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不都合な幻覚  作者: 阿波野治


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これは幻覚です

 幻覚。

 その言葉を聞いたのを境に、熱せられていた俺の体温は急速に低下していく。反比例するように冷静さが回復していく。

 引きとめないのを怪訝に思っているらしく、蒼はちらちらと振り返りながらも俺から遠ざかっていく。

 その後ろ姿を、その場で微動だにせずに見送りながら俺は考える。

 俺は幻覚否定派だ。幻覚などこの世に存在しない。それなのに、俺こそが幻覚だって? つまり、俺はこの世に存在しないということか?

 ……ふざけるなよ。

 俺は周囲に目を走らせる。武器になりそうなものは、ない。

 いや、むしろなくてよかったかもしれない。

 生身の俺がぶつかっていけば、俺がいる証明になる。幻覚なんかじゃないと分からせることができる。

 俺はそっと立ち上がり、忍び足で、しかし極力素早く蒼へ向かう。彼女はついさっき玄関ドアに達し、施錠を解いたところだ。

 ドアを開けようとしながら何気なく、あるいは気配を感じて、振り返った。

 その顔を、力いっぱい殴りつける。

 殴られて飛んだ頭の後部がドアにぶつかって激しい物音を立てる。膝が折れ、その場にくずおれる。

 蒼は一撃で気絶したらしい。軽くひしゃげたような鼻の穴の一方から細く血を流し、白目を剥いている。胎児のポーズをとろうとする途中で時が止まったかのような、中途半端な体勢をとる彼女を仰向けに転がし、馬乗りになる。先に両手を握り拳に変えておき、交互に、斟酌なく顔面へと振り下ろす。

 その死体が幻覚ではないと確信できるまで、すなわち確実に殺すまで、殺すための手を動かし続けようと自分自身にかたく誓った。

 でも、なぜなのだろう。

 俺は幻覚否定派なのに、無意識に、譫言のようにこうつぶやいていたのは。

「これは幻覚、これは幻覚、これは幻覚――」


 そう、幻覚。

 これも、それも、あれも、なにもかもが幻覚、幻覚に過ぎないんだ。

 俺がこれまで関わってきたことだってそうだ。

 親から仕送りを止められたせいで手持ちの金が尽きて、むしゃくしゃして、いつもやっているような、スーパーマーケットの商品や神社の樹を傷つけるストレス解消法では満足できそうになくて、人間相手になにか反社会的なことがしたくて、六畳一間の小汚いボロアパートを出て、通りをあてもなく歩いたものの、すれ違う通行人の肩に故意に肩をぶつける勇気さえなくて、だからといってなんの成果もないまま部屋に戻るのは嫌で、駅前まで足を延ばしたらたまたま家出少女を見かけて、ナンパなんて今まで一度もしたことがなかったのに、破れかぶれな開き直りの気持ちで臨んだのが功を奏したのか、それとも相手はよほど困っていたのか、少女を部屋に連れ込むことに奇跡的に成功して、食事の提供と引き換えにセックスをして、施しを受けたのがよほどうれしかったのか、少女がピロートークで、俺のセックスのテクニックや容姿や性格、なにからなにまで褒めちぎったものだから、お世辞なのは分かっていたけど気持ちよくなって、勘違いして、収入も貯金もないくせに「俺とここで暮らさないか」なんて馬鹿げた提案をして、当然のごとく断られて、激高して、少女を撲殺して、遺体と交わって、出すものを出したあとで我に返って急に怖くなって、でも心はなぜか冷静で、俺と少女に繋がりはない、駅前でナンパしているところを見られた可能性があるとはいえ、部屋に連れ込むところは誰からも目撃されなかったのだから、少女が行方不明になったのが親や友人に露見して大騒ぎになったからといって、俺に嫌疑がかけられることはないはずだ、死体をばらばらに切断してごみ袋に入れて捨てよう、そしてこの町から永遠に出て行けば完全犯罪だ、そんな計画を瞬時に脳内で組み立てて、死体をバスルームに運び込んで解体しているなんて、そんなこと、現実なわけがないじゃないか。

