに行動を起こした。赤星家のインターフォンを鳴らしたんだよ。

 応答はない。少し間を置いてもう一回、さらに間を置いて三回目も鳴らしてみたけど、無言が返ってきただけだ。

 居留守を使っている? その可能性は低い気がする。おそらくインターフォンには訪問者の姿を確認するモニターが備わっている。蒼が俺の姿を見たにもかかわらず、なんの行動も起こさないはずがないじゃないか。

 うぬぼれているわけでも、思い上がっているわけでもない。なぜって、昨夜の彼女は誰かを助けを求めていた。多少なりとも縁がある俺が訪問したと知って、すがりつかないはずがない。

 俺は赤星家をあとにした。といっても、会えませんでした、残念でした、出直してきます、ではない。

 昨夜蒼が歩いていったほうに俺も歩いていけば、もしかしたら偶然再会を果たせるかもしれない。そうでなくても、どこへ行ったかのヒントを見つけられるんじゃないか。

 そんな期待が胸にあったんだよ、母さん。


 道は進めば進むほど民家が少なくなっていき、すぐに畑と田んぼだけになった。のどかな雰囲気だけど、DV野郎にこっぴどくやられたあとで歩くとさびしいだろうな、虚しいだろうなとは思った。

 道が別の通りに合流する直前、神社が目にとまった。田んぼと田んぼのあいだにある、境内を大きな樹木に囲まれた神社で、口紅みたいに真っ赤な鳥居が存在感を誇示している。

 少し考えて、鳥居を潜って境内に足を踏み入れる。理由は二つ。

 一つ。蒼は、こういう人があまり来なさそうな場所を好みそうだ。

 一つ。いたとしてもいなかったとしても、賽銭を投げ入れて神頼みがしたい。もちろん、蒼に会えますように、と。

 賽銭箱の前の短い石段に、白っぽくて大きなものがうずくまっている。粗大ごみでも遺棄されているのかと思って近づくと、生身の人間がコンパクトに座り込んでいた。

 気配を察知したのか、その人物が顔を上げた。

「あ」

 声は自分の分しか聞こえなかったけど、口の形からして、向こうも思わず声を漏らしたんじゃないかと思う。

 向こうっていうか、赤星蒼が。

「あ……どうも。久しぶり」

「どうも」までは気後れしたような、気まずいような気持ちだった。でも、それからはなんとか立て直して、少しおどけたような「久しぶり」の一言とともに、俺は自分の顔の高さに片手を挙げた。

 返事はない。顔に浮かんでいるのは、無。もはやすっかりおなじみとなった例の無表情。ただ、無表情は無表情なのだけど、どことなく不満そうにも見える。

 彼女の全身に素早く視線を走らせる。黒く短い髪の毛、シャツにジーンズ、露出した肌、いずれにも異状は認められない。

「蒼、こんなところでなにしてるの。趣味の神社巡りをしている最中ですって感じじゃないよね。雰囲気が暗すぎる」

「あなたは自己紹介のときと同じ過ちを犯している」

 相変わらずの抑揚をつけないしゃべり方。そのせいで冷たく聞こえる声。はじめて聞いた人間は面食らうだろうけど、俺は口元が緩むのを自覚した。

「まず、自分がなにをしていたかを説明して」

「あ、気になるんだ? こんな俺なんかに関心を持ってくれるとはね。もしかして、俺に興味を持っているって俺に知られるのが嫌で、必死こいて無表情を作っているわけ? かわいいじゃん」

 返事はない。ただ、眉の角度がほんの少し持ち上がった。元が無だから、注視さえしていればほんの少しの変化でもはっきりと分かる。

 俺の胸はあたたかくて微笑ましい気持ちで満たされた。そんなところもかわいいよ、とかなんとか、軟派なセリフでも吐いてやろうかとも思ったけど、今はふざける場面ではなさそうだ。

「言う機会がなかったから言ってなかったけど、俺、ニートなんだよね。やることが特にないから、一日中暇を持て余していて。暇つぶしにこのへんをぶらついていたら、田んぼの真ん中にぽつんと神社が建っていたのを見つけたから、好奇心に駆られて境内に入ったらなんと君がいた、というわけ」

「出来すぎた偶然があるものね」

「そのリアクション、もしかして、俺がストーカーしていたとでも疑っている? まさか! 俺はたしかに暇人だし物好きで、君から言わせれば変人らしいけど、そんなくだらないことをやる趣味はさすがにないな。証拠を提示できないのが残念だけど、とにかく俺はやっていないぜ。犯罪者扱いをした罪は赦すから、信じてくれよ。世の中には偶然っていうもので満ちあふれているんだ。そうだろう?」

 なにが「そうだろう」なのかは自分でもよく分からない。だから決まりの悪さを誤魔化すために、俺らしくはないけど、たいていの相手には一定以上の好感度を与えられると思われる、爽やかさを意識した表情で微笑みかけた。

 笑みを好意的に受け取ってもらえたかは怪しいけど、少なくともこちらの言い分を信じることにしてくれたみたいで、赤星蒼は「そうね」というふうに小さくうなずいた。

 俺は暇人で、物好きで、変人なだけじゃなくて、単純な性格でもあるのだろう。たった一回、しかもほんの浅くうなずいてもらえただけで、心がほのぼのとあたたまった。俺の顔に浮かぶ笑みはきっと、いささか作為的なものから、ごくごく自然なものへと変化しているに違いない。

「ありがとう。君相手だと会話が長引くから楽しいね。『散歩中に偶然見かけて』『そうだったの』で終わるところを、こんなにも長々とやりとりしないと先には進めないんだから」

「あなたが長引かせたがっているだけでしょう。わたしは嫌だからさっさと答えちゃうと、ストレス解消」

「ストレス解消? 神社が好きで癒されに来たとか、そういうこと?」

 蒼は頭を振った。衣擦れの音さえ立てずに立ち上がり、「ついてきて」とばかりに顎をしゃくって歩き出す。俺は首をかしげながらもついていく。ストレスという単語には、なにか人の心をざわめかせるものがある。

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