待ち人について
「深刻な問題、トラブル……」
俺は首をひねった。
「ぱっとは思いつかないよ。ということはつまり、そんなものはない、ということじゃないかな」
「なんだか他人事ね。何事もなくてなによりだけど、でも、まったくなにもないわけではないでしょ。小さな問題や悩みは当然あるわけだよね」
「それは、もちろん。ずっと親といっしょに暮らしてきた人間が、いきなり親が離婚、いきなり親元を離れることになったんだから、なにもないほうが不自然だよ。でも――」
「でも?」
「どれも自力で解決してきたし、自力で解決できる見込みがある。多少時間や手間がかかったとしてもね。母さんに相談せずにはいられないような悩みとか問題は、なにもないよ。本当になにもないんだ。さっきだって、深刻な悩みやトラブルはないかって尋ねられたとき、咄嗟には浮かばなくて、深刻じゃないものにまで範囲を広げたけど、それでも心当たりがなにもなかったくらいだし」
母さんは無言で首を縦に振る。ただし、俺を見据える目つきは疑わしげだ。彼女は紅茶をスプーンで攪拌し、こう問うてきた。
「じゃあさ、晴太。これという悩みがないなら、なんでお母さんの住んでいるところまで来たの? なにか助けてほしいこととか、悩みなんかがあるからこそ、お母さんを頼ってここまで来たんじゃないの? 違う?」
「それは……」
俺は俯いて考え込む。俺を真っ直ぐに見つめてくる母さんの眼差しは真剣そのもので、とてもじゃないけどおどけて誤魔化せる雰囲気ではない。
俺には金以外にも心を悩まされている問題がある。
赤星蒼のことだ。
蒼のことを母さんに打ち明けてみようか?
俺はこれまで彼女の存在をタブーのように認識していたけど、彼女への下心を隠しておきたい気持ちのせいでそう思い込んでいただけだと、このときはじめて気がついた。
蒼はたしかに犯罪者だけど、しでかしたのは口頭注意と商品の買い取りだけですみそうな軽犯罪。常習犯の可能性もあるけど、犯罪のことを抜きにしても変人なのは間違いないけど、一応は常人の範疇だ。
ついでに言えば、母さんは俺が交際する人間がどんな身分でも、尖っていたり奇矯だったりする個性の持ち主でも、度を越していないかぎりとやかく言うことはない。俺がそもそも他者と親しくする機会が少ないからサンプルは少ないのだけど、その傾向は一貫していた。
つまり、針に刺した件さえ秘密にしておけば、彼女を紹介してもなんら支障はない。
そこまで考えたところで、はたと気がつく。
犯行自体じゃなくて、赤星蒼の存在そのものをぼかしたとしても、母さんの疑念と好奇心を満足させられるのでは?
うまくやれる自信は、正直ない。でも、試してみる価値はある。自信を持てないながらもやってみるだけの価値が。
「実を言うと、人を待っていたんだ」
その一言をもって沈黙を破る。母さんは「へえ」という顔をした。
「待っていたんだけど、その人の連絡先は知らないし、そもそも待ち合わせ場所を決めていないから、彼女がよく利用する場所で待っているしか方法がなくて。そのよく利用する場所の一つが、このマンションの目の前にあるスーパーマーケットSで。見張るのにちょうどいいから、ちょっと利用させてもらっていたんだ」
「……晴太。まさかだけどあなた、その女の子をストーカーしているんじゃないでしょうね?」
少し声を低めての指摘に、シンプルな驚きが俺の胸を突いた。
ああ、俺がやっている行為は世間一般から見ればストーカー行為なのか、という驚きが。
そんなことにも今の今まで気がつかなかった己の迂闊さに、逆に頬が緩んだ。その緩んだ頬のまま、頭を振る。母さんの目には、本当にそんな真似はしていないからこそ、そんな余裕ありげな身ぶりをしたように映ったに違いない。怪我の功名というやつだ。
「ああ、そう。母親として晴太の言葉は信じるけど、そういうことなんだったら、あたしが晴太にかける言葉は結局同じになるわね」
「同じ? ……どういうこと?」
「どうしてお母さんにひと声かけてくれなかったの? せっかくここまで来たんだから、そうしないほうが変に思えるけどな、あたしは。どういうわけでお母さんを避けたの? 晴太の言い分を聞きたいものね」
母さんがこのアパートに住んでいることは今日はじめて知った、なんて言い出せる雰囲気ではない。今になって思えば、よくあんなにもすんなりと嘘の回答ができたものだと思う。
「入りづらかったんだよ。だって、ここまで来たのははじめてなんだから。事前に連絡を入れていなかったし。それプラス、こんなふうに母さんと話をしているうちに、その子が通るのを見逃してしまいそうで、それが怖くて」
「事前に連絡をしなかったって、そんなのはささいなことじゃない。友だちや恋人ならともかく、親相手にそんなことは失礼でもなんでもない。……晴太、あなた、そんなに切羽詰まった付き合いをしているの?」
「俺の気持ちとしてはそうってこと。今になって思えば、まあたしかに不自然だったって思うよ。行動が変になってた。余計な心配かけて、母さんには悪かったよ」
「家に上がる気になったということは、その恐怖感は今はないのね?」
「うん、ないよ。母さんと話してみて、なくなった。家族以上に優先する人間なんていないなって思ったよ」
「あら。おだててもなにも出ないわよ」
「おだててないよ。事実を言っただけだから」
「じゃあ、今度からはちゃんとインターフォンを鳴らしてね。その子に用があるのは今日限りではないんでしょ? だったら、そのたびにあたしの部屋まで遊びに来ること。今度来たときはケーキが用意されているかもしれないし、そうでなくても紅茶ならいつでも出してあげるから」
またこのアパートで蒼を張り込みする機会が訪れるのだろうか。
そういえば、今ごろ蒼はどうしているんだろう。そろそろ張り込みに戻ったほうがよくなくないか。
ゆるゆると込み上げてきたそれらの想いをすべて胸の中に閉じ込め、僕は返事をする。
「分かったよ。約束する。次からは絶対にそうするよ」
母さんはなにかを考えているような、でも合格点の満足感も得ている顔つきで何度もうなずき、締めくくりに真っ白な前歯をにっと見せて、皿からクッキーをつまんだ。俺も真似した。母さんが黒で俺が白。最初に食べたときよりもずっとおいしく感じられた。
俺と母さんは他愛もない話をした。あまりにも他愛もなさすぎて、なにを話したのかはもちろん、トークテーマさえ失念してしまったくらいだ。
母さんが話してくれた中で唯一覚えているのは、料理の話題。レシピサイトで目にとまった手軽に作れる料理を作ってみるのがマイブームらしい。具材にチーズをのせてオーブンで焼くだけのグラタンや、辛くないみそ味の和風麻婆豆腐など、上手に作れたレシピを、レシピサイトの写真を見せながら語ってくれた。
ちゃんと普通の生活をしているんだな、と思った。
俺とは違って、ちゃんと普通の生活を。
母さんは俺の生活のことを根掘り葉掘り訊いてきたけど、無職でひきこもりがちな生活を送る俺に、語るべき話題なんてない。言葉尻を捉えて、別の方面に話を持っていこうと画策するなどして会話を続けていくうちに、蒼のために行動したい気持ちがだんだん高まってきた。
放っておけば永遠にでも続いていきそうな会話に終止符を打つために、俺は強引な一手を打つことにした。大急ぎで紅茶を飲み干し、皿の中のクッキーを食べ尽くしたのだ。そして、目を丸くしている母さんに向かって、
「ごちそうさま。食べ終わったし、そろそろ帰るよ」
「そのクッキー、まだひと袋あるよ。別のお菓子だってあるし。もう少し食べていけば」
「いや、もうおなかいっぱいだから。今日は楽しかったよ。ありがとう」
母さんはなにか言いたそうな顔をしていたけど、引きとめなかった。俺も蒼の名前は出さなかった。言えなかったのか、あえて言わなかったのかは、俺自身にも分からない。
互いに本音を隠したまま、お開き。得も言われぬ気持ち悪さがあったけど、俺は意識の焦点を赤星蒼に定めることでその感覚を払拭した。
帰りぎわに、置物の群れの中の一頭、子猫ほどの大きさのユニコーンが少し動いた気がしたけど、たぶん気のせいだ。
幻覚否定派の俺としては、そういうことにしておきたかった。赤星蒼に専心したいという意味でも、そういうことにしておきたかった。
母さん。
今現在の母さんの心の中を推察するなら、二つの想いが同居しているんじゃないかな。すなわち、
『結局、蒼には会えたの?』
『この手紙、まだ続くの?』
どちらが先に浮かんだのかは知る由もないけど、きっとそんな二つの想いが。
まず後者の疑問に答えると、今日の手紙はたしかに、異例とも言えるくらいに長くなっている。でも、前例がなかったからそう感じるだけで、書きたいことがあるかぎり無限にでも続く、それが本来の手紙というものなんじゃないかな。
俺は手紙世代じゃないけど、日課のように日々書きつづってきたから、しっかりと本質を捉えている。同じく世代ではない母さんだって、息子から指摘された瞬間に「それもそうね」ってたちどころに納得がいったんじゃないかな。
だから俺は恥じることなく、臆することなく続きをしたためる。その日の赤星蒼を巡る顛末の一部始終を、拙い筆で紡いでいく。
長くなってしまって恐縮だけど、空き時間を捻出してどうか向き合ってほしい。母さんが知りたい情報はきちっと埋め込んであるから。長時間束縛されるだけの価値がこの手紙にはきっとあるから。