失望
「はじめて会ったときは、犯行がばれたことに気持ちを奪われていて、正直、あなたの印象は希薄だった。でも翌日、駐車場で思いがけず再会を果たして、昨日の一件を責めないだけではなくお金までくれて、わたしという風変わりな人間をナチュラルに受け入れていて、ちょっと普通じゃないなって思った。それからは、ずっと晴太のことを考えていた。家事をこなしているときも、父親に犯されているときも。当時はただなんとなく惹かれているように感じていたんだけど、本当はそんなふわっとしたものじゃなくて、暗く淀んだわたしの人生における希望の光、なんだと思う」
「希望の、光……」
「ファミレスではただ話を聞いているだけでも楽しかった。性格のせいでいろいろと苦労はあったみたいで、親近感が湧いた。虐待されてつらい毎日だけど、佐々晴太という光をときどき浴びることができれば、なんとかなるんじゃないかっていう希望が生まれた。その場しのぎという意味では同じなのかもしれないけど、それでもなんとかなるんじゃないかって。そんな中起きたのが――」
「裸で縛られて裏庭に放置された一件、だったわけだね。どうしてあんなことに? ……まさか、俺となにか関係が?」
「ううん、ほぼ無関係。あなたとの関係を父親に知られて、その罰であんな目に遭ったわけじゃなくて、ぼーっとしているところを見られて、そのときはたまたま機嫌がものすごく悪かったみたいで、あんなことになってしまったの。ただ、ぼーっとしてしまったのは晴太のことを考えていたせいだから、まったく無関係とは言えない。だから『ほぼ無関係』という表現を使ったんだけど。そのときのわたしは部屋の片づけを命じられていて、荷造り用のロープがたまたま外に出してあったから、それで思いついたんでしょうね。罰と称して強姦されて、ロープでぐるぐる巻きにされて、裏庭に転がされた。あの父親のことだから、真夏でもない季節に、屋外で長時間、裸の人間を放置したらどうなるかなんて、考えもしなかったでしょうね」
「じゃあ、俺が来なかったらやばかったかもしれないわけだ」
「死ぬことはなかっただろうけど、元の調子を取り戻すのには時間がかかったでしょうね。父親は夜に帰ってくるけど、酒を飲んで酔っ払っていることが多いから、わたしの存在なんて忘れて眠りこけてしまう可能性だってあるし。でも、当日の夜にはセックスまでして、翌日にはこうして長々と話をしながら食事までできている。晴太には感謝の言葉しかないよ」
蒼はまた一瞬微笑んだ。場違いな、あたたかで優しい気持ちに俺の心に包まれた。しかし、やはり状況が状況なので、それも長続きしない。
「蒼の父親は夜に帰ってくるっていう話だけど、ここに泊まって平気だったの?」
「だめだと思う。でも、わたしがこのアパートに泊まっているという情報を父親は把握できていないから、修羅場になる心配はしなくてもいいわ」
「それはよかった。でも、帰るときが怖いな」
「父親はまず間違いなく、わたしを罰するでしょうね。家事の義務を放棄するなんていう大罪を犯したんだから、罰はこれまででもっとも厳しいものになるんじゃないかな。しばらくは晴太のもとでお世話になろうと考えたのは、それが理由」
「……ああ。そう繋がってくるわけか」
「わたしからの説明は以上。あなたの番だから、訊かせて。晴太はわたしを養うだけの余裕はあるの?」
改めて考えてみる。
結果は、最初と同じだった。
俺にとっても、そして蒼にとっても不都合な現実だ。むちゃくちゃ言いづらかったのだけど、
「いや、無理だな」
言いづらいからこそ、さっさと打ち明けてしまうことにした。
蒼の眉が少し持ち上がり、眉尻だけが下がる。変化の幅自体は微々たるものとはいえ、ここまで矢継ぎ早に明瞭な変化が生じるのは、今までの彼女を考えれば異例としか言いようがない。
彼女にとってそれほどショックだったということか。俺に心を許したことでタガが緩んだからこそ、なのかもしれない。
要因はなんにせよ、蒼を落胆させてしまったのは心苦しい。申し訳ないなって心から思う。
でも、だからといって、説明責任を放棄するわけにはいかない。
「手持ちの金はまだあるから、数日だけなら君を食べさせることはできるけど、保ってせいぜい一週間ってところかな。一応、この町に俺の母さんが暮らしていて、母さんから無心することもできなくはないけど、それももう無理だと思う。実を言うと、今日ちょっと強引な方法で金を融通してもらって、そのせいで今後の支援は期待できなくなってしまったんだよ。ようするに、俺の人生はもう詰んでいるんだ。持ち金は尽きる寸前だし、誰からの援助も期待できないし、君と同じように働く気はないからね。そんな状態で、君を中長期にわたって養うなんて、どう考えても無理だ。援助してあげたい気持ちはあるけど、してあげられないんだ。手持ちの金が尽きるまでなら、ここにいてくれても別にかまわないけどね」
「……そっか。無理なんだね」
「ああ、残念ながら。――でも、考えがあるんだ」
蒼の口が「え?」と無声のつぶやきを発した。
俺は満を持して、嬉々として提案する。赤星蒼がこの部屋に泊まると決まって以来、ずっと胸にあたためていた計画を。
「この町を出ないか」
今度は「は?」という一言を無声で発したらしい。
若干引っかかりを覚えたけど、あふれ出そうとする言葉は止まらない。止められない。
「俺はこの町には嫌な思い出ばかりしかないから、いつか出て行きたいって考えていたんだよ。それが今日君の話を聞いて、君も俺と同じだと知って、漠然としていた計画がちゃんとした形になったよ。
蒼、この町を出よう。このくそったれな町とは決別して、心機一転、新天地で新しい生活をはじめるんだ。
この町に嫌な思い出を持った者同士、逃げ出すのも、新生活を送るのも、力を合わせてやっていこうよ。環境が変われば、労働意欲だって生まれるかもしれない。俺たちに運が向いて、現段階では想像もつかないような幸運が舞い込んでくるかもしれない。そんな都合のいい展開にはならなかったとしても、強引なやり方で他人様の金を自分のものにして、悪いのは世間だって顔をして、のうのうと堂々と生きていけばいいんだ。万が一捕まりそうになったら、そのときはまた逃げて別の町に行けばいいだけだし。母さんから強引な方法で金を奪った俺と、商品に針を刺したり神社の木を傷つけたりした君なら、犯罪だって易々とやってのけられるさ。
だから、二人でこの町を出ないか?」
言い終えると同時、俺は寒気にも似た感覚を覚えた。
正体は、蒼から投射される視線。
苦虫を噛みつぶしたような顔をして、冷ややかな眼差しを俺に注いでいるのだ。
その苦りきった顔は、たぶん、コーラに浮かぶ蠅を発見したときの俺の顔に似ている。
その眼差しは、軽蔑するような、見下すような、突き放すような、そんな多義的な、それでいて俺に対するネガティブな感情のみで構成された冷ややかな色に染まっている。
これまではっきりと感情を表したことがなかった赤星蒼の露骨な感情表現に、俺は唖然としてしまった。それでもすぐに気を取り直し、
「え、だめ? この町を出るって、いい案じゃん。いい案――だと思うけどな、俺は。
さんざん嫌な思いをさせられてきた土地を離れるって、考えている以上に心理的にいい効果があると思う。君の場合は、DVくそ親父の手が届かない場所にまで逃げられるっていう明白なメリットがあるし。考えてみたかぎり、断る理由はどこにもないように思うんだけど、蒼は提案のどこが不満なわけ?」
蒼、無反応。冷ややかなその表情は、じっと見つめているとふてくされているようにも見えてくる。だんだん腹が立ってきた。
「インドア派だからずっと家にいたいってこと? それは無理だよ。どうせ近々家賃が払えなくなるから。
それとも、未来の見通しが立たないのが不安? 先行きの不透明さなんて、どこにいたって同じだろう。どうせ避けられないんだったら、新しい土地に行ってチャンスを見つけたほうがいい。
あるいは、犯罪で金を得るっていうのが引っかかった? 店の商品に針を刺すなんていう、百人いれば九十九人はドン引きするようなことをやっておいて、今さら罪悪感もくそもないだろ。
もちろん、針を刺すのと金を盗むのとでは勝手が違うと思うけど、そこは二人で知恵を出し合ってがんばっていこうぜ。一人じゃなくて、今やっていることをやり続けるのでもなくて、二人で新しいことをはじめるっていうのがポイントなんだ。心機一転、新しい土地で新しいことをはじめたら、絶対に道は拓ける。今までみたいな惨めな生活は二度と味わわなくてすむ。だから――」
「ふざけないで」
目の覚めるような物音が鳴って、赤星蒼は憤然と起立する。いちご牛乳のパックを床に叩きつけた音だ。横倒しになったパックのストローから薄ピンク色の液体がちょろちょろと流れ出している。
蒼の顔から苦々しさと冷ややかさは消え、憤然たる表情が新たな支配者となっている。その顔で俺を睨みながら彼女は言った。
「こっちは本気で助けてもらいたくて、言いたくないことまで打ち明けたのに、『ここではない町で窃盗しながら生活をする』? これ以上ふざけた回答、なかなかないよ。十時間考えても思いつかない。冗談なら笑いもしたけど、真剣な顔で、瞳をぎらぎら燃やしながら熱弁するんだから、話にならない。――帰る」
「あっ、おい! 待ってくれ、蒼!」
くるりと背を向けて六畳間から去ろうとする彼女を、片手を伸ばしながら呼び止める。肩越しに振り向いた顔は、面倒くさそうだ。うっとうしそうだ。こんなときに限って表情豊かにならなくてもいいのに。憤りが込み上げてくる。
「なんでそうネガティブに捉えるんだよ。やってみないと分からないじゃないか。環境をがらりと変えることで成功をぐっと引き寄せられるって、ちゃんと説明しただろ?」
「未来は不確かだって言ったのは佐々じゃない。矛盾したことを言っている時点で、信用ないよ」
佐々。
晴太、ではなくて。
……劣化。
「不確かな中でも成功率が高いってことだよ。蒼だって、家に帰っても暴力親父が待っているだけだろう。俺といっしょに行動したほうが、どう考えてもよくない? セックスまでしたくせに、俺のどこが嫌だって言うんだよ」
「単なる思いつきとしか思えないいい加減なアイディアで、人の人生を変えようとしているいい加減なところが、だよ。あなたに助けられたときは、もっと頼り甲斐のある人かと思ったけど、わたしの勘違いだったね。心と体が弱っていたせいで、幻覚でも見たのかもしれない」




