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不都合な幻覚  作者: 阿波野治


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尾行の果てに

 俺は母さんの部屋の前の手すりに両の肘をつき、張り込みの態勢に入った。母さんに遭遇する前も似たようなポーズだったから、「入った」ではなく「戻った」という表現を使うべきかもしれない。

 なぜ正確性を欠く表現を使ってしまったかというと、母さんと話をする機会を持つ前と持ったあとでは心境がまるで別物で、地続きであるという実感が薄いんだよ。

 俺は気力を取り戻していた。まるで使い古した皮を脱ぎ捨てて、以前までとは少し違う自分になったみたいだった。一晩中でも待ち続けられる気がしたし、必ずや赤星蒼を見つけられると信じて疑わなかった。

 母さんと話ができたおかげなのか、紅茶で水分を摂取したのがよかったのか、クッキーで糖分を補給し小腹を満たしたのが大きかったのか。ぱっと浮かぶそれら以外の可能性も含めて、さまざまな要因が考えられるけど、くつろげる屋内で母さんと会話する機会を持てたこと、それ自体の功績なんじゃないかって俺は解釈している。

 リフレッシュできたとはいえ、やはり待つのはつらい。焦燥感が込み上げることもあったし、諦念が過ぎることもあった。

 蒼に一見よく似た、それでいて蒼ではない少女がたびたび目にとまり、瞠目し、落胆し、いら立つ。空が暗くなるのに比例して焦りが募り、貧乏ゆすりが止まらなくなる。一点にとどまって待ち伏せしていたのは愚策だった、今からでも動き回って捜すべきだと気持ちが揺れ、今さらながら張り込みの打ち切りを真剣に検討する。

 張り込みが長引いたときにありがちな心理状態の変遷、ちょっとしたハプニングの類は、ひととおり体験したんじゃないかと思う。

 苦しみを味わい尽くした俺を待っていたのは、大きな変化だった。

 神みたいに聡明な母さんはもちろん察したと思うけど、そのお察しのとおりの出来事が起きた。そう、俺の視界に蒼の姿が映り込んだんだ。

 スマホは確認していない時刻は不明だけど、あたりはすでに夜と呼んでもいい暗さで、スーパーSの駐車場の出入口に設置された街灯は点灯していた。明かりのおかげで客の出入りはばっちり観察できるから、張り込みを打ち切る理由はない。もう少し来客がまばらになるまで居座ろう。そう方針を決めた矢先の出現だった。

 照明は充分に明るいとはいえ、現在地からは距離があるから、蒼のサイズは親指の先くらい。待つことに飽き飽きした脳が、自分に都合のいい幻を俺に見せたのかもしれない。そんな一抹の疑念を抱いたので、両目をひん剥いて少女を凝視した。姿、歩き方、雰囲気、どれも俺が知る赤星蒼に合致していた。

 一秒でも早く蒼のもとに走りたい衝動に駆られたけど、どうにか抑え込んだ。何度も張り込みをして、そのたびにやきもきさせられるのはごめんだ。あとをつけて自宅の場所を確かめれば、あんなつらい思いは二度としなくてすむ。そう考えたのだ。

 移動手段は徒歩で、蒼は腕力に自信がなさそうだから、大量に買い込むことはない。十分か十五分待っていれば店から出てくるはず。

 そう信じて待ったんだけど、ようやく出会えたターゲットをスルーして待機するというのは、勇気がいる。お目にかかる前よりもやきもきした。スーパーの敷地に入る正規の出入口は一つしかない、というのも見張ることを選んだ一因なのに、S常連の俺でも知らない、どこか別の出入口から出て行くのではないかという、馬鹿げた懸念を消すことができない。

 精神的にはかなりきつかった。店内に踏み込もうかと何度も考えた。でも、こっちがアパートの階段を駆け下りているあいだに店を出て、どこかに行方をくらませてしまう気がして、そうするのも怖い。

 客観時間で何分が経ったかは分からない。主観的には、このアパートに到着してから母さんが玄関ドアを開けるよりも長い時間待って、赤星蒼がとうとうスーパーの出入口から姿を見せた。

 蒼は行きとは逆のルートを辿る。店の敷地から道に出たところで、俺も動いた。一点でほぼ身じろぎせずに長時間とどまっていた直後ではあるけど、軽いストレッチをこなしたあとのように四肢が滑らかに動いたし、体も軽い。焦りは禁物と己を戒めながらも、手足を振って走った。少しの油断が祟って、姿が闇夜にまぎれる事態を恐れたのだ。