 母さんの件だってそうだ。

 母さんからの仕送りは、俺の労働意欲がいつまで経っても皆無であることを理由に、とっくの昔に永久に完全に停止されていて、しかも勘当を言い渡されているから連絡をとることすらできず、遠く離れた札幌まで無心に行くことは俺の経済状態ではとても無理だから、とっくの昔に親に頼ることは諦めていて、でも生活資金が底をついていて、なんらかの方法で調達する必要があるから、空き巣かひったくりでもして金を手に入れようと目論んで、いよいよ持ち金が尽きる日の午後、白昼堂々、スーパーマーケットSの向かいにあるマンションまで下見に行き、最上階の一室のドアノブを何気なく回してみると開いたので、この部屋で盗むつもりで侵入し、室内を物色しはじめたのだけど、部屋の住人は在宅で、騒がれそうになったので、黙らせようと揉み合っているうちに、部屋に置いてあった花瓶か置物か、とにかくかたいなにかで頭部を殴りつけて殺害してしまい、横たわる死体を見下ろしているうちに、殺した住人は俺の母親に似た四十過ぎの細身で色白の女性であることに気がつき、乱れたスカートの裾から露わになった白い太ももに欲情し、すでに命が尽きた肉体だと知りながらも交わり、財布に入っていた五万円をポケットに押し込んで部屋から逃げ出したのだけど、そのときの体験が強烈に脳裏に焼きついて、忘れられなくて、翌日に駅前に行ったのは、金がなくてむしゃくしゃしていて人間相手に反社会的なことがしたかったのも動機の一つだけど、また死体とセックスがしたいという欲望に突き動かされたからでもあって、その後、部屋に連れ込むことに成功した家出少女を殺したのは、同居を断られて激高したのも動機の一つだけど、実は死姦したかったのが最大の動機だったなんて、そんなこと、現実なわけがないじゃないか。

 そう、幻覚。

 すべては幻覚。

 現実なわけがないんだ。

 では、コーラの中に蠅が混入しているのを発見したのがきっかけで、晩飯を買いに行ったスーパーマーケットで赤星蒼と出会い、紆余曲折の末に殺害したという概要のこの物語は、真実の現実なのか?

 そう考えると、気持ちよく首を縦に振れないし、振りたくない。

 うまく言葉で説明できないけど、その現実を現実として受け入れるのは、なにか間違っている気がするのだ。

 さらには、部分的に幻覚が混じっている可能性を考慮し、どこからどこまでが真実で、どこからどこまでが幻かについて仕訳けなければならないとなると、もはや俺一人の手には負えない。

 だから俺は、煩わしい問題のすべてを放り投げて、目の前の作業に専念することにする。

 可燃ごみのごみ袋におさまるように、赤星蒼の遺体を適当の大きさに切り分ける。

「可燃ごみ」ではないものも、可燃ごみの中に埋め込んで外からは見えなくすれば、問題なく収集される。そのやり方で、邪魔なだけの遺体も処理できる。

 唯一のネックは、すさまじく労力と手間がかかること。

「くそっ、くそっ、くそっ……」

 悪態が無意識に唇からこぼれる。それがひとたび自分の耳に入ると、今度は能動的に悪罵を吐き捨てることになる。こうなったらもう止まらない。

 貧乏はつらい。こんな切れ味の悪いナイフ――蒼が神社の樹の幹を傷つけるのに使っていた小さなナイフ一本で、解体作業をこなさなければならないのだから。

 金が欲しい。

 解体して、ごみ袋に詰めて、可燃ごみの日に出して、この町を出て、そして――。

 どこからか赤ん坊の泣き声がする。蒼を彼女の自宅の裏庭から救出した日の朝に聞いた声と同じ泣き声のようだ。あの赤ん坊はダンボール箱から消えたはずだけど、また戻ってきたのだろうか。

 そんなことはあり得ないから、これは幻聴?

 それとも、ときにはそんな荒唐無稽なことも現実では起こり得る?

 ……分からない。

 でも、分かった。分からなかったからこそ、分かった。

 その事象が現実か幻覚かを完璧に正確に見分けることなど、一介の人間には不可能。

 それは、ひどく残酷な真実。

 でも、それが現実。幻なんかじゃない、まぎれもない現実なんだ。

 だからこそ、現実はいっそう残酷さを増す。

 とてもではないけど、受け止めきれない。

 だから人は、目の前の作業に専念するしかないんだ。

「くそっ、くそっ、くそっ……」

 それにしても、切れ味の悪いナイフだ。

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