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不都合な幻覚  作者: 阿波野治


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3/21

赤く蒼い星

 いつものように昼前に目が覚めた。体調は悪くなった。まあ、普通の目覚めって感じかな。

 朝食にパンを食べているさなかに気がついたのは、我が家に残っている食料は今食べているパンが最後だということ。昨夜スーパーSで買い物をしたときに、明日の朝食はもう買ってあるっていう理由で、買うのは弁当とチョコレート菓子だけにしたけど、朝食以降までは頭が回らなかったというわけ。

 でも今になって思えば、昨夜の時点で本当は買うべきだって気がついていたんだけど、またあの子に会いたくて、スーパーSに行く大義名分が欲しいがために、わざと買わなかった気もする。

 真相はともあれ、会いたい気持ちと買い物をする必要性は厳然として揺るぎなかったから、飯を食って歯を磨いてアパートを出た。午前十一時を回っていたと思う。

 ゆっくり準備をすることもできたんだけど、意識してきびきび動いて、その時間帯に家を出るようにした。あの子が昼飯を買いに行くとすればちょうどこのくらいの時間帯なんじゃないかな、という読みがあったんだよ。直観と言い換えてもいい。

 俺に買わせて証拠隠滅したとはいえ、犯罪行為をした店にのこのことまた来るのかっていう疑問もあったんだけど、きっと来ると俺は信じた。確証があったわけじゃない。あの子が立ち寄る場所がスーパーマーケットSしか知らないから、そう思い込むことにしたんだ。

「フクシマの立ち入り禁止区域で捕まえた妖精を閉じ込めているんだ」などと主張する、がさがさと揺れる小さな紙箱を抱えた、やけに老け顔の子どもに話しかけられるとか。

 目と目の間隔が離れた男の顔写真を胸に抱いた、どこか囚人服を思わせるぶかぶかのオレンジ色の服を着た男が、道端に佇んでいるのを目撃するとか。

 ファミレス前の路上で、色も大きさも形もスダチくらいのボールを懐から取り出してはばら撒いている、キツネの面を被った和装の女を見かけるとか。

 道中では、そんなちょっと奇妙な光景を立て続けに目撃する、なんていう出来事もあった。

 だけど、それらはあくまでも本筋とは無関係の挿話。幻覚アンチのリアリストである母さんに「幻覚でしょ」と一蹴されそうでもあるので、全部すっ飛ばして、スーパーに着いたところから語ろうと思う。

 俺は空のかごを手にスーパーマーケットSの店内を歩き回った。あの子が店に来ていないかを探したわけだ。

 今になって思えば、Sには割と広めのイートインスペースが用意されているんだから、しかも出入口のすぐそばっていう好立地なんだから、そこで張り込みをしていればよかった。だけど当時はそんなことには気づかずに、店内をただひたすらうろうろ、うろうろしていたよ。

 半時間近く歩き回ったんだけど、あの子は見つからなかった。

 もちろん落胆したよ。引き下がりたくない気持ちも少なからずあった。でも、今日のところは諦めて帰ることにして、カップ麺やら総菜パンやらを適当にかごに入れて、レジ待ちの列の最後尾についた。

 二秒後、俺は我が目を疑った。

 床から天井まであるガラス窓に沿ってずらっと続いているサッカー台の隅、電子レンジや電気ポットが置かれている場所で、見覚えのある少女が商品を袋詰めしているんだよ。

 肩の長さの少し褪せた黒髪、シャツに穴だらけのジーパンというラフな服装、そこはことなく薄幸そうで怪しげな独特の雰囲気――まぎれもなく昨日のあの子だ。

 込み上げてきた歓喜はすさまじかったね。最初に来たのは驚きだったけど、すぐにどこかへ飛び去って、喜びで胸がいっぱいになった。再会を果たせたのもうれしかったし、マイバッグを持参するんじゃなくて、レジで買ったビニール袋に商品を詰めているのにも好感が湧いた。ちっぽけなことだけど、俺もレジ袋は店で買う派だから。

 あの子は事務的に袋詰めをすませると、さっさと店を出た。

 歩くのは早くない。体の小ささ相応に歩幅も狭くて、むしろ遅いほうなんだけど、淡々としていて動作に無駄がないせいか、実質以上に速く動いているように感じられて、焦燥感が滲み出してきた。

 俺はおばさんAとおばさんBに前後を挟まれて身動きがとれない。無意識に、薄汚れたスニーカーの靴底で床を神経質に踏み鳴らしていた。もちろん、列から離脱しようと思えばすぐにでもできたんだけど、焦るあまりその選択肢が頭から抜け落ちていたんだよ。

 ようやく俺の番が来た。店員が商品のバーコードを一つ一つ機械で読み取っているあいだ、これも「冷静さを失うと滑稽な真似をしでかす」に該当するんだけど、俺は金額ぴったりの金を用意しようと、必死になって小銭を探っていた。でもなかなか用意できなくて、たぶんそのときにレジで並んでいる人間の中で一番焦っていたんじゃないかな。

 でも、怪我の功名、おかげでいいアイディアを思いついた。

 結局小銭は諦めて、セルフレジの機械に二千円を投入すると、これ以上は数学的に無理なんじゃないかってくらい大量の小銭が排出された。俺はそのすべてをなんとか右手に握りしめて、商品入りのかごを残したまま走った。

 自動ドアを出たところで立ち止まり、周囲に視線を走らせると、駐車場の真ん中で少女の姿を見つけた。

「おい、犯罪者!」

 俺は叫んだ。腹の底からではないけど、立ち止まってほしい人に届くような声を意識して。

 無視されるような気もしていたけど、少女は足を止めて振り向いた。ステレオタイプのロボットを思わせる、どこかぎこちなくて直線的な挙動だ。

 少女へと一直線に駆け寄る。相手は逃げない。それどころか、体ごとこちらを向いた。俺は接近する足を緩める。手を伸ばせば相手の体に触れられる間合いで俺たちは相対した。

「ほら、金」

 俺は右手を差し出して五本の指を開き、掌の上の小銭を見せつける。

 少女は目だけを動かして、まずは五円玉やら十円玉やらの群れを見て、それから僕の顔を正視した。臆している様子もみじんもない。顔に浮かんでいるのは、人形のような冷たい無表情。「これ、なんのお金?」と瞳が問うている。

「チョコレート菓子、プラス針の代金だよ。普通に市販されている縫い針かな? いくらするものなのかは知らないけど、さすがに足りていると思うぜ。釣りはとっておけよ」

「買って、しかも食べたのね。奇特な人」

 少女の唇からこぼれたのは、抑揚がついていない平板な声。小声だけど発音が明瞭で、突き放すような冷ややかさがそこはかとなく感じられて、耳に余韻を残すようなしゃべり方。昨日針を刺していたときに「いく、いく」と連呼していたよりも多少人間味が感じられたのは、単語の羅列じゃなくて普通にしゃべったから、だろうか。

 たぶんだけど、俺はにやけていたんじゃないかと思う。

 今まで口をきいてくれなかった子が、しゃべってくれた。ただそれだけで、むちゃくちゃうれしい。自分でもちょっと変だと思うくらいに。声は自然と弾む。

「口はつけずに、本体を割って中を確かめただけかもしれないぜ。食べたっていう根拠は?」

「見知らぬ犯罪者がかごに入れた商品を買うような変人は、食べたとしてもおかしくないわ」

「なるほど、いい推理だ。ていうか俺、君から見て変人っていう認識なんだ。君にだけには貼られたくないな、そのレッテルは」

「じゃあ、どうして話しかけてきたの」

「貸し借りなしにしたかったし、それ以上に君のことを知りたかったから。変人同士、惹かれ合うものを感じたのかもね。質問、二ついい?」

「内容によるけど」

「じゃあ、聞いて判断して。まず一つ目だけど、どうして売り物に針なんか刺したの? 動機を教えてほしいな」

「ストレス解消のため。そうせざるを得ないような暮らしを送っているから」

 まさか答えてくれるとは思わなかったので、俺は少々まごついた。返答に関しては、変人のわりに凡庸な理由だな、というのが率直な感想だ。

 器物損壊は歴とした犯罪。しかも気づきにくく、口内というデリケートな部位を傷つける可能性が高いのだから、悪質だ。

 たぶん、少女にのしかかっているストレスは尋常じゃないんだろう。

 どんな事情を抱えているのか、気にならなかったと言えば嘘になるけど、問い質すのは控えることにする。なぜって、これは第一の質問に対する回答を聞いて芽吹いた、当初予定していなかった第三の質問。質問は二つと約束したのだから、守るべきだと判断したわけだ。

「じゃあ、二つ目の質問。君の名前を教えて」

「あなたから名乗ってくれれば、尋ねられなくても答えたんだけど」

「この場面、ふざけて別人の名前を名乗るべきかな? どう思う?」

「どうぞご自由に」

「そのそっけない感じ、やめておいたほうがよさそうだね。俺は佐々晴太。君は?」

「赤星蒼」

「赤なのに蒼か。ちょっと面白くて、いい名前だね。蒼って下の名前で呼んでもいいかな?」

「ご自由に」

 少女――赤星蒼は俺に背を向けて去っていこうとしたので、反射的に呼び止めた。肩越しに振り向けられた無表情に向かって、

「また、会えるかな」

「質問、二つだったと記憶しているけど」

「質問じゃなくて確認だよ」

「詭弁ね」

「詭弁じゃなくて屁理屈さ」

「口がうまいのね」

「素直に褒め言葉だと受け取っておこうかな。で、君の回答は?」

「変人に絡まれたくらいで、行きつけのスーパーに行くのをやめたりしないよ。わたしに言えるのはそれだけ」

 蒼は今度こそ去っていく。俺との会話になんら影響を受けていなさそうな、淡々としていて無駄のない、アンドロイドの足運びで。

 俺は暗黙のルールを遵守して、遠ざかっていく背中を黙って見送った。

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