 俺が道に出た時点で、蒼は百メートル弱くらい先にいた。俺は彼女のあとをつけはじめた。

 蒼は淡々とした歩調、少しもったいぶったような速度で道を道なりに進む。アスファルトで舗装された片側一車線、狭い歩道が設けられた、緩やかに左にカーブした道だ。周囲の建物はほぼ民家で、不規則に街灯が設置されている。通行人はゼロ。たまに走り抜ける車はいずれもそこそこスピードを出している。

 交差点を二つ通り過ぎても、蒼が尾行に気づく様子はない。肩越しに後ろを振り返るとか、左右をきょろきょろと見回すなどの挙動はまったく見られない、というのがその根拠だ。

 あまりにも無警戒なその後ろ姿は、尾行者の存在に気づかぬふりをして罠にかけようとしているようで、最初はそれが気持ち悪かった。しかし仕事を続ける中で、つけられるほうは案外気がつかないものなんだろうな、ということがなんとなく分かってきた。

 尾行する側からすれば、歩くのは速くないし、不規則ではあるけど街灯もあるしで、緊張感がひと段落してからは肩の力を抜くことができた。途中からは蒼の足の遅さがじれったいくらいだった。

 十五分かニ十分くらい歩いたところで、快調だった初尾行は唐突に終わりを迎えることになる。

 尾行が蒼にばれる、という形ではない。

 ただ、終わりを迎えたあとの展開が、口が裂けても幸福とは言えなくて――正直、書くのは気が滅入るけど、ちゃんと結末まで伝えるって母さんには約束する。幸いにも時間が経ったことで、食らった衝撃もある程度和らいだしね。

 蒼がどうなったかというと、急に左方向に曲がって姿を消したんだ。

 突然の変化に、俺はすさまじく焦った。蒼はスーパーの敷地を後にして以来、ずっと道なりに歩いていたんだから無理もない。

 あまりにも焦りすぎて、あとを追って走り出すまでに数秒のラグが生じた。不幸中の幸いだったのは、気がつくと姿が消えていたんじゃなくて、姿を消した地点が分かっていたこと。

 曲がった先は民家の門だった。門札には「赤星」とある。門から恐る恐る中を覗いてみたけど、誰もいない。すでに家の中に入ったのだろう。玄関ドアが開閉される音が聞こえなかったのは、俺の靴音が邪魔をしたのか、音を立てないように開け閉めしたからなのか。

 なんの変哲もない二階建て住宅だ。一階の一部屋と二階の一部屋の窓から明かりがもれている。

 たった今入ったばかりの蒼が、二階の照明を点灯するのは無理だ。点けっぱなしで外出した可能性もあるけど、彼女の帰宅前にすでに中に人がいたと考えるのが自然。つまり、蒼はひとり暮らしではない。

 門から玄関ドアまでは飛び石の小道で一直線に繋がっていて、右側が手狭で殺風景な庭、左側が屋根つきの駐車スペース。後者にたった一台だけ駐車されていて、ショッピングモールの駐車場に十台に一台は停まっていそうな黒のセダンだ。蒼が車を運転するイメージはないけど、乗れるならスーパーSに行くのに使っているはず。だからたぶん、彼女の家族の誰かの愛車なのだろう。

 同居しているのは肉親か、それとも同棲中の恋人か。庭に取り込み忘れた洗濯物などはないし、玄関先にものが置かれているわけでもないので、考察するのは難しい。

 住所を突き止められただけでも万々歳。そう考えることもできるけど、残念ながらそれだけでは満足できそうにない。もっと、もっと、できるだけ多くの情報が欲しい。

 玄関ドアが開いたとしたら丸見えの位置に俺は佇んでいる。よくないな、とは思ったけど、動けなかった。どう動けばいいかが分からなかったんだよ。

 様子見を継続するか、進むか。退く意思がない以上はそのどちらかなのだけど、おぼろげでもいいから行動方針が決まらないまま動くのはちょっと怖い。結果、様子見のを選んだような形になった。

 じゃあ、どれくらいまで待つ? その問題について考えようとしたとき、

 突然、皿が割れたような乾いた音。

 赤星家の中から聞こえてきた物音だ。

 五秒と間をあけずに、今度は怒鳴り声が聞こえた。男の声。汚い声。叱りつけられたのは自分であるかのように肩が跳ね、跳ねた状態のまま固まってしまう。

 不意に窓のカーテンが動いた。一階の明かりが点いた部屋の窓だ。開く、と思った。でも金縛りに遭ったみたいに体が動かなくて、焦って、その焦りがますます体を強張らせる悪循環。

 しかし、予感に反してカーテンは開かれない。

 また怒鳴り声が聞こえた。さらに続いて、物音。今度は一回きりでもなく短時間でもない。割れる音があれば、ぶつかる音もあり、壁に穴があいたような音もありと、まるで暴力のオーケストラだ。

 怒声は罵声であり、被害者は赤星蒼で、さらには暴力を振るわれている――そんな物語が俺の中で出来上がっていく。

 急に物音がやみ、死のような静寂。

 予感があった。

 音を聞き取ったのは予感を覚えたあとだった。来る、と思った。今度こそ来る、と。音源は、気のせいでなければ玄関。

 俺は退避した。金縛りは解除されていたので、その選択肢を選ぶことができた。逃走ではなく、退避。幸い近くに電信柱があったので、その陰に隠れる。

 直後、玄関ドアが開く音。

 闇に適応した目は、現れたのが赤星蒼だと瞬時に認識した。項垂れ、肩を落とし、足取りは重い。一言で形容するなら、意気消沈。

 俺の知っている蒼じゃない。想像すらしたことがない姿だ。

 門を出て二・三歩のところで蒼の足が止まる。さながら、電池が切れたおもちゃのように。

 蒼は俯いたまま、その場で洟をすすりはじめた。

 ――泣いている。

 闇の中、そこはことなく小便くさい電信柱に寄り添うように身を潜めながら、俺はぽかんと口を開けていた。絵に描いたような間抜け面をしていたんじゃないかと思う。

 少女はどれくらいの時間、そうしていただろう。

 下品なくらいに大きく洟を大きくすすり上げたかと思うと、泣きやんだ。少し顔を上げ、ぎこちなく体の向きを九十度回し、歩き出す。俺たちが歩いてきたのとは逆方向だ。建物や街灯があまりないのか、歩いてきた道と比べるとずいぶん暗い道を、とぼとぼと、たった一人で。

 俺はあとをつけなかった。

 そっとしておきたかった? なにをするのか、自分の目で見届けるのが怖かった? これ以上こんなことはするべきではないと思い直した?

 分からない。なにもかも分からない。

 赤星家からはもはや音は聞こえてこない。明かりは点いたままだ。暴言と物音を発した張本人もあるいは外に、という期待から、もう一本の電柱かなにかのように微動だにせずに待ってみたものの、誰も出てこない。

 やがて俺は肩の力を抜いて道を歩き出した。赤星蒼がとぼとぼと歩き去ったのとは逆方向へと。


 母さん。

 母さんは大いに予感していると思うけど、これからしばらくは、手紙の内容は赤星蒼の報告がメインになると思う。

 いや、きっとそうなる。この手紙を執筆して以降、彼女とはまだ再会は果たせていないけど、絶対にまた会うことになるだろうし、再会後の展開が小説じみたドラマティックなものになると確信しているよ。うぬぼれでも、出任せでも、身勝手な願望でもなく、確実な現実として俺を待ち受けているはずだ。

 僕からの手紙は手紙というよりも、百年前以上に外国の作家がしたためた畢生の大作のような、ボリューム満点の読み物になるだろう。読み手である母さんには負担を強いることになるけど、俺のためだと思ってどうか我慢してほしい。太陽が東から昇って西に沈むように、水が高いところから低いところへと流れるように、人間は誰もがいつか必ず死ぬように、息子が一生懸命書いた長文の手紙を母親が読むのは仕方がないことなんだと諦めて。

 うぬぼれたことを言わせてもらうなら、母さんもきっとそれを楽しみにしているんじゃないかな。テーマが赤星蒼――遭ったこともない、たぶんそんなに興味があるわけでもない、顔も知らない少女だとしても、息子の知らなかった一面を知れるのは。

 今日はいろいろと書いてはいけないことを書いてしまった気がする。書くことで、親子の関係性や存在着といった重要で根幹をなすものが変動しかねないようなことを。それとも、長文をしたためた疲労感がそう錯覚させているだけ?

 このまま永遠にだらだら書き続けてしまいそうだ。さすがに長くなりすぎたから、今回はこのへんで終わらせることにするよ。

 次の手紙を楽しみにしていてね、母さん。

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