アパートに母
母さん。
これなら母さんに幻覚だとは言われないだろうって思いながら、俺はここまでの文章を書いた。それとも、幻を見たとしか考えられない描写がどこかにまぎれ込んでいたかな? そんなことはないって俺自身は信じているけど、母さんは当たり前だけど俺じゃないから、どう評価を下すかは分からない。
でも、これから書きつづる、もといあとから付け足した文章は、母さんなら間違いなく幻覚だって判断すると思う。母さんが幻覚に対して厳格だからじゃない。その光景を見た人間は母さんだろうが俺だろうが、誰であっても幻覚だと判断するはずっていう意味だ。
蒼を見送ったあと、散らかったさびしい部屋で一人暇を持て余しているうちに、俺は彼女に無性に会いたくなった。
「スーパーに一日一回しか行っちゃいけないっていう決まりはないよな。買い忘れを買いに行くとかもあるし」
というわけで、再びスーパーマーケットSまで出かけることにした。西の空に茜色が滲むか滲まないかの時間帯だったと思う。
その日二度目の外出で、幻覚だとしか思えない事象に俺は遭遇するんだけど、結論を急ぐんじゃなくて、時系列に沿って地道に語っていこうと思う。そのほうが俺も混乱を最小限に抑え込めて書きやすいし、母さんだって理解しやすいだろうからね。
俺は店内で待つんじゃなくて、見晴らしのいい場所で張り込むことにした。己の胸に手を当ててみたかぎり、「もうあんな徒労は懲り懲りだ」という思いが決断の決め手だったみたいだ。
昼前に店でうろうろしていたのはせいぜい半時間。気が張っていたから、焦燥は感じても恥ずかしさは感じなかった。最終的には蒼を発見し、言葉を交わしてもいる。チョコレート菓子の代金を払ったし、名前を知れたし、また会える可能性だって示唆してもらえた。
こう並べてみると収穫はかなりあったし、むしろポジティブな体験だったと思うんだけど、人間は待ちぼうけを食らわせられた時間を実質以上にネガティブに捉えるものらしい。
具体的な行き先は決めずに部屋を出たんだけど、足は無意識にスーパーマーケットSに向かっていた。店の前まで行ってみたことで、道路の向かい側に建つ五階建てのマンションが張り込みには好都合だって気がついた。
まずは店に入り、十分くらい探してみたものの、見つからなかった。そう簡単には再会できないだろうと覚悟はしていたから、特に落胆はしなかった。
店を出て、車両の流れが途切れたのを見計らって道を横断し、マンションの外階段を上る。居座るのはもちろん最上階だ。
五階は無人だった。端から順番にドアに耳を宛がって物音と気配を探ったけど、なにも聞こえてこないし、人が活動している気配も伝わってこない。
デザインが画一的なドアというやつは曲者で、音や気配がないにもかかわらず、今にも内側から開いて住人が姿を現しそうな気がしてならない。その住人は決まって二十代前半からなかばの男か女で、ルックスは冴えないけど清潔感はあって、パン屋の自動ドアを潜ったらレジカウンターの前で本物のライオンがくつろいでいました、みたいな目で俺を見てくる、そんなイメージだ。
俺は通路の突き当たりまで進み、フェンスに向き直ってそこに両腕をのせる。
視線の先にはスーパーマーケットSがある。店舗の大きさのわりに広い駐車場も、出入口の自動ドアもよく見える。張り込みをするのにこれ以上の場所はなかなかないだろう。
俺の背後には部屋のドアがある。部屋番号は501。
入居者がいる部屋なのか、いないのか。現在住人は在宅なのか、留守なのか。どちらも外から得られる情報だけでは判断がつかない。部屋によっては、たとえば子どもが乗るおもちゃみたいな三輪車など、入居者がいることを示す物が置かれているものだけど、501号室はなにもない。ドアにネームプレートが掲げられてさえいない。
防犯の観点とか、面倒くさがって出していないとか、常識的な要因はいくつか考えられるから、入居者がいない証拠にはならない。なんというか、その中途半端さが不気味だった。いつ住人がドアを開けて顔を覗かせるか分からないと思うと、気味が悪いのを通り越して怖くなってくるし、落ち着かない。
ただ、他の階に移動したところで、のしかかってくるもののベクトルと程度は目くそ鼻くそだろう。小さく息を吐いて手すりに肘をつく。
もし住人に遭遇したらどう言い訳をしよう? 本来の目的のためにいまいち集中力を発揮できていない頭を懸命に励まし、その問題について考えてみる。
友だちの家に遊びに来たんですが、マンションを間違えたみたいです、すみません。そう謝って撤退するしかない気がする。まさか、張り込みをしているので、あなたの部屋の前のスペースを一・二時間くらい貸してください、なんて言うわけにもいかないし。
撤退したあとは、素直にマンションから去るんじゃなくて、一つ下の階に移動する。移動先の階でも住人に見つかったら、また階下に移動。これをくり返しつつ、五階分このやり方を使ってしまうまでにターゲットを発見できるよう、祈るしかないのでは?
自問に対して、もう一人の自分が「ま、それしかないよね」とため息混じりに答えて、方針は定まった。
そして、考えるべきことは特になくなった。
ようやく、混じり気のない心でスーパーマーケットSを注視する。
平日の昼間ということで客の出入りは少ない。車、自転車、徒歩、いずれの客も。周囲に建物はまばら。アパートとスーパーマーケットを隔てる道の行き交う車や人もまばら。時おり聞こえてくる名称不明の鳥の鳴き声がいかにものどかだ。
たとえば夕食の買い出しをするのだとしても、スーパーSにやって来るのはもう少し遅い時間帯なんじゃないか?
そんな疑念が胸を過ぎったのを境に、集中力はがたがたになった。
いつ来るかも分からない、もしかしたら来ないかもしれない人間を待つのは、精神的につらい。集中して見張るには長丁場過ぎるし、だからといってスマホをいじっていたせいで見逃す、なんてことになったら最悪だ。だから考えごとをするくらいしか選択肢はないのだけど、あいにく考えるべきことはついさっき尽きたばかり。
昼下がりのあたたかさとのどかな環境の合わせ技に、だんだん眠くなってきた。
馬鹿みたいに大口を開けてあくびを連発してしまい、気が緩んでいるな、これじゃだめだと思いながらも、いったん緩んだ糸をピンと張るのは、いざやってみるとなかなかどうして難しくて、気を引きしめられずにいるうちに、突然の大きな変化が俺を襲った。
いきなり背後の部屋――501号室の玄関ドアが開いたのだ。
呼吸が止まるかと思った。脇目も振らずに逃げ出すんじゃなくて、振り向いた。
絶句した。
我が目を疑った。
現れたのは、ドレス風の黒衣を身にまとった、四十過ぎの女性。長い緑の黒髪と白磁の肌が好対照な、そこはかとなく現実離れした雰囲気も漂わせた美人だったんだけど、
「か、母さん……?」
どこからどう見ても俺の母親だったのだ。
ちょっと神経質そうな細面も。もともと痩せているうえに、女性にしては身長が高いので、相乗効果でものすごく痩せているように見える体型も。驚いたときの眉のカーブの感じも。つけている香水の香りの系統まで。
なにからなにまで母さんそっくりだ。母さんを知っている人間であれば、一目見た瞬間に同一人物だと認定したに違いない、高い、高い相似性。
唯一イメージから外れているのは、ドレス風の黒衣を身にまとっていること。俺が記憶しているかぎり、こんな夜会服みたいな衣装をまとった母さんを見たことは一度もない。
なんというか――全体的に違和感がある。
「えっ、なに、母さ……え? なんで……はあ?」
混乱は激しい。目の前の女性こそ「はあ?」なのだろうけど、俺にとっても「はあ?」だ。
だって、現在母さんが住んでいるのは、ここ徳島市からは遠く離れた札幌市内なんだから。
「誰かと思ったら、晴太じゃない。ドアを開けたら変なところに突っ立っていたから、びっくりしたぁ」
「ていうか、え? なんで? 母さんはなんでここにいるの?」
「なんでって、お母さん、もともとこのアパートのこの部屋に住んでいるじゃない」
なんでそんな変なこと訊くの? というふうに母さんは首をかしげる。しらを切ろうとして演技をしているんじゃなくて、気心知れた息子相手の素のリアクションって感じだ。
「いや、札幌に帰ったじゃん。離婚が決まって、俺は一人暮らしをするって決まったから、母さんは札幌の実家に帰ることにしたんだったよね。それなのに、なんで徳島市内のアパートなんか借りてんの? じいちゃんとばあちゃん――親と喧嘩して実家を飛び出したとか?」
「親との関係はずっと良好なままよ。離婚の件で相談に乗ってもらったから、むしろ前よりも絆が深まったっていうか。だいたい、あたしは定職に就いていて収入もたくさんあるんだから、わざわざ故郷に戻る必要はないの。このアパートは、あたしからすればあくまでも仮の住まいっていう認識で、ごたごたが片づいて問題に決着がつくか、いい人を見つけるかしたら他の賃貸に移るつもりだって、ごはんを食べながら話したじゃない。恋人とかが記念日に予約するような、ちょっとおしゃれなレストランでディナーを食べながら。あたしが『早くこんな店でいっしょに食事をするような女の子を見つけなさいよ、もうじきお母さんと別々に暮らすことになるんだから』なんて冷やかしたら、晴太は『俺は気軽に寄れるファミレスがいい』なんて、子どもみたいなことを言って。まさか、もう忘れちゃったの?」
そんな記憶はなかった。残滓すらも残っていない。間抜けに口を半分開けて、まばたきもせずに母さんの顔を見返す。
ただ、仮に徳島に残るという選択肢を選んだのだとしたら、母さんはたった今話したようなルートを歩んで、言及したようなイベントも発生したんだろうな、と納得できる説明ではあった。
並行世界。
常人ならそんなSF用語を思い浮かべたんだろうけど、母さんからの手紙でのリアクションが忘れられない俺は、こう疑ったんだ。
これ、幻覚じゃね? ……と。
「まあ、いいわ。今ちょうどお湯を沸かしているところだから、紅茶でも飲んでいきなさいよ。ぼーっとしていたくらいだから時間はあるんでしょ?」
「え……。あ、まあ……」
「じゃあ入って」
そう告げて先に入ったが、俺がその場に佇んだままでいるのを見て、母さんは微笑ましそうに表情を緩めて、
「そう言えば、晴太がここに来るのははじめてだったわね。ドライブのついでに『ここがお母さんの住んでいるアパート』って場所を教えたことはあるけど。緊張しているの? 遠慮されると気持ち悪いから、自分の家みたいなものと思って堂々と上がりなさい。さあ」
母さんは俺の腕を引いて無理やりドアの内側まで引っ張り込み、自らの手で閉めて鍵もかけた。そのかちゃりという金属的な軽い音を聞いたとたん、俺は蒼を待っていたことを思い出した。
でも、言わなかった。
言えなかったんじゃない。母さんと過ごしているあいだは蒼がスーパーマーケットSに来ることはないと確信したからだ。母さんと部屋で過ごしているあいだは世界の時間は進まず、暇を告げて部屋を出たとたんに時計の針が元のように動き出す。根拠がないどころか現実的ですらない、荒唐無稽以外のなにものでもない推察だけど、とにかく当時はそう思ったんだ。
相対性理論なんかと同じだ。いくら俺という一個人が納得いかない、とても信じられないと駄々をこねたところで、真理は真理だから覆しようがない。だからきっとそういうことなんだって、当時の俺は信じ込んでいた。
そう、信じ込んでいたんだ